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猫が死んだ日

今日急に、3年前に死んだ実家の猫のことを思い出した。

彼らは私が9歳のときにやってきた。愛護病院から引き取ってきた。

名前はちゅらとさつき。うちは父方の祖父母と二世帯で住んでいて、男の子のちゅらは祖父母に、女の子のさつきは私の両親が基本的に面倒をみることにした。
ちゅらという名前は祖父母が決めた名前で、当時朝ドラで「ちゅらさん」という作品が流行っていたのでそこから来たらしい。

二匹は姉弟だったけど、全然見た目は似ていなかった。
ちゅらはグレーと白の体の大きな子で、さつきは三毛猫で長毛。
二匹とも大人しくてとてもいい子だったのを覚えている。

私は一人っ子で、インドアな子供だったので、家で一人で遊んでいることが多かった。なので、彼らの存在は私の生活を劇的に変えた。
私は時間があれば猫の兄妹たちと過ごすようになった。両親が居なくてもさみしくなくなったし、私は一緒になって走り回ったり、キャットフードを食べてみたりと、もう完全に一緒に猫になった気分だった。

特にちゅらは私にすごくなついていて、いつでも一緒だった。ひょうきんな性格で、表情豊かな猫で、私が家に帰ってくればちゅらはいつも私の後ろを追い回していた。そして、まるで犬みたいにじっと私を見つめてきていた。

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私が中学生になった時、私は学校でうまくいかないことが多かった。いじめにあったり、友達がいない時期があったり。辛い時期だった。
でも猫たちはいつも変わらず私の近くにいて、優しく迎えてくれた。あたりまえだけど、その変わらない愛が私を支えてくれた。

中学・高校の6年間はずっと落ち込んでいた私達だけど、受験も乗り越えて大学へ行った。美術大学に行った私は、徹夜をすることもあった。そんなときも猫たちは一緒に徹夜してくれた。

自分が10代に入る前から、ずっと自分の周囲で、私の人生の上でどんな出来事があっても常に私の傍にいた。それが当たり前で、幸せだった。

大学を出て1年後、私はイギリスへ留学することになった。
今まで実家で過ごし続けてきた私にとって、初めての一人暮らし、そして初めての海外だった。猫たちと暮らし始めて、15年目の年だった。

実家にも簡単に戻れない。家族にも会えない。でも私はそれでも、イギリスに行く理由があった。

うちの猫たちは、誰かが長く家を留守にする時すぐにその気配を察することが出来て、私が旅立つ一週間くらい前からもう、猫たちは何かを感じていた。

旅立つ日、ちゅらは怒って出てきてくれなかった。私は次の一時帰国の予定もあったし、まあ良いかと思いつつも悲しくて涙がたくさん出たのを覚えている。

3か月して、一度実家に帰った時、ちゅらは少し痩せていた。もともと9㎏もある巨体だったので、あまり驚かなかったけれど、少ししぼんだかな?という程度だった。

大学が始まる前の一か月、日本に一時帰国したのだが、たった3か月でも相当さみしかったらしく、再会した時の歓迎ムードは忘れられない。

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その時は変わらず元気で、私を追いかけまわしていた。大学は1年間。それで帰国する予定だったので、その時は「あと1年待っててねー」と声をかけてまたイギリスにもどった。

ところが、年明けの1月に母親から連絡があり、「ちゅらの体調が良くない」と言われた。
一時帰国時に少し痩せたように見えたちゅらだったけど、それは猫にとっての「すこし」ではなかった。痩せ始めたころから、ちゅらは腎臓機能が低下していた。

猫ならどの猫も、腎臓の機能が年とともに低下するのは仕方がないらしい。ある意味猫の老化の証なんだろう。でも、もともと太っていたのもあり私たちはちゅらの変化に気づけないでいた。それで、母が気づいて病院に入ったころにはもう遅かった。獣医師には「手の施しようがない。本人の気力次第」と言われたのだという。

