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56歳で急性心筋梗塞その1「手術と入院の体験記」

はじめに

 56歳になるまで、手術や入院とは無縁だった。その日は突然やって来て、今でもあの痛みが「生死を左右するものだった」とは信じ難い。

 この体験記では、急性心筋梗塞になった私こと中年男性の体験を全4回に分けて紹介したい。年齢に関係なく、誰にでも起こり得る突然の災難なのだが、まずは肩の力を抜いて読み進めて頂ければ幸いである。やや長文であることはご了承頂きたい。

※文章中に登場する専門用語について齟齬がある場合は是非ご指摘頂きたい。
※記載内容は概ね事実に基づいているが私見による若干の脚色も含まれます。

私について

 現在56歳の男性で、身長 165cm 、体重 76kg、妻と2人暮らしである。仕事はデザイナーで、産業機械機器の開発、企業のデザイン課題の解決、産学連携事業などに取り組む傍ら、自身の作品制作に勤しんでいる。座り仕事中心の毎日で運動不足も自覚しているが、その辺りはスルーしていた。三年前までは年に一度の健康診断を受けていたものの、その後は受けていない。

 過去に手術や入院の経験はないが、30代後半の激務で体調を崩してしまい、酷いアトピー性皮膚炎を患って十数年間苦しんだ。完治してはいないものの、本当に酷かった時期に比べれば解放された気分である。生き地獄の日々だった「大人アトピー」のことも、いずれ書こうと思う。



1:突然やってきた胸の痛み

胸が締め付けられる、絞るような痛みだった

 2024年1月24日水曜日の深夜、午前3時頃だったろうか。左胸あたりが締め付けられるような感覚で、背中も痛くて眠れない。しばらく痛みと格闘していると、冷や汗が大量に出たのでパジャマがわりのTシャツを着替える。午前4時を過ぎた頃、出張の準備で早く起きた妻に背中を摩ってもらう。背中を強く押してもらったりしたが痛みは変わらない。ネットで症状を調べると「迷わず救急車を呼ぶこと」とあるが、しばらく躊躇する。「救急車なんて大袈裟な、しばらく寝ていれば治るだろう」というのが本心だった。

 痛みで唸り続ける私を見かねた妻がさらにネットを検索すると、救急車を呼ぶ前に問い合わせる電話番号というのを見つけた。自動応答の音声は「横浜市内のみの対応になります」と告げた。妻が出張のキャンセルを連絡をしたのが午前5時30分。その後もしばらく私の様子を見ていたが、おでこが凄く冷たくなっていて「これはヤバい」と思ったそうだ。ここでようやく119番通報。時刻は午前6時4分、私が胸に痛みを感じてから3時間が経っていた。

妻が119番に電話

 救急車は4-5分で到着するという。すぐに着替えてマンション下の道路脇で待っていると、到着した救急隊員に「歩いて来ちゃったの、ダメだよ」と怒られた。心筋梗塞の疑いがある場合、立ち上がるのも厳禁だそうだ。人生初の救急車乗車。車内のストレッチャーに横たわって、氏名、生年月日、今日の日付などを次々と答える。午前3時頃から痛みを感じたと伝えると「もっと早く呼ばなきゃだめだよ」と言われた。受け入れがT大学病院に決まってから、そこへ向かう間も救急隊員と話し続ける。途中で意識を失わないためのようだ。救急車が病院の坂を上るのがわかった。


2:初めての手術

救急車内では不思議と痛みは治まっていた

 午前6時30分頃に病院に到着。救急車が停まり扉が開くと、ストレッチャーごと引きずり出された。寝かされている私から見えるのは、隙間なく取り囲む人たち。そして病院の担架に載せ替えられた。廊下を何度か曲がりながら進む。見えているのは天井だけだが、ものすごい速さで風景が変わっていく。

この時は素っ裸に毛布を掛けられていた

 まずはCTスキャンで検査すると告げられ、あっという間に着ているものを全て脱がされて素っ裸にされた。次に尿道カテーテルを入れられた。話には聞いていたが経験したことのない強烈な痛みだ。白いドーナツ状の機械に貼られたSIEMENS の青い文字と9インチ程度の液晶モニタが見えた。

 検査が終わると手術室へ移動した。素っ裸なのに寒く感じなかったのは毛布をかけられていたからのようだ。そして尿道の違和感だけが続いている。私がCT検査を受けていた頃、妻は医師から心臓カテーテル手術の説明を受けて承諾のサインをした。「一分一秒でも早くカテーテルした方が良いから」と言われたそうだ。

