見出し画像

【『進撃の巨人』論Ⅰ-2】「世界の残酷さ」に抗う方法と、10年代を拓く「戦う理由」のパラダイムシフト

 ※ 本記事は、記事シリーズ「『進撃の巨人』論」の記事です。詳しくは本記事シリーズ案内「『進撃の巨人』論 ―『進撃の巨人』が継いだもの、生んだもの、残すもの―」参照。

 (私の中だけで)鳴り物入りで始めました、ゼロ年代、10年代、20年代を俯瞰するこの『進撃の巨人』論シリーズ、2記事目でございます。前回から2か月も空いてしまいましたので、まずは前回の振り返りから入りたいと思います。

 前項のⅠ-1「ゼロ年代最終盤、『進撃の巨人』の「残酷」はなぜ私たちの心を掴んだのか」では、ゼロ年代と『進撃の巨人』の関係について考えていきました。

 進撃の巨人が描く「世界の残酷さ」とは、世界を苦しめる元凶の説明も、人間が巨人に勝てる理由も提示せぬまま、単に「戦わなければ死ぬぞ」という脅迫のみでキャラを戦わせ、その命を奪っていくことなのです。そしてその世界観こそが、『進撃の巨人』をゼロ年代から脱皮させたものであり、かつ、10年代の私たちの心を掴んでいった、というお話をしました。
 では、『進撃の巨人』はそんな「世界の残酷さ」を提示するのみで、その残酷さに抗う術を提案してくれないのでしょうか? いいえ。『進撃の巨人』は、現代の私たちも感じている「世界の残酷さ」に対して、それに抗う方法を示してくれています。実はその世界に抗う方法こそ、ゼロ年代と一線を画す、10年代のマインドの柱となっていくものなのです。その証拠に、そのマインドは、2016年に連載開始した10年代を代表する傑作、『鬼滅の刃』にしっかりと受け継がれています。そしてそんなことを考えていくと、ゼロ年代と『進撃の巨人』を分ける、その違いの本質がだんだんと見えてくるのです。本記事ではそんなお話をして、Ⅱ章へとつなげていこうと思います。

 まずは、『進撃の巨人』が提示する「世界の残酷さ」への対抗策について、見ていきましょう。

1. 世界の残酷さにどう抗うべきか① -世界の美しさ―

美しい

『進撃の巨人』が提示する「世界の残酷さ」への対抗策。その一つ目は、世界に「美しさ」を見出すことです。

 先述のとおり、ミカサが巨人に食べられそうになった時、ミカサは「この世界は残酷だ」と吐露します。でも、その直後に言うのです。「そして...とても美しい」と。
 その時ミカサは思い出すのは、ミカサが両親を殺された直後、エレンがマフラーを巻いてくれて、家族になろうと言ってくれた記憶。この世界は確かに残酷です。でも、ミカサはその残酷な世界で、エレンという新しい家族と出会えたのです。そしてエレンの家族も、ミカサを本当の家族と同じように受け入れてくれたのです。そのことに思いが至ったミカサは、一度は折れた心を取りも戻し、再び立ち上がるのです。この世界は残酷だが、確かに美しいものがある。その美しさのために、私は戦う。そう決意するのです。

 同じような決意の仕方は、エレンたちの同期の兵士であるジャンにも見られます。ジャンは最初、兵団の中でも最も安全である、内地の憲兵団に入ることを目指していました。しかし、最終的には壁の外で巨人と戦う「調査兵団」への入団を決意します。この決意の一番のきっかけは、親友マルコの戦死でした。ジャンはマルコを弔いながら、マルコが自分にかけてくれた言葉を思い出します。

「ジャンは強い人ではないから、弱い人の気持ちがよく理解できる それでいて現状を正しく認識することに長けているから、今何をすべきかが明確にわかるだろ?」
「まあ...僕もそうだし大半の人間は弱いと言えるけどさ...それと同じ目線から放たれた指示なら、どんなに困難であっても切実に届くと思うんだ」