両親は、できるだけのことをした。食べられなくなってしまっていたので、頻繁に病院で点滴を打たせた。

でも結局、ちゅらは元気になることはなかった。半月も経たずして、2017年にちゅらは死んだ。

その時のことは、思い出すだけで胸が張り裂けそうになる。

私は大学があまりにも忙しく、結局実家に帰ることは叶わなかった。もちろん、帰る事は何度も考えたが、母と相談しての決断だった。

携帯越しに母がちゅらを見せてくれた。猫は、携帯越しの声や画像には反応してくれない。一方的に声をかけてもちゅらには届かなかった。
本当に最後の日、ちゅらが危篤に陥った時の夜。母は最期の姿を電話で見せてくれた。その周辺、1-2週間は人生で一番たくさん泣いたと思う。
私の目は腫れあがって、糸みたいに細くなっていた。

辛かった。何度も自分の決断や、イギリス留学さえ後悔したのを覚えている。

その反面、自分は何度もこの日が来ることをシミュレーションし続けてきたから、仕方がないことなんだというのも分かっていた。

でも、私の猫たちに対する思いは、ただの「ペット」でも「猫」でもなく、まぎれもない私の「家族」であり、「兄弟」であり「親友」だった。

いくら想定し続けてきたこととは言え、私には、私の辛かった日々を支えてくれた自分の最愛の弟であり、親友を失ったことを受け止めきれなかった。

ちゅらが死んだ2か月後、ビザの更新で一時帰国した。

実家に入って、まず感じたのは、静けさ。
今までなら「ちゅら~」と呼べば感じられた、気配。
もうそこにはなかった。
仏壇の隣に置かれた、小さな骨壺の中にちゅらは居た。

それを見ても、ピンとこなかった。ちゅらと思えなかった。

でも、その後ベッドの上で寝ているさつきを見たときに、私の目から洪水のように涙があふれた。
さつきも少し小さくなっていた。ちゅらを失って、少し気持ちが弱っていたのだと思う。
猫であろうとなんであろうと、家族を失うって、こんなに家が閑散と感じられるのだと思った。


3年経った今も、自分には少し、煮え切らない思いがある。

でも、今は私がちゅらと過ごせた15年間は本当にお互いにとって、幸せだったし、私たちほどに密接に時間を過ごせることはそうそう無いと思うようにしている。

今だって、猫たちに対する自分の中の愛が変わっていないことは間違いない。もう前みたいに一緒にはいられないけれど、愛している。
きっと、ちゅらも、私が後悔するほど私を恨んではいないはずだ。

「猫程度にそんなに悲しむの?」とか「猫と人の死は同じじゃない」と、言われたことがあった。でも、私にとっては同じだ。自分にとって大切なら、失う痛みはそれ以上にだってなる。命に価値の差はない。

成長期・思春期に猫と生活を共にできたことは、本当に私の人生にたくさんのことをもたらしてくれた。猫たちは私に無償の愛をくれた。それは、どんな人間が捧げる愛よりももっと純粋なもの。悪口や、地位、お金などは猫たちには響かない。猫たちは、純粋に私たちを信じ続けてくれる。いじめられていた時、人間不信になりかけていた私は、それでもその愛をいつも背後に感じていたから、苦しい時を乗り越えていけた。

ちゅらの姉、さつきはまだ健在。今年、19歳になった。
私はコロナもあり、なかなか実家に帰れずにいるけれど、今度会ったら思いっきり可愛がってあげたい。

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動物ほどに心を潤してくれる存在って、私は存在しないと思う。

短い命かもしれないし、別れが辛いから飼いたくないという人も多いけれど、

私はその悲しみよりも、彼らが傍にいてもたらしてくれることのほうがもっともっと、大きいものだと思っている。

私は、いつか自分で猫を飼うだろう。そしていつか、生まれてくるかもしれない自分の未来の子供にも、私や夫には与えることのできない、猫の純粋な愛を受けて育ってほしい。

ちゅら、私はもうしばらくこちらにいるけど、ずっと忘れず愛しているよ。
さつき、今は一緒にいられないけれど、また会いに行くよ。長生きしてね。

猫たちよ、私の人生を豊かにしてくれて、愛してくれて本当にありがとう。

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