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【『進撃の巨人』論Ⅲ-1】「バブル」を破り、世界と向き合え!

※ 本記事は、記事シリーズ「『進撃の巨人』論 ―『進撃の巨人』が継いだもの、生んだもの、残すもの―」の記事です。

 本記事シリーズ『進撃の巨人』論もついに最終章です。

 『進撃の巨人』がいかに同時代の物語群の指標であり続けてきたか。この記事シリーズの問題意識は、ずばりこの1点に凝縮されます。

 ゼロ年代の終盤に生まれ、瞬く間に人気を集めた本作は、ゼロ年代の物語のテーマ性のエッセンスを引き継いでいるはず。そして10年代において日本を代表するマンガ・アニメとなった本作は、10年代に広まった物語群の要点をおさえているのではないか。そのような発想の下、本作のエピソード、そして同時代に人気を博した他作品の内容、そしてこの時代にかけての読者の世界観や意識を追い、本作のエポック性を明らかにしていきました。

 手短に振り返りましょう。『進撃の巨人』はその序盤のエピソードで、ゼロ年代が描いてきた「理不尽な世界」を引き継いでいます。しかし、本作が描くのはゼロ年代のコピーではなく、主人公たちがその力(主人公補正)をもってしてもどうすることもできないような、理不尽さの程度が増した「残酷な世界」でした。このゼロ年代世界観の先鋭化をもって、本作序盤は10年代の地平を準備します。Ⅰ章の議論です。

 そして本作は中盤になると、その「残酷な世界」で、主人公が少々がんばってもどうせ変わらないような世界で、それでも主人公が戦いを始めるのはどうすればいいのか、という問題に取り組んでいきます。そして、ユミルとクリスタのエピソード、及び中盤の山場である革命編を通して、「自分らしく、好きなように生きる」という命題に到達するのです。この命題は、エレンたちを突き動かしたばかりではありません。この命題はやがて様々な形態に変化し、『鬼滅の刃』をはじめとする、10年代を代表する作品群の哲学的基礎として確立していったのです。Ⅱ章の議論です。

 しかし、万能かに見えたその命題も、10年代後半になるとその難点が暴かれます。本作でエレンが戦ってきたのは、巨人という意思を持たない化物ではなく、壁の外にいる人間であることが、エレンの生家の地下室で明らかになるのです。相手が自分たちと同じ人間で、彼ら彼女らにも壁の中の人類を攻撃する理由があった時、その戦いを、「自分らしく、好きなように生きる」という命題は解決してくれるのでしょうか?Ⅱ-3で検討したとおり、答えは否です。お互いが「自分らしく、好きなように生きる」とき、その戦いには妥協の余地が生まれません。敵が無記名の「世界」から特定の「人」になったとき、「自分らしく、好きなように生きる」ことは、むしろ戦いを助長させる地獄への扉になってしまうのです。

 これこそが、10年代のテーゼの臨界の果てに顕在化した、次の時代、すなわち20年代の課題の端緒です。

テーマ変遷図

 『進撃の巨人』は2021年に完結を迎えます。この新たな課題が顕在化した10年代末、既に本作に残された時間は少なくなっていました。しかしそれでも、本作最終章はその数少ない時間を使って、この課題に全力で取り組んでいきます。

 『進撃の巨人』はその最後の戦いにおいて、いかにこの課題と向き合い、いかなる答えを見出して、その生を全うすることになったのか。Ⅲ章の議論の目的は、その戦いを記録し、その遺産が次の世代の作品に確かに継がれようとしていることを、明らかにすることです。それこそが、この記事シリーズがこの『進撃の巨人』という傑作に贈ることのできる、最高の手向けであると考えるからです。

 前置きが長くなりました。まずは本作最終章の前半、マーレ編のあらすじから振り返っていきましょう。

1. マーレ編あらすじ

 壁の外では、壁の中と同じ人種である「エルディア人」が、マーレという帝国の支配下にありました。エルディア人は巨人になれる特性を持ち、その特性を活かして彼らはマーレに兵器として使用されているのです。

