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【『進撃の巨人』論Ⅲ-2】『進撃の巨人』の到達点と、20年代の物語のこれから

※ 本記事は、記事シリーズ「『進撃の巨人』論 ―『進撃の巨人』が継いだもの、生んだもの、残すもの―」の記事(最終回)です。

※ 『進撃の巨人』その他作中で言及する他作品のネタバレを含みます。

テーマ図

 本記事シリーズ『進撃の巨人』論、最終回でございます。

 前記事Ⅲ-1では、10年代の物語を支えた「自分らしく、好きなように生きること」というテーゼに続き、20年代では「バブルを破り、世界と向き合え」という新たなテーゼが掲げられる、というお話をしました。私たちは「自分らしく」に傾倒した結果、分断と対立が覆う世界を顕現させてしまった。「自分らしく」は決して罪のあることではないが、そのような憂えるべき世界が今目の前に広がっている事実は、確かなものなのです。

 そこで本作は、私たちと同じように「自分らしく」を実践してきたエレンたちに、ついに壁の外の世界と向き合わせます。そしてその様はそのまま、エレンたちと同じようにこの分断に溢れた世界と向き合え、という私たちへのメッセージにもなるのです。ここまでが、前回のお話です。

 しかし、ただ一口に「世界と向き合え」といっても、それだけで問題が解決するわけではありません。そこには、以下のように「どうやって世界と向き合えばいいのか?」という難問がついて回ります。

【問題①】いかに分断を治癒するか?

 まず当然ながら、世界と向き合うだけで世界の分断と対立がなくなりはしません。向き合うことがなんとかできたとして、次はすぐに「世界の分断をいかに治癒するか?」という難問が立ちはだかるわけです。

【問題②】せっかく10年代に残酷な世界から逃れたのに、また向き合えというのか?

 また、そもそも「世界と向き合う」こと自体が甚だ困難なことであることは、この記事シリーズを見てきた方にとっては明らかであることでしょう。というのも、10年代のテーゼである「自分らしく、好きなように生きること」自体、世界の残酷さがどうにもならない中で、個人が見出だせるせめてもの生きがいとして導入されたものであるからです。ようやく、この辛いどうにもならない世界でも生きる方法を見出したのに、そこに再度「世界と向き合え」という。それは、この残酷な世界で生きることの難しさを無視してはいないか。「いかにこの残酷な世界に向き合うか」という方法論こそが肝心なのであり、「世界と向き合え」というだけでは何の答えにもなっていないのではないか。そういう厳しい反論が返ってきてしまうわけです。

 しかしながら、私たちは既に、10年代初頭とは違う地平にいます。その違いとは、私たちは今や、「自分らしく、好きなように生きること」というテーゼを手にしていることです。10年代初頭は、世界を「個人の力ではどうにもならない残酷な世界」ととらえていました。一方今では、私たちは世界を「『自分らしく』の末に分断に溢れてしまった世界」ととらえなおしています。世界の問題をただの「残酷さ」ではなく、今や「自分らしく」という新たな観点からとらえ直していることは、私たちが世界に向き合う方法について、何か新たなヒントを与えてくれるのではないでしょうか。

 新たなテーゼ「バルブを破り、世界を向き合え」を、具体的にどう実践していけばいいのか? 20年代の新たなテーゼに答える方法を探る取り組みは、実はいくつかの傑作において既に始まっています。まずは他作品のその取組みを見つつ、最後に、『進撃の巨人』最終盤におけるその興味深い取組みについて、考えてみたいと思います。

1. 『FGO第2部 Cosmos in the Lostbelt』 ~「向き合う」ことそのものの有価値化~

ゼウス選択肢

 FGO第2部第5章『星間都市山脈オリュンポス』ゲーム画面

 スマホゲームの代表といっても過言ではないビッグタイトルとなった『Fate/Grand Order(FGO)』。その面白さは数あれど、最大の魅力の一つが、そのソシャゲ離れしたストーリーです。人類悪ゲーティアの手により焼却された人類の歴史を取り戻すため、歴史上分岐点となった7つの場所にタイムスリップし、焼却によって改変されてしまった歴史を元に戻す。その壮大な戦いを描く物語が2016年末に完結し、一気にこの作品をビッグタイトルの地位に押し上げることとなりました。

 人気作となった本作は、2017年末、新たな物語として第2部「Cosmos in the Lostbelt」をスタートさせます。これがどういうお話かといいますと、ifの歴史を持つ7つの世界線(「異聞帯」)がこの地球上に局所的に顕現し、この世界を侵略し始めるのです。そこで主人公は、その7つの世界全てを滅ぼし、もとの人類の世界を救済する戦いに身を投じます。これが、FGO第2部のストーリーです。

