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陸上自衛隊61式戦車の思い出

吾輩は61式戦車が好きだ

 吾輩は1960年生まれ、陸上自衛隊の61式戦車は一つ年下の同世代である。若かりし頃、陸自の滝ヶ原駐屯地に体験入隊した際、富士の裾野の火山礫ばかりの広場に連れられて、61式戦車の外側にしがみついた状態でボコボコの荒れ地を走行するというプログラムがあった。ギヤチェンジの度に動揺するので、振り落とされないようガッシリ手すりを掴んでいた。それが1989年か90年か、おおよそその頃のことだった。

 別な機会に74式戦車の車長席に立たせてもらって走行したことがあった。このときは特別ゲストの扱いだったから平坦な広場を周回するだけだったし、変速はオートマチックだからギヤチェンジの動揺も無かった。乗り物としては74式が断然優ることを体感したけれども、子供の頃から慣れ親しんだ61式の方が、理屈は抜きに好きだった。好きとか嫌いとか、そんなことに理屈は要らない。

敬愛する戦史研究家は戦車乗りだった

 吾輩が敬愛する戦史研究者・葛原和三氏は、かつて61式戦車の車長席にいた人である。かつて戦車大隊長だった当時の部下で、いまでもFACEBOOKで葛原氏のことを「大隊長」と呼んでいる人がいる。その葛原氏は、陸自からの派遣学生として筑波大学大学院で学ぶ機会があった。そのとき担当した教授は大濱徹也といって、吾輩の恩師である。誤解無きように申し添えるが、かつて大濱先生は筑波から日大に出講しておられ、日大生であった吾輩も大濱先生の授業を受けていた。僭越ながら葛原氏と吾輩は同門であり、ゆえに大濱先生の還暦祝いの会場で知り合った。

 葛原氏は退官したのち何年か靖國偕行文庫に勤務なさっておられた。たまたま同時期に、吾輩は靖国神社遊就館の平成30年特別展『靖国神社御創立百五十年展 前編 ―幕末から御創建―』のテキスト監修を務めることとなり、かねて見知った葛原氏に御挨拶に伺ったときのこと、話題は旧軍の戦車のことに及んだ。

 葛原氏は油染みが出来た服を着ている戦車兵の写真を示し、「旧軍の戦車は油が漏れる」ということを指摘した。砲塔の駐退機には油圧シリンダーを備えているが、どうやらその油が漏れているのだろうという。油圧シリンダーというと、身近なものではドアの上辺についているドアクローザーがある。たいがい円筒形のシリンダーがついているが、そういうものから油漏れしたなどとはなかなか聞かない話だ。寸法どおり、規格どおりにパーツが出来ていれば油漏れなどしないだろう。だが、なにごとによらず寸法どおり、規格どおりにはならない場合がある。

 吾輩は大学時代にアルバイトで工務店の下働きをしていた。大工になる気がないので工具を持つことはなく、掃除やゴミ捨てなどを担当していたが、傍で見ていると図面どおりなんてことは、まず無いことがわかった。様々な手段で辻褄合わせが行われるのが「現場」というものだった。

むかしのネジには相性があった

 閑話休題。
 葛原氏が言うには「61式戦車のネジには番号を振っていた」とのことだった。外したネジを元の穴に戻さないで、別なのを嵌めると不具合があったらしい。雄ネジと雌ネジの相性があるのだ。

 吾輩は高級カメラを買えなくて、安いのばかり使っていたけれど、しょっちゅう壊れる個体を掴まされてしまったことがある。レンズのピントリングがガタついたのを、ネジを締め直すとなおるのだが、どのネジを締めるべきかは、その都度違っていた。どのみち、吾輩には扱えないので、しょっちゅう修理屋さんに出入りしていた。その店では同規格のネジを机の上に山盛りにして、そのなかから相性の合いそうなのを見繕っていた。嵌めてみては「コレじゃない」と取っ替え引っ替えして、良い具合のが見つかったとき作業完了という感じだった。むかし、日本製品が粗悪と呼ばれた時代のことである。おそらくは、61式戦車も、そんな風にネジの相性を考えないといけなかったのだろう。

規格があるのに、どうしてそんなことが?

 それは逆だ。たとえば、カメラを三脚に据えるため底面に7mmのネジ穴があいている。載せる三脚のネジと、カメラのネジ穴とで相性を気にかけなければならないことが、ごく希にではあるが、安物同士だとあり得る。スルッと入っていかないのだ。そうした問題が起きるからこそ規格が必要なのである。そして、その枠外にはみ出てしまう製品もある。本来なら、そうした不出来な製品は出荷されるべきではないが遺憾ながら少しは出回り、クレームを受けて新品と交換という風になる。

なぜ、むかしの日本製品はネジがマズイ具合だったのか

  遠い記憶の彼方にある、おぼろげな光景が思い浮かぶことがある。それが何処であったかすら思い出せないが、田畑の広がるなかにポツンと建っていた小さな駅舎があり、夕闇迫る黄昏時に、一両きりの小さな電車が揺れながら近づいて来ると、しだいに駅舎の電灯が暗くなっていく、というものだ。

 こどもの頃、おそらくは小学校の低学年であったときのことだから、昭和40年頃のことだったろう。何処へ行ったときの記憶なのか、幾度かの引っ越しをしたために古いアルバムも見当たらない。とっくに廃止されたローカル私鉄であろう。地図を見ていろいろな廃線跡を探してみたが、コレじゃないと思わせられるものばかりだった。

 御披露した幼き頃の思い出の夕景は、単に懐かしさだけではなく、近現代史の一問題を呼び掛けている気がしてならない。少し調べてみると、鉄道の駅の電灯は、鉄道専用の送電線からとって変圧している場合もあれば、一般家庭と同様に、電力会社からの供給を受けている場合もあって、一様ではないという。遙かな記憶の彼方にある田舎駅は、おそらく鉄道の専用線から引いた電気を使っていたと思われ、さすがに電車の接近で一般家庭まで電圧がさがるようなことにはならなかったようだ。そんな、電気の質が安定したのは、高度成長期を過ぎたあたりからだ。

 なぜまた日本製品は、それほどダメだったのかと考えると、電力インフラの貧弱さによるところが大きいのではないか。そのように見当はつけてみたが、末端の電圧の変化を記録した史料が見つからないのでは、ただの推論で終わってしまう。

 警察予備隊や保安隊と呼ばれていた、自衛隊の「神代」を体験した人が口を揃えていうのは、米軍供与の銃は分解結合が楽チンだったということだ。それは、機械製品としての精密度が国産の小銃よりも優れていたからだろう。それが目に見える形での「国力の差」だったのではなかろうか。

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