Danny boy
その店は駅前通りから一本入った小さな路地裏にある。いわゆる「看板」は出ていない。最初にこの店の扉を開けたきっかけがなんだったのかは自分でも覚えていないが、それから月に何回か通うようになった。
職場からは帰るのと反対方向に駅を一つ行かなければいけない。でもそれがいいのだと思う。家に近かったら毎週のように通っていたのかもしれないから。
だからついでに寄れる場所ではなく、ちょっと手間がかかるこれくらいの距離が、たぶんちょうどいいのだと思う。
「一杯目はビールでいい?」
「うん」
カウンターの一番奥の椅子に座り、一杯目はビール、それからはずっとハイボールを飲む。それがこの店での僕のルーチンになっている。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
この店『 CafeSARI 』の店のオーナーでもある沙璃さんが作る料理がお気に入りの一番の理由だが、秘かに魅力を感じているのは彼女の接客だ。出過ぎず引っ込み過ぎず、丁寧で上品で小気味がいい。それが男一人で飲むのには ちょうどいいのだ。
こじんまりした店の作りとカジュアルな雰囲気、暗すぎない店内、そしていつも静かに流れているビル・エヴァンス。
『Danny boy』はアイルランド民謡『ロンドンデリーの歌』として親しまれていた曲に歌詞をつけたものだ。でもちょっと不思議な曲で、作曲者がわかっていない。さらにその音域はとても広く、一般の人が歌うのにはかなり難しい。それが伝統的な民謡として広まるのは極めて異例なことだという。
今から24年前、僕はこの曲を繰り返し聞いていた。息子が産まれてすぐに福島に転勤になった。桃の花が咲き、山々に映る夕焼けがきれいな街だった。
息子のおだやかな寝顔と窓から見えるその景色に、この曲のメロディーを合わせて聴くのが僕は好きだった。
その歌詞は、戦地に向かった我が子を想う母の歌だと言われている。
初めてこの店を訪れた時、この曲が流れていた。
ビル・エヴァンスのピアノには歌がない。
だが、だからこそなのか、すべてが美しかった。
「どうしますか?」
空になったビアグラスを見ながら沙璃さんが言う。
「あ、そうだね。ハイボールにしようかな」
二杯目からはハイボール。とくに銘柄にはこだわっていない。
息子が一人暮らしを始めて半年がたつ。男の子だ、いつか家を出るものだとわかってはいたけれど。今年に入ってからは一度しか顔を合わせてない。
だが自分の若い時を思い出せばわかるが、それでいいのだ。今彼はきっと、理不尽な現実と向き合い、毎日葛藤を繰り返しながら、それでもなんとか楽しく、自分の人生を生きているのだろう。
たまには帰ってこい、とスマホに文字を打ち込んで、また消した。
これでいいのだ。
大人になった息子と僕との距離は、きっとこれくらいがいいのだろう。
「なにかありました? 」
「俺? いや、別に」
「なんか、ちょっといつもと雰囲気違うなと思って」
「そう? 何にもないよ。判をついたように何の変化もない、とてもおじさんらしい暮らしをしてますよぉ~w」
「それならいいけど」
「そういえばさ、前に言ってた銀座のお店。そろそろどう?」
「ん~、そうね。まだちょっと早いかな。私も接客業だから、いろいろ気をつけてるのよ」
ワインのおいしい店があるからと誘った沙璃さんとの食事会は、政府の要請の都合で流れてそれからリスケされていない。
「そっか。ま、いっか。楽しみは先にとっておこう」
「そうね。 あ、今日はアヒージョあるけど、どう?」
「あら、それは美味しそうだね。もちろんいただくよ。あとハイボールもう一杯ね」
「オッケー」
沙璃さんとの距離もきっとこれくらいがいいのだろう。
がむしゃらに近付くことばかりを考え、一度つかんだものは離したくない、そんな想いで必死だった若い頃。
今は手放すこと、そして与えられた距離を受け入れられるようになった。
これも歳なのだろうか。だとしたら、それはそれで悪くない。
ちょうどいい距離。
そう。たぶん、これがちょうどいい距離なのだろう。
スピーカーからは初めてこの店に来た日と同じ、ビル・エヴァンスの『Danny boy』が流れていた。
♪ ああダニー
バグパイプの音が呼んでいる
谷から谷へ山の斜面を駆け下りるように
夏は過ぎ去り、薔薇も枯れ落ちる中
あなたは、あなたは 行ってしまう
戻ってきて、夏の草原の中
谷が雪で静かに白く染まるときでもいい
日の光の中、日陰の中に私は居ます
ああ私のかわいいダニー
あなたを心から愛しています
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