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【『進撃の巨人』論Ⅱ-1】『進撃の巨人』中盤が10年代にもたらす、「自分らしく、好きなように生きる」という大命題

※ 本記事は、記事シリーズ「『進撃の巨人』論 ―『進撃の巨人』が継いだもの、生んだもの、残すもの―」の記事です。

 不定期でお送りしている記事シリーズ「『進撃の巨人』論」、本記事よりⅡ章に入ります。ゼロ年代と本作の関係を論じたⅠ章に続くⅡ章のタイトルはずばり、以下のとおりです。

『進撃の巨人』が10年代にもたらしたもの ―「自分らしく、好きなように生きる」ススメ―

 

 Ⅰ章では、ゼロ年代の世界観を比較しつつ、『進撃の巨人』が、世界に抗うことの目的を「世界を変えること」というマクロ的なものから、「大切な人とのつながり」そして「次の世代につなぐこと」というミクロ的なものにパラダイムシフトさせたというお話をしました。

 しかしながら、『進撃の巨人』は中盤、アニメでいうと第2期(2017)の展開に差し掛かると、エピソードの性質を少しずつ変えていきます。

 Ⅰ-2で言及したとおり、ミカサは、エレンらとの「つながり」を力にして、絶望的な場面でもなお巨人を前に立ち上がりました。ジャンは戦死したマルコとの「つながり」を理由に、自らを奮い立たせ、安全な憲兵団ではなく調査兵団への入団を決意しました。「大切な人とのつながり」は、彼らが立ち上がるための強いエネルギー源なのです。

 これに対し、『進撃の巨人』中盤はこう問うのです。

 そんな彼らが戦いをやめなかった理由は、本当にその「つながり」にあるのか? 彼らの戦う理由は、一面的には確かに「大切な人とのつながり」にあるが、しかし彼らの決断の真の理由は、もっと深いところにあるのではないか? と。

 この、一旦序盤でたどり着いた回答を自ら深掘りするかのような問題意識こそ、実は『進撃の巨人』中盤の展開のミソなのです。

 本項Ⅱ-1では、そのⅠ章で導いた「大切な人とのつながり」という回答の深掘りについて、詳しく見ていきたいと思います。

 まずは、本作品中盤のエピソードである、アニメ第2期(2017)、第3期前半(2018)のエピソードを振りかえります。

1. アニメ第2期、第3期前半エピソードの振り返り

 エレンたちが内地で「女型の巨人」アニと戦う一方、別班のライナーら同期兵士たちは、壁の中であるにもかかわらず、複数の巨人に遭遇。ある廃墟への籠城を強いられ絶体絶命の状態となりますが、同期兵士のユミルが巨人に変身して戦い、難を逃れます。

 巨人に変身できる新たな兵士の登場による混乱も収まらぬ中、ライナー、ベルトルトがそれぞれ「鎧の巨人」、「超大型巨人」であることを暴露、変身してエレンとユミルを連れて逃亡します。態勢を整えた兵団がこれを追うも、多数の巨人に襲撃され壊滅状態に。エレンとミカサも巨人に囲まれるが、突然エレンが「叫び」により巨人を操る謎の力を発揮。これにより調査兵団はエレンの奪還に成功します。

 ここで内地に不穏な動きが生じます。先の戦いの中で貴族の隠し子であることが発覚したクリスタ、巨人を操る力を発揮したエレンを、王政勢力が拉致。王政の人類の利益を顧みないふるまいを見たエルヴィン調査兵団団長は革命を決意し、これを成功させます。しかし、拉致されたエレンとクリスタは、隠れた真の王族であったクリスタの父、ロッド・レイスのもとに。そこで、以下の衝撃の事実が判明します。

・ 真の王族レイス家は、代々の代表者が特別な巨人の力を受け継でいること。

・ その代表者だけが、その特別な巨人の力によって、壁ができる以前の人類の歴史を知り、かつ、自分以外の人類から歴史の記憶を奪っていたこと。

・ シガンシナ区の壁が破られた夜、エレンの父グリシャが巨人に変身、ロッド以外のレイス家全員を食らい、それによりレイス家が保有していた特別な巨人の力を奪っていたこと。

