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【『進撃の巨人』論Ⅱ-2】「自分らしく、好きなように生きる」ことが導く、10年代作品群のカンブリア大爆発

※ 本記事は、記事シリーズ「『進撃の巨人』論 ―『進撃の巨人』が継いだもの、生んだもの、残すもの―」の記事です。

 ゼロ年代、10年代、20年代の物語史における、『進撃の巨人』という作品の地位を考える本記事シリーズ。Ⅱ章は10年代にクローズアップしていまして、本記事はその2番目の記事です。

 前項Ⅱ-1では、『進撃の巨人』中盤で明らかになった本作の真のテーマ、すなわち「自分らしく、好きなように生きる」という命題を特定しました。

 本作序盤は、世界に抗う理由、残酷な世界でも主人公らが生きていくに足る理由として「大切な人とのつながり」を挙げたことで、ゼロ年代からの脱却を果たします。

 しかし本作中盤はそのストーリーをさらに進める中で、「大切な人とのつながり」というのが、実は「自分らしく、好きなように生きる」という、さらに深い命題の一実践方法でしかないことを暴露します。そして本作中盤の長編エピソード「革命編」にて、「自分らしく、好きなように生きる」ことが世界を変えうることを示し、その意義を帰納的に証明。一度は世界のあまりの残酷さに歩みを止めかけた主人公らの背中を押し、物語を再起動させたのです。

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 本作のこの「自分らしく、好きなように生きる」という命題の発見は、10年代の物語を語る上で欠かせない、非常に重要な事件だと私は考えています

 というのも、10年代を彩る多様な物語は、一見バラバラで互いに無関係なテーマを持っているように見えます。しかし、「自分らしく、好きなように生きる」という命題からこれらの作品群を眺めると、これらのバラバラなテーマが、実は「自分らしく、好きなように生きる」ことの変形であることがわかってくるのです。

 そう、10年代が生んだ多種多様な物語群は、それぞれ独立して自然発生したものではなく、「自分らしく、好きなように生きる」という命題を共通の祖先にして、カンブリア大爆発のような進化を遂げたものである、という解釈も提唱できるのではないか、それが私の考えです。

 本項ではそのことを示すために、10年代(後半)の物語が提示する様々なテーマを俯瞰し、「自分らしく、好きなように生きる」という命題との関係性について、考えていきたいと思います。

※ 以下、各項目で挙げる作品のネタバレが含まれています。ご注意ください。

1.  大切な人を守るために世界に抗う系 ~『鬼滅の刃』、『BEASTARS』~

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 この系はⅠ章で詳しく見た『進撃の巨人』序盤と同じ構図です。セカイ系やゼロ年代と同じく残酷な世界を相手取る物語ですが、世界と相対する目的が、セカイ系やゼロ年代とは異なります。セカイ系やゼロ年代は世界を変えるために世界と相対しましたが、10年代のこの系では、世界を変えることそのものより、大切な人を守ることに大きな意義を認めます。

 10年代後半を代表する作品になったと言ってもいい『鬼滅の刃』(2016)は、この系の代表作です。

 本作のテーマ性はⅠ-2で見たとおりです。炭治郎が人を食らう「鬼」と戦う理由にはもちろん、鬼をこの世から滅ぼし、世界を変えることも含まれます。しかし彼が戦う一番の理由は、鬼と化した妹、禰󠄀豆子を人間に戻すことなんです。そしてそれゆえに、彼の心は決して折れないのです。たとえ勝ちの目が少ない厳しい戦いでも、妹を守る、その思いだけで彼は戦い続けることができるのです。

 また、マンガ大賞2018を受賞した『BEASTARS』(2016)もこの系として解釈することができると考えます。

 本作は、動物たちが人間のような文明を築いて暮らしている世界が舞台です。そんな世界で、ウサギの女の子ハルに恋してしまったオオカミの男の子、レゴシが本作の主人公です。

 そんな彼が相対するのは、食う食われるの関係にある草食動物と肉食動物の確執です。両者は一見平和に共存していますが、肉食動物は裏で草食動物の死体を買って食べているなど、両者の間には厚い壁があります。そんな世界で、肉食動物と草食動物が結ばれても、奇異の目や迫害の対象となるだけなのです。
 ゆえにレゴシは、ハルの今後を思って、ハルと結ばれることを最初は躊躇します。しかしながら彼は、ハルはそんな世界の中でも自分を想ってくれること、肉食動物とともにいるリスクを冒してまで自分に寄り添ってくれることをきっかけに、やがてハルとともに生きること、確執と偏見に溢れた世界に抗うことを決意するのです。これもまさに、世界を変えたいから世界に抗うのではなく、愛する人を守るために、世界に抗う構図です。