 エルディア人がマーレに従う理由はその歴史にあります。かつてエルディア人はその巨人能力を活かして世界に君臨していましたが、マーレがこれを撃破します。するとエルディアの王は少ない人民を連れて壁の中に閉じこもってしまい、残されたエルディア人は、「自分たちは世界を抑圧した悪しき民族であり、マーレのために戦うことでその汚名は返上される」という教育を受け、マーレに服従していたのです。

 ライナー、ベルトルト、アニの壁内派遣失敗から数年。世界の兵器開発により巨人の戦略的優位性に陰りが見え始めたマーレは、壁の中にある「始祖の巨人」の奪還を再計画します。マーレで唯一大きな権威を持つエルディア人、「タイバー家」を看板に据え、壁内に発生した反乱分子エレン=イェーガーの排除を叫ぶのです。

 しかし、この計画の直前になって、突然エレンら壁内兵士がマーレに出現、帝国中枢を蹂躙します。実はこの数年でエレンたちは、獣の巨人であるジーク配下のエルディア復権派義勇兵と接触。壁外の状況を調査し、壁外との融和策を検討していたのです。しかしその中でエレンが捨て身の先制攻撃を企図。それに、「始祖の巨人」を持つエレンを手放せない壁内勢力が追従せざるを得ない形となり、凄惨な戦いが実現してしまったのです。

 そこで発覚するのは、この先制攻撃がエレンとジークの内通によって行われていた事実。2人はどのような意図をもって通じ、この攻撃を敢行したのか。その秘密は、そのまま本作のクライマックスへとつながっていくのです。

2. 10年代の命題が導くマーレの悲劇

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『進撃の巨人』第100話 

 本作がエレンの地下室で明らかにした、「自分らしく、好きなように生きる」ことでは解決できない人間同士の戦い。マーレ編は、その戦いが最悪の形で実現していくさまを、緻密な設定と圧倒的なリアリティで描き出していきます。

 壁内人類は、王族の「始祖の巨人」能力による記憶操作のせいで、壁の外の世界を知りません。なぜか壁の外を巨人なるものが闊歩していて、人間を食べに襲い掛かってくる。だから、自分たちの身を守るために、自由を手に入れるために、巨人を駆逐した。そこには、何ら非難されるような要素はないわけです。

 しかし、壁の外の人間世界に目を向けると、状況の見え方は一変します。かつてエルディア人は、その巨人の力を活かしこの世界で残虐の限りを尽くしていました。そしてマーレに対して劣勢になると、エルディアの王は巨人に囲まれた壁の中に閉じこもり、侵攻すれば幾千の巨人をもって報復すると世界を脅していたのです。外の世界の人々からすると、エルディア人というのはまさにはた迷惑でしかない、悪魔の民族であるわけです。

 そしてその悪魔に対する敵視は、そのまま壁の外に残されたエルディア人に注がれます。彼ら彼女らは、かつて世界を恐怖に陥れた民族の末裔として激しく憎まれ、迫害の対象となってしまうのです。彼ら彼女ら自身は、何らマーレに、世界に対して何ら害を及ぼしていないというのに。

 では、謂れのない扱いを受ける壁の外のエルディア人は、そのうっぷんをどう晴らせばいいのでしょうか? 答えは一つです。その苦しみを、そのまま安寧を享受する壁内エルディア人への憎しみへと転化すればよいのです。あいつらのせいで、何もしていない自分たちが世界に迫害されてしまうのだ。自分たちは悪魔ではないが、確かにあいつらは悪魔だ。そう壁の外のエルディア人は考えるようになるのです。

 その中でマーレは、壁内人類を掃討するべく、巨人としてマーレのもとで働く兵士をエルディア人から徴収します。壁内の悪魔を掃討し、壁の外のエルディア人の汚名を返上するための絶好の機会が、エルディア人に与えられるということです。ゆえにエルディアの少年少女たちは、壁内人類への憎しみを高らかに宣言し、壁内のエルディア人を滅亡させる巨人の力を求めて戦士となるのです。自分たちの汚名をそそぐために。そして何より、大切な人たちの暮らしを、迫害から守るために。

 これは本当によくできた、絶望的なまでの「分断」ではないでしょうか。壁の中の人類はただただ自分たちが生き延びるために巨人を駆逐し、ついに外の世界に出る自由を手にします。彼らは外の世界に対して何ら害を与えておらず、憎悪を受けるいわれはありません。このことは、『進撃の巨人』のこれまでの長いエピソードで、私たちが見てきたとおりです。

