夜・回帰するもの


「くりかえしめぐりくるものよ」
そう彼は叫んだ。それがすでに過ぎ去ったのちになってから……

ロベルト・ムージル「静かなヴェロニカの誘惑」古井由吉訳

ユングは、『ファウスト』第二部と『ツァラトゥストラ』について、極めてドイツ的であり、さらにその奥にある得体の知れないものを描いている芸術であると述べている。曰く、「宇宙の描かれている垂れ幕を下から上へ真っ二つに裂き、その奥に未成の名づけがたい深淵を人に覗かせる」(「心理学と文学」より)。
なんとも言いえて妙である。わたしたちにも、その感覚は理解することができる。といって、作品そのものを理解することは、つねに難しいことだけれども。ある種の規格外の芸術は、われわれの前に、つねに解きほぐし難い謎としてある。それはある人を傷つけ、ある人を癒す。
確かに、規格外の芸術には、得体の知れない・未知のものがある。あるいは、得体の知れない・未知のものがあるから、規格外なのである。
その未知のものを、仮に、夜、と呼ぶとすると、芸術において夜は回帰する。夜は理性の及ばない範囲であり、ある種の芸術家は、繰り返し回帰する民族的・文化的、さらにはその奥にある何か宇宙的な・謎なものを垣間見、表現しようとする。芸術家自身にも、なぜそれを描くことができたかはわからないであろう。分析的な批評家も、作品を切り刻むことでわれわれに何とかその理由を説明しようとするが、巧くはいかないだろう。だから以下は、即興的に、エッセイズム的に、引用を控えめに、読者により豊かな読書を促すかたちで書いてみようと思う。つまり、これから書くことはおそらく、ひどくわかりくいことだ。

最近、DOMMUNEの番組を見ていたら、芥正彦が、『春の雪』の中で、清顕の夢日記の内容が描かれないことを引き合いに出して、三島はドストエフスキーに及ばない、ということを語っていた。
『春の雪』は、『豊饒の海』という、三島由紀夫なる作家が書いた小説の一巻で、この小説は、四巻に分かれている。
(『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』の四巻で構成される)
ここで芥がいいたいのは、後半の部分、三島は世界文学の最高水準に達しなかった、ということであろう。紋切型の表現でいえば、その美学の破綻、とでもいわんとしているのであろう。
ドストエフスキーと三島由紀夫のどちらが優れているかとか、世界文学の水準だとか、美学の破綻(これは誠実に取り組めばきっと奥深いが)だとか、そういったことはわたしたちをいっとき魅了するが、話の種にすぎない。なぜ人はそういうことをしきりに気にするのか、ということについては心理的な面白さがあるけれども。
しかしここで見ていきたいのは、そんなわれわれにとってはどうでもいいことではなく、夢日記のゆくえ、ということである。
わたしたちは芥の話を聞いたとき、すぐに次のようなことを連想することができるだろう。その意味で芥の指摘は重要である。

恐らくここで芥が引き合いに出そうとしているのは、『カラマーゾフの兄弟』のイワンの独白や幻想、アリョーシャ≒ゾシマの手記、何よりスタヴローギンの告白あたりではないか。これらはある面からみて、確かにすばらしい部分である。きっと大声で「世界文学史上に残る名場面」といってもさほど怒られまい。
さらに、これらの手記・告白ははっきりと作中に記されている。対して清顕の日記の内容は一部が語られるだけで、全貌を見せぬまま透によって焼かれてしまう。
芥の指摘は素朴ながら、まっとうなものにみえる。書かれてもいいようなものを、それが書いてない。逃げている、とも非難できるかもしれない。

しかし、われわれはすぐにそれが代替されているものを思い出す。透の日記はそのひとつである。
安永透は『天人五衰』の主人公である。
『春の雪』には、本多が清顕の奥に広大な虚無を見出す場面がある。一説には、透は清顕と聡子の死児の転生だという。だとすると、透はその虚無が具現化したものだ。腹に黒子をもつ透は月のクレーター「豊饒の海」である。透は月なのだ。
透の日記には、彼の自意識の明晰な陶酔が描かれている。この日記には、透が書いたとするには余りにも異常な描写が頻出する。彼は清顕に憑依されている、あるいは彼には清顕が回帰している。もっとも、清顕が書いたとしても、まだ矛盾は残る。かといって、これは、他ならない三島が顔を出して書いた、というつまらない読み方をわたしたちはしたくはない。確かに技法的にいえば、この手記には四部作を総決算するかのようなモチーフが現れては消えていく。だが、この作品は内部で完結しているという意味での「完璧」な作品ではない。極限のところまで開かれた、外ならびに奥まで開かれた作品だろう。だからわたしたちはこの作品を評価しにくい。私はこれを読んでしばしば象徴化された謎の森をさまようているような気分になる。だが、この読み方もまた自意識的なものにすぎない。