 私に見えているのは常に天井なのだが、観音開きの扉を押し開けて入れられた手術室は意外に広いと感じた。横たわる私の右手の先に医師がおり、右手首からカテーテルが挿入される。上手く入らなかった時の、足の付け根からの挿入に備えて陰毛を左右剃られた。しばらくすると腕の中を何かが進んでいくのがわかる。60cm以上はあるであろう心臓までの距離をカテーテルが入っていくことが、とても不思議に思えた。ゆっくり、ゆっくりと挿入されていく感覚が生々しい。そして、心臓あたりまで到達したのもわかった。

詰まっていたのは右冠動脈

 私の胸の前にある板状の装置が、位置や角度を忙しく変えながら動いている。しばらくして、今度は通した管の中をさらに何かが進んでゆく。「あとどれくらいで終わるのかなぁ」「まな板の鯉だなぁ」などと考えていた。痛みは感じなかった。

 家族待合室で待機していた妻は、私の腕にカテーテルが入っている状態や、心臓の血管が詰まっている状態、血栓が取り除かれて正常に戻った状態を見せられたそうだ。手術室から出ると妻の顔が見えた。「入院だって」という妻に「筑波のキャンセル連絡をしなくちゃ」と言っていたそうだ。翌週に予定していたサーキット走行会のことだ。そんなことを言ったのは全く覚えていない。


3:初めての入院

ベッドの周りは計器類でいっぱい

 移動式のベッドに載せ替えられて病院内を移動する。しばらくして、18という数字の書かれたEICU救急集中治療室に到着。オムツを当てられ、病衣を着せられた。あっという間に左手首に幾つかの管を繋がれる。採血や点滴を行うためらしい。胸には電極がつけられ、繋がれたモニターに色の違う数字や波形が並んでいる。カテーテルを入れた右手首は動脈からの出血を防ぐために、エアバンドで強力に圧迫され、7時間程度かけて徐々に圧力を解放するそうだ。

 間も無くやってきた医師から「血栓は大きなものだった」と告げられた。他に言われたことは思い出せない。医師が帰った後、看護師から「対処が遅れていたらあの世行きでしたね」と言われた。本人からすればそこまで切迫した状況ではなくて、胸が締め付けられて冷や汗が大量に出た程度だった。心筋梗塞は一分一秒の判断が生死を分けると言われる。もしも救急車を呼ばずに妻を仕事に送り出していたら、私は部屋でひとりで死んでいただろう。

 病室内の見えるところには時計が存在しなかったが、手元に返却された携帯電話を見ると午前10時を過ぎていた。EICUでは様々な検査が立て続けに行われる。入れ替わり立ち替わり担当者が様々な機器を持ってやってくる、さすが大学病院だ。

 午後になるとやることが無くなり、超ヒマになった。まったく寝ていないにも関わらず、眠れずにずうっとぼうっとしている感じだ。点滴を入れられて食事がない分、時間感覚もおかしいし、尿道カテーテルとオムツのせいで精神的にもダメージを受けている。救いは看護師の女性たちが可愛らしいことだが、ここでオヤジ的な対応をして嫌われたくないので自重した。

 当面一ヶ月くらいの予定は全てキャンセルしなければならず、携帯からPCメールをチェックして対応した。SNS関係も対処しておく。緊急入院のことは最低限必要な人だけに伝えて、その他の方々には心配をかけないように黙っておくことにした。仕事では2月から新しい案件で動き始めようと思っていたのだが、それも延期せざるを得ない。

 夕方を過ぎて21時で消灯。そのまま深夜になってもぼうっとした感覚はずっと続いていた。携帯で時間を確認するたびに30分しか経ってない。背中が痛かったので看護師にお願いしてバスタオルを円筒状に巻いてもらい背中に当てる。初体験の可動式エアベッドはどこに寝ているのか所在なさげだ。慣れないので背中も痛くなったのだと思う。パラマウント社製電動ベッドをリモコンを使って、あーでもないこーでもないと背もたれ角度や足上げを調整していたら、ル・コルビジュエが1929年にデザインした寝椅子、シェーズロング LC4 CHAISE LONGUE を思い出した。

