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【『進撃の巨人』論Ⅰ-1】ゼロ年代最終盤、『進撃の巨人』の「残酷」はなぜ私たちの心を掴んだのか

※ 本記事は、記事シリーズ「『進撃の巨人』論」の記事です。詳しくは本記事シリーズ案内「『進撃の巨人』論 ―『進撃の巨人』が継いだもの、生んだもの、残すもの―」参照。

 『進撃の巨人』が生まれたのは2009年。そう、ゼロ年代の最終盤です。

 世界の理不尽さに引きこもる主人公を描いたセカイ系が席巻した90年代。そんな時代を継いでゼロ年代が切り拓いたのは、そんな理不尽な世界を受け入れて、その中を力強く生き抜いていく物語である、と言われることがままあります。伝統ある仮面ライダーにバトルロワイヤルを導入し、主人公をそこに放り込んだ『仮面ライダー龍騎』(2002)。同じくバトルロワイヤルを描きつつ、「正義の味方」という概念に疑問を付して世界の不義を露わにした『Fate/stay night』(2004)。自らの中に悪を引き入れてまで世界に抗おうとした『DEATH NOTE』(2003)、そして『コードギアス』(2006)。これらは全て、理不尽な世界に抗い生き残る主人公を描いた、この時代の傑作です。
 その時代の終わりに生まれた『進撃の巨人』が序盤からノンストップで描くのは、やはりゼロ年代のメソッドを踏襲した「理不尽な世界」。巨人が人間を食べ、人間が容赦なく死んでいく理不尽さ極まる世界と、それに抗うエレンたちの戦いは、従来の作品と比較してもさらにハードな物語となり、ゼロ年代の傑作を享受してきた多くの読者の心を、やはり鷲掴みにしてみせます。そして、ヒット作としてスピードダッシュを見せることとなるのです。

  しかし、ここで問いたいことがあります。
 果たして『進撃の巨人』の序盤の魅力は、ただゼロ年代を踏襲しただけのものなのでしょうか? であるならば、本作は「ゼロ年代最後の名作」ではあっても、「10年代を代表する傑作」にはならなかったはずです。本作が一歩進んで「10年代」という世界を拓くに至ったのは、本作がゼロ年代とは異なる何かを、その内側に秘めているからではないでしょうか。
 そこで本記事では、「理不尽な世界」を描いた『進撃の巨人』序盤が、いかなる構造で「理不尽さ」なるものを表現したのか、そのメカニズムについて考えていきたいと思います。そのメカニズムを考えていくと、この『進撃の巨人』という作品が、ゼロ年代をしっかり踏襲しつつも、実はゼロ年代とは異なるものを奥底に抱えていることが、わかってくるのです。そんなお話をしていきたいと思います。

 まずは、『進撃の巨人』序盤(2009~2012、アニメ第1期)のエピソードを振り返ってみましょう。

1. 『進撃の巨人』序盤(2009~2012)の振り返り

 人を食らう「巨人」によって残りわずかとなった人類が、巨人を阻む3重の壁で囲まれた狭い領域に閉じこもっている世界。エレン、ミカサ、アルミンはその外縁地域シガンシナ区で日常を送っていましたが、ある日、壁の高さを超える「超大型巨人」が現れて壁を破壊、巨人が壁の中に侵入してしまいます。そしてエレンの目の前で、エレンの母が巨人に食べられてしまうのです。エレンは巨人を「駆逐してやる」と決意し、この壮大な物語がスタートします。
 その5年後。エレンは兵団学校を卒業し、人類を守る兵士となっていました。そんな中、エレンら新人兵士が集まったトロスト区に、5年ぶりに「超大型巨人」が現れ、壁を破壊します。侵入した巨人たちとの戦いを余儀なくされたエレンですが、巨人に捕まったアルミンを救うため、巨人に食べられてしまうのです。他の兵士も苦戦し、ミカサも巨人に食べられそうになる厳しい状況に陥りますが、その時、人を食べず、巨人に攻撃する謎の巨人が出現します。この巨人の出現によりミカサたちは難を逃れますが、ほどなくこの巨人が、エレンが無意識に変身したものであることが判明します。巨人に変身できる人間の出現に混乱が生じながらも、エレンはその巨人の力を活かして、巨大な岩で壁の穴を防ぐことに成功、トロスト区を奪還したのです。
 その後エレンはその力を買われ、壁の外を調査する調査兵団に配属されます。そして初の調査に挑みますが、知能を持つ「女型の巨人」に遭遇、兵団は壊滅的な被害を受けます。しかしアルミンの機転により、この「女型の巨人」の正体が同じ兵士のアニであることが判明。エレンは女型の巨人と再戦しこれを撃破しますが、アニは巨人の力を利用して自ら作り出した結晶の中に閉じこもり、巨人への変身の謎は、依然闇の中となりました。

