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【読書感想文11】『ゼロ年代の想像力』

 本書は、ゼロ年代に生まれたマンガ、小説、ドラマ等の物語を広く視野に入れ、その歴史、特徴、美点、課題、そしてこれからを考察するものです。刊行は2008年、ゼロ年代末期です。

1. ゼロ年代前夜 ~ポストモダンへの消極的反応としての90年代~

 ゼロ年代を語るには、まずはその時代をもたらす直接原因としての90年代、そしてさらにその前段階の80年代以前における人々の意識について、見ていく必要があります。

 戦後以来、日本の私たちはずっと、社会を覆う「大きな物語」に支えられて生きてきました。科学の発展によって、高度成長期で実現したとおり私たちはますます豊かになっていく。私たちは戦争に手を染めかねない愚かな存在であり、一丸となって戦争を克服していかなければならない。あるいは、自由と資本主義を重んじる私たちの西側世界は、やがてソビエトを中心とした東側諸国を凌駕し、やがて勝利するだろう。そんな、私たち日本人、さらには人類を包括するような大きな命題が、私たちの行く末、やるべきことを示してくれていたのです。

 しかしその「大きな物語」は80年代以降、消費社会の定着や多文化主義を通してだんだんと相対化していきます。ポストモダン化です。私たちが頼ることのできる物語、私たちの行く末を照らしてくれる命題はその存在感をだんだんと落としていくのですが、その陰は、依然続いていた冷戦構造や好景気によって隠蔽されていました。

 その「大きな物語」の終焉が決定的に暴露されるのが、冷戦の終わり、そしてバブル崩壊によって幕を開けた90年代です。バブル崩壊による幸福な成長の終焉は、私たちの生き方に暗い影を落とします。私たちは、もはや上昇し続ける社会に乗って生きていくことはできない。自分で生き方を模索し、自分で生きがいを見出していかなくてはならない時代になったのです。しかし、80年代で既に「大きな物語」は失効しています。私たちはもはや、これから豊かになっていくとは限らない。戦争は既に過去のものであり、反戦は私たちにとって特別な価値ではない。自由と資本主義は既に地球全体を覆ってしまい、特別指針になるような話でもない。私たちは生き方を自力で構築していかなくてはならなくなったのに、私たちに生き方の方向性を示してくれる物語は、既に失われているのです。

 この絶望を決定的にしたのが、1995年の2つの事件。すなわち、社会の破滅のイメージをショッキングな形で視覚化した阪神淡路大震災。そして、物語を失った者たちが、父的な権威を盲信して悲劇を起こした、オウムの地下鉄サリン事件です。この社会は、もはやいつまでも続いてくれるとは限らない。そして、過激な物語を信じて悲劇を起こした青年たちが示すとおり、もはや社会は生きる意味や真正な価値を与えてくれない。そのことを人々は確信してしまったのです。

 では、人々はどうすればいいのでしょうか?もはや私たちを導いてくれる価値は存在しない。その中で無理に行動しても、オウムのように他者を傷つけるだけだ。そんな八方ふさがりな状況において、選択肢は一つしか残されていません。すなわち、引きこもることです。外の世界を生き抜くのではなく、この八方ふさがりの状況でいいんだと、今の自分でいんだと、現状を追認してしまう。それが、90年代の人々に浸透した答えだったのです。

 この心象風景は、この時代の物語の如実に現れていきます。東野圭吾が犯罪のきっかけを外的な動機だけではなく犯人個人のトラウマにも求めるように、登場人物の広義の精神的外傷を描き「あなたはこんな傷があるからこそ美しい」と内面を承認する「心理主義」化。そして何を隠そう『新世紀エヴァンリオン』が切り拓いた、「何もしない」、「戦わない」ことを選択してしまう主人公の物語。

 90年代とその物語は、ポストモダン化による「大きな物語」失効への、消極的反応として総括できるのです。

2. ゼロ年代の幕開け ~決断主義によるサヴァイヴ~

 しかし、人は本当にこの「引きこもり」を100%貫徹できるのでしょうか? 人は「何もしない」ことを選択することで、生の苦しみから解放されえるのでしょうか?