 大ヒットを記録したこれら2作品では、主人公は世界を変えるために世界に抗っているのではない。「自分にとって大切な人を守る」ためにどうしても必要だからこそ世界に抗うのであり、これはまさに「自分らしく、好きなように生きる」ことの一つの在り方です。他人から命令されたとか、生まれながらの使命であるからとか、そういう外部的な要因は、もはや戦いに身を投じる理由として弱いんです。何より自分がそうしたいからこそ、キャラたちは勝ちの目が薄くても、世界を変える戦いに身を投じることができる。そしてそんな戦い方こそが、Ⅰ章で見てきたとおり、私たちの心を打つのです。

2.  マイノリティを描く系 ~『青のフラッグ』、『アスペル・カノジョ』~

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 「自分らしく、好きなように生きる」ことは、すなわち「個人」の最大限の尊重です。

 世の中はルールや文化、価値観など個人を縛るもので溢れている。その中には従う必要性が明らかであるもの(例:「人を殺してはならない」というルール)がある一方で、本当に守るべきものなのか、個人を不当に虐げるようなものではないのか、疑わしいものもあります。「自分らしく、好きなように生きる」という命題が導く個人の尊重は、そうしたルールや価値観を再評価し、不当と思われるものに疑問符を投げかけることにつながるのです。

 今そんな運動の主なターゲットになっているのが、マイノリティを疎外化する価値観です。マイノリティといっても様々な人がいます。職場における女性、セクシャルマイノリティ、心的障がい者などです。こうした人たちの生活を丹念に描き出すことで、彼ら彼女らを抑圧する世間一般のルールや価値観に疑問符を投げかける傑作が、近年多く見られます。

 例えば、少し前に完結した『青のフラッグ』(2017)。男女高校生それぞれ2人をメインキャラに据えた青春群像劇ですが、このうち男の子、女の子それぞれ1人が同性愛者です。その中で、同性愛者である2人のマイノリティとしての苦しみ、そしてその2人のことが大好きであるがゆえに、2人との向き合い方について悩む友人らの姿が丁寧に描写されていきます。

 そんな本作で特筆すべきなのは、「マイノリティの性的嗜好に嫌悪を感じる自由」(≠その性的嗜好を否定する自由)が、個人に対して保証されていることです。

 例えば本作では、男に痴漢されて以来同性愛者の男性に嫌悪を覚える男の子が登場します。この感覚もまた、個人の自由な考え方の一つとして提示されるのです。
 また、自らの性的嗜好に対して他人が嫌悪感を向けることに悩む女の子に対し、作中の大人は、「そんなことないよ」と慰めの言葉をかけるのではなく、「その問題はあなたが抱える問題じゃない」と、優しく諭すのです。女の子の性的嗜好は一切否定せず、かつ、その嗜好を嫌悪する他人を否定しない。他人のマイノリティに対する考え方は、マイノリティが勝手に矯正していいものではないんです。

 すなわち本作は、ただ「マイノリティを尊重しよう」とか「ジェンダーの平等」といったメッセージを表面的になぞっているわけではない。本作の出発点には、「個人の尊重」という絶対善があり、そこから「マイノリティの尊重」が演繹されているだけなんです。だからこそ、「マイノリティの尊重」と同時に、「ある特定のマイノリティを嫌悪する個人」も、「個人の尊重」という絶対善から同じように演繹されて、尊重されているんです。

 この点は、本作がマイノリティ尊重それ自体を出発点とするものではなく、「自分らしく、好きなように生きる」という命題の一変形として、マイノリティを描いていることをよく示しているのではないでしょうか。

 もう一つこの系として挙げたいのが『アスペル・カノジョ』(2018)です。本作は、ある同人作家の家に、その作品のファンであるアスペルガーの女性が転がり込んできて、同棲を始めるお話です。