LC4 CHAISE LONGUE ※CASSINA IXC HPより

 1997年の春、29歳の私はロサンゼルスのデザイン事務所で、仕事の合間にLC4に腰掛けてよく昼寝をしていた。大きなガラス窓を開けているとパサディナの丘を駆け上がってくる風が木立を揺らして、葉のすれあう音が心地良い午後だった。もう27年も昔の出来事だ。

 今は、院内の喧騒や患者たちのうめき声、常に聞こえる幾つものアラーム音が、ベッドに横たわる私のBGMとなっている。こうして術後の入院初日が過ぎて行った。


4:入院2日目「リハビリ開始」

1月25日木曜日

 結局眠ることなどできないまま、起床時間の午前6時になった。午後9時の消灯後、30分から1時間の間隔で目が覚める、というか携帯で時間を確認するとそんな感じだった。昨日同様、午前中は様々な検査が行われたが、術後の問題も無さそうで痛みなど自覚するものもなかった。

鼻からは酸素吸入、左腕は管だらけだった

 そして、いよいよリハビリの開始である。基本的に歩くだけなのだが、初日はベッドから起き上がって車椅子に座って10分くらい安静にする。全然出来るので「これでリハビリなのか?」と思った。

厳しい食事制限が課せられた

 昼からは食事開始。初めての病院食だ。聞いていた通りの薄味だったが、添えられていたフルーツ缶のマンゴーに救われて完食出来た。私の一日の摂取カロリーは1600kcalで、食塩は6gと決められている。昼食は熱量544kcalで食塩2.5gとなっていた。午後6時の夕食は半分くらいしか食べられなかった。


5:入院3日目「集中治療室の話」

1月26日金曜日

 やはり夜が眠れずに時間が経つのが遅い。時折様子を見にきていた看護師によれば短く寝ているとのことだったが、自分には自覚がない。朝食は半分残してしまった。

初オムツに自尊心が崩れ落ちる

 午前中に初便意。寝たまま大便をするのは奇妙な感覚だ。肛門から搾り出されるボリューム感のある粘土が、程良く抵抗感を持ちつつオムツの中にこんもりと溜まっていく。入院前に食べた「ごぼう天そば」と病院食三食分だろう。看護師さんが可愛らしいタイプなので申し訳ない気持ちになる。彼女たちには日常の光景だろうけれど。

常に点滴棒と一緒

 今日のリハビリは50m歩行。たった50mだと思っていたら半分くらい歩くと若干むせて息が切れてしまった。想像以上に心臓が弱ってるようだ。ベッドから出ることができるとEICU救急集中治療室の構造がわかって新鮮だ。ロの字型のフロア中央に看護師ステーションがあって、周りを19床が取り囲んでいる。開け放たれたそれぞれのカーテンの奥には皆同様に管を繋がれた人たち(大半が高齢者)が横たわっている。一床あたりの広さは5m x5mくらいで壁はなくカーテンで仕切られ、中央にパラマウント製の電動ベッドがあり、周りに24時間監視のモニター装置や点滴棒、ワゴンが並んでいる。

 昼食は半分くらい食べた。病院食らしい安定した薄味、昨日のマンゴーが恋しい。午後、尿道カテーテルを抜いた。引き抜く時も強烈だった。看護師さん自身も出産した時に経験したそうで「2、3日は違和感が残りますよ」と言っていた。

治験コーディネーターも看護師のひとりだ

 回診では医師から治験の依頼。治験コーディネーターの女性からそこそこ厚い書類を手渡され、詳しい内容、副作用リスク等々を説明される。いわゆる新薬の実験なのだが、プラセボ(偽薬)か新薬かは医師にもわからない仕組みになっている。返事は月曜日で良いのだという。

 夕方近くになって、EICU救急集中治療室から、EHCU救急重症治療室へと移動した。T大学病院のEHCUは36床あってフロアが二つに分かれている。私が移動した場所はちょうどフロアの角で、左壁に窓があって外が見られるのが嬉しかった。

ブラインド越しに差し込む薄明かりが嬉しい

 今日の夕食は8割くらい食べられた。そして、午後9時の消灯から検温がある午前0時までは眠ることが出来た。隣の老人がやたらうるさいと思ったら、尿が出ないのにカテーテルを入れたくないとゴネている。

 今、自分に起きていることは全部嘘なんじゃないかと思う。3日前までは心筋梗塞なんて縁のない病気だった。それが今、大学病院で重症治療室の天井をただ眺めている。人の死は無自覚に訪れると理解した。思い返してもあの痛みが死に繋がる症状だったなんて信じることが出来ない。ほんの数十分、数時間の差、受け入れ病院の体制が自分に味方してくれたからこそ、こうして天井を眺めることが出来ている。

