【『進撃の巨人』論Ⅱ-3】「自分らしく、好きなように生きる」ことが導く新たな敵、そして20年代へ
※ 本記事は、記事シリーズ「『進撃の巨人』論 ―『進撃の巨人』が継いだもの、生んだもの、残すもの―」の記事です。
『進撃の巨人』中盤が見出した「自分らしく、好きなように生きる」という大テーマ。前項Ⅱ-2では、この大命題がいかに10年代の数々のマンガの起点となっているかについて、具体的な作品を挙げつつ説明しました。
世界自体よりも、自分が好きな人に価値を置く「大切な人を守るために世界に抗う系」(例:『鬼滅の刃』)。
個人が「自分らしく、好きなように生きる」のを阻害する世界のルールに疑問を投げかける「マイノリティを描く系」(例:『青のフラッグ』)。
「あなた」が「自分らしく、好きなように生きる」ことを強調する「徹底した個人主義系」(例:『違国日記』)。
「あなたとわたし」の関係性に「自分らしく、好きなように生きる」を導入する「名前のない二人だけの関係を追求する系」(例:『私の少年』)。
そして、「自分らしく、好きなように生きる」をセカイ系の文脈に導入することでセカイ系のジレンマを突破する、セカイ系と「自分らしく、好きなように生きる」ことのハイブリッド(例:『天気の子』)。
「自分らしく、好きなように生きる」ということは、様々な形に姿を変え、10年代の多様な物語を通底する哲学として機能したのです。
1. 「自分らしく、好きなように生きる」ことの負の側面
しかし10年代後半に差し掛かると、「自分らしく、好きなように生きる」という命題が導くネガティブな効果が、とてもゆっくりとではありますが。徐々に顕在化していきます。
世界が自分たちにはどうすることもできないほど残酷で、主人公らは世界を救う物語を演じることができなくなってしまった。そこで彼ら彼女らは、「自分らしく」という新たな生きがいを与えられます。そのことで、主人公らは「世界と相対しなければならない」という物語の呪いから解放され、再び歩み始めることができるようになる、ここまでの議論ではそんなお話をしました。
しかしながら、その「自分らしく、好きなように生きる」ことが十分にこの世の中に広がった時、主人公らは、せっかく逃れた「世界」とはまた異なる、新たな敵と相対することになります。
それは、自分とは違うやり方で「自分らしく、好きなように生き」ている、「他人」です。
自分と他人の「らしい生き方」が相反する場合、その相反は、お互いが「自分らしく、好きなように生きる」ことをお互いが貫く限り解決しません。ならば、そこには泥沼の争いが生まれてしまうのではないでしょうか?
10年代も後半に差し掛かったころ、「自分らしく、好きなように生きる」という命題が生んでしまうこの新たな戦いを、いち早く指摘した作品があります。
これもまた、他でもなく『進撃の巨人』なのです。
『進撃の巨人』と10年代の物語の関係を論じたⅡ章。その締めくくりとなる本項Ⅱ-3では、『進撃の巨人』中盤が導入した「自分らしく、好きなように生きる」という命題に、『進撃の巨人』自身がその後いかなる形で自ら批判を加えていくのか、その端緒を見ていきたいと思います。
そのために、まずはアニメ第3期後半のエピソードを振り返りましょう。
2. アニメ第3期後半エピソード振り返り
調査兵団はウォールマリアの奪還、そしてエレンの生家の地下室調査のため、遠征を開始。シガンシナ区でライナー、ベルトルト、そして「獣の巨人」ジークと交戦します。
ジークの投石などにより、208人いた調査兵団は残り9人という壊滅状態にまで追い込まれますが、超大型巨人を撃破し、ライナーとジークを撤退に追い込むのです。
そして、ついにエレンの生家の地下室に到達します。
そこで発見したのは、グリシャが遺した壁の外の世界についての記録。その記録で、以下の驚くべき事実が判明します。