 この女性は一見、その挙動が本当に理解できません。いきなり情緒不安定になって自殺を図ろうとしたり、何もしていない他人に突然暴力をふるったりと、様々な驚くべき行為を見せます。しかし同人作家はこの女性と丹念に向き合い、そしてその女性も他者と円滑な関係を持てるよう努力を重ねていく過程で、その女性の行動が、その女性なりの一定の論理に従っていることがわかってきます。人は、その人なりの価値観や性格、ルールに従って、独自に自分の行動を定めますが、この女性も、それと同じなのです。彼女なりの価値観や性格、ルールに従って、彼女なりに行動しているだけなのです。

 こうした描写は、アスペルガーという症名を持つ人を特別扱いする考え方を骨抜きにしていきます。彼女らは特別な人間ではない。私たちと同じように、自分が思うように自分なりに行動しているにすぎないのです。この考え方を導くのは、やはり「個人の尊重」です。個人が個人の好きなように動くことを良しとする。この命題の前には、特に症名を持たない人も、持つ人も、何の違いもない等しい存在なのです。

 「自分らしく、好きなように生きる」という命題が導く「個人の尊重」が、マイノリティというカテゴライズ、世間の価値観を脱構築してゆく。その作用の現れこそ、10年代後半に入って特に増えている「マイノリティ」を描く物語の本質なのではないでしょうか。

3.  徹底した個人主義系 ~『違国日記』、『ここは今から倫理です。』~

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「自分らしく、好きなように生きる」こと。これを主命題として生きるなら、自分が「自分らしく、好きなように生きる」だけでなく、他人に対しても「自分らしく、好きなように生きる」ことを認める必要があるでしょう。

 しかし、他人による「自分らしく、好きなように生きる」ことを最大限尊重する場合、ある問題が発生します。
 例えば相手が何かに悩んでいたり、苦しんでいたとして、それに自分が手を差し伸べて相手を悩みや苦しみから引っ張り出したり、アドバイスを与えたりすることは、相手の生き方に首を突っ込んでいるという点で、他人の「自分らしく、好きなように生きる」ことを侵害していることにはならないでしょうか?

 この問題意識を受け入れ、たとえ善意によるものでも、他人の生き方を侵犯するような手助けを自重する、という考えをもった作品が近年散見されます。

 例えば、『ここは今から倫理です。』(2016)という作品。このマンガは、高校の倫理教師である高柳先生が、様々な哲学者の考えを引用しながら、生徒たちの悩みを解いていくというお話です。高柳先生は本当にいい先生なんです。常に生徒の悩みにフラットに寄り添い、その悩みと向き合います。しかし本作には、高柳先生がその手助けを「放棄」するエピソードがあります。

 授業中にある女の子がリストカットをしていました。すると、極度の刃物恐怖症であるはずの同じクラスの男の子がそれに気づき、叫びながらその女の子のもとに向かってリストカットをやめさせるんです。そして、その後保健室に行った女の子は、その男の子が自分のことを本当に心配してくれていることを理解し、リストカットをやめることを決意するのです。
 高柳先生はこの光景を見て、保健室の藤川先生に吐露します。なぜ彼女がリストカットをするようになったのか、なぜ彼は極度の刃物恐怖症であるにもかかわらず女の子のもとに駆け寄れたのか、わからないと。そして、続けてこんな会話を続けます。

高柳 「教えてくれなければ一生わかりませんよ 我々は他人なのだから…」
藤川 「あなた冷たい人ね 分からないなら…知る努力をしようよ!」
高柳 「今彼らが戦うべきは“自分自身” 私たちが無理に入り込んだら戦う相手が増えてしまう」
高柳 「私は腕を切りたいと思ったことも、叫び出すほどの恐怖を目撃したこともないから分からない そんな私が彼らの過去を探ろうものなら、きっと私は彼らにとって最も憎い敵になる」
高柳 「それでも…彼ら自身が…自ら考えて勇気をもって、助けを求めてきてくれたならば… 私は全力でそれに応えましょう」

 一見教師らしくない冷たさを見せる高柳先生の言動の裏にあるのは、生徒という「個人」の徹底的な尊重です。どれだけこちら側が善意を持っていたとしても、その生徒だけの心の在り方にみだりに触れるものではない。あくまで生徒は、その生徒なりに「自分らしく、好きなように生きる」べきであり、教師というのは、決してそれを「矯正」できず、それを後押しすることしかできない。高柳先生の判断は、徹底した「他者の尊重」に裏打ちされたものなのです。

