見出し画像

過去に公開した自分の記事を校正する

私は文章が下手だ。

下手なのは仕方ないのだが、下手なくせに長い文章を書くから面倒くさい。
下手なのに書く量だけ多いと、書いた後の校正というか自己レビューで直すべき箇所が多くなる。これが面倒くさい。
面倒くさいので、校正もそこそこに公開してしまい後悔する。
公開後もこっそり直すのだが、それでも直しきれずに放置してしまう。

そんな記事を引っ張り出して、再度校正してみようと思う。
恥をさらすようなものだが、私の記事は大して閲覧者もいないし、そもそも、このアカウントは匿名であるから多少の恥はかき捨てである。

直すべき箇所が多いので、修正点を全て上げたらきりがないのだけれど、修正点を見つける観点はある程度限定できるので、観点別に代表的なものを挙げてみたい。


助詞「が」「は」「も」「を」「で」の使い分け

いわゆる「てにをは」の「てをは」の使い分けである。

「てをは」は助詞の「で」「を」「は」を指すが、他にも同類で間違いやすい助詞に「が」「も」もある。
「てにをは」を使いこなせない、あるいは文章内で誤りが多いと、日本では社会人失格のレッテルを貼られること請け合いだが、そうはいっても文章の構造が複雑になれば校正なしの一発文章では、どうしても誤りは出てしまう。

これら助詞の誤りを直していくが、その前に、そもそもこれらはどういう助詞であったかを見直す。

「が」「は」「も」の使い分け方

助詞の「が」「は」「も」はいずれも、後ろの動詞に対して前はその動詞の行動の主体(だれが行動したのか、あるいは何について行動したのか)を表している。英文法でいうところの主語(S)と述語(V)、あるいは目的語(O)と述語(V)bである。
どれも、前が主語で後ろが述語であるのであれば、どれを使っても同じのように思えるが、日本語ではこの3つは明確に違うものとされ、使い方を誤ると日本語が下手だと詰られる。

「が」は、文章の要点は後ろの動詞であって、前の行動主体は動詞を修飾する役割程度の意味になる。
一方で「は」と「も」は、この助詞の前にある行動主体が文章の要点であるのを表現しているのは同じであるが、「は」は主体の限定、「も」は主体の重複を表している。

説明だけではわかり辛いだろうから、具体的に簡単な文章で説明する。
まず彼が動くでは、「動く」がメインであって「彼が」は「動く」を補足する「誰が?」の問いに答える情報に過ぎない。
これが彼は動くとなると、主眼を向けるべきは「彼」であって、後ろにあるのは「どうした?」の答えである動詞となる。さらに「動く」のは「彼」のみであり、他の「動かない」存在を暗に示している。
最後に彼も動くにすると、主眼を向けるべきは「彼」であるのは「は」と違いないが、「は」とは反対に他の「動く」存在があると、こちらは明確に示している。

もう少し解りやすい例を挙げると、俺は海賊王になるだと重要なのは「俺」である。構造を分析すると、「俺はなりたいものがある」→「そのなりたいものは海賊王だ」となる。先に挙げた「俺にはなりたいものがある」が重要なのだ。また、俺「は」であるから、暗に海賊王にはならない存在もほのめかしているが、文脈によってはこれがあまり重要とならない場合もある。
これを俺が海賊王になるに変えると、「海賊王になる」の方が重要になる。構造的には、「誰かが海賊王になる」→「それは俺だ」となる。もっとも重要なのは誰が海賊王になるかという点であり、ここでは俺がどうなりたいかの関心は低いのだ。
海賊王という誰も認知していないあやふやなポジションを自分自身で定義して、それを自分の目標として宣言するのであれば俺は海賊王になるの方が適切だろう。一方で、すでに複数人の間で海賊王の座を奪い合っている段階で、自分がその奪い合いに勝ち抜く意思を示すのであれば俺が海賊王になるの方が適切だろう。

「が」「を」の使い分け方

では、「を」は何かというと、後ろにくるのは動詞でも他動詞となる。他動詞なので「を」の前には行動主体ではなく行動対象が置かれる。
他動詞とは行動の主体とは別に、行動の作用する対象がいる動詞だ。
例えば、「動く」「行く」「できる」「死ぬ」「会う」「別れる」は自動詞なので、前に「~を」と付けられない。
一方で、「動かす」「殺す」「会わせる」「読む」「食べる」などは他動詞なので、前に「~を」を付けて行動の対象を表現する。むしろ、他動詞は「~を」を付けないと意味が通らないものが多い。私は読むという文章では、意味が解らないだろう。私は本を読むと書いてやっと意味が通る。

彼を動かすと書けば、「動いた」ものは誰もおらず「動かされた」ものがあり、「動かされた」対象は「彼」である。
彼を動くになると、「動く」が他動詞ではなく自動詞なので、文法的に完全な誤りとなる。意味も通らない。
ところで、彼を動かすだけでは誰が「動かした」のかを表現できない。「動かした」ものが誰かを表現したければ、私が彼を動かす私は彼を動かすのように「を」の前の対象物のさらにその前に、「が」「は」あるいは「も」を挟んで書けばよい。