 隣の老人は尿が出たらしく、看護師さんから「管は入れなくてイイね」と言われていた。あの強烈な痛みと違和感を味合わなくて済んだようで幸いだ。何床か遠くの方では入院初日に隣のベッドにいた老人が「誰か、息ができない、誰か助けて」と元気に何度も叫んでいた。


6:入院4日目「病棟の日常」

巨大なT大学病院

1月27日土曜日

 この病床には窓があってちょうど朝日が差し込んでくれる。まるで太陽エネルギーを充電しているような気分になる。朝食前に歩いてトイレに行こうと起き上がったところでむせてしまい、軽い立ちくらみ。しばらくベッドに座っている。血中酸素量が少ないようだ。トイレで倒れては大変なので人生初の尿瓶を体験。溢れてしまわないかとドキドキした。

自分で尿瓶を使う日が来るとは思わなかった

 朝食は3割くらいを残した。こうしてベッドの上で不自由を強いられていると、自分一人では何も解決できない苦々しさを噛み締める。排尿排便の苦労を思うと自然と食が進まなくなり、水を飲むのも躊躇する。横たわっている時間が長いことも実はかなりの苦痛である。先日の能登半島地震で避難所にいる方々に比べれば恵まれているけれど、精神的に参ってしまうことはよくわかった。

 看護師に付き添われ、なんとか歩いてトイレへ行き、管だらけで使えない左手が邪魔にならないように、右手だけで用を足すのも大変で時間がかかる。ゆっくりとした動作で淡々と。普段は使わないウォシュレットがありがたい。これでようやくオムツからさよなら出来た。

看護師のユニフォームもいろいろだ

 T大学病院の看護師たちはシフト制で、昼夜の交代や担当の入れ替わりが頻繁に行われ、その都度引き継ぎで患者の状態を間違いなく共有している。看護師によってユニフォームが異なるので尋ねてみると、担当エリアや職制によって統一されているのではなく、支給されたタイミングや自前で用意したなどの理由で様々なのだという。支給される枚数にも制限があるようで「クリーニングとか、なかなか大変なんです」とぼやいていた。

 昼食は8割くらいを食べた。そして待望のフルーツ、パインが添えられていた。たった5切れの小さなパインが、これほど美味しいと感じたのは初めてだ。至福の時である。

 EHCUはそこそこに患者が入れ替わる。元気な声で叫ぶ老人もいれば、呂律がまわらない、おそらく脳梗塞と思われる方もいる。そういえば10年ほど前だったか母親が脳梗塞になり、倒れる前に病院へ行ったのが幸いだったけれど、結局左手に麻痺が残ってしまった。昨晩、前のベッドに入った女性は腸炎という診断で、苦しそうにずっと唸っている。血液中にばい菌が入っているそうで「今後の治療方針を家族と相談する」と医師から告げられていた。

寝たきりのつらさが身に沁みる

 ふんわりとしたベッドの上で長時間同じ姿勢でいると、やはり腰が痛くなる。腰痛を回避するために、時々自分でベッドを動かすと背筋が伸びて気持ちがいい。ただ、身体に対する心臓の高さが変わるので、弱っている今の自分には、背もたれを少し動かしただけで息苦しさやくらつきがあらわれたりする。

 今日は午後になってからのリハビリ。私の担当ではない看護師の女性が付き添ってくれた。50m x 4セットの200m歩行。息が上がり一気には歩けない。途中ですれ違った歩行訓練を行なう高齢の女性に「がんばりましょう」と声を掛けると「がんばらなきゃね」と返してくれた。病院内を点滴棒を片手に看護師に付き添われて超ゆっくりと歩く患者は、以前に何度か見たことがあった。「そんなにゆっくり歩いてリハビリになるのだろうか」と思っていたが、実にきついリハビリである。

心臓は働き者である

 日本医師会のホームページによれば、心臓について『1回の収縮で約60ミリリットルの血液が送り出され、1分間に60~80回収縮し、約5リットルの血液量が全身に送り出されています。拍動の回数は1日約10万回、一生の間には40億回以上も打ち続けることになります。』とある。働き者である。感謝しかない。本当にいつもありがとう。