 しかしながら壁外のエルディア人は、まさに同じく自分たちが生き延びるために、大切な人を守るために、壁内人類に強い憎悪を向け、これを駆逐せんとするのです。自分たちが悪魔でないことを証明するためには、壁内の悪魔を掃討するしかないのですから。

 この問題の解決に、『進撃の巨人』が到達した「自分らしく、好きなように生きる」という命題が何ら意味をなさないことは、火をみるより明らかでしょう。いや、この命題は、もはやこの問題をさらに激化させる効果しか持ちえません。壁外のエルディア人の憎悪は、自分たちの汚名を返上し、大切な人を守るための憎悪です。「自分らしく、好きなように生きる」ために、壁内のエルディア人を憎むわけです。しかし一方の壁内エルディア人も、まさに「自分らしく、好きなように生きる」ため、巨人を駆逐してきました。そして次なる敵が壁外の人類であるのならば、彼らはそのまま、攻撃の対象を壁外の人類に移すこともあり得るわけです。
 
 『進撃の巨人』マーレ編は、本作が中盤でついにたどり着いた「自分らしく、好きなように生きる」という命題が、むしろ極めてネガティブな効果を持ってしまうケースを、強烈に描き出したのです。

3. 物語の裏切り

 では、『進撃の巨人』はその残された時間で、いかにこの新たな問題に取り組むのでしょうか。

 その戦いの様相を明らかにするには、マーレ編というストーリーが持つ性質についての、ある重要な事実について検討する必要があります。それは、マーレ編で『進撃の巨人』が見せたテーマ性のシフトが、これまで見てきた10年代のテーゼにたどり着くまでのシフトとは、まるで異質のものであるという事実です。

 本記事シリーズではここまで、『進撃の巨人』という作品が、そのテーマを時代性にあわせてシフトさせていったことを示してきました。そこで本作がテーマ性のシフトさせていたのは、他でもなく、読者がその新たなテーマを求めたからでした。

 例えば、10年代の地平の準備としての「残酷な世界」の導入。この導入について、私はⅠ-1で、「残酷な世界」というフォーマットが現代の私たちの心象に合致してしまったからこそ起こった、というお話をしました。2008年の経済危機に代表される経済成長の鈍化、広がる格差、様々な社会問題...私たちの目や耳はインターネットで広がり続ける一方で、見えてくるこの世界はますます複雑で過酷なものになりすぎて、もはや私たちの手に負えない。私たちは、もはやこの世界を変えることなんてできない。そんな心象に囚われるようになった私たちが求めるのは、主人公が特別な力で魔王を倒すような、そんなお話ではない。主人公が、とても勝てそうにない魔王の下で苦しみ、足掻くお話だったのです。(付け加えるならば、3.11が見せた衝撃的な破滅のビジュアルは、この心理を決定的なものにしてしまったと思っています。)

 しかし、そんな残酷な世界でも、私たちは生きることをやめることができません。辛くても、生まれてしまったからには、この人生を続けなければならないのです。ならば、私たちは何のために生きればいいのか?何に生きがいを見出せばいいのか? その答えを、私たちは求めるようになります。

 その求めに見事にこたえたのが、この作品が中盤に展開で導入した、「自分らしく、好きなように生きる」という命題だったのだと思います。事実その命題はⅡ-2で見てきたとおり、「大切な人と生きる」、「世間の価値観から脱却する」、「唯一無二の関係を築く」といった、今まさに私たちが求めている具体的なテーマに姿を変えて、10年代の物語史を彩ることになりました。このどうにもならない世界で、私たちは自分のために生きていいんだ。自分個人を大事にしていいんだ。そのテーゼは、この世界で苦しむ私たちにとって大きな救いとなったのです。

 であるならば、もう物語は、新たな命題を提示する必要はないはずです。読者は、この残酷な世界で生きる方法をついに見つけたのですから。この残酷な世界で苦しみ、そして自分だけの生きがいを見つけていく物語を再演するだけで、読者に喜びを与えられるのですから。