 この言葉を頼りに、ジャンはあえて「残酷な世界」たる調査兵団に入団する決意をするのです。その後の「女型の巨人」編でも、「オレには今何をすべきかがわかるんだよ!」、「(マルコに)がっかりされたくないだけだ」と叫びながら、仲間の撤退の時間を稼ぐため、女型の巨人に攻撃を仕掛けるリスクを冒します。マルコの言葉、マルコの信頼に応えることは、「世界の残酷さ」に対する恐怖を凌ぐのです。

 ミカサやジャンが「世界の残酷さ」に抗うために見出したものは何か。それは、「大切な人とのつながり」です。世界は確かに残酷で、自分にできることは何もないかもしれない。しかし、私に愛を与えてくれた人がいる。私に信頼を与えてくれた人がいる。それだけで、人は動けるのです。いや、それこそが、どれだけ世界が残酷になろうともこの世界に残留し、人間が戦う理由であり続けてくれる、この世界の「美しさ」なのです。
 アニメ2期のクライマックスの話になりますが、エレンとミカサが多数の巨人に囲まれ最大の窮地に陥ったときも、ミカサのとった行動は、絶望するエレンにこれまでの感謝を伝えることでした。

 「エレン聞いて 伝えたいことがある」
 「私と...一緒にいてくれてありがとう」
 「私に...生き方を教えてくれてありがとう」
 「......私に マフラーを巻いてくれて ありがとう」

 そして、エレンは再び立ち上がるのです。「そんなもん何度でも巻いてやる」と言い放って。「世界の残酷さ」が頂点を迎え、もはや世界には死の絶望しかないように見えても、まるで世界の搾りかすのように、「大切な人とのつながり」だけはそこに残っている。そして、そのおかげで人が立ち上がれるんです。これが、「世界の美しさ」です。これこそが、「世界の残酷さ」に抗うための、ささやかながら、しかしこの世に人間がいる限り決して消えはしない、無尽蔵のエネルギー源なのです。

マフラー

2. 世界の残酷さにどう抗うべきか② -世代を重ねること―

 もう一つ『進撃の巨人』が提示する「世界の残酷さ」への対抗策は、もう少し実践的なものです。すなわち、「世代を重ねること」です。
 例えば、エレンがトロスト区の壁を防ぐため、巨人化して岩を運ぶシーン。この作戦の開始前、正しく機能するかもわからない「人間兵器」エレンを守るために出撃するのを拒む兵士に、指揮者は叫びます。

「では!どうやって!!人類は巨人に勝つというのだ!!」
「人を死なせずに!巨人の圧倒的な力に打ち勝つにはどうすればいいのか!!」
「そんな方法知っていたらこんなことになっていない だから...俺たちが今やるべきことはこれしかないんだ あのよくわからない人間兵器とやらのために、命を投げ打って、健気に尽くすことだ」
「これが俺たちにできる戦いだ...俺たちに許された足掻きだ」

 この叫びに応えて、兵士たちはエレンが岩を無事運ぶために自ら囮となり、そして巨人に食べられていくのです。
 彼らはなぜ、自らの死が半ば約束されているにもかかわらず、エレンを守るために、巨人との戦いに身を投じることができたのでしょうか?それは、エレンの存在が、将来の人類の勝利の可能性につながるからです。
 実際、人々は多大なる犠牲の上に、巨人を殺す方法(うなじを刈ること)を発見し、巨人を殺すことができるようになりました。立体起動装置も、これまでの技術者の知恵が集積されて完成された、人類唯一の対巨人攻略兵器です。人は世代を重ねることで、その知識を、技術を高めることができるのです。しかし、我が身可愛さに戦うことをやめてしまったら、その時点でその知の集積、技術の進歩はストップします。自分が巨人に勝てないことはもちろん、将来にわたって人類が巨人に勝てないことも確定します。
 だからこそ人間は、自らの死が約束されている「残酷な世界」にあえて身を投じることに、意義を見出すことができるのです。自分は巨人に勝てないかもしれない。でも、自分が戦いに身を投じることで、エレンを守ることができ、その結果、将来人類は巨人に勝てるかもしれない。だから、「世界の残酷さ」に抗うことができるのです。