 答えは、否です。人はどれだけ辛かろうと、この現実世界を生きていかなければなりません。そして生きていくには、その生き方を規定するための方針、すなわち「物語」が必要になるわけです。そもそも、「何もしない」という選択ですら、それは一つの「物語」の選択です。「大きな物語」が失効しようと、私たちは「物語」なしには、決して生きてはいけないのです。
 
 これは「引きこもり」を選択した90年代にとっては厳しい事実です。しかしながらこの事実は、「大きな物語」が失効した時代が既に当たり前になっている次世代、すなわちゼロ年代の若者たちにとっては、受け入れやすいものです。

 「大きな物語」の中で生きてきた者にとっては、それが失効することは大きな不安となるでしょう。そしてその不安が「引きこもり」につながることは、ある意味自然なことです。しかし、そもそも物心ついた時から「大きな物語」がなかった人々にとっては、そんな不安とは無縁なのです。彼らはこの「大きな物語」が失効した世界で、その失効をもはや当たり前のこととして受け入れている。そして、自分が生きていくための「物語」を自分で独自に選択して、現実世界に立ち向かうことができるのです。彼らは生まれたときから、特定の「小さな物語」を自己責任で打ち立て、それを頼りに生きていくしかないことを、理解しているのです。

 この、「小さな物語」を決断し、それに基づいて現実世界をサヴァイヴしていくしかないという決断主義。そのイデオロギーは、ゼロ年代の幕開けを告げた9.11、あるいは「ぶっ壊し」を宣言し日本を大改革へと誘った小泉内閣の誕生によって後押しされることになります。この何もかもが変わっていく暴力的な世界で、ただ「引きこもる」だけでは生き残れるはずがない。「小さな物語」をとにかく積極的に掴み取り、それを絶対的な指針にして、生き残っていくしかないのだ。それが、ゼロ年代という決断主義の時代なのです。

3. ゼロ年代の課題とその克服 ~バトル・ロワイヤルからの離脱可能性~

 この決断主義は、ゼロ年代の様々な物語を彩ることになります。『ライフ』のように、いじめやスクールカーストにおける対立を描いたシビアな学園もの。『仮面ライダー龍騎』や『Fate/stay night』に代表されるバトル・ロワイヤル。『DEATH NOTE』、『コードギアス』に代表される、あえて「悪」を決断して自らの道を突き進む物語。特定の価値を絶対的なものとして決断し、仁義なき戦いに身を投じていく物語が多数生まれていくのです。

 そして、筆者はこの時代のオタク文化を席巻した「セカイ系」についても、この文脈で説明します。「セカイ系」の出発点は90年代の「引きこもり」です。「大きな物語」が失効し、社会と自分との接続が失われると、主人公は社会という中間項をスキップして、引きこもったまま世界と接続しようとするのです。より具体的に言うと、世界を担って戦うヒロインに、最終的に世界ではなく自分を選んでもらうことで、主人公は引きこもったまま、世界の承認を得ることができる。これが、セカイ系の発明です。

そしてこれは、生きる意味=「小さな物語」を「自分を無条件で承認してくれる少女」に見定める、一種の決断主義でもあります。セカイ系の物語は主人公とヒロインの関係性を丁寧に描いており、その意味で繊細で誠実に見えます。しかし、実のところそれは、セカイ系の「文学性」を言い訳にした、マッチョな少女所有の再強化でしかない。「安全に痛い」自己反省のパフォーマンスによる自己説得でしかない。そしてその再強化への無自覚さは、まさに特定の価値を無根拠に選び取る「決断主義」に他ならない。あるいは、無条件な母性的承認への依存に他ならない。これが筆者の意見です。