 しかしながら、それを『進撃の巨人』は裏切ったわけです。安住の地たる「自分らしく、好きなように生きる」という命題に対して、壁の外の世界を導入することで、痛烈な批判を浴びせてしまうのです。新たな敵として壁の外の人類を導入し、その命題がもたらす歪みを示してしまうのです。

 なぜ、『進撃の巨人』はそのような転身を果すに至ったのでしょうか。

4. 私たちをたたえる「バブル」

 結論から言いましょう。それは、上記で見たような「自分らしく、好きなように生きる」というテーゼがもたらす歪みが、私たちが気づかないうちに、物語の世界よりも先に、既にこの現実世界に顕現していたからです。

 そのことを考えるには、10年代後半にかけての、この現実世界の現状を見ていく必要があります。
 
 例えば2015年前後から問題になった、ヨーロッパの難民問題。中東やアフリカの政情不安を原因に当該地域で難民が発生、その相当数が一気にヨーロッパに流入しました。そして難民受入れの負担、治安悪化の懸念、移民との文化的差異から、移民に対する反発が強くなったのです。この傾向は過激なナショナリズムともつながり、異民族の積極的な排斥を行う動きも目立つようになりました。(イタリアなどに見られたポピュリズム党の選挙での躍進など)

 もちろん、困った人には手を差し伸べなければならない、そんなことはみんなわかっています。わかっているけれども、このまま移民を受け入れ続けると、自国の政府の財政が危うくなったり、犯罪率が上昇したりしかねない。また、いざ移民を受け入れてみると、あまりにも文化や価値観が違い、地元住民とのトラブルが絶えない。そうなってしまったら、「困った人には手を差し伸べなければならない」という倫理は二の次になります。自分たちの平穏を守るために、よそ者は排除するしかない、そうなりふり構わず考えるようになってしまうのです。

 こうした「他人を受け入れたはいいが、そのせいで想像以上に自分たちが困った」という事態が常態化するほど、善良な人々はよりたやすく、「邪魔な他人は排除しよう」と臆面もなく言うことができるようになります。そのことを世界に知らしめたのが、2016年末のトランプ米大統領誕生でしょう。「自国第一主義」を唱え、ラテンアメリカからの移民を「犯罪者」と悪びれもなく呼称して排斥する彼の主張は、米国で絶大な支持を得ます。これは、米国市民から倫理感が失われたとか、そういうことではありません。それだけ、米国市民は「他人を受け入れた」ことで困っていたのだと思います。輸入が促進された結果、自国産業は衰退。リベラリズムを説くエリートたちはその市民の苦しみを顧みず、その「きれいごと」を盾にして自分たちだけが世界の最前線に立ち、豊かになっていく。そんな中で、どうして引き続き「よそ者を受け入れよう」、「リベラルでいよう」などと思えるでしょうか?他者を排することは、もはや控えるべきことなどではないのです。他でもなく、自分を、そして愛する人を守るために。

 卑近な例も挙げましょう。

 フィルターバブル、という言葉があります。インターネットでは、たとえば新聞とは違い、見たい情報、記事だけを閲覧し、交流したい人とだけつながることが可能です。また、それを促進するように、閲覧履歴に似た記事をおススメするアルゴリズムが働くようなSNSもあります。SNSはリアルでは会えない同じ趣味の人、気の合う人とつながるために使われることが多く、こうしたSNSの在り方は、SNSの趣旨に即しているとも言えるでしょう。

しかし、こうした動きを重ねていくと、人は自分が見たい意見、自分と同じ考えの人にばかり囲まれるようになります。TLには自分と同じ意見の人が並び、自分にとって好ましい考えばかりが流れてくるようになる。自分が流した意見が、エコーのように何倍にも増幅されて、自分の目に入ってくるんです。そしてそんなTLを見ていると、ますます自分の考えに囚われるようになっていく。この現象を、まるで「泡」(バブル)に包まれたように、自分の見たい情報しか見なくなるということで、「フィルターバブル」といいます。