ここで注意したいのは、私が彼を動かす彼を私が動かすと書いても強調したい対象の僅少な違いはあっても、基本は同じ意味になる点だ。
「が」「は」「も」の前に示す主語と「を」の前に目的語の位置を入れ替えても同じ意味になるのだから、助詞を間違えると文章の意味は大きく違ってしまう。
私が彼を動かす私を彼が動かすと書き間違えると、全く異なる意味になる。
だから、助詞の選別を間違えてはいけないのだ。

一方で、こんな「が」と「を」の使い分けもある。
文章が読める
文章を読める
この場合、「読める」というフィジビリティを表す動詞に対して、「が」も「を」も動作の対象を表している。
しかし、以下のように助詞の前の単語を書き換えると、助詞の前後の関係が変わってします。
彼が読める
彼を読める

上記の場合、彼が読めるは読めるという行動をしているのが彼であるのに対し、彼を読めるでは読めるの対象が彼になる。
つまり、助詞の後ろにある動詞は同じでも、前と後ろの意味の関連によって、助詞の前で示している単語が後ろの動詞との関係性が変わってしまう。
つまり「を」は、どのような場合でも後ろの述語の目的語を示しているのに対し、「が」と「は」ろ「も」については前後の単語の意味を理解していないと文章全体の正確な構造がつかめないのだ。

これは、文法上は正しい使い方でも、長い文章の中ではあまり入れたくない表現である。
読み手にとっての解釈にかかる負担が大きいのだ。
であれば、「が」と「を」のどちらでも意味が通る場合は「を」に統一してしまった方が良いように思う。

「を」「で」の使い分け方

「を」が動詞の目的語とすると、「で」は動詞の手段を表している。
解りやすい例ではインターネットで調べるインターネットを調べるでは、意味が明確に異なるのはわかるだろう。
前者は「インターネットを利用して調べる」という意味であるし、後者は「インターネットとは何かを調べる」という意味になる。

これも、間違いようが無いように思えるが、例えば、
世界の頭脳で集結させた
世界の頭脳が集結させた
世界の頭脳を集結させた
のように、用いる単語によっては「で」「を」「が」のどれでも少々無理はあるが意味が通ってしまうケースもある。
特に比喩表現や婉曲表現を用いる際には注意が必要となるケースが多いように思える。
このような場合、そもそも文章で何を表現しようとしていたかに立ち返らないと、助詞の選択を誤ってしまう。

①「が」と「も」の使い分けの誤りを直す

「が」と「も」を使い分けを間違えるケースは少ない。
しかし、文章を何度も書き直しているうちに前後関係が滅茶苦茶になって間違えるケースはまれにある。

南原寺の公式では花山法皇はこの南原寺で崩御されたとあるが、他にも花山院菩提寺、京都、石川県那谷寺での崩御の話あり、実際どこで亡くなったのかわからない。あるいは各地を転々としながら何度も亡くなったのか。

花山法皇ゆかりの地をまとめた(西国三十三所を除く)

太字の「が」について単独ではおかしくはないのだが、前にある南原寺崩御との対比で花山院菩提寺、京都、石川県那谷寺を挙げているのだから、ここは「が」ではなく「も」が正しい。

南原寺の公式では花山法皇はこの南原寺で崩御されたとあるが、他にも花山院菩提寺、京都、石川県那谷寺での崩御の話あり、実際どこで亡くなったのかわからない。あるいは各地を転々としながら何度も亡くなったのか。

意外と私の記事では「が」と「も」の間違いが多いので、もう一つ例を挙げておく。

今回の宿泊地はお寺である。そもそも、紀伊半島の旅館は一人の宿泊者を泊めてくれる施設が少なく、この大泰寺はTempleHotelと銘打って、一人の宿泊客も受け入れていたのが選択理由だった。

しかし、それ以前に、これまで毎度毎度、花山法皇のゆかりの地として数々の寺院を訪ねているというのに、仏教をあまりにも軽んじていたのを反省する意図あった。

花山法皇ゆかりの地をゆく⑥〜熊野古道、熊野三山 後編〜

これも大泰寺を宿泊先に選択した理由として「①一人の宿泊者を受け入れる施設が少ない」「②仏教を軽んじていたのを反省する」の二つがあるのだから、「が」ではなく「も」が正しいだろう。
ただ、理由の大きさとして②の方が大きいのを強調するために、あえて「が」を使ったともいえる。その場合「しかし、それ以前に」の箇所を直して、二つの理由は並べられるものではないともっと強調した表現に変えたい。

しかし、それよりももっと重要な理由として、これまで毎度毎度、花山法皇のゆかりの地として数々の寺院を訪ねているというのに、仏教をあまりにも軽んじていたのを反省する意図あった。