 そう、このセカイ系の議論でも示唆されたとおり、このゼロ年代の「決断」は、結局のところただの無根拠な思い込みでしかないのです。自分の信じたいだけの価値を絶対的な、超越的な指針として位置づけ、自分とは違う価値をやはり絶対化する他者と、終わりのない争いを繰り広げる。犯罪者は心臓麻痺させてよいという正義、大義のためにはギアスで人を操ってよいという信念を力にして、他者との泥沼の対立を突き進む。それが、ゼロ年代のバトル・ロワイヤルなのです。

 したがって、もし本当の善を、倫理を実現しようとするなら、私たちはこの不毛なバトル・ロワイヤルから抜け出す必要があります。ニアが夜神月に勝利しても世界は平和にならないように、確かな果実には決してたどり着かないこのバトルを、止めなければならないのです。それが、ゼロ年代の物語が相対する課題です。

 筆者はその課題に対するソリューションを見出している作家を、3名掲げています。1人目は、『木更津キャッツアイ』のように、地方の小さな中間共同体を舞台に、終わりある楽しい日常を描いた宮藤官九郎。2人目は、スクールカーストの戦いに没頭せず、そのクラス限りのかけがえのない関係性を描いたドラマ版『野ブタ。をプロデュース』の木皿泉。そして3人目は、『西洋骨董洋菓子店』のように、特定の人間への所有、あるいは共依存から脱却し、ゆるやかな網状のつながりを形成する人々の群像劇を描いたよしながふみです。

 筆者がこれら3人の作家を挙げることで強調するのは、時間をかけた試行錯誤のコミュニケーションを通して獲得できる、終わりある、しかしかけがえのない人間関係の獲得です。あるいは、私たちが生きる、この何でもない平凡な日常の享受です。

 決断主義は、必ず分断を生みます。この世界をサヴァイヴするためには、「小さな物語」を決断しなければならない。しかしその決断は無根拠であるがゆえに、この世界には「小さな物語」が無数に立ち上がる。そして「小さな物語」を信じる者たちは、自らの「小さな物語」を守るために、他の「小さな物語」に排他的になります。そして分断が生まれるのです。

 だから、まず私たちはコミュニケーションを実践しなければならないのです。分断を治癒するために、他者と交わり、他者とつながらなくてはならないのです。そしてその他者のつながりは、特定の他者を所有または崇拝するような、あるいはありもしない永遠のつながりを志向するような、無根拠で思い込みに支配された関係性であってはありません。また、特定のコミュニティにしか通用しない「キャラ」に依存した関係性であってもなりません。どんなつながりにも終わりがあることを受け入れ、多くの人々と網状に、ゆるやかにつながっていくこと。一つの絶対的な「小さな物語」ではなく、複数の、有限だがかけがえのない「小さな物語」を次々に紡いでいくこと。それが大事なのです。

 であるならば、私たちの課題の突破口は、日常の平凡な生活の中に落ちているはずです。私たちは生きる意味を見出すために、必ずしも非日常にアクセスする必要はない。あるいは、少女の所有を通して世界とつながる必要もない。今ある日常を生き、他者と交わり生きていく。それで、立派な「小さな物語」になるのです。私たちの日常は、私たちの意識の持ちよう次第で、既に「物語」に溢れているのです。特定の「大きな物語」などには支配されず、自由に、物語を紡いでいくことができる時代なのです。

4. ひとくち感想

 ずっと読もう読もうと思っていた本書。興味深い内容でした。

 作品の批評の視点というのはいろいろあります。例えば、創り手の技術面。あるいはどれだけ盛り上がったか、感動できるかといったエンターテインメントとしての質。その他もろもろです。

 その中でも本書が視点としているのは、一言で言うならば作品のテーマ性です。テーマ性が作品批評の視点として価値を持つのは、作品のテーマ性が、わたしたち物語の享受者の心を映す鏡であるからです。

