黒い球
思い出せない。なぜこんな所に。
神楽坂で飲んで… それから電車に乗って帰ったはずだ。なぜタクシーに。そしてなぜタクシーの運転手はこんなところで俺を降ろしたんだ。
トンネルの中… どこなんだここは。
「ぐ… 」
頭に激痛が走る。酒のせいじゃない。そういう痛みではない。頭の奥をハンマーで殴られたような痛みだ。
どうなってるんだ… そうだスマホを…
無い。内ポケットか。いや内ポケットにはアレが入っているはずだ。
だが内ポケットに手を突っ込むと、指の感触はそれがあきらかに違うモノであることを示していた。
恐る恐るポケットから取り出し、暗がりの中、その物体を目を凝らして見てみる。
「なんだ、これは… 」
私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚はばかる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからだ。
「先生、お元気でしたか?」
「久しぶりね」
淡い色のワンピース、肩下まであるきれいな長い髪、耳たぶで揺れるピアス、やわらかく光る唇。
外見だけで判断すれば20代半ばに見えるだろう。中身を知らなければ。
「あれ、ちょっと痩せました?」
「最近みんなにそう言われるけどそうでもないのよ。変わらない」
「じゃ、ちょっと顔いじりました?」
「なに言ってんのよ。何にもしてないわよ」
「いや、また綺麗になったなと思って」
「もう、調子のよさは相変わらずね。そんなことはいいから、飲み物は?」
「あ、この店ね、スパークリングの日本酒を推してるみたです」
「いいわね、じゃそれで」
先生と知り合ったのがいつだったのか、どんなきっかけだったのか、なぜか記憶にない。思い出そうとするのだが、記憶を辿るといつも「いや、その前に知り合ってたはずだよな」と壁にぶつかりそれ以上時間を遡れないのだ。
彼女はいつもふらりと私の目の前に現れては、いつの間にか霧が晴れていくようにそっと静かに消えていく。
私は先生について何も知らない。年齢も、職業も、たぶん本名も。
以前「この辺りに住んでいるの」と聞いたことがある。そのためいつも神楽坂のお店を選ぶのだが、まるで隣の部屋から来たかのようにスーッと現れ、「じゃあ、また」とサラリと歩いて帰っていくその先生の後ろ姿に "住んでいる" は私の脳内で "棲んでいる" に変換されている。
「お元気でしたか? 一年ぶりぐらいですよね? 」
「そうね。一年か。ちょっといろいろ変化はあったけど。まあまあ楽しく過ごせていたわ」
「そうですか。さすが先生。」
「そちらは? あれ、あなたこそ、ちょっと痩せた? 」
そう言って先生は私の頭の先から足先までゆったりと視線を動かした。まるでスキャンでもするかのように。
「いえ、それが全然。ジムにも行って食事も気をつけてるんですけどね。なかなか」
「あら、そう… 」
「どうかしました?」
「ううん。いいの。それで? 今年はいい一年だった?」
「そうですね。よかったですよ。なんだか、やりたいこと全部やれた一年でした」
「それはよかったわね」
「はい。もう思い残すことないです。やりきりました」
「思い残すことないなんて、そんなこと言うもんじゃないわよ。まだまだ長生きしないと」
「でも長生きしてもね、生きてるだけでいいことあるわけじゃないですから」
「それもそうだけど。ホントにもう少し生きたいとは思わないの? そもそもね、あなたが今こうして生きてるのもあなただけの力じゃなくて、いろんな人のおかげなんだから。いろんな人の命が巡り巡って、今あなたが生かされてるのよ」
「たしかにね。そりゃそうなんですけどね」
その年齢に似つかわしくないほど熟成された思考や言動をする人を「人生〇周目」と表現することがあるが、私の先生に対する印象はそうではない。
この人はずっと生きている。
とはいえ彼女が人間である限り肉体には限界があり、時間の進行には抗えないはずだ。
だとするならば、とても不自然であり考えにくいことではあるのだが、導き出される結論は、からくりがあるのは時間の方だ。
もし時間をまるでゴムのように伸ばすことができるとしたら。もし私の1年が彼女にとっての10年だとするならば。仮に25歳だとしても250年生きていることになる。
そんなあり得ない妄想が、先生と一緒にいると現実に思えてくるのだ。
日本酒と和食のコースを一通りいただくと、先生がちょっと行きたいお店があるのと言うので次の店に行くことになった。これは先生の僕に対する気遣いで「私のおごりでもう一杯飲ませてあげる」ということだ。
このあたり、男性が女性に気を遣うのが当たり前という世代の私にとって先生は異質だ。そう、先生は異質なのだ。
私がなぜ先生に惹かれるのか。それは彼女が美しい女性だから、それだけではない。私は彼女に異性を求めているのではく、私は人間として、いや生命体として彼女に興味があるのだと思う。
何か、開けてはいけない扉がそこにあるようで。それが危険な行為だとわかっていながらも、その先を覗いてみたくなるのだ。
路地にあるバー。入るとカウンターが10席ほどで中にはバーテンダーが一人。薄暗い照明が店内の静かさを際立たせていた。
ボウモアのロック。先生と同じものを注文した。ソファーに深く腰をかけ、ロックグラスに入った氷を鳴らす。
「これ、あげる」
そう言いながら、どこから取り出したのか、先生が黒い球をテーブルの上に出した。
「なんですか、これ?」
野球のボールくらいの大きさで、持ってみると小さな音がした。中に何か入っているようだ。
「おみやげ、みたいなものかな」
「どっか旅行にでも行ってきたんですか?」
「まあね」
「そうですか。まあ、じゃあ、ありがとうございます」
なぜだかそれ以上聞いてはいけないような気になり、私はその黒い球をコートの内ポケットの中に入れた。
それからバーで先生と何を話したのかは、よく覚えていない。
気付けば会計は済んでいた。店の外に出ると、先生はいつものように言った。
「じゃあ、また」
そしてスーッと、とても滑らかに、先生の後ろ姿は小さくなっていた。
その後私は飯田橋の駅まで歩き、電車に乗った。そこまではしっかりと覚えているのだが。
なぜタクシーに。
いや、違う。タクシーじゃない。
振り返るとそこには車があった。
自分で車を運転してきたのだ。
こんなに酔っているのに? いったい何をしてるんだ俺は。
トンネルの中… どこなんだここは。
「ぐ… 」
頭に激痛が走る。
どうなってるんだ… そうだスマホを…
無い。内ポケットか。いや内ポケットにはさっき先生にもらった黒い球が入っていたはずだ。
だが内ポケットに手を突っ込むと、指の感触は、それがあきらかに球ではなく違うモノであることを示していた。
恐る恐るポケットから取り出し、暗がりの中、その物体を目を凝らして見てみる。
「なんだ、これは?」
本、なのか…
ヒキトリノキュウ ?
「ぐ… ぁ… 」
頭が痛い。もう立っていられない。私はアスファルトに膝をついた。意識が遠のいていく。その時、なぜかふと、先生の言葉が蘇った。
『 ホントにもう少し生きたいとは思わないの? 』
黒い球…
ヒキトリノキュウ…
-- 椎名林檎と宮本浩次『獣ゆく細道』--
借りものゝ 命がひとつ
厚かましく 使ひ込むで返せ
さあ貪れ 笑ひ飛ばすのさ
誰も 通れぬ程
狭き道をゆけ
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