・ その直後、グリシャはエレンを巨人にして自らを食わせ、その結果、レイス家の特別な巨人の力、グリシャがもともと持っていた巨人の力の双方を、今はエレンが保有していること。 

 リヴァイら調査兵団は、革命成功後ロッドからエレンとクリスタを奪還し、王家の生き残りであるクリスタ、本名ヒストリア・レイスを王とする新王政を確立させることとなります。いよいよ、ライナーらとの最終決戦、シガンシナ区の奪還、そして、全ての謎が眠るというエレンの生家の調査へ望むこととなるのです。


2. 「大切な人とのつながり」から「自分」への転換

 結論から言いましょう。

 上記の一連のエピソードが巧みに導くのは、『進撃の巨人』が序盤で標榜した「大切な人とのつながり」が、「自分らしく、好きなように生きる」というメッセージへと変質していくことです。

 この変質を最初にもたらしたのはユミルです。

 ユミルが巨人に変身する直前に語られるのは、訓練兵時代にユミルとクリスタが雪山で遭難するエピソードです。

 遭難する中でユミルは、自らの苦しい生い立ちが、王家の妾の子として生まれその存在を疎まれたクリスタの生い立ちに似ていることを打ち明けます。ユミルはクリスタを自らの境遇に重ね、クリスタのそばについていたわけです。これはまさに、この「残酷な世界」の中でユミルが見出した「世界の美しさ」、すなわち「大切な人とのつながり」にあたるように見えます。

 しかし、ユミルの言い分にはまだ重要な続きがあります。ユミルはクリスタに続けて言うのです。

ユミル

 詳細は後に明らかになりますが、ユミルは当初、ある事情であやつり人形のような人生を送っていました。しかしあることをきっかけに、第2の自由な人生を送ることになるのです。

 彼女の哲学の根本はこの過去にあります。たとえあやつり人形として始まったこの生でも、自らの手に取り戻して、自分の好きなように生きてやる。運命に、世界の在り方に決してとらわれず、自分を自分らしく発揮してやる。そうユミルは考えるのです。

 だからこそユミルは、同じく境遇に人生を歪められているクリスタを大切にするのです。

 ユミルは「自分らしく、好きなように生きる」ことを実践している。ならば、似た境遇のクリスタもそうあるべきである。だからユミルは、クリスタに「自分らしく、好きなように生きる」ことを求めいるだけなんです。
 そして、そのときユミルは、クリスタの都合や感情などを気遣うことはありません。ユミルがクリスタに手を差し伸べるのは、「自分らしく、好きなように生きる」ことの実践であって、その意味で、「相手への配慮」などユミルの辞書には無いのですから。

 そう、ユミルは何も、純な親切心からクリスタを助けているわけではありません。
 ユミルがクリスタを大切にしているのは、ユミルの「自分らしく、好きなように生きる」という生き方の産物なわけです。

 こうなってくると、本作がこれまで標榜してきたはずの「大切な人とのつながり」というテーマ性が、大きな揺らぎを見せます。

 「大切な人とのつながり」が大事なのは、「大切な人とのつながり」そのものに意味があるからではない。「大切な人とのつながり」が大事なのは、他でもなくその人を大切にしたいと「自分が思っている」からなんです。すなわちその人を大切にすることが、「自分らしく、好きなように生きる」ことの実践につながるからなんです。

 こうしてユミルの生き様は、本作序盤が標榜していた「大切な人とのつながり」というのが、実は本作の第一テーゼでもなんでもないことを暴露します。「大切な人とのつながり」など、実は「自分らしく、好きなように生きる」という命題の実践方法の一つに過ぎなかったのです。


3. 「自分らしく、好きなように生きる」ことの意義を証明した革命編

深掘り

 本作序盤が標榜した「大切な人とのつながり」の裏に隠れていた、「自分らしく、好きなように生きる」という新たな命題。

 最初はユミルが見せるだけだったかのように見えたこの命題を、『進撃の巨人』全体の本質的なテーマとして決定づけたのが、本作の中でも異色のエピソード、すなわち革命編です。