2. 「世界の残酷さ」

 『進撃の巨人』序盤のエピソードがあぶり出すもの。それは、世界を救うために戦う者たちに立ちはだかる、目を背けたくほどの「世界の残酷さ」です。

 本作序盤のストーリーは凄惨の一言です。トロスト区の壁が破られ、エレンら訓練兵は意気揚々と初陣に臨みますが、エレンと同じ班だった同期のトーマス、ナック、ミリウス、ミーナは、わずか原作にして10ページのうちに全滅します。そしてその直後に、主人公であったはずのエレンすら食べられてしまうのです。そして、それを見て呆然自失として逃げるアルミンが遭遇するのは、恋仲だった兵士のハンナとフランツ。ハンナは倒れるフランツの意識を戻すために半狂乱になって心臓マッサージをしているのですが、フランツの下半身はもう無いのです。
 また、巨人化したエレンが壁の穴をふさぐべく岩を運んでいる最終局面でも、岩を運び無防備な状態のエレンを他の巨人から守るべく、他の兵士は囮として巨人を引きつけ、多くがそのまま巨人に食べられていきました。兵士たちにできることは、エレンという人類唯一の希望の存続のために、命をなげうつことだけだったのです。

エレン足

 なぜ人類はこのような犠牲を払わなければならないのでしょうか?なぜ人類は何も悪いことをしていないのに、このような目にあわなければならないのでしょうか?
 ここで重要なのは、この『進撃の巨人』という作品が、その問いに対して一切の答えを提示せぬまま、ひたすらキャラの命を湯水のごとく消費し続けることです。『進撃の巨人』はこう言います。カマキリは蝶を狩り、人は獣を狩る。それと同じように、巨人は人間を狩る。この世界はそういうものであるのだと。別に人類が悪いわけじゃない。人類が巨人に食べられなければならない理由もない。でも、巨人は人間を食べること、それはもう動かせない事実なのであって、それをそのまま受け入れるしかない。そんなことを『進撃の巨人』は説きながら、ひたすらキャラを殺していくのです。

残酷

3. 「世界の残酷さ」のメカニズム

 これははっきり言って異常です。なぜ異常と言えるのか。これを説明するために、少し一般論についてお話します。
 一般的に、ある物語おいてキャラが世界を救うために戦うことを決意するとき、その物語は、以下の2点条件を満たしておく必要があります。

【条件A】 世界が苦しんでいる元凶が特定されていること
【条件B】 キャラがその元凶を取り除く能力を持つことができること(≒主人公補正)

 なぜ条件A、Bが必要なのか。まず条件Aが満たされていないと、キャラは世界を救おうにも、いったい何から手をつければいいのかわかりません。また、条件Bが満たされていないと、キャラがこれから戦いに勝ち続け、ラスボスまでたどり着くことに説得力が生まれません。例えば弱いキャラが、特に根拠のないラッキーパンチで敵に勝ち続けて世界を救っても、読者たちは納得できないでしょう。条件A、Bは、世界を救う戦いを描く物語の、いわば背骨となる要素なのです。
 例えば、ドラゴン=クエストのような世界(いわゆる「異世界」)では、勇者は、魔王のせいで世界が苦しんでいるとわかっているからこそ、魔王を倒す旅に出るのです。これで条件Aがクリアされます。また、他の冒険者ではなく、その勇者が確かに魔王を倒せる理由を示すために、例えばその勇者がかつて世界を救った英雄の子孫で特殊な能力を持っているとか、特殊な武器を使えるとか、そういう設定を用意します。これが条件Bです。条件Bは「主人公補正」という言い方で揶揄されることもありますが、主人公が戦いに勝ち続けることにしっかり説得力を持たせるには、ある程度の主人公補正は必要なんです。