 そして、主人公(私たち)は一つ目の異聞帯に乗り込むやいなや、ある事実に直面し、苦しむことになります。それは、それぞれの世界には何の罪もなく暮らしている人々がいて、その世界を滅ぼすということは、彼らの命を、存在を全て奪い去ることを意味する、という事実です。主人公の「自らの世界を救う」ための戦いは、異聞帯の住人からしてみれば、ただの「侵略」でしかないという図式。これはまさに、『進撃の巨人』マーレ編が暴いた、「自分らしく、好きなように生きる」が招く歪みに一致するものです。マーレ編開始と同じ2017年に、ゲームのビッグタイトルでも全く同じ問題意識のストーリーが生まれていたというのは、非常に興味深い事実ではないでしょうか。

 では、FGOはどのようにこの問題意識に取り組むのか。否応なく外の世界と出会ってしまった主人公は、いかにその世界と向き合っていくのでしょうか。

 実のところ、本作はその問題に対し有効な回答ができないまま、他の世界を次々と滅ぼしていくことになります。

 主人公が序盤で滅ぼす世界は、圧制がしかれていたり、ある理由で人口が少数に管理されていたりと、どこか「欠けている」世界でした。ゆえにその世界を滅ぼすことに一応の「納得感」があったのですが、5つ目の世界線で、この物語は窮地に至ります。5つ目の異聞帯は、高度な文明によって人間が労働から解放され、思うがまま文化的な生活を謳歌できるようになっていたのです。まさに完全な世界であり、どう考えても、私たちの世界より高度に完成された「善き」世界でした。

 それをなぜ滅ぼすのか。なぜ滅ぼす権利があるというのか。主人公は、その世界線を司る敵からそう何度も問われます。しかし主人公は、その問いに答えることができないのです。わざわざゲームはその問いに選択肢までつけてくれているのに、その選択肢には、答えになっていないもの、あるいは的外れな答えしか表示させてくれないのです。あたかも、答えがないのが答え、と言っているかのように。

 「答えがないのが答え」。それがFGOの姿勢であることをさらに強く示唆するものとして、この作品が2020年夏ごろ全国の新聞に掲載した広告があります。FGOはその広告内で、以下のような言葉を提示するのです。

『あなたが生きる、この世界に。』
  
いつか終わるから、この一瞬は美しい。
変えられないから、その選択は尊い。

歩んできた旅路を、どうか忘れないで。
物語は、あなたのそばにあり続けるから。

 これは、私たちがこれまで歩んできた選択の、これまでもたらしてきた終わりの肯定です。私たちは(主人公は)、様々な世界線で暮らす人々と触れ合い、その世界線を滅ぼさなければならないことに苦しみ、その上で、自分たちの世界を救うために、苦渋の決断を重ねてきました。その苦しみを、取り返しのつかない決断を、この物語は肯定するのです。たとえ他人と相いれなくとも、あなたが本気で悩み、苦しみ、考え抜いた上で重ねてきた旅路であるのなら、それは祝福されるべきである。そう、この物語は言うのです。

 すなわち、FGOは「世界と向き合うこと」それ自体に価値を見出すのです。外の世界と必死に向き合いなさい、さすれば、たとえ分断のまま終わったとしても、それでいいんだ。そうFGOは言ってのけてしまうのです。

 これは一つの答えだと思います。なにより、「向き合うこと」自体にゴールを置いてしまうその考え方は、「世界をどうすることもできない」ことに苦しみを見出していた10年代の問題を、回避することができるのですから。これは上の問題②に対処できていると言うことができるでしょう。

 しかしその利点はそのまま、「向き合う」ことができた次に浮上する、「世界の分断をいかに治癒するか?」という問題に応えられていない(問題①を無視してしまっている)、という難点にもなります。FGOは「向き合うことができたら分断のままでもいいんだよ」というわけですが、これは美しい考え方である一方で、現実的にはなかなか首肯しかねるところです。Ⅲ-1で見てきたこの現実世界で発生している分断を、「世界と向き合った」という一点だけで本当に許容してしまってよいか?それにYESと答えるのは、やはり難しさが残るのです。

 ここが、FGOは物語としては一級品である一方で、20年代の問題に応えきれていない点である。そう私は考えます。

2. 『約束のネバーランド』 ~「意味」からの脱却による分断の治癒~

約ネバ 173

『約束のネバーランド』173話

 2016年~2020年に連載し、アニメ化、実写映画化と大ヒットを記録した『約束のネバーランド』。連載時期は、社会現象を引き起こした『鬼滅の刃』とほぼ重なります。しかし、『鬼滅の刃』がⅡ章までの議論のとおり10年代のテーゼを貫いた一方で、『約束のネバーランド』は、この記事シリーズの議論に則るならば、少し先の時代のテーマ性を既に取り入れていました。