 革命編は、巨人と戦う物語であるはずの本作が初めて描いた「人VS人」のエピソードです。それゆえ読者や視聴者を困惑させた側面もあったかもしれません。しかし、「自分らしく、好きなように生きる」ことが本作の真のメインテーマであることを明らかにした点で、革命編は本作に欠かせないエピソードになっているのです。

 例えば、革命編クライマックスで、王家の巨人の力を取り戻すべく、クリスタの父ロッドがクリスタに、巨人になってエレンを食べることを求めた場面。

クリスタ

 壁の中の安定を思うならば、その王家の力を十全に発揮できないエレンではなく、王家であるクリスタがその力を持つほうが望ましいのです。しかしクリスタは、ユミルが巨人に変身する直前に残したこの言葉を思い出します。

 「お前...胸張って生きろよ」

 そして、クリスタは父を拒絶するのです。クリスタは叫びます。「もう!これ以上...私を殺してたまるか!!」と。クリスタは内地の安定よりも、自分の生まれという縛りからの脱却、「自分らしく生きる」ことを選択し、劇的な再会を遂げた父に逆らうことを決断するのです。

 また、ロッドの護衛だったケニーの生き様も同様です。

 ケニーはロッドの忠実かつ強力な部下として、リヴァイたちの前に立ちはだかります。しかし、彼は何もロッドと同じように世界の安定を望んでいたわけではありません。ケニーは実は、王家の巨人の力を土壇場で横取りすることを狙っていたのです。というのも、親友と同じ景色を彼は見てみたかったのです。ケニーは、かつての王家の巨人の力の保有者、ウーリの親友でした。ウーリのその全てを達観したような、慈悲深い、孤独な目に映る景色が知りたくて、彼はウーリと同じ、王家の巨人の力の保有者になろうとしていたのです。その思いは、世界をどうにかしたいとか、そういう大義ではありません。あまりにも、個人的な友情なのです。

 極めつけは、この革命の首謀者、エルヴィン団長です。

 エルヴィン団長は革命の成功後、ザックレー総統に対し、人類の存族だけを目的とするなら、革命を起こさず、エレンを犠牲にして、王家による内地の安定を優先したほうがよかったことを認めています。

 では、なぜエルヴィンは革命を起こしたのでしょう?エレンを救いたかったから? 違います。革命を起こしたほうが、長期的に見たら人類のためになったから? 違います。

 それは、彼は子供のころから、この世界のありようを明らかにすることが夢だったからです。なぜ巨人が存在するのか?なぜ100年以上前の歴史は不明なのか?そんな世界の謎を解き明かすためのカギとしてエルヴィンは今、エレンの生家の地下室という最高の手がかりを手にしています。この手がかりを失わないために、彼は革命を起こし、エレンを奪還したのです。彼個人の夢のために、彼はともすると、人類の存続を危ぶませたのです。

 そう、この革命の主要人物は、実は誰も、世界の存続や人類の救済のために動いていないんです。みんな、極めて個人的な願望、意志に従って、自分のやりたいことをやっている。そのことが、この革命編を通して繰り返し語られていきます。
そしてそんな革命が、結果的には成功を収め、人類の勝利へとつながっていくわけです。革命について、ハンジは言います。

「変えたのは私たち(調査兵団)じゃないよ。一人一人の選択がこの世界を変えたんだ」
   
 革命編の主要人物は、世界を変えるためではなく、ユミルと同じく「自分らしく、好きなように生きる」ために動いている。そのバラバラではあるものの極めて強いエネルギーが集積して、確かに巨人への勝利という目標の達成が、大きく近づいたのです。世界が変わり始めたのです。


4. 「自分らしく、好きなように生きる」という大命題の発露

テーマ全体図

 かくして、『進撃の巨人』のテーマは、中盤にしてその核を露わにします。

 Ⅰ章で見てきたとおり、本作序盤が標榜した命題は、「大切な人とのつながり」です。このつながりはあったからこそ、ミカサは一度は諦めた自分の心を奮い立たせ、ジャンは恐怖を押し殺して調査兵団に入団することができたのです。