 夕食にはグレープフルーツが添えられていた。メニューにはフルーツ缶と書いてあり濃縮された甘味に救われる。食事は9割程度食べることが出来た。

 そして本日で点滴終了。管が取れたのは良かったが、間もなく左腕がパンパンに腫れて、左手はグローブのような厚みになっている。少し動かすだけで鋭い痛みがある。肌を摩っただけでも痛い。かなり熱を持っているのでアイスバッグで冷やす。看護師によれば「点滴が漏れてしまったのかも」とのこと。対処としては身体に吸収されるのを待つしかないらしい。せっかく両手が使えると思ったのだが、まだ右手だけで頑張らないといけないようだ。


7:入院5日目「生きろ」

鼻酸素の違和感も意外と慣れる

1月28日日曜日

 眠れる間隔が少し長くなってきた。夜中に気づけば2時間くらいが経っている。午後9時の消灯から午前6時の起床まで、病院の夜は長い。起床前後の時間帯は看護師たちも走り回るほど忙しい。自分で歩いてトイレに行けるようになったものの、鼻に付けられたチューブを壁から付け替えて、酸素ボンベを持って歩かなくてはならないので、落ち着いた頃を見計らってナースコール。小便のみだったけれど、計量カップになみなみで350ml

 朝食は7割くらいを食べた。

 今日のリハビリは500m歩行だ。昨日は200mで息が上がっていたので不安だったけれど、途中であまり休まずにがんばることができた。ほんの僅かだが身体が回復しているのがわかる。鼻からの酸素吸入量は毎分2.0リットルで前回と同じ。距離が長かったので程よい筋肉痛を感じる。ずっと寝たきりなので当然ながら筋力も落ちている。

 昼食は8割くらいを食べた。薄味の病院食でどうしてもご飯を食べきれない。体重は 75.5kgでほぼ変化なし。点滴終了後から腕がパンパンに腫れている症状を皮膚科の医師に診てもらうと、「蜂窩織炎(ほうかしきえん)」という皮膚の傷から細菌が入り込んで炎症を起こしている状態だったようで、抗生剤を点滴で処方することになった。

窓がありがたい

 午後、EHCU内で部屋を移動した。新しい場所はフロアの端にある四人部屋で、右壁の窓からはT大学病院の旧病棟が見えた。注文が多くて叫ぶ年寄りはいないし、けたたましい機器のアラーム音も聞こえない。身体の状態を監視する装置も手のひら大のユニットで無線式の物になって、病衣のポケットに収納することが出来る。酸素吸入のチューブだけは壁に直接繋がれており、移動する時は酸素ボンベに付け替えなければならない。

 夕食には待望のマンゴーが添えられていた。病院食の薄味に慣れてきたのか、今回はほぼ完食できた。四人部屋は個室になっているので、午後9時の消灯後はほぼ真っ暗になった。光るものはベッド脇の僅かなセンサー類が点滅する程度だ。暗くて静かな夜だった。

 「まだ生きろということです」
 明け方、午前5時。状況を知らせた友人からの返信を思い出し、自然と涙が止まらなくなった。「まさか自分が、こんなことで死ぬわけがない」と誰しもが思う。私もその通りだった。だから、死は無自覚にやってくる。生き残れたのは幸運が重なったからに過ぎない。友人が書いてくれた「生きろ」という言葉の印象が、以前とは全く違って感じられた。


8:入院6日目「明日に架ける橋」

1月29日月曜日

 朝食を、最初の病院食以来、完食した。担当が初めて男性の看護師に代わり、彼が私のiPadに興味を示したので少しの間、雑談した。

人数は少ないが頼りになる男性看護師

 彼は先日、能登半島地震の災害派遣から帰って来たのだという。能登半島中部への派遣だったそうだが、震災から三週間が経っても断水が続いていて厳しい状況だった、と話してくれた。災害の現場では彼のような看護師がまだまだ必要とされているのだ。

 自分が弱い立場になった時、無力さを痛感した時、手を差し伸べてくれる人たちの優しさが身に沁みる。しっかりと、そして頼もしい看護師の彼を見ていて、昔の曲を思い出した。

When you’re weary
Feeling small
When tears are in your eyes
I will dry them all

 サイモン&ガーファンクル「明日に架ける橋」の冒頭部分である。中学生だった頃によく聴いていた。1981年のニューヨーク、セントラルパークで彼らの再結成チャリティコンサートが行われ、翌年の世界ツアーで初来日した時に、後楽園球場で行われたコンサートへ行った。