 孤児院からの脱出を描く序盤の印象が強い本作ですが、テーマ性という観点では、むしろ本作の本番は中盤以降の展開です。本作は人間と、人間を必須食糧とする鬼の戦いを描く物語ですが、主人公のエマは、一部の鬼と交流するうちに、「鬼は、動物を食べている人間と本質的には変わらない存在である」、「鬼を殺したくない」という考えを持つようになっていきます。

 しかし、鬼と人間が食べる・食べられるの関係である以上、そこには必ず戦いが生まれます。人間は自分が生きるために鬼を殺さなければならないし、鬼は自分が生きるために人間を殺さなければならない。「自分のために」が招くこのシンプルゆえに絶望的な分断は、やはり『進撃の巨人』マーレ編と重なってくるものです。

 孤児院の壁の外で向き合ったこの絶望的な分断に対し、エマは思い悩み、鬼との戦いの果てについに答えを見出します。物語のクライマックスで、本作の全ての黒幕だったピーター・ラートリーに対して、エマはこう語るのです。

「もし鬼が人間を食べる生き物じゃなかったら… 人間と友達になってくれるかな」
「もし私がラートリー家に生まれたら 食用児に何かできたかな」
「もしあなたがGF(注:孤児院)に生まれたら 友達になれたのかな」
「立場が違うから争って貶めて憎みあって でもそれぞれの立場を差し引いたら… そうやって考えたら 本当は皆憎み合わなくてもいいんじゃないかな」

 エマは、「立場」からの脱却を説くのです。食べる・食べられるの関係だから、人間は鬼の全てを排除しようとするし、鬼は人間を全て狩ろうとする。そして、ピーターは鬼に味方して人間を家畜として育てるシステムを担ってきたから、エマたちはピーターと戦ってきた。でも、そういった関係性を一旦排して、相手の人格、存在そのものを見たら、憎むべき対象ではないのではないか。手を取り合う余地があるのではないか。そう、彼女は言うのです。

 これを現実世界に即して言うなら、エマは、カテゴリーの持つ「意味」からの脱却を唱えています。というのは、エマのいう「立場」とは、この世界に即して言うなら主義や性別、人種に相当する概念です。本来こうした概念は思想や生物学的特徴を分類する以上の意味は持ちません。しかしこれらのカテゴリーは、時にそれ以上の不当な「意味」を帯びる。そして、他者を見るとき、どうしても私たちは、その他者が属するカテゴリーの不当な「意味」を参照してしまうのです。

 黒人が何か怪しい動きをしていたら、それを犯罪行為とみなして発砲・銃殺してしまう。「黒人は犯罪者だ」というカテゴリーの「意味」のせいです。女性が職場にいたら、複雑な仕事をさせずお茶くみくらいしかさせない。「女性は難しい仕事には向いていない」というカテゴリーの「意味」のせいです。ヨーロッパにあるアジア料理店が、コロナに汚染されているとして器物破損などの被害を受けてしまった。「アジアはコロナで汚染されている」というカテゴリーの「意味」のせいです。こうした「意味」を祓い、他者の内実そのものを見よ。それこそが、この作品でエマが到達した答えなのです。

 この答えはFGOの答えと違って、世界と向き合ったその次にある、「世界に分断をいかに治癒するか?」という問題(問題①)に応えています。分断が起こるのは、人々の認知におけるカテゴリーの「意味」のせいである。だから、それを排することで、世界は分断から脱却できる。これは筋が通っており、20年代のテーゼを実践する一つの在り方だと思います。

 しかし、ここで付言しておきたいのは、その答えを導いた『約束のネバーランド』自身が、その答えの実践の難しさを認めてしまっている(問題②への答えを見いだせていない)ことです。本作では、世界が人間の世界と鬼の世界に分かれており、エマたちは、鬼の世界に食糧として取り残された人間でした。そして、人間の世界では、まさに私たちと同じような、現代社会が存在していたのです。その私たちと同じ社会に生きる人間であるピーターは、上記のエマに対する反論として、以下のようなことを言います。