 しかし、ユミルとクリスタのエピソードは、「大切な人とのつながり」という命題が、実は「自分らしく、好きなように生きる」ことのやり方の一つに過ぎないことを暴露します。そして革命編における革命の成功は、クリスタやケニー、エルヴィンたちのその「自分らしく、好きなように生きる」生き様の力を証明したのです。

 そう、私たちは「世界を変える」ために戦わなくてもいい。残酷な世界の中で、必ずしも「大切な人のつながり」のために戦わなければならないわけでもない。自分のために「自分らしく、好きなように生き」ていいんです。なぜなら、そのバラバラな力を重ね合わせることで、残酷な世界は確かに変わっていくのですから。

 この発見こそが、原作で2012年から2015年にかけて描かれたユミルとクリスタの活躍、そして革命編があげた成果なのです。


5. 「自分らしく、好きなように生きる」ことによる物語の再起動

 この『進撃の巨人』の「発見」は、ゼロ年代の終わりにストップしかけた物語の歩みを、再び進ませる決定打となります。

 Ⅰ章で論じたとおり、ゼロ年代における世界の理不尽さからの影響、そして私たち読者の現実世界に対する無力感に背中を押される形で、10年代にかけて、物語における世界の「残酷さ」はますますその程度を強めます

 そうなってしまうと、世界を救う存在になるべく、「主人公」として物語にクローズアップされた者たちですら、世界を救う力を持たなくなってしまうんです。『進撃の巨人』が兵士を容赦なく巨人の腹の中に落とすように、世界があまりに残酷すぎて、主人公たちですら世界の有り様をどうすることもできない。だから主人公は武器をとることを諦め、物語が動かなくなってしまうのです。

 そんな残酷な世界でも生きることができるように、主人公らに「生きがい」が見つかるように、『進撃の巨人』が、ユミルや革命編がたどり着いた答えが、「自分らしく、好きなように生きる」ことでした。
 必ずしも世界に向き合わなくてもいい。自分のために生きてもいい。そう物語が主人公らにささやきかける。そうすることで、世界の残酷さにくじけかけた主人公らは、再び立ち上がることができるようになったのです。

比較表


 「自分らしく、好きなように生きる」という命題をもって、主人公らを「自分たちが世界を救わなければならない」という呪縛から解き放ち、主人公らが「自分」という概念に全てを注ぐことを承認する。
 物語は「自分vs世界」という構図から脱却し、ここに再起動するのです。


6. 次回予告 ~「自分らしく、好きなように生きる」ことに始まる10年代の物語の広がり~

 『進撃の巨人』が10年代前半に到達した「自分らしく、好きなように生きる」というテーマ。

 このテーマはその後、歴史的に非常に大きな意義を持つことになります。
 というのもこのテーマは、10年代の一見バラバラで多様な命題を抱えた物語群をつなぐ、10年代の物語の根幹ともいえる命題になっていくからです。

 言い換えると、10年代が生んだ様々な物語は、それぞれ独立して自然発生したものではなく、「自分らしく、好きなように生きる」という命題を共通の祖先にして、カンブリア大爆発のような進化を遂げたものである、そう解釈することができるのです。
 『進撃の巨人』は、Ⅰ章で論じたとおりゼロ年代からの脱却に成功しただけでなく、10年代というフィールドの方向性をも提示することになるわけです。

 ということで次項Ⅱ-2では、少し『進撃の巨人』という作品そのものからは離れ、本作が提示した「自分らしく、好きなように生きる」というテーマが、その後いかに10年代の多様な物語の起点となっているかについて、具体的な作品名を挙げつつ詳しく見ていこうと思います。

(つづく)

(2020年9月14日更新)次項Ⅱ-2、公開しました!

【『進撃の巨人』論Ⅱ-2】「自分らしく、好きなように生きる」ことが導く、10年代作品群のカンブリア大爆発

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