 作品は人の創るものである以上、そして商業的な観点からできるだけ多くの者の心に届くようなものになることが指向される以上、その時代に人々が考えていること、欲しいもの、課題と感じていることが、如実に反映されます。

 例えば、戦争の記憶がまだ新しかった時代は、「反戦」が物語の一大テーマとなっていました。手塚治虫のマンガを数点読むだけでも、どうしようもなく争ってしまう、人類の愚かさが描かれているものがすぐに見つかることでしょう(例:『鉄腕アトム 地上最大のロボット』)。一方、現代では例えばLGBTQをはじめとするマイノリティの尊重が叫ばれており、その題材をテーマにした作品が増えています。しかしながら、アンチ戦争を真正面からやる作品というのは、現代ではあまり多くないのではないでしょうか。(『ヴィンランド・サガ』は反戦が大きなテーマの一つですが、私たちがイメージする「戦争」へのアンチテーゼかというと少し違う気がします。もっと言うなら、もう少し射程が広い気がします。)物語は、その時代の享受者の問題意識を反映するのです。

 であるならば、物語のテーマ性を語るということは、それはそのまま、社会の有り様を語るということなのです。その議論は、物語として描かれていることそのものだけでなく、その裏にあるものを捉える、知的に、かつ社会的に豊かな論議として開花するのです。

 より具体的に言いましょう。社会の有り様を語る場合、その議論は、「あるべき社会とは何か」という問題から逃れることはできません。完全な社会などないわけで、社会の有り様を語る場合、私たちは必ず、今の社会の何が課題であり、その課題をどのように解決するべきなのか、そんな難しい問題に取り組むことになります。

 そしてその議論は、社会の有り様を語るきっかけとなった、物語のテーマ性の議論にそのままフィードバックされていくのです。例えばLGBTQへの差別を題材にした物語を語る場合、その物語のエンターテインメント性を語るなら、それがいかに感動的な物語であるかを議論することになるでしょう。しかしそのテーマ性を語るならば、まず、いかにこの物語がLGBTQへの差別という問題を扱っているかを読み解きます。そして次に、この現実社会ではいかにLGBTQへの差別があり、いかにその差別を克服していくべきかについて考えます。そしてその後再び物語に立ち返り、その物語による差別への取り組み方と、先ほど検討した現実世界における課題の克服方法とが比較検討されていくのです。

 あるいは、時代をまたいでこうした比較検討をおこなっていくと、前の時代では解決できなかった課題を、ある傑作が解決してしまったりします。そそしてその傑作が時代を代表する作品となって、同じ課題認識や取り組み方を持つ作品がフォロワーとしてたくさん出てくる・・・といった、物語のメタ的な歴史まで見えてくるのです。まさに、本書が90年代~ゼロ年代の物語の歴史を巧みに解き明かしたように。

 そう、テーマ性の議論は、物語として描かれているものそのものだけに目を向けていては決してたどり着くことのできない、豊かな物語批評の地平を拓いてくれるのです。別に、現実社会に適用できるソリューションを示せていない物語はダメとか、そういう話では決してありません。物語がとる現実社会の課題へ切り口と、私たちが現実社会に直接切り込むときの切り口を比較する、この行為自体が、議論として、批評として、ものすごく楽しいのです。その楽しさを再確認させてくれる、とても充実した読書体験でした。

 

 ここから番宣です。

 この「テーマ性の議論」を『進撃の巨人』について行う記事シリーズを、昨年より個人で地道に作ったりしています。10年代の代表作である『進撃の巨人』が、ゼロ年代から受け継いだもの、10年代にもたらしたもの、そして、20年代に投げかけるものを検討するシリーズです。当然本書と比較するのもおこがましいめちゃくちゃ拙い恥ずかしいものなのですが、もしよろしければ覗いていただけるととてもうれしいです!

『進撃の巨人』論 ―『進撃の巨人』が継いだもの、生んだもの、残すもの―

 以上番宣でした。ここまでお読みいただきありがとうございました!


(おわり)

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