「鬼などまだ可愛いものだぞ」
「鬼が食用児にしてきたことなんて 人間は人間同士で遥か昔から繰り返してきている」
「そう…人間は人間を 食わないのに」

 ピーターはここで、極めてメタ的で、意地悪な反論をしています。物語(フィクション)の中でエマが到達した崇高な答えに対し、私たちの現実世界の分断を引合いに出して、「実現性なし」と喝破するのです。物語は、私たちが抱える課題を受け止め、そのストーリーをもって課題に対する向き合い方を提示してくれます。しかし『約束のネバーランド』は、私たちの課題を受け止め、それを物語に取り込み、課題に対する答えをきっちり用意した上で、「でも分断ばかりのお前らには無理かもな」と、読者を突き放してくるわけです。(この読者の「突き放し」は、漫画内に実写写真を大胆に取り入れて現実への批判を繰り広げ話題になった『炎炎ノ消防隊』にも強く見られます。)

 これを物語の裏切りととるか、物語による私たちへの叱咤激励ととるかは自由でしょう。いずれにしろこのピーターの言葉は、20年代のテーゼである「バルブを破り、世界と向き合え」が突き付けてくる問題の難しさを如実に物語る、まさに名台詞と言えるのでしょう。

3. 『進撃の巨人』 ~自分を生きるために、世界を生きるということ~

 20年代のテーゼ「バルブを破り、世界を向き合え」を、具体的にどう実践していけばいいのか。

 この問題に対して、以上のように既にいくつかの物語が、回答を模索しています。しかしその試みはいずれも決定的な答えには至っていません。20年代のテーゼの問題は、かくも難しいものであるわけです。

 では、『進撃の巨人』最終章はいかにしてこの新たなテーゼと向き合ったのでしょうか。

 『進撃の巨人』は、前述の『FGO』とも『約束のネバーランド』とも異なる、特徴的かつ有力なアプローチをもってこの問題に取り組んでいます。それは、10年代のテーゼのせいで生まれてしまった20年代のテーゼを、なお10年代のテーゼを貫くことで突破しようとする、という驚くべき試みです。

3-1. なお続く10年代のテーゼ

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『進撃の巨人』14話・120話

そのアプローチの様相を解き明かすにあたって、まず注目するべきポイント。それは、この作品がマーレ編で「自分らしく、好きなように生きる」という10年代のテーゼが招く悲劇を暴いてなお、「自分らしく、好きなように生きる」という生き様を、最終盤の主役である2人に引き続き徹底させたことです。最終盤の主役とはすなわち、エレンとジークです。

 まずはジーク。彼が望んでいたのは、いわばエルディア人の緩やかな集団自殺でした。王族の血を密かに引く彼は、「始祖の巨人」を持つエレンと接触することで、エルディア人の身体構造を変化させることができます。そこで彼は、エルディア人から生殖能力を奪う事でエルディア人を絶滅させ、悲劇の連鎖を止めることを計画していたのです。

 このジークの決意は、彼自身の経験に由来するものです。ジークは、エルディア復興を企む父グリシャの手によって、マーレ軍に入ります。しかし、グリシャの反乱計画が軍にバレていることを知った彼は、自らが生きるために、父を密告したのです。こうした、エルディアとその他の世界との対立を背景にした悲劇は、エルディア人がエルディア人である限り、エルディア人が存在する限り、終わりはしないのです。

 自らの信念を信じて、全てのエルディア人の未来を奪ってしまう。この判断はまさに、「自分らしく、好きなように生きる」という生き様を強く実践したものだと言えるでしょう。

 また、エレンも同様です。ジークの計画に同調するかのように見せかけていたエレンは、始祖の巨人による「道」に接触するやいなや翻意、壁の中の巨人を起動して世界を蹂躙する「地鳴らし」を発動させます。多大な犠牲をもたらすことに対する激しい葛藤に苦しみつつも、壁の外の世界を破壊することを決断するのです。他でもなく、ミカサやアルミンをはじめとする、壁の中の愛すべき仲間を守るために。

 なぜ、彼はそうなのか?そういう判断をしてしまうのか?突然の翻意を受けたジークはそうエレンに問います。そして、エレンは答えるのです。「この世にオレが生まれたからだ」と。

 このセリフをエレンが言ったのは2度目です。このセリフは、本作の最序盤、壁の穴を防ぐために巨人に変身するも気を失ってしまったエレンが、アルミンの呼びかけに応えて立ち上がった時の彼の言葉と、全く同じです。

 すなわち彼は最序盤から、この最終盤まで、その「オレを生きる」という生き方を、何ら変えていないんです。彼は「巨人を駆逐してやる」と言ったその時からずっと、自分のために生きている。「自分らしく、好きなように生き」ている。だからこそ、「自分」の愛する者を、世界の全てに優先させることができるのです。エレンの「地鳴らし」の決断は、いわば彼の生き方の究極の到達点なのでしょう。

 このように、『進撃の巨人』はマーレ編で一旦10年代のテーゼを批判してなお、本作の中心たるエレンとジークに、そのテーゼの履行を徹底させるのです。

3-2. それは本当に自由なのか?