 しかしながら『進撃の巨人』は、この世界を救う物語の背骨たる条件A、Bを、少なくとも序盤は一切満たさずに物語を展開させていきます。繰り返しますが、なぜ人間は巨人に食べられなければならないのか、そもそも巨人とは何なのか、本当に巨人こそがこの世界の苦しみの元凶なのか、そういった情報が一切開示されないまま、この『進撃の巨人』という物語は進んでいくのです。つまり、条件Aがクリアされていないのです。また、人類が自分よりも数倍大きい巨人たちに勝利できる理由やその希望も、少なくともエレンの巨人化能力が発覚するまでは、一切存在しません。条件Bも満たしていないのです。

勝てない

 では条件A、Bという、世界を救う物語のエンジンを欠いたまま、どうして『進撃の巨人』という物語は駆動することができたのでしょうか。どうしてキャラたちは、世界を救うために戦うことができたのでしょうか。
 答えはシンプルです。戦わなければ死ぬからです。巨人がどこから来たのか、巨人を倒せば本当に世界は平和になるのか、何もわからない。そして、巨人との戦いに勝てる理由もない。けれども、戦わなければ死ぬから戦うしかない。この不条理こそが、『進撃の巨人』というの物語序盤の構造なのです。

 このことを、本作は「この世界は残酷だ」という言葉で表現します。ミカサが巨人に食べられそうになったとき、ミカサは「この世界は残酷だ」と吐露します。また、仲間だったアニが女型の巨人であることを受け入れられないエレンと、アニと戦おうとするミカサの会話も、以下のとおりです。

  エレン「な...何で お前らは...戦えるんだよ」
  ミカサ「仕方無いでしょ?世界は残酷なんだから」

 エレンは、アニが本当に敵なのか、話し合いの余地はないのか、まだ判断することができません。アニこそが世界の苦しみの元凶なのか判断できず、エレンの中で、まだ条件Aがクリアされてないんです。でも、とにかくアニに殺されないようにするには、たとえかつての仲間であっても、アニと戦うしかない。そんな理不尽さを、ミカサは「世界は残酷なんだから」という言葉で言い表すのです。

4. ゼロ年代の「理不尽さ」と、『進撃の巨人』の「残酷さ」

 以上が、『進撃の巨人』が示す「世界の残酷さ」です。進撃の巨人は、物語の必須条件たるA、Bを満たすことなく物語を加速させていく。これこそが、本作の凄惨な「世界の残酷さ」を支える、メカニズムなのです。

 ここまで考えてくると、この『進撃の巨人』という作品が示す「世界の残酷さ」が、実はゼロ年代が示す「世界の理不尽さ」とは似て非なるものであることが、だんだんとわかってきます。

 ゼロ年代は、セカイ系とは裏腹に、思い通りにいかない理不尽な世界を受け入れて、その世界に何とか抗っていく物語です。その構造は、巨人という恐怖の存在に一生懸命立ち向かっていく『進撃の巨人』と重なるものであり、その意味で、確かに『進撃の巨人』は、ゼロ年代から「理不尽な世界への抵抗」という支柱精神を継いでいます。
 しかし、上記で挙げた物語の条件A、Bを導入すると、その両者の関係の見え方が変わっていきます。例えば『DEATH NOTE』(2003)。主人公である八神光は、この世界の理不尽性の原因を「犯罪者の存在」と特定し、それを取り除く力としてデスノートを保有、これを行使していきます。世界を苦しめる元凶が何であるのかが判明しており、それを取り除く超人的な力を、八神光は持っているのです。『コードギアス』(2006)も同様です。主人公のルルーシュは、母を殺し、妹を苦しめるその罪を神聖ブリタニア帝国に見定め、C.C.から賦与された「ギアス」を利用して蜂起します。彼も、母を、妹を、そして自分を苦しめる存在を確信しており、かつ、それに抗える強力な能力を持っているんです。
 そう、ゼロ年代の作品は、理不尽な世界を描きつつも、物語の条件A、Bはしっかり満たしているのです。世界を苦しめる元凶、それに抗える力を用意しつつ、その上で、厳しい戦いに主人公たちを放り込む。それが、ゼロ年代の作品における『理不尽さ』なのです。
 一方、『進撃の巨人』がその条件A、Bすら満たさず物語がスタートする。これこそが、他でもなく『進撃の巨人』とゼロ年代を分かつポイントです。このセオリー破りこそが、『進撃の巨人』を「ゼロ年代最後の名作」に留まらず「10年代を代表する傑作」というスターダムへと駆け上がらせ、ゼロ年代とは一線を画する「10年代」という地平を切り開いていくカギとなっていくのです。