3. 『鬼滅の刃』が受け継ぐ、「世界の残酷さ」への抵抗

 「世界の残酷さ」にどう抗うべきか。それの問いに対して『進撃の巨人』が提示したのは、「大切な人とのつながり」という「世界の美しさ」を原動力にすること、そして、「次に世代につなぐこと」の意義を認識することの2点だったのです。

 その『進撃の巨人』の答えを受け継ぎ、「世界の残酷さ」に抗う者たちを描いた新たな作品が、最近歴史的大ヒットとなりました。そう、『鬼滅の刃』です。
 『鬼滅の刃』はご存知のとおり、人を食らう「鬼」なる存在を倒すため奮戦する、炭治郎ら鬼殺隊の剣士たちを描く物語です。一人の鬼により多数の兵士が容赦なく命を落とし、主要キャラすらその例外ではないその物語のハードさは、『進撃の巨人』に勝るとも劣らないものです。

 そんな容赦のない「残酷な世界」で、なぜ炭治郎は戦うことができるのでしょうか。
 ここで注目したいのは、炭治郎の戦う直接的な目的は、鬼を滅ぼして世界を変えるとか、できるだけ多くの人間を救うとか、そういうものではないということです。彼が戦う一番の目的は、ひとえに、鬼となった妹、禰󠄀豆子を人間に戻すことなんです。炭治郎の戦いは、やがて全ての元凶である鬼舞辻無惨の打倒につながり、その戦いは、多くの人間を救う広い意義を持つことになるでしょう。しかし彼の戦う一番の理由は、妹を人間に戻すという、非常に個人的な「大切な人とのつながり」なのです。そしてだからこそ、竈門炭治郎は決して諦めない。どんなに傷ついても、どんなに絶望的な状況にあっても、どんなに「残酷」な世界にあっても、禰󠄀豆子がいるかぎり、彼が戦う力は決して尽きないのです。(『鬼滅の刃』第1話のサブタイトルが「残酷」であるのは、非常に示唆的です。)

鬼滅

 そして、そんな炭治郎を支える鬼殺の技術は、左近次さん、そしてお父さんという前の世代から受け継いだ、特殊な呼吸術。その左近次やお父さんも、その呼吸法をさらに前の世代から継いでいます。鬼を狩る刃は、人が世代を重ねて継ぎ、改良を重ね、多様化させ、そして繰り返し研がれてきたからこそ生まれた、必殺の刃なのです。その中の誰かが鬼の恐怖に屈し、戦いを諦めていたら、炭治郎が、柱の強者たちが使用する呼吸法は、おそらく生まれてこなかったでしょう。だからこそ彼らは、たとえ自分が、自分の世代が鬼舞辻無惨を殺すことができなくとも、戦い続けるのです。自分の世代がそれを達成できなくとも、先人たちが自分たちにしてくれたように、自分たちも次の世代につないでいく。そのこと自体に、大きな意味があるのです。そうすることで、きっと自分たちの子孫は、平和で幸福な世界を手に入れることができるのです。
 そう、『鬼滅の刃』は『進撃の巨人』とは違ったアプローチで物語を語りつつも、それが提示するテーマは、非常に『進撃の巨人』とリンクしているのです。

4. 「戦う理由」のパラダイムシフト

 このように、10年代の作品における主人公らの戦いを振り返ってみますと、ゼロ年代と10年代とを分ける違いの本質が見えてきます。

 前項Ⅰ-1では、ゼロ年代と10年代とを分けるポイントとして、以下の物語の条件A、Bを満たしているか否か、という基準を提示しました。

【条件A】 世界が苦しんでいる元凶が特定されていること
【条件B】 キャラがその元凶を取り除く能力を持つことができること(≒主人公補正)

 この条件A、Bを満たす「理不尽な世界」がゼロ年代の世界観であり、この条件A、Bを満たさない「残酷な世界」が10年代の世界観である。これがⅠ-1での議論でした。
 ですが、このゼロ年代、10年代の世界観の違いの奥底には、より本質的な両者の相違点、すなわち「主人公はなぜ戦うのか」という哲学の違いが隠れているのです。それはどういうことか。