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『進撃の巨人』134話

 では『進撃の巨人』は、10年代のテーゼの限界を自ら示してなお、そのクライマックスで10年代のテーゼにただ固執してしまったというのでしょうか?

 いいえ、そうではありません。本作は上記のエレンやジークの生き様を描いたうえで、そこにある鋭い批判を自ら加えていきます。その批判とは、「それは本当に自分らしい生き様なのか?」というものです。

 まずはジーク。ジークはエレンと「道」に至った際、彼らの父グリシャの過去を振り返ります。そこでジークが語るのはグリシャの罪です。ジークによれば、ジークもその腹違いの弟エレンも、グリシャのエルディア復興の野望に運命を狂わされた被害者だというのです。特にグリシャは、グリシャの野望を実現する手段としてマーレ軍に入隊させられます。そして、そのまま自らの手によって両親を喪い、彼は一人、兵士としての道を歩み続けるのです。エレンも同じです。彼もまた、グリシャの手によって「進撃の巨人」の能力を与えられエルディア復興の夢を託されたことで、その数奇な運命を歩み始めることになります。このような悲劇の連鎖は止めなければならない。そうジークは考え、エルディア人の滅亡を企図するのです。

 しかし、グリシャの過去を振り返る中で、ジークは新たな事実と遭遇します。壁の中に逃れたグリシャは、壁の中で家族を持ち、新たに生まれた息子エレンを純粋に愛する、平穏な日々を送っていたのです。そして、彼がレイス家を手にかけ、エレンに巨人の能力を与えたのは、「進撃の巨人」の能力で時を超えた、エレン自身に求められたからだったのです。その場に遭遇したジークは、グリシャの謝罪を受けます。すまないと、お前を愛していると、そう吐露されるのです。

 ここで、ジークの心は揺れます。自らの野望のせいで自らを悲劇に追いやったグリシャが、父としての愛を持っていることがわかってしまった。実は壁の中に逃れた後も、自分を案じ、自分を愛してくれていたことがわかってしまった。それを知り、ジークの決意は揺らいでいくのです。

 ここで示されるのは、「エルディア人の滅亡」という彼の信念は、父への憎しみ、あるいは父からの愛の欠乏が転じたものであったということです。彼は口では「この世界の悲劇を止める」という、世界に開かれた「彼自身の信念」らしき命題を掲げています。しかし、その出発点にあるのは、父のせいで自分の人生が狂ってしまった憎しみ、父から愛を与えられなかった悲しみなのです。父がもたらしたその原体験ゆえに、彼は「エルディア人の滅亡」を目指す人生に至っているのです。

 だとすれば、彼のその生き様は、本当に「彼らしく生きている」と言えるのでしょうか?もし父からの愛があれば、彼はもっと自分の望む生き方ができたのではないでしょうか?ジークは、「自分らしく」を実践できているようで、実はできていない。その父との原体験に囚われたまま、生きているのです。

 同じ批判は、やがてエレンにも投げかけられていくことになります。エレンは当初、壁の外との融和を目指していました。壁の外との対決に向けて、ヒストリアの犠牲を元に巨人の力を活かすのは好ましくない。できるだけ共存の道を歩んでいくべきだ、そう彼は早い段階で名言しています。

 しかし、彼は壁の外に実際に足を踏み入れたことで、その融和が絶望的であることを知ります。壁の外にいる少数のエルディア人擁護派ですら、壁の中のエルディア人は悪魔であると臆面もせず言ってのけてしまう。その現状を目にしたエレンは、壁の外の子供たちと交流し、彼らを手にかけることになる事実に忸怩たる思いを抱えつつも、「地鳴らし」を決意するのです。何よりも、ミカサら愛すべき仲間を守るために。

 そんなエレンの決意の過程が、「地鳴らし」発動に前後して描かれます。そのエレンの選択過程の描写は、「自分らしく」を実践したかに見えるエレンの選択を、論理的に補強するものではありません。むしろその「自分らしく」という倫理的根拠を、瓦解させていくものです。なぜならその決断に至る過程は、エレンの「挫折」なのですから。彼は本来融和を目指していた。しかし、この世界の絶望的なまでの分断を前に、彼はその意思を諦めるのです。そして、「地鳴らし」という決断に至ってしまう。これは、本当に「自分らしく」という10年代のテーゼの実践なのでしょうか?それは本当に、エレンが言うように「自由」なのか?それは、この世界の在り様に囚われてしまった、屈服してしまった選択なのではないか?