初めての後楽園球場だった

 ちょうどバックネット裏あたりから見る彼らは豆粒のようだった。コンサート終了後、名残りを惜しむファンたちが唄う「サウンドオブサイレンス」の大合唱が夜空に響いていたのをよく覚えている。

 午後に一般病棟へ移ることが決まったので、早めに荷造りをしておく。EHCUでの最後の昼食は、ポークカレーとサラダ、それにミカンが一個だった。病院食にカレーが出てきたことに驚いた。まるで日常に戻ったかのようで、もちろん完食。みかんの濃厚な甘味に癒された。

 昼食後、車椅子に乗せられてエレベータで移動する。一般病棟の部屋は建物の11階で、窓側ではないものの眺めがとてもいい。四人部屋なのだけれど、二人分は今のところ空いている。移動が済んで落ち着いた頃に、金曜日に話をした治験コーディネーターがやって来た。彼女はコーディネーターといっても、この大学病院の看護師の一員である。投薬によるメリットデメリット、リスクやスケジュール等については既に説明を受けて納得していたので、治験に参加することにした。

いつもの妻の姿がありがたかった

 しばらくすると、妻が初めての面会にやって来た。入院準備のために必要な物を差し入れてくれてはいたが、集中治療室では直接会えないルールだったので彼女の顔を見るのは手術終了直後以来、五日ぶりになる。いつもと変わらない彼女の姿に少しホッとした。

 一般病棟での初めての食事だけれど、私のメニューは変わらず、一日の摂取カロリーが合計で1600kcal、食塩は6g、夕食は526kcalとなっていた。夕食を完食してまもなく、強烈な眠気に襲われていつの間にか眠ってしまった。

気付けば爆睡

 ほんの一時間程度の間だったけれど、気づいた時には傍らに看護師が立っていた。消灯前の検査が終わると寝床についたが、今度は午前0時くらいまでなかなか寝付けなかった。午前3時過ぎに尿意を感じて目が覚めると、ちょうど同室の患者が部屋を出て行くところだった。点滴棒を片手に何度も出入りしている様子がカーテン越しにわかる。こんな時間にいったい何をしているのか、徘徊だろうか。少し様子を伺ってから、彼が戻って来たタイミングでトイレに行った。

 目が醒めてからは眠れなくなって、慣れないベッドを調整したりした。昨日から酸素吸入を中止していることもあってか、むせて咳き込んだりすることが多い。気持ちを落ち着けてしばらく安静にしていれば呼吸が落ち着く。自分の心臓の機能が低下していることを思い知らされる。


9:入院7日目「動物園」

1月30日火曜日

 一般病棟の朝食は少し遅い。起床時間が午前6時なのに、朝食が出て来たのは午前8時だった。

すみれ組の看護師たち

 この階の看護師には各グループごとに花の名前がつけれられている。私の区画の担当は「すみれ」だった。すみれの花言葉は「謙虚」「誠実」「小さな幸せ」である。彼女たちはEICUやEHCUの看護師たちとは少し印象が違って見えた。集中治療室は24時間監視の特別な場所なので、患者の緊急事態にすぐさま対応できるよう看護師は常に緊張に晒されている。対して一般病棟の患者の容態は比較的落ち着いており、看護師は患者の社会復帰へ向けて寄り添いサポートする。そんな看護師たちがテキパキとルーチンワークをこなして行く様子を見ていると、日常を感じてホッとすることができた。

人間もいろいろ

 お昼前、同室の患者 Oさんが話しかけて来たのでしばらく雑談する。Oさんは胆管癌で、胃や腸の一部を含めていくつかの臓器を摘出したそうだ。聞けば私が救急車で運ばれた1月24日に手術したのだという。私が術後に集中治療室にいたことを話したら「あそこはうるさいよね」と言ったので「動物園ですよね」と返し、お互い苦笑いだった。

 病院には本当にいろいろな患者がいる。一様に病衣なので一般社会で何をしている人たちなのかは全くわからないが、面会に来る親族との会話から「どんな生活をしているのだろう」と想像するのも面白い。そして、お金に余裕のある方々はもっと上の階の個室に入院しているのだろう。ちなみに最上階の個室は差額ベッド代が一泊7万円で、私が昔お世話になった企業経営者が最期を迎えた場所でもある。

