小藩の幕末サバイバル

 旧幕府と明治新政府とが武力衝突した戊辰戦争に際し、三春藩(福島県)は京都を巡る政局に注目していた。そのころ、いずれの藩も旧幕府につくか、新政府側に立つかは慎重で、多くは日和見だった。わずかに五万石の三春藩は、北には東北地方最大の仙台藩、西には会津藩があった。もちろん近隣の大藩の動向は死活問題だが、三春藩の首脳部は中央の情勢にも着目し、その甲斐あって戦火を被らずにすんだ。
 仙台藩は、はじめ新政府の側についていた。会津藩の処分が難航するなかで、仙台藩は東北諸藩に呼びかけて奥羽列藩同盟を形成した。この同盟は、会津藩と新政府とが平和的に問題を解決するよう求めるために結成されたものだった。三春藩としても、その趣旨に異議はなく、同盟に加わった。ところが、仙台藩士が新政府軍参謀の世良修蔵を斬殺し、ほぼ同時に会津藩が新政府直轄領の白河を攻撃占領したことから、平和運動の同盟は軍事同盟に変質した。三春藩にとっては寝耳に水のことだ。
 絶えず京の藩邸との連絡を維持していた三春藩は、新政府側の優勢を見通していた。しかし、いますぐに同盟を離反すれば周辺諸藩から攻撃されて滅亡は必至となる。三春藩の京都藩邸は新政府の重鎮である岩倉具視と接触し、新政府軍主力が北上するまでの間、三春藩が同盟に残留することを通告した。
 予想どおり、新政府軍は同盟軍を次第に圧迫して北上してきた。指揮官の板垣退助を出迎えた三春藩士は弱冠二十歳の河野広中だった。いざ城を明け渡すことになると藩内は動揺した。河野は同僚たちを説得し、無血のうちに三春城を開城させた。それによって三春の領民たちは戦火から救われたのだった。
 お隣の二本松藩は十万石の中藩で、三春藩と同様に新政府側から同盟側に鞍替えを余儀なくされていたのだが、迫り来る新政府軍を前にして抗戦を決めた。再度の鞍替えをしたとしても、同盟側の遺恨を買って生き残りは困難だという判断からだった。そして、十二、三歳の少年までが戦いに駆り出され、城下は戦火に見舞われた。その代償は、義を重んじたとする歴史上の評価である。
 いま、二本松藩の態度を潔いと評価し、三春藩を裏切り者と見なす人が少なくない。しかし、三春藩が領民を戦火から救ったことも併せて考えるべきだろう。領民を戦火から救った河野は、自由民権運動でも名を高めた。三春藩の愛民精神は、その場しのぎのでまかせではない。維新後にも続いているのだから本物だと認めなければなるまい。

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