● 人類は滅んでなどおらず、壁の外でも人類は健在であること。
● 壁の外の世界では、巨人に変身できる民族「エルディア人」が危険民族として迫害されており、壁の中の世界は、エルディアの王が迫害から逃れるため、少数の臣民を道連れにして閉じこもった世界であったこと。
● 壁の外のエルディア人を統治する国家「マーレ」は、エルディア人を巨人に変えて軍事転用できるよう、エルディア人を意のままに制御できるエルディア王家の巨人の力を狙っていること。
● 壁の外で生まれたエルディア人だったエレンの父グリシャは、マーレと戦う意思のない王家から、その巨人の力をマーレに先んじて奪うために、壁の中に侵入していたこと。
エレンたちは巨人を駆逐すれば世界は平和になると信じていました。
しかし、壁の外にも人類がいて、その人類は、エレンたちエルディア人の軍事転用や滅亡を狙っていることが明らかになるのです。
3. 無記名の「世界」との戦い
(『進撃の巨人』43話)
壁の外にも人類がいて、私たちが戦っていたのは、巨人というただの化物ではなく、人であり、文明だった。その事実は、巨人を駆逐さえできれば自由を取り戻せると信じていたエレンたちにとって、大きな衝撃でした。
この衝撃には、二つの意味があります。
一つは、単純に戦うべき敵が思ったよりもはるかに強大だったこと。敵は巨人だけではなく、壁の外の世界全てが、巨人に変身できる危険な力を持った民族、エルディア人を迫害し、その軍事転用や滅亡を狙っていたのです。
もう一つは、こっちのほうが重要なのですが、「巨人と戦う」ことがそれすなわち「無記名の『世界』と戦う行為」である、というこれまでの大前提が、揺らぎを見せ始めたことです。これはどういうことか。
ここまでの『進撃の巨人』では、「巨人を殺すこと」は疑いようもない絶対善でした。エレンは母を殺した化物に「駆逐してやる」と強い憎しみを抱き、その憎しみをエネルギーにして、ここまでの厳しい戦いを生き抜いてきました。また、ライナーらが巨人であることが発覚したときも、これまで素知らぬ顔で兵団に紛れていたライナーらに対し、エレンは激高します。
「お前ら本当にクソ野郎だよ」
「多分...人類史上こんなに悪いことをした奴はいねぇよ」
「てめぇはこの世にいちゃいけねぇ奴だ 一体何考えてんだ?」
「本当に気持ち悪いよ お前の正義感に溢れたあの面構えを思い出すだけで...吐き気がしてくんだよ」
主人公にあるまじき、と言ってもいい、嫌悪感がほとばしったセリフです。そう、多くの人を殺し、それでいて正義面で兵団に紛れ込んでいたライナーらは、人を殺した罪を自覚してもいない、本当のクソ野郎なんです。そして、そんな彼らを殺すことは、疑いようもなく正義だったんです。
なぜそこまで強いことが言えるのかというと、巨人という存在が、意思を持たない災害のように描かれていたからです。巨人はライナーら含めて、特に理由もなく理不尽に人間を死に追いやるような存在であり、ゆえに人類はこれを問答無用で取り除かなければならない。この論理は疑う余地もない確かなものだったんです。
(「災害みたいなもんなんだから人類は諦めてそれに従うべきだ」と、災害じゃないくせに真顔で言ってのけたラスボスもいましたが… 鬼舞辻無惨っていうんですけど)
だから『進撃の巨人』で描かれる戦いは、戦争のように特定の人間を殺すような、倫理的に非難されるようなものではなく、人類が無記名の「世界」に抗い自由を求める「聖戦」として描写されてました。
そしてそれを前提に、本記事シリーズは、『進撃の巨人』という物語は、ここまで議論を進めてきたわけです。この残酷な世界に抗うこと自体は正義である、これは疑いようがない。その上で、ではどうやって主人公たちにその残酷な世界に抗ってもらえるのか?を本作は考え、最終的に「自分らしく、好きなように生きる」というソリューションにたどりついたわけです。