 また、共通した哲学を核に据えている作品として、『違国日記』(2017)が挙げられます。
 35歳の女性槙生が、亡くなった姉の15歳の娘、朝と暮らすようになるという本作。槙生は両親を失った朝に決してやさしい言葉をかけず、朝の気持ちと常に一定の距離を置きます。彼女はこう朝に言うのです。

朝 「大事な人死んだことある?」
槙生「ない ないけどとても悲しいことはあった けどそれを誰かと共有するつもりはない」
朝 「は?なんで? さみしいじゃん」
槙生「さみしくはない…わたしはね」
槙生「わたしにとって自分の感情はとても大事なもので、それを踏み荒らす権利は誰にもない」
槙生「それに誰も絶対に、わたしと同じようには悲しくないのだから」
槙生「誰にも分かち合わない」
    
朝(心の中のセリフ)
「孤独は彼女(槙生)には寄り添うのに、わたしにはちっとも優しくなかった」
「わたしは絶対に正しい真実を欲しがったのに、彼女は決してそういうものを示さなかった」

 これも、高柳先生と同じなんです。
 槙生はやろうと思えば、両親を失った朝に「悲しかったよね」とか「お母さんは天国で朝のことを応援してるよ」とか、朝のことを慰めるセリフはいくらでも言えます。
 でも、槙生は決してそういう「正しい真実」を、朝には言わなかった。それは、何よりも朝個人の感情を大事にしているからなんです。槙生が「自分の感情はとても大事なもので、それを踏み荒らす権利は誰にもない」というように、槙生には朝の感情を踏み荒らす権利はないことを、槙生は自覚している。朝がいつか自分なりに、自分のやり方で両親の死と向き合うことを、何より槙生は大事にしているわけです。

 善意を放棄してまでも、他人が「自分らしく、好きなように生きる」ことを尊重する。この徹底した個人主義は、10年代の一部の作品の特徴になっています。

4.  「名前のない二人だけの関係」を追求する系 ~『私の少年』、『1122』~

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 世の中には、ある複数の人間の関係を形用する様々な言葉があります。友達、親友、恋人、親子、夫婦、などなど… 
 こうした確立された言葉は、時に特定の2人の関係を、こういった一般的な言葉のいずれかにカテゴライズし、その2人にその言葉どおりの関係性を強要します。

 しかしながら、「自分らしく、好きなように生きる」ことを標榜するなら、その2人は、友達でも、恋人でも、夫婦でもない、その2人だけの特異な関係を結んでもいいのではないでしょうか。その関係が友達とも恋人とも呼べない奇妙なものであっても、その2人がそういう関係を好むなら、それでいいのではないでしょうか。

 例えば、『私の少年』(2016)。30歳のOL聡子さんは、公園で一人遊んでいた12歳の美少年真修くんと、彼のサッカー練習に付き合っているうちに仲良くなります。しかし、真修はだんだんと聡子さんに対し、大人へのあこがれと恋慕が混ざったような感情を抱くようになってしまいます。
 さらには、この2人の関係が他の関係者に知られることで、聡子さんが真修をよくない理由でかどわかしているのではないか、社会的に許される関係ではないのでないか、そんな目で見られるようになってしまうのです。

 でも、それだけで、聡子さんと真修はその関係を断ち切らなければならないのでしょうか。
 たしかにこの二人の関係を「恋愛」というレンズで見たら、それは社会的にいびつなものに見えてしまうのかもしれません。かといって、この年の離れた二人の関係を「友情」と呼ぶのもいささか変な感覚があります。二人の関係を表現するに適した言葉はなく、その意味で二人の関係は奇妙です。

 しかし、本作で聡子さんにとって真修は、そして真修にとって聡子さんは、確かに自分の心を支えてくれる大切な存在になっていくのです。であるのなら、たとえその関係を形用できる言葉はこの世になくとも、その2人の関係が奇妙なものに見えても、それは問題にならないのではないでしょうか。本作は、そう思わせてくれるほどに、この2人の関係を美しく描いていくのです。

 また、『1122』(2016)もこうした考え方を持っています。本作はある夫婦が主人公なんですが、夫のほうが妻公認で不倫してるんです。夫婦2人が円満な関係を保ててさえいるのなら、どちらかが外でも恋愛しても別にいいでのは…そんな考えで公認不倫を導入したはいいが、妻のほうはやっぱりもやもや。結局女性向けの風俗に行くことになり、夫婦関係の命運やいかに…?というドライブ感あるマンガです。