 こうした効果は、SNS上でしばしば見られる、過剰なまでの論争、分断を招きます。例えば政治の話。政治関連のハッシュタグを覗いてみると、ついこないだまで、「アベ」を全肯定する者と全否定する者の意見をたくさん見ることができました。もちろん合理性のある支持・批判の意見も多くあるわけですが、支持・批判双方に、信じられないほど極端で、とても本気でつぶやいているように思えないツイートもたくさん見かけられたところです。こうした極端な意見に、一人だけで到達することはなかなかできません。同じ意見が並ぶTLを見て、それに影響されて意見を表明して、そしてまたその意見と同じつぶやきがまたTLに流れてきて・・・を繰り返していくうちに、人の思想は濃縮還元されていく。そして、濃縮還元されきった異なる意見がお互いと出会う時、そこには建設的な議論など起こりえません。断絶した両勢力の間で発生するのは、相互理解など絶望的な、ただの喧嘩、罵りあいです。同じような様相は、しばしば発生する、アニメ漫画の性表現に係るオタク(の一部)VSフェミニスト(の一部)の戦いにも見て取れます。

 こうした景色は、決して誰かが明確な悪意をもって生んだものではありません。全て、自分の、あるいは愛する人の幸福のためにとられた、罪なき選択が重なった末のものです。ヨーロッパは、自分たちの平穏な暮らしを守ろうとした。米国市民は自らの経済的な苦しみを和らげようとした。SNSユーザは、リアルでは出会えない仲間とつながろうとした。みんな、「自分らしく、好きなように生きる」を貫くために行動を起こしたのです。むしろその行動は、10年代の物語のテーゼからすると、祝福されるべき行為であると言えるでしょう。

 しかし、その祝福されるべき行為が作り上げた景色は、同様に祝福されるべきものなのでしょうか。移民を一方的に排斥し、トランピズムに溺れた先に、よりよい世界はあるのでしょうか?相手の意見や立場を顧みない激しい対立から、世界はさらなる高みへと昇華することができるのでしょうか?

 その問いに、私たちは肯定的に答えることができません。いや、世界がそのような様相を呈していることに、バブルの中に過ごす私たちは、そもそも気づかないのです。バブルの中は、自分が好きな人、自分に近しい考えで満たされていて、外の世界は見なくてもいいようになっているのですから。私たちは、私たち自身が作った、私たちと世界とを隔てる壁に囲まれて生活しているのですから。

5. 「壁」というメタファー

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『進撃の巨人』第94話

 そんな中で『進撃の巨人』という物語は、ついに「壁」を越えます。

 エレンたちは壁の中の狭い世界で、多くの犠牲を払いながらも、巨人を駆逐してきました。それが「自分らしく、好きなように生きる」の実践だったことは、これまでの議論のとおりです。そして、ついにエレンの生家の地下室で、エレンたちは壁の外の世界に触れます。しかし、壁の外に広がっていたのは、「自分らしく、好きなように生きる」ために、マーレが、壁外のエルディア人が、エレンたちを殲滅しようとしている歪んだ世界でした。そこには上記でみたとおり、治癒など不可能な、絶望的なまでの分断が広がっていたのです。

 そう、実はこのエレンの世界との関係は、先ほど顧みた私たちとこの現実世界との関係と、まさにパラレルなんです。エレンは、壁の中で、「自分らしく、好きなように生きる」ことを強固に実践してきた。しかし、壁の外には地獄のような争いが広がっている。一方私たちも、私たちとその仲間を囲むバブルの中で、やはり「自分らしく、好きなように生きる」ことを実践してきた。しかし、バブルの外では、深刻な分断が進んでいるのです。以下図のように、エレンと世界との関係と、私と世界との関係は、同じ構造になっているんです。

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 そんな構造の下で、『進撃の巨人』はマーレ編で、壁の外の世界の歪みを刻銘に描写する。そして、私たちと同じく「自分らしく、好きなように生きる」ことを実践してきたエレンらが、その歪んだ世界から目をそらさずに、必死に向き合っていく姿が描かれていく。それが、マーレ編なのです。

 ここまで来ると、『進撃の巨人』マーレ編の転身が裏切りなどではないことは、もうおわかりでしょう。むしろマーレ編は実は、これまでの『進撃の巨人』同様、ずっと私たちの現状に寄り添っています。壁の外の世界の歪みに向き合うエレンたちの戦いはそのまま、エレンたちと同じ在り方をしてきた私たちに対して、「バブルを破れ」という強いメッセージとして立ち上がってくるわけです。