4. 特定の「人」との戦い
(『進撃の巨人』18話)
しかし、地下室で明らかになった情報は、『進撃の巨人』という物語、そしてここまでの本記事シリーズにおける議論の前提を、転覆させることになります。
地下室で明らかになった情報により、これまでエレンたちが戦ってきた残酷な「世界」の担い手、すなわちライナー、ベルトルト、アニの実像が明らかになります。
3人は、王家の巨人の力を奪取すべく、マーレが壁の中に派遣してきた戦士だったのです。でも、巨人に変身できるということは、3人は壁の外で迫害を受けているエルディア人です。3人は、自分たちを迫害している帝国の命令を受けて、まだ子供であるにも関わらず、異国の地に派遣されてきた者たちなのです。
そして3人は壁の中で兵士として生きる中で、価値観の転倒と直面するします。
トロスト区奪還後、兵士たちが死体を回収するシーンがあるのですが、その中でアニが、呆然自失とした表情で「ごめんなさい...ごめんなさい...」とつぶやくシーンがあります。彼らこそトロスト区に死体の山を築き上げた張本人なわけですが、アニは、自らの使命として行った所業の惨さに、初めて気づいてしまったわけです。
そして、ライナーもです。「正義感に溢れた面構え」をエレンに糾弾された彼ですが、彼自身、マーレの「戦士」としての顔と、壁の中の人類を守る「兵士」としての顔を使い分けることができなくなっている姿が、随所で描かれていきます。マーレのために壁の中に侵入したはずが、壁の中での大量殺戮による罪の意識に耐え切れず、「兵士」こそが自らの本来の姿であると時々思い込んでしまう、二重人格のような症状が見られるのです。彼の中でも、「善」だと信じていた自らの使命の意義が、壁の中で戦うことで揺らいでしまったわけです。
そんな彼らの実像を目にしてしまったとき、もはや私たちは、エレンたちは、この『進撃の巨人』という物語を、「残酷な世界に抗う物語」と定義することはできません。
この物語は、人類が無記名の「世界」と戦う物語でもなんでもなく、同じく血の通った、壁の外の人間たちとの戦いを描く物語だったのです。
5. 「自分らしく、好きなように生きる」ことが開くパンドラの箱
『進撃の巨人』が「無記名の『世界』と戦う物語」から、「特定の人間同士の戦いを描く物語」に変貌する。このとき、本作が「世界」と戦う方法として提示してきた「自分らしく、好きなように生きる」という命題は、その効果を大きく変えることになります。
これまでエレンたちは、「自分らしく、好きなように生きる」ことによって、自らの生を充実させるとともに、結果的に世界の在り様を変えてきました。
ミカサは、自分を家族だと言ってくれたエレンを守るために。
アルミンは、壁の向こうにある「海」というものを見るために。
クリスタは、自分を殺さずに胸を張って生きるために。
エルヴィン団長は、巨人が存在するこの世界の有り様の謎を知るために。
そしてエレンは、「オレがこの世に生まれたから」、外の世界を知るために。
そんな個々の行動が重なり合い、世界が望ましい方向に変わっていく。そんな展開が『進撃の巨人』中盤で描かれたことは、Ⅱ-1で議論したとおりです。
しかし、『進撃の巨人』終盤が明らかするのは、彼らが相対しているのはもはや無記名の「世界」ではなく、特定の人間だったことです。
アニも、ライナーも、ベルトルトも、他人から迫害される立場の中で、帝国から強制されて壁の中に派遣されてきた戦士なのです。彼らの選択肢に、戦わないという選択肢はありません。戦わないことは即ち帝国の命令違反であり、ただ有害民族として帝国から排除される未来が待っているだけだから。
そう、彼らも生きるために戦っているに過ぎないんです。すなわち、「自分らしく、好きなように生き」ているのです。