日本文学の大きな流れとして、日記文学がある。
もうひとつの源泉として、『源氏物語』がある。
われわれは、透の日記と、彼自身に、このふたつの河を見出す。豊饒の海へそそぐ河を。ちなみに、それ以外にもさらに多くの大きな河が流れ込み・入り組んでいること、また『豊饒の海』だけではなく、あらゆる夜の回帰においてそうだということは、いうまでもない。
本多繁邦が、許嫁と共に幸福を演じる透を視るとき、そしてそっと手を動かし彼らを操作コントロールせんとするとき、わたしたちは、藤原道長の歌を思い出す。
この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば
そして栄華の絶頂にいる光源氏が、花の宴で琴を奏でる姫、妃を視ながら想いにふける時も、また回帰する。
もちろん、社会的・時代的幸福は相対的なものであるから、外向的にも内向的にもその実相は異なっている。だが単なるパロディーと絶望からこの時空が練り上げられたと考えるのは、わたしたちの短慮だろう。
また、『天人五衰』の終結部についても、元来指摘されているように、浮舟の拒絶や、建礼門院の反響が数珠を繰る音のように鳴っている。
ここには確かな回帰がある。それはある層では日本的であり、もっと奥の深層では宇宙的である。ここでは世界が過ぎた時間に回帰し、過ぎた時間が世界に回帰している(もちろん、日本的なものだけではなく、世界的な、広大な要素をこの作品は内包し、開いている。そして当然、様々な矛盾も内包している)。
ここで行われているのは、現実に対する呪詛ではなく、むしろ呪詛にあふれる現実から夜のものを回帰させることである。否定的なものから、それを反転させて単純に肯定的なものを生み出すのではなく、つねに世界に伏せられている大きな流動をまた顕現させることだ。これを単なる嘘と断じることは、単なるニヒリズムである。
『豊饒の海』でいえば、私はここまで明晰なかたちで夜のものを文学として凝固させたものは珍しいと思う(個人的に愛好する三島作品は、また別にあるのだが)。例えば『白鯨』『名づけえぬもの』『城』『フィネガンズ・ウェイク』のようにアヴァンギャルドやカオスや不条理に依った方法を採らず、夜を、深淵を覗かせているのだ。ただ方法はあくまで方法であり、どの作品もある種の夜の回帰を、深淵をめぐる宙返りを成したことに変わりはない。そして、どの芸術家が、どの作品がよりどのくらい優れているかということを云々するのは、私には少々愚かしい些末なことのように思われるのだ。もちろん、軽い話の種にはなるけれども。それぞれの芸術家は、生まれ落ち、何かを書いた。そしてわれわれはそれを読んだ。そこにはある謎がある。だがその謎は優劣を決めることで解決できることではない。優劣を決めることは、小手先の理性の、昼の営みではないだろうか。

わたしたちが規格外の芸術をしばしば評価し損ね、嫌悪するのは、そういった芸術はつねにわたしたちをおののかせるからである。優れていようといまいと、それが規格外なので、夜への鍵をもっているわたしたちを深淵の岸につれていく。わたしたちを私は、芸術が決して人を救ったり癒したり活かしたりすることだけをするものではないと思っている。芸術が転落させたり傷つけたり殺したりすることだけをするものではないように。それは人間にとって未知の、宇宙的な、なお回帰的なものをわれわれに体感させる。それが本来的な唯一のことだと言いたいのではない。ある一面のみを視て、他の面をみないことは、われわれを一般的なものの見方という誘惑に引き摺りこむ。そうであれば、われわれは芸術ではなく芸術に対する評価を知ればいいだけだということになろう。
われわれは芸術を何か限定された・特権的な表現だと思う誤謬と、芸術を固定化し、特権化した自我で断ずる誤謬との、ふたつを逃れようもなく犯す。
せめて、そのふたつの誤謬のあいだで揺蕩いたいものだ。つまり、芸術はひとつのなにかではなく、ひとりのなにかではないという認識のなかで。夜につながる道はその揺蕩いのなかで見出すものであろう。

以上、当世流行りの論証的なスタイルではなく、エッセイズムに則って気晴らしの文学談義をのたまった。今回のテーマは、夜の回帰について。その一例として扱ったのが、三島由紀夫の最後の長編小説、『豊饒の海』のごく一部である。また、その夜の回帰性を摘出するため、若干の貧しい文学的知識を援用した。各作品の説明や脈絡を割愛したのは、飛躍的言説の実践と、私の怠惰によるものである。


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