理学療法士の仕事も大変だ

 今日のリハビリは初めて酸素吸入のない状態での500m歩行。一般病棟のフロア内を何度か往復した。担当の男性理学療法士は、初日の車椅子に座るリハビリに来てくれた彼だった。順調に歩行距離を延ばせていることを伝え、若干の会話を挟みながら歩行を続けた。途中で一度休んだだけで歩き続けることが出来て、大きくむせることも無かった。まだまだではあるが日に日に体力が戻って来ているようだ。

病院ではいろいろな人々が働いている

 着替えの要望に、新しい病衣を持って現れたのはフィリピンからの実習生だった。早口だがしっかりと伝わる日本語でテキパキと着替えを手伝ってくれる。「背中拭きますか」というのでお願いした。海外からの実習生のことは近年しばしば問題になるが、少なくとも病院で働く彼女たちの気遣いのできる姿は日本人と何も変わらない。

 昼食は残さずに食べた。午後、回診にやって来た医師から、順調であれば退院が3日後の金曜日になることを告げられた。

夕食も完食した。午後9時、消灯。暗く静かな夜だった。


10:入院8日目「睡眠時無呼吸症候群」

1月31日水曜日

 携帯を確認すると午前4時20分。もうひと眠りしようと思い、寝床を直す。気付くと午前5時30分になっていた。ちょうど一週間前、自宅のベッドで痛みに耐えていた私を見かねた妻が、予定していた出張をキャンセルした時刻だ。彼女があのまま出掛けていたら、私は部屋でひとりで死んでいただろう。

妻には感謝しかない

 早朝だが、これから新幹線で出張へ出かける妻と、しばし携帯メールでやり取りをする。あの日、私が苦しんでいるのを「普段と違う」と察して、結果的に救急車を呼んだことで最悪の事態は避けられた。「入院してから2〜3日は長く感じたなぁ、1日が3日分くらい」と彼女は書いていた。「集中治療室から一般病棟に移ってからは、だいぶ気持ちが落ち着いた感じかなぁ」とも書いていた。妻には本当に心配をかけた、というか彼女の判断のおかげで、私は今こうして生きていられる。

 朝食後、回診で先生方がやって来た。検査の結果、睡眠時無呼吸症候群で「重症」の判定とのこと。先日、検査機器を一晩装着して眠った解析の結果だった。寝ている間の状態なんて自分自身では全く気づかない。言われて初めて「そうなんだ」とは思うけれど。正直どうにも納得は出来ないがデータは嘘をつかないのだ。

CPAP

 対策として寝ている間、CPAPという機器をつけるそうだ。どうやら吸入器の一種のようだが、一般人にはなにがなんやらわからない。とりあえず、今晩試しに装着してみることになった。

 午前中、看護師が医学部の学生を連れて挨拶にやってきた。学生が患者に話を聞くという実習で、私には今日から三日間、Hさんという学生が付くことになった。大学病院は診療治療のほか、医療に関する様々な要素が凝縮されている。総合病院としての充実した設備は地域医療にも安心感を与えているが、次世代の医療従事者を育成することも大学であることの大切な役割だ。

がんばれ若人

 昼食を完食した頃、ひとりでやってきたHさんは大学一年生だった。何を話せばいいのか尋ねると「患者さんと会話すること」が目的なのだという。今回、私に起きたことを彼女に話すのは記憶のリピートになる。私は毎年、デザイン系の大学生を対象としたワークショップを行なっているので、今どきの大学生とのつながりはあるが、医療看護系の学生との会話は初めてなので新鮮だった。

男性営業マンは支店長だった

 学生が帰ると次に、CPAPの会社の人が機器を持ってやってきた。オーストラリアのResMedという会社の製品で、使い方を詳しく説明されたが基本的には設定済なので、寝る前に装着してスイッチを入れるだけである。問題は付属のマスクを装着したまま果たして眠ることができるのか。こればっかりはやってみないとわからない。

 本日のリハビリも500m歩行。脈拍が95以上にならないように一定のペースで伴走者である理学療法士と適度な会話をしながら歩く。約半分の距離で一度休憩し、後半は会話無しで歩いたのに段々と息が上がってくる。病院内のフロアは完全な平面だが、自宅の周りは平地とは言っても微妙な高低差があるはずだ。退院してからのリハビリは厳しいものになるのかも、と覚悟した。