 だから、アルミンは問うのです。「君のどこが自由なのか」、と。

3-3. 自分を生きるために、世界を生きるということ

 では、彼らが本当の意味で、「自分らしく、好きなように生きる」には、どうすればよいのでしょうか?世界の在り様に知らずに囚われてしまった状態から、いかに「自分らしく」を達成すればよいのでしょうか?

 答えは一つです。そう、ここで20年代のテーゼです。

 自分が囚われている自分以外の何かの存在に気づくために、自分以外に目を向けるしかないのです。「バブルを破り世界に向き合う」しかないのです。自分だけを見るのではなく、外の世界に目を向けることで初めて、私たちは自分が自分以外の何者かに囚われている可能性を、認識することができるのですから。

 ジークは、ずっと自らの目に入るものに基づいてモノを考え、「エルディア人の滅亡」という自らの信念にたどり着きました。しかし、エレンとともにグリシャの実像に触れたことで、自らがいかに父からの愛への渇望に囚われていたかを知るのです。グリシャという他者、外の世界を知ることで、彼は本当に自分が望んでいたものを、ついに認識しうるところとなります。だから、彼が本当の意味で「自分らしく、好きなように生きる」とすれば、むしろここからがスタートなのです。

 エレンも同様です。彼は既に外の世界に触れました。しかし、その結果彼の本来の望みを捨てる形で、「地鳴らし」に踏み切ります。それでは、ダメなのです。彼は、ここで一度「自分らしく」を捨てているからです。彼が本当に「自分らしく」を達成するためには、なお、世界と向き合わなければならないのです。それがどれだけ困難なものだとしても。

 そして、そのように「自分らしく」を実践するため世界と向き合い続けているのが、他でもなく、エレンを止めようとするアルミンたちなのです。アルミンたちも、本当に「地鳴らし」以外の方法があるのか、この絶望的なまでの分断を治癒する方法があるのか、わかりません。いや、できないかもしれないとすら思っている。でも、彼らは「地鳴らし」が受け入れられない。ハンジさんが一喝したように、大虐殺を肯定していい理由などない。どうにか、共存の道を探っていきたい。自分たちがそうしたい。だから、まだ世界を向き合おうとするのです。「共存の道を探る」という「自分らしく」を徹底するために世界と向き合い、世界を守るために、エレンを止めようとするのです。

 そのアルミンたちの「自分らしく」のための世界との相対の結果、アルミンはジークを動かします。父の愛への渇望というしがらみから解放されたジークは、アルミンとの対話を経て、ついに「自分が本当にしたかったこと」(「意味のないクサヴァ―さんとのキャッチボール」で隠喩される、特に意味はないが自分にとって大切な日常を送ること)の発見に至ります。そして、アルミンへの協力に転じ、「地鳴らし」阻止への道を拓くのです。

 さらにそれどころか、このアルミン達の「自分らしく」のための世界との相対自体が、エレンの望んでいたものであったことが最終回で明かされます。エレンは当初の「自分らしさ」を捨てることにはなりました。しかし、アルミンたちが「自分らしさのために世界と向き合うこと」をやめないと信じていたからこそ、彼は「地鳴らし」によって自らヒールとなり、アルミン達を世界の英雄に押し上げた。そうすることで、世界の存族と、パラディ島の存続の両立を曲がりなりにも達成したのです。

 こうして、アルミン達の「自分らしさのために世界と向き合う」戦いは、「自分らしさ」の夢に破れたジークとエレンの挫折を回収するようにして、『進撃の巨人』のフィナーレへと到達するのです。

 この『進撃の巨人』最終盤のエピソードがやってのけたこと。それはすなわち、20年代のテーゼを、10年代のテーゼの進化版として再解釈してしまったということです。

 Ⅰ章およびⅡ章で議論したとおり、10年代の「自分らしく」というテーゼは、残酷でどうにもならない世界から逃れるための答えとして導入されたものでした。しかしその「自分らしく」が世界を分断させたから、逃れたはずの世界に再び向き合うことを求める、20年代のテーゼが浮上した。こういう経緯からすると、本来「自分らしく」という10年代のテーゼと、「世界と向き合え」という20年代のテーゼは、質的にかみ合わないはずなのです。それが、20年代のテーゼの大きな困難性となっていました。冒頭に挙げた問題②です。

 しかし、『進撃の巨人』はその質的齟齬を解決するのです。『進撃の巨人』はその最終章でエレンとジークの限界を描くことで、「本当に自分らしく生きるには、実はまず世界と向き合い、世界を知らなければならない」と説く。「世界と向き合うことでこそ、本当の自分らしさが見つかる」と喝破する。そうすることで、一見10年代のテーゼと対立するかに見える「世界に向き合う」という20年代のテーゼが、「自分らしく」という10年代のテーゼの延長線上にあるものとして、再理解されるようになるのです。

 すると、私たちは20年代になった今も、10年代と同じく、依然「自分らしく」生きていいことになる。そして「自分らしく」の実践のために、自分が密かに囚われているものを発見するべく、世界の在り様と向き合う。そうすることで、20年代のテーゼも同時に実践されていくのです。

 これが、『進撃の巨人』が到達した20年代のテーゼへの回答です。「自分らしく」を捨てて、世界に向き合うのではない。自分らしく生きるために、世界と向き合え。これこそが、『進撃の巨人』が20年代に遺した、遺産の核心なのです。

4. 20年代の物語はどこへ向かうのか?