 このマンガも、問題意識の出発点は、「2人にとって最善の関係って何?」という問いにあると思います。
 2人の関係を「夫婦」という言葉にカテゴライズするのであれば、2人は不倫などするべきではありません。
 しかし、その殻を破ろうとして、夫に不倫を許可しているわけです。いったん結婚し、夫婦という枠に収まってしまった2人が、夫婦という枠にとらわれず、2人がそれぞれ好きなことをして、しかしお互いを大切にできるような、2人にとってベストなオリジナルの関係を追及する。これこそ、「自分らしく、好きなように生きる」ことを2人で達成する方法であるわけです。

5.  セカイ系と「自分らしく、好きなように生きる」ことのハイブリッド ~『天気の子』~

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 「自分らしく、好きなように生きる」ことが席巻した10年代のラストに、セカイ系と10年代との合わせ技をやってのけた傑作が登場しました。そう、『天気の子』(2019)です。

 本作は、毎日雨が降り、晴れることがなくなってしまった日本が舞台です。
 主人公の帆高くんは、アルバイトを通して「100%の晴れ女」であるヒロイン陽菜と出会います。しかし陽菜は実は「天気の巫女」、すなわち空に捧げられるべき生贄のような存在だったのです。陽菜が地上に存在する限り、世界で続く雨は強くなり世界の存続が危ぶまれるが、陽菜を空に捧げたら、晴れ間が戻り世界が救われる、というわけです。
 ヒロインとの日々と世界の存続がトレードオフの状態にあり、主人公はそれに対してどうすることもできないという構図は、セカイ系のお手本とも言えるものです。

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 セカイ系ですと、そんな物語の構図の中で、自らの無力から何もできず、世界とヒロインのジレンマに苦しむ主人公が描かれます。同じ新海誠の『ほしのこえ』(2002)は、まさにこの系になるでしょう。

 しかし、『天気の子』は10年代の作品です。セカイ系と10年代の一番の違いは、繰り返しますが、主人公の目的が「世界を救うこと」から「自分らしく、好きなように生きる」ことにシフトしてしまっていることです。
 このシフトをセカイ系的構図に導入するとどうなるかというと、主人公はもはや世界とヒロインのジレンマに苦しみません。そう、「ヒロインと生きる」という「自分のやりたいこと」のために、世界を放棄してしまえるんです。たとえ世界が滅んでも、陽菜と生きたい。そう迷いなく思い、帆高は陽菜を空から連れ戻してしまうんです。陽菜と生きることができるなら、それだけできっと僕らは「大丈夫」なのですから。

 セカイ系をセカイ系たらしめていた「女の子」と「セカイ」の選択は、10年代のマインドの前ではもはや成り立たない。そこに痛快さすら覚える傑作映画でした。

6.  まとめ、そして次回予告

 以上、主に2010年代後半の名作を俯瞰してみました。

 ここで挙げた作品は互いにジャンルも内容も全く異なる作品ですが、その全てがそれぞれの形で、「自分らしく、好きなように生きる」ことを強く実践しているのです。
 10年代とは、主人公らが「自分たちが世界を救わなければならない」という呪縛から解き放たれ、「自分」という概念に真正面から全てを注げるようになった時代である、それが私の考えです。

 そして、その「自分らしく、好きなように生きる」をいち早く作品内で帰納させた作品の一つが、『進撃の巨人』だったわけです。『進撃の巨人』はこの意味で、Ⅰ章で論じたようにゼロ年代という時代を脱却しただけでなく、10年代という新たなフィールドを開拓した作品だったのです。


 しかし、隆盛を極める「自分らしく、好きなように生きる」というテーマも、様々な形で語られる中で、徐々にその弊害が立ち現れていきます。
 10年代の物語は「自分vs世界」という構図を脱することで、動かなくなった物語を再起動させることに成功しました。しかし、「自分らしく、好きなように生きる」ことが広い人々に行き渡り、人々が「世界」と戦うことをやめたとき、人は新たな戦いに直面するのです。

 それは、「自分vs自分」という、答えの見えない泥沼の戦いです。

 そんなお話を、10年代を語るⅡ章のラストである、次回記事でお話したいと思います。次回更新は10月中旬予定。がんばります。

(つづく)

(2020年10月31日更新)

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【『進撃の巨人』論Ⅱ-3】「自分らしく、好きなように生きる」ことが導く新たな敵、そして20年代へ

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