 退院日が決まり、状態も安定しているので、フロアのラウンジから実家の両親に電話を入れて今回の顛末について報告した。

午後9時消灯、初めてCPAPを装着して就寝。


11:入院9日目「私の心臓」

2月1日木曜日

 昨晩は合計で8時間30分CPAPを使ってみた。口呼吸のことが多い自分が自然に口を塞いで、鼻だけで呼吸できていたのが新鮮だった。今朝の血中酸素飽和度も97%で良好だ。ただし、薬の利尿作用によってほぼ2時間おきにトイレへ駆け込んでいたので、果たしてCPAPを使って熟睡できるのかはまだわからない。

 朝食を完食後、医師が状況を確認するためにやって来たので、あらためて私の心臓の画像を見せてもらった。

右冠動脈が途中で詰まっている状態
血栓が取り除かれて血流が回復した状態

 画像を見てこれが自分の心臓なのかと不思議に思った。56年間休むことなく動き続け、血栓によって悲鳴をあげ、あの日しめつけられるような強い痛みとなって、主人である私に訴えかけてきた。あのまま放っておいたら、血液が十分に届かない心臓は機能を停止して、私は死んでしまったのだ。

 午後、昨日の学生Hさんがやって来た。なぜ彼女が看護師を目指しているのかを質問してみると、中学生の頃に患い、手助けしてくれた看護師に憧れたことが切っ掛けだったという。傷つき弱った我々を優しく強く助けてくれる医療従事者は、いつの時代もヒロイン、ヒーローであり、憧れの存在なのだ。

 そして、病棟での最後のリハビリ。フロアを歩きながら、担当してくれた理学療法士と話す。彼は8年間この仕事に従事しているのだという。私がどんな質問をしても、丁寧に的確に答えてくれる。技術と知識に自信を持っていることが窺える。医療従事者たちの印象で共通して感じるのは「使命感」だ。肉体的にも精神的にも弱って苦しんでいる患者を、入院前の日常を取り戻すまで全力で見守ってくれる。患者である我々は彼らの強く静かな意志を感じるからこそ、頑張ることができるのだ。

最後の夜

消灯前、病棟のラウンジから最後の夜景をぼんやりと眺めた。


12:退院

お世話になりました

2月2日金曜日

 退院の日の朝、最後の食事を完食してまもなく、看護師から「退院に向けての確認事項」の説明を受けた。外来受診の手順、体調不良や緊急で受診する場合の対応などだ。

退院後も油断せず、自重しなさいということ

 退院後の生活については、食事制限はないがバランスの良い食事を心がけ、脂質の多い食物は控えること。入浴は(心臓への負担を避けるため)シャワーのみ。運動については「入院中の指導を継続すること」とある。さらに退院後は5ヶ月間の「心臓リハビリテーションプログラム」が組まれている。内容は、運動療法、心肺運動負荷検査、管理栄養士による栄養指導、心臓リハビリ担当医の診察。このプログラムを行いつつ、自宅での運動療法を続けるになる。

 看護師の説明が終わり、荷物を片付けたらそのまま帰って良いとのことだった。荷造りをしていると、学生Hさんが挨拶にやってきた。これから看護師を目指す彼女が、私との会話の中から何かを得てくれたのであれば幸いである。「YOASOBIの曲で何が好きか」といった会話が人生でどれほど役に立つのかは謎だけれど。別れ際に「頑張ってください」と言われたが「頑張るのは君だよ」とツッコミたくなった。ありがとう、立派な看護師になるんだよ。

 次回診察日までの25日分、11種類の薬を看護師が持ってきたタイミングで、妻が迎えにやってきた。


あとがき

 本文中に何度か書いているが「死は無自覚にやってくる」ものである。私の場合、幸いにして対応が早かったので、こうして自分に起きた顛末を自分で記すことができている。あの時、何かが少しでも違っていたら、今頃は自分に何が起きたのかもわからずに彷徨う魂になっていたかもしれない。心筋梗塞は本当に恐ろしい病気だが、心臓カテーテル手術によって無事社会復帰できている方も多いと聞いている、私もその一人だ。

 明日のことは誰にもわからないからこそ、いつもと違う異変に気づける感覚は持っていたい。あらためて、執刀していただいた医師、看護師、理学療法士、病院関係者の皆様に感謝したい。そして何より、あの日の私の異変に気づいてくれた妻に感謝したい、ありがとう。

(了)

56歳で急性心筋梗塞その2「退院後の近況」へ続く


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