5. 「世界の残酷さ」と10年代の私たち

 なぜ『進撃の巨人』のそのようなセオリー破りが、私たちの心をこれまでにない形で掴み、「10年代」という地平を拓いたなどと言えるのか。それは、物語の基本フォーマットである条件A、Bを満たさない物語というのが、むしろ現代の私たちの心象に合致してしまったからではないか、そう私は考えます。

 私たちの社会は、数多くの問題を抱えています。成長が鈍る経済、広がる格差、様々な社会問題...経済や社会がおせおせで前進していた時代は終わり、私たちはその時代の置き土産としての多くの課題に直面しています。一方で、10年代の私たちはインターネット等の発達で、現在私たちが抱えている問題の内容を、時にSNSで、時にネットニュースで、身近に目にすることができるようになりました。私たちの世界の問題は増加し、複雑化する一方で、私たちの世界に対する視野は、大きく広がっているのです。
 その結果何が起こるでしょうか。私たちは、この世界の広さと複雑さに、圧迫されるようになってしまうのです。問題は増え続けており、ますます複雑になっている。そして、いかんせんネットのせいで、そのことが嫌でも感じ取れてしまう。この世界には様々な問題があることだけはわかるが、その問題は複雑すぎて、その原因はわからない(条件Aがクリアされない)。そして、問題が大きすぎたり、多すぎたりして、自分にはどうすることもできない(条件Bがクリアできない)。そんな無力感が、私たちを覆いつくそうとしているのです。そう、条件A、Bを満たさない物語とは、私たちの世界そのものなのです。
 私たちは、ゲームの中で、世界を征服する魔王を倒し、世界を救う勇者に憧れを抱きます。でも、もはや私たちは、勇者に自分を投影することはできないのです。もう、私たちに世界を救う術はわからず、世界を救う力もないのですから。

 そんな私たちの前に姿を現したのが、『進撃の巨人』だったのではないでしょうか。『進撃の巨人』は、条件A、Bを無視した物語を提示することで、世界の残酷さ、そしてその世界に対する個人の無力を暴露します。そしてその世界観とは、今の私たちの、世界に対する姿勢そのものなのです。しかしそんな世界観のなかでも、理不尽に抗い、必死に戦うエレンたちがいる。そう、私たちはこの世界に諦めを感じようとしているのに、さらに厳しい世界にいるエレンたちは、戦っているのです。そんなエレンたちを見て、私たちが心を震わせられないことがありましょうか?
 私たちは、もはやゲームの世界の勇者に自己を投影することは難しいのかもしれません。そんな中で、私たちと同じ、いや、私たちよりもはるかに理不尽な世界にいるエレンこそ、現代の私たちにとっての新たなヒーロー像となったのではないでしょうか。

戦え

6. 次回予告

 以上、『進撃の巨人』のテーマ性について、ゼロ年代から10年代へのシフトという観点から検討してみました。『進撃の巨人』は、旧来の物語のフォーマットをぶち破っていく形で、10年代という新たな時代を切り拓いていったのです。
 では、本作は世界の「残酷さ」という新たな概念を提示したものの、その「残酷さ」にいかに抗うか、その解決策は示してくれなかったのでしょうか。
 いいえ。本作はその物語の中で、しっかりと「世界の残酷さ」への対抗策を提示しています。そしてその対抗策を検討していくと、ゼロ年代から10年代への「物語」のシフトについて、本記事で解き明かした「物語のフォーマットを守っているか否か」以上の、本質的な性質が見えてくるのです。
 次回は7月後半の更新予定。忘れたころにやってきます!お楽しみに!

(7月19日追記)

次記事を公開しました! →【『進撃の巨人』論Ⅰ-2】「世界の残酷さ」に抗う方法と、10年代を拓く「戦う理由」のパラダイムシフト

(終わり)

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