次世代

左からそれぞれ『とんがり帽子のアトリエ』、『圕の大魔術師』、『チェンソーマン』1巻表紙

4-1. 『進撃の巨人』と同じアプローチをしている作品

 自らが生んだ10年代のテーゼを批判しつつも、そのテーゼを昇華させることで、20年代の課題を突破してしまう。そんな『進撃の巨人』の答えは、これまで10年代のテーゼに慣れ親しんできた私たちの感覚にも逆らわないものであり、非常に有力なものであると思います。

 実際、2016年に連載開始したとある人気作品が、この方向性の問題意識をテーマに物語を進めています。『とんがり帽子のアトリエ』です。

 本作は魔法のある世界で、主人公ココが魔法使いを目指して奮闘する物語です。その世界では、人体を対象とするものなど、特定の魔法が禁忌とされているのです。かつて魔法を使った血みどろの戦いが起こった反省から、魔法を平和的に利用するシステムが既に構築されている。そんな世界に、ココは魔法使い見習いとして足を踏み入れるのです。

 そしてこの物語でココたちが相対するのは、その世界のシステムに反抗する「つばあり帽子」の勢力です。彼らは禁止魔法の復興をもくろむ勢力であり、一度事故的に禁止魔法を扱ってしまったココに対して、こうささやきかけるのです。

「学んではいけない」
「それがどれだけ君達から可能性を奪っているか」
「一度見たらわかるはず」

 彼らの意図は、必ずしも過去の戦争を再び起こすことではありません。特定の魔法を禁止するシステムに対して、個人の可能性を、やりたいことを奪っているのではないか?と疑問を投げかけているのです。これに対してココは、自分が魔法で成し遂げたいことと、平和に寄与しているこの世界のシステムとのすり合わせについて、悩むこととなります。

 これはまさに、「自分を生きるためには、世界と向き合わなければならない」という、『進撃の巨人』の到達点と一致する考え方ではないでしょうか。『進撃の巨人』のように分断していない、むしろ平和が実現した世界であっても、あなたが「あなた」を生きたいなら、その世界に一度疑問を呈する必要があるのかもしれない。そんな問題意識が、この作品に通底しているのです。

4-2.私たちは世界と相対しなければならない

 とはいえ、この『進撃の巨人』の方向性が20年代の最終回答になるのかというと、そうとは限りません。

 「自分を生きるため」に世界と向き合うことが、本当に世界の諸問題を解決するに資するのか、まだ私たちにはわかりません。アルミンたちが最終章で、「世界を救いに行く」とまさにヒーロー然としたセリフを言う時、どこかむずむずする感じというか、斜に構えた感じが拭えていないのは、彼らが「世界の救済」を直接的に目指しているのではなく、あくまで「自分らしく」を目指しており、その延長線上に「世界の救済」があるに過ぎないからです。アルミンたちの中ではたまたまこの「自分らしく」という自由と、「世界の救済」が重なったわけですが、「自由」と「世界の救済」が重ならない場合はどうするのか?、いかに世界を救済するのか?という問題(問題①)は、上記の議論では未だ解決されていないのです。

 一応『進撃の巨人』はその問題①への答えとして解釈できるものを、その最終盤で導入してはいます。それは「愛」です。

 世界の分断の一番の原因だったのは巨人の力でした。そして巨人の力の原因は、始祖ユミルのフリッツ王への服従。そしてその服従の理由が、始祖ユミルの、フリッツ王への届かぬ愛だったのです。ゆえに、その始祖ユミルの愛への渇望が、ミカサからエレンへの無償の愛で満たされたとき、この世から巨人の力は消え去ります。すなわち「愛」が、世界の分断の一番の原因を除いたのです。本作を通底するテーマである「自由」をエレンが体現し、自由が生む問題②への回答「世界との相対」をアルミンが体現するのだとしたら、最後のピースである問題①への回答を体現するのは、ミカサなのです。