 繰り返しますが、ゼロ年代が主人公に求めるのは、「世界の理不尽さ」に真正面から抗うことでした。確かに世界は不条理で、自分の思い通りにはいかない。ならば、そんな世界は変えてしまえ!そのための力(例:デスノート、ギアス、セイバーとの出会い)だけくれてやる!これが、ゼロ年代が提示する、「世界の理不尽さ」への対抗策です。
 一方、『進撃の巨人』や『鬼滅の刃』は違います。これらの作品は、世界に抗う力を、容易に主人公らに与えてくれないのです。だから、主人公らは世界にほとんど勝てない。主人公らはただひたすら消耗し、メインのキャラも命を落としていく。そんな物語が展開されていきます。
 では、『進撃の巨人』や『鬼滅の刃』は、90年代のセカイ系と同じように、主人公の引きこもりを許容するのでしょうか?シンジくんのように、戦いから逃げてしまう主人公を描く方向に回帰するのでしょうか?違います。『進撃の巨人』や『鬼滅の刃』は、主人公に、身の回りの人々へと目を移させるのです。自分より後の世代の人々の存在を意識させるのです。そして、こう言うのです。「お前は世界には勝てないかもしれない。しかし、お前が戦わなかったら、お前の大切な人はどうなるのか?やがて生まれてくるお前の子供たちはどうなるのか?ならば、たとえ勝ちの目が見えなくても、立ち上がれ!戦え!」と。
 そう、『進撃の巨人』は、10年代の作品は、主人公の戦う主目的を、「世界を変える」というマクロなものから「愛すべき者を守る」というミクロなものへとシフトさせたのではないでしょうか。極論、世界は救えなくてもいいんです。自分に世界は救えない。けれども手をこまねいているだけだったら、この世界は愛すべき者を苦しめる。なら、もう主人公は戦うしかないんです。たとえ歯が立たなくとも、世界を変えられなくとも、愛する者が苦しんでいる、その事実だけで、主人公はその愛ゆえに、立ち上がる以外の選択肢を持たないのです。そしてその愛は無尽蔵なエネルギー源となり、弱き主人公らの心をずっと支え続ける。だから、彼ら彼女らは戦い続けることができるのです。そして何よりその愛のドラマは、私たちの心を打つのです。

画像4

 これこそが、『進撃の巨人』の、10年代の作品の「発明」です。ゼロ年代の作品は、セカイ系で引きこもってしまった主人公を再び戦いへと引きずり出すために、主人公らに力を与えました。しかし10年代は、主人公らが力を持たずとも、勝ち目がなくとも、愛すべき者を守る、そのためだけに立ち上がることができることを発見した。だから、物語の条件A、Bは放棄できるようになった。そしての戦いが、もはや「世界を変える」ことに現実味を感じていない10年代の私たちの心を、かえって引きつけることができた。この「愛の力の発見」ともいうべき発明が、ゼロ年代とは違った、10年代の私たちの心を掴む作品群の地平を拓いていくこととなるのです。

5. 次回予告

 『進撃の巨人』がゼロ年代から受け継いだもの、そして新たに発明したものをそれぞれ特定したところで、次回より本記事シリーズ第Ⅱ章へと入っていきます。Ⅰ章は本作とゼロ年代の関係を主に論じましたが、Ⅱ章で論じるのは、本作と10年代の作品群との関係です。

 『進撃の巨人』は、世界に抗う目的においてパラダイムシフトを起こし、10年代の地平を拓きました。しかしこの「発明」は、まだ10年代という新時代のスタートでしかありません。『進撃の巨人』はその物語の中盤で、この「大切な人を守る」ための戦いというものの意味を、さらに先鋭化させていくこととなります。そしてその先鋭化の先にたどり着いたテーマ性こそ、10年代の作品群の一つの核となっていく概念、すなわち「自分らしく、好きなように生きる」ことであるのです。
 そんなお話を、Ⅱ章では進めていきたいと思っています。よろしくお願いします。


(8月11日追記)

次記事を公開しました! →【『進撃の巨人』論Ⅱ-1】『進撃の巨人』中盤が10年代にもたらす、「自分らしく、好きなように生きる」という大命題


この記事が参加している募集

マンガ感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?