ここで、『進撃の巨人』という物語は窮地に陥ります。
エレンたちが「自分らしく、好きなように生きる」ためには、アニたちを排除しなければならない。
しかし、アニたちも「自分らしく、好きなように生きる」ために動いているだけであり、エレンたちにアニたちを排除する正当性がない。
ゆえに、エレンたちがそれでも「自分らしく、好きなように生きる」ことを実践してアニたちを排除するならば、それは極めて自己中心的な、不当な暴力行為でしかありません。
そう、この物語が「無記名の『世界』と戦う物語」から、「特定の人間同士の戦いを描く物語」に変貌したとき、『進撃の巨人』を、10年代の物語を率いてきた「自分らしく、好きなように生きる」テーゼは、自己解決不能の自己中心的な暴力行為に転化してしまうのです。
こうして『進撃の巨人』は、自身がその中盤の展開を通して提示し、その後10年代の基礎となった大テーゼについて、その致命的な欠陥を自ら暴くこととなるです。
6. 20年代への問いかけ
「自分らしく、好きなように生きる」こと。
それは残酷な世界を前にして一度はくじけかけた主人公らを奮い立たせ、物語を再起動させる素晴らしいテーゼでした。
しかし、世界の幅広い人々が「自分らしく、好きなように生きる」ことを実践するようになったとき、主人公らが相対するのは、もはや残酷な世界そのものではない。「世界」という無記名の存在は姿を消し、主人公らと相反する利益を持つ「他人」が、新たな敵として主人公らの前に立ち現れてくるのです。
そしてその争いは、主人公らと他人それぞれが「自分らしく、好きなように生きる」というテーゼを貫くがゆえに、妥協に至らぬ凄惨なものとなってしまうのです。
では、主人公らはどうすればいいのでしょうか?
この問題提起こそが、終わりを迎えつつある『進撃の巨人』が20年代という新時代に投げかける、重い重い遺産なのです。
この重い遺産を意識した作品は、既に数点この世に生まれつつあります。
食べる食べられるの関係であるがゆえに妥協を見出せない、人間と鬼の関係の終局的解決を探る『約束のネバーランド』(2016)。
魔女が人類に迫害される世界で、魔女の最後の弟子アドニスが、自らの復讐のために人類の皆殺しを図る『はめつのおうこく』(2019)。
「自分らしく、好きなように生きる」ことを、主人公側ではなく敵側の哲学として刻銘に、切実に描写していく『僕のヒーローアカデミア』敵(ヴィラン)連合 vs 異能解放軍編(2019)。
自らの世界線を存続させるため、他の罪なき世界を次々に滅亡させていく戦いを描く『Fate/Grand Order第2部 Cosmos in the Lostbelt』(2017)。
そして何を隠そう、壁の中の人類と、壁の外の人類の答えの無い戦いを描く『進撃の巨人』マーレ編(2017)、そして本作の最終章(2018)。
どれも、登場人物が自分の事情のために、「自分らしく、好きなように生きるために」行動しており、ゆえに妥協ができず血みどろの戦いになだれ込んでいく様を描いた作品です。
これらの作品は、そして何より『進撃の巨人』最終章は、10年代を率いてきたテーゼが引き起こす血みどろの争いを描きつつ、その争いに対していかなる解決を見出すのでしょうか。
本記事シリーズは、次回からⅢ章「『進撃の巨人』が20年代に投げかけるもの ―そして再び世界へ―」に入ります。かっこいいタイトルですね。
10年代が幕を閉じた今、10年代の物語群を支えてきたテーゼの意義が大きく崩れつつある。その崩壊を、完結を迎えつつある『進撃の巨人』はいかに受け止め、次世代につないでいくのか。この『進撃の巨人』の最後の戦いを受け止めること。それが、本記事シリーズⅢ章に課せられた仕事です。
まだふんわりとした構想しかありませんが、がんばります!
(つづく)
(2021年2月24日追記)