 とはいえ、この「愛」が明示的に語られたのは最終回のみであり、「壁」というモチーフを通して、世界の分断・世界との相対をメインに描いてきた本作は、問題②に対しては上記のとおり強力な回答を見出した一方で、問題①に本格的に取り組む余裕は構造的になかったと言うべきでしょう。

 ゆえに『約束のネバーランド』のように、問題①のほうに真正面から時間をかけて取り組んでいくアプローチも、依然不可欠なのです。例えば『圕の大魔術師』(2017)は、この現実世界で起きている歴史的な差別・民族対立といった分断を、『進撃の巨人』同様に、緻密な設定をもって物語世界中に極めてリアルに再現し、その問題を解いていく正攻法を取ろうとしています。20年代のテーゼがはらむ問題のうち、問題①へのアプローチの行方を追うに、必見の物語です。

 一方で、「自分のために」という10年代のテーゼと「世界のために」という20年代のテーゼの反対方向からの引力に引き裂かれ、独自のストーリーを獲得した傑作も出現しています。『チェンソーマン』(2019)です。本作は、極まった貧困の中で「自分らしく」の生き方のみを貫いてきた少年デンジが主人公です。彼は「上手いメシと女」という、まさに自らの欲望のためだけに戦いに身を投じるジャンプらしからぬ主人公なのですが、その戦いの中で徐々に世界の在り様に確かに触れていき、世界が自分の在り方を縛ろうとしていることを理解していきます。その上で彼は、10年代のテーゼの権化とも言えるその極端な生き方を最後まで貫きつつ、自らを縛ろうとしていた世界をも、力技で救ってしまうのです。その活躍は、「自分」を司る10年代のテーゼ、「世界」を司る20年代のテーゼが同じくらい強い引力を持つようになっているこの時代に、ドンピシャで応えたダークヒーローとして仕上がっています。

 こうした多様な作品が生まれる現代ですが、それらの物語は、「世界と向き合う」という命題を意識しようとしている、この1点では共通しているのです。私たちは、10年代を席巻した「自分らしく」というテーゼを追求するだけでは、もう生きていくことができない。その生き方だけではこの世界の在り方に、そして自分の生き方に歪みが生まれてしまう事実から、もはや目を背けることができなくなっているのだと思います。


 そしておそらくこの趨勢は、20年代の幕開けを襲ったこのコロナ禍により、図らずも決定的なものになったと考えています。

 コロナウイルスは一見、人間にはどうにもならない10年代的「残酷な世界」を体現しているようにも見えます。しかし、例えば私たち一人一人が感染防止に気を付けることで、たしかにその流行の広がりを抑えることができることも、2020年4~5月に実証することができました。一方で、2020年末以降はその予防意識は薄れてしまい、それぞれが自分の好きなように動いてしまったことで、感染が飛躍的に拡大しています。私たちの「自分らしく」が、世界の在り方とトレードオフになりうること。世界の残酷さは、実は(部分的には)私たちの行動の映し鏡でもあること。ゆえに私たちは私たちの行動次第で、世界の在り方に一定程度の影響を与えることができること。そんな、20年代のテーゼを支える事実を、後追いであまりにも鮮やかに可視化してしまった大事件。それが、このコロナ禍なのだと思います。

 ここで私は、コロナ禍では完全な行動自粛が正義であるとか、自分のやりたいことをひたすら抑えろとか、そういうことを言いたいのではありません。うまい具合に経済も回していかないと、感染拡大以上の破滅が実現しかねない、これもまた一つの懸念です。

 重要なのは、私たちはもはや、単に「自分らしく」を実践していれば何事もうまくいくわけではない、ということに気づいてしまったことです。そんな夢の世界は、もう10年代という過去の彼方に消えてしまったということです。この世界を存続させていくためには、ただ単に好きなように生きるのではなく、自分の何を貫き、何を変えていかなければならないのか(何を「自粛」し、何を「自粛」しないのか)を、考えなければならない。世界の在り様と向き合ったうえで、世界の存続と、個人の望みの実現を両立させる方法を、自分なりに探っていかなければならない。すなわち私たちは、そんな「わたし」と世界の関係性を、「わたし」自身で再定義していかなくてはならないのです。世界との関係性を断ち切るのでも、どこかの他人が定義してくれた関係性を、そのまま取り入れるのでもなく。

 それが、「世界と向き合う」ということであるのだと思います。そして、私たちが自分の頭でその方法に思いを巡らせるその営みに、物語はきっと、これからも寄り添ってくれるのでしょう。私はこの記事シリーズで見てきた物語の歴史から、そのことを確信しています。

その確信をもって、ここで筆を置きたいと思います。
ここまでお読みいただいた皆様に、多大なる感謝を。


(おわり)


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