②「が」と「は」の使い分けの誤りを直す

「が」と「は」の使い分けは微妙だ。
英語であれば、わざわざ使い分けなど発生しないケースもあるが、日本語では「が」と「は」の選択を常に迫られる。
どちらでも意味が通るケースは多いし、その際はどちらを使うべきかを悩まされる。

私と同じ年代と思われるリュックを背負ったおばちゃんが一人、私と同じようにバスを待っているようだった。間も無く目的のバスやってきた。

花山法皇ゆかりの地をゆく①〜花山院菩提寺、紙屋川上陵編〜

これは、修正するべきかどうかは微妙な線だが、前の文章でバスを待っていると書いたのだから、「は」でやってきたのは待っていたバスであると限定した表現にした方が良いと思われる。

選択のポイントは「目的のバスはどうしていたか」と「ここに何かがやってきた」の、どちらに興味が向いていたかによるだろう。どちらも興味あるよ、あるいは興味ないよと言われればそれまでだが。
どんなバスも訪れる気配のないバス停であれば「バスがやってきた」の方が良いが、様々なバスが訪れる中で目的のバスがきたのであれば「バスはやってきた」の方が良い。この場合はどちらでもないのが厄介だ。

私と同じ年代と思われるリュックを背負ったおばちゃんが一人、私と同じようにバスを待っているようだった。間も無く目的のバスやってきた。

③「が」と「を」の使い分けの誤りを直す

「が」と「を」の違いは明白で間違えなど起こりえないように思えるが、日常の会話では使い分けを曖昧にしているケースがあり、それが文章にも出てしまう。

平安時代の当時であっても、自由に旅できるならば、山口県は長門国よりもっと訪れるべき場所はいくらでもあったはずなのだ。

花山法皇ゆかりの地をゆく②〜阿伏兎観音、山口県編〜

これは、明らかに使い方を間違えてしまった。
本来は「~ができる」が正しいのに、世間ではなんとなく「~をできる」という誤った文法も使われてしまっているせいだ。

平安時代の当時であっても、自由に旅できるのであれば、山口県長門国よりもっと訪れるべき場所はいくらでもあったはずなのだ。

反対に「を」を使うべきところを、「が」にしてしまっている文章もある。

朝一の新幹線と特急を乗り継いで12時前後に到着する場所というと、距離的には紀伊勝浦よりも遠い、西は鳥取や松山、徳島、北は長万部あたりとなり、これらの地名を並べると、紀伊半島の遠さ改めて実感できる。

花山法皇ゆかりの地をゆく⑤〜熊野古道、熊野三山 前編〜

これは「~ができる」につられた誤りだ。
この文章では「紀伊半島の遠さ」は「実感できる」の対象なのだから「を」が正しい。

朝一の新幹線と特急を乗り継いで12時前後に到着する場所というと、距離的には紀伊勝浦よりも遠い、西は鳥取や松山、徳島、北は長万部あたりとなり、これらの地名を並べると、紀伊半島の遠さ改めて実感できる。

④「を」と「で」の使い分けの誤りを直す

「を」と「で」も使い分けの誤りはある。

ネットで調べられる限りまとめてみたので、花山法皇マニアは参考にしてみてほしい。

花山法皇ゆかりの地をまとめた(西国三十三所を除く)

これを誤りではないが、微妙なラインのように思える。
「調べられる限り」の後方に略されている言葉を「ネットで調べられる限り(の情報)でまとめた」とすれば誤りであるが、「ネットで調べられる限り(の情報だけ)でまとめた」とすれば誤りとは言い切れない。

しかし、「まとめてみた」という他動詞の目的語が不在なのがわかりにくい表現には違いないので、直すとすれば以下のようになるはずだ。

ネットで調べられる限りの情報をできるだけまとめてみたので、花山法皇マニアは参考にしてみてほしい。

⑤「が」「は」の省略を直す

「が」「は」を口語では省略できるケースもある。しかし、文章にすると意味は通じるが砕けすぎてしまう。

福山駅内のパン屋で新幹線内で食べる朝食を買おうと思ったが、思ったより行列ができていて時間に間に合うかわからないので、対面のコンビニでお茶だけ買って、新幹線改札を抜けてホームへあがろうとするが、正面エスカレーターでは初老の男性が上りエスカレーターから転げ落ちていた。

「時間に間に合うかわからない」は口に出して喋る分には問題ないだろうけど、文章としては稚拙な印象を与えてしまう。きちんと助詞を入れておきたい。

福山駅内のパン屋で新幹線内で食べる朝食を買おうと思ったが、思ったより行列ができていて時間に間に合うかわからないので、対面のコンビニでお茶だけ買って、新幹線改札を抜けてホームへあがろうとするが、正面エスカレーターでは初老の男性が上りエスカレーターから転げ落ちていた。

これも「が」「は」のどちらを使うか悩むケースだが、ここで「は」を使うと、他はわかっているんだというニュアンスが出る。
「行列ができて」いるせいで朝食を買