自説の説明(空とニヒリズムは違う、戦犯は三島由紀夫の放言である説)

このつぶやきを説明する。。。

いまや、三島由紀夫や『豊饒の海』とゆーとニヒリズム、戦後の虚無感を描いた作品、或いは輪廻転生と唯識思想(仏教の思想の一派)をエンジンとした近代小説への挑戦、という言説が生成され継承されつづけているが、それは一つの解釈で結構なことだ。
そして私は本当にその通りだなアと思ったことは一度もない。

仏教についてちょっと知っていれば、西洋的なニヒリズムと仏教の「空」をはじめとする考え方にはズレがある、というより無理に重ねようとするとかな~りアヤしいことになることはわかろうものです。しかし仏教もニヒリズムもよう知らん人がいきなり豪奢な娯楽作家である三島の小説を読んでしまうと、こういう穴に落ち込む。これは文学にすぎず、解釈の問題でもあるとすれば、悪いことでもないだろうけれども、何か重大なテーマを深く考える前に不用意に変な小説を読んで気分を落ち込ませてしまうのは哀しい(そう、三島の小説は100%が変な小説だ、『金閣寺』は例外かもわからない)。

問題なのは、文学青年はともかく、知識人めいた人たちも「仏教的なニヒリズム~」云々の云々をのたまうのを活字で目にすることがあることだ。繰り返すが、悪いことではないだろうけれども、何か、こう、そこに前置きとかがなく「仏教的なニヒリズム」とか言われると、凡夫であるこっちはおののいてしまう。ギョッとしちゃう。

たぶん、知識人は三島由紀夫をけっこう読んでいる。嫌ったり読んでないと言ってる人もかなり読んでいる。ほぼ100%の知識人は三島由紀夫をイヤイヤ読み込んでいる倒錯者である。私はどちらかというと三島由紀夫を無条件でほめそやす人(見たことはあまりない)と遭うと珍しさにギョッとする。三島を無条件で嫌悪する人には驚かないが、太宰ばりに「そんなこと言ったって、読んでるんだろう、君も(ネチャアエフ)」と言いたくなり、自分とその人に特有の気持ち悪さを感ずる。

まあそれはいいのだが、書くのもメンドクサクなってきたのでやめたいが、三島由紀夫は晩年に変なことを言っている。

「(『豊饒の海』に描いた)仏教の「空」と戦後日本の空虚感がうまく重なってくれるといいんだけどナア……」(意訳)

???
何をおっしゃる三島さん。

多くは語るまい。作者がこういっちゃってるのである。こんなことをいっちゃってるのである。南無三。
この発言を100%の知識人は知っているに違いない。
だからか。「仏教的ニヒリズム」とか書いちゃうのか?

うーんなんだっけ。この文章は何を言いたかったんだっけ。まあイーヤ。
とりあえず上記の三島の放言を、そのまんま受け取ってしまうのは二重の意味で危うい。三島由紀夫を誤解し、仏教思想を誤解する。もしかしたら、こういう人は多いんでないかとイヤな予感がするのだが、「三島由紀夫の思想」をそこから取り出そうとし、いろいろ論じちゃったりしちゃうんではないか。コワイ。

三島由紀夫が何かのエッセイで自分を「ニヒリスト」だと言明しているとしても、最後の小説がそういうガワをもってるとしても、三島がニヒリズムや仏教について語っている、或いは語り続けているという予断は、読んでいるわれわれをニヒリズムに、ひょっとしたら「仏教的ニヒリズム⁉」に落とし込んでるんでないか。文学がある種の治療装置だとしたら(ご立派な意見だと思うが)、治療に失敗してるのは三島のみならず(あるいは「ではなく」)、読んでるわたすたちの方かもしれない。

誤読の根拠として、あるテクストを用い、その誤読によって、元のテクストそのものをも誤読し、或いは(ありもしない否定的空想としての)世界観をも創造してしまう。よく読むことが、症状の悪化につながるわけだ。

このへんから、世界のタガを外すモノ、世界を脱臼させるモノとしての芸術家、芸術、その意味、という話にもつなげられるかもしらん。

まあ、今回の言いたいこととしては、或る対象への決めつけによってそれを否定することで、自分自身および世界も否定的に読んでしまう危険はあるよってな話 Death.

この世のあらゆるテクストも、まだまだ「仏教的虚無()」に至るまで読まれていない。トドメを刺されていないから、あらゆる芸術はまだまだ生きながらえている。紙切れに燃やされて悔しくないのか。どうせ否定するなら、芸術の提示する否定を否定してそいつを涅槃に連れていけ。

おめーがやれよって? はひ……


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