 エレンたちは壁の外の世界と向き合い、自分たちが「悪魔」と罵られていることを知ります。数少ない味方であるアズマビトの人たちも、「地ならし」の部分的な発動による外の世界への威嚇という、20世紀冷戦構造下の現実世界が「核」をもって実施していたのと全く同じ、分断前提の策しか提案してこない。それでもエレンたちは、壁の外の世界との融和を目指すのです。外の世界からやってきたマーレ兵と協力して技術を発展させ、また、自ら壁の外の世界に足を踏み入れ、壁の外の人たちとの交流を図っていく。彼らは一旦壁の外の世界と向き合ってしまった以上、もう決して、壁の中に閉じこもろうとはしないのです。たとえ困難でも、彼らが自分たちとは全く違った価値観を抱いていようと、彼らは積極的に、外の世界に踏み出していくのです。

 これは、私たちと同じ境遇にいるエレンたちが、私たちとは逆の選択と取っていく過程です。私たちはこの世界で、気づかぬうちにバブルを形成し、世界と自らを隔絶しようとしています。そんな私たちに対して、『進撃の巨人』は、見事に私たちの世界をその作品世界中に再現した上で、私たちが愛してきた主人公たちに、広い世界へ関与させていくのです。それを見て、私たちはどう感じるのでしょうか。この『進撃の巨人』が描く目も当てられない世界が、私たちの世界と同じものであることに気づいたとき。エレンたちの選択が、私たちの選択と逆のものであることに気づいたとき。私たちはようやく、これまで自分を無意識に守らせていた、薄い、しかしながら強固な被膜の存在に気づくことができるのです。外に広がる世界の分断に、気づくことができるのです。

 そう、マーレ編は、ただ10年代のテーゼを破棄し、これまで積み上げたものをリセットしたわけではない。10年代のテーゼを受け止めた上で、その難点を丁寧に示し、「バブルを破り、世界と向き合え」という新たなメッセージ性を、私たちに突き付けてくるのです。

 「バブルを破り、世界と向き合え」。この新たなテーゼこそが、10年代の「自分らしく、好きなように生きる」というテーゼが臨界した果てに立ち現れる、20年代の新たな命題なのです。

 第1話以来、『進撃の巨人』という物語のメインモチーフであり続けてきた「壁」。それは、物語が終盤に突入した今となっては、もはや物語を盛り上げるための単なる舞台装置などではありません。それは、「自分らしく、好きなように生きる」中で私たちが形成していた「バブル」のメタファーであり、そして10年代のテーゼを20年代のテーゼへと昇華させる、結節点であったのだと思います。

6. 次回予告

 マーレ編は現実世界における私たちの在り方を巧みに取り入れ、20年代のテーゼを特定しました。実は、『進撃の巨人』以外にもすでに複数の物語が、この新たな課題の浮上を敏感に感じ取り、この課題にそれぞれの形で取り組みつつあります。

 しかし、その取り組みは多難の一言です。代表的な2作品を挙げるならば、現在この問題に『約束のネバーランド』『Fate/Grand Order』第2部がそれぞれの方法で取り組んでいます。しかし、決定的な答えは出せていません。

 そして、それは『進撃の巨人』マーレ編も同様です。『進撃の巨人』は、バブルを破り、外の景色と向き合えと言います。しかし、向き合ってどうしろというのでしょうか? そもそも「自分らしく、好きなように生きること」は、このどうにもならない残酷な世界で、個人が生きる意味を見出すためにようやく見つけたソリューションでした。ただ「世界と向き合え」というだけでは、結局は、「この残酷な世界でどう生きればいいのか」という、10年代初頭の問題に戻ってしまうようにも見えるわけです。

 しかし、今は20年代です。この10年間で、私たちは実に多くの物語を積み重ねてきました。その財産の中に、「世界と向き合う」ためヒントが残されてはいないでしょうか。

 そのヒントを、『進撃の巨人』は掴み取ることができるのか。この20年代の重い課題を突破する手がかりに、本作はその晩年の生において少しでも手をかけることができるのか。本記事シリーズ最終回であるⅢ-2では、その結末を見ていきたいと思います。

(つづく)


(2021年4月30日追記)

最終回記事書き上げました!

【『進撃の巨人』論Ⅲ-2】『進撃の巨人』の到達点と、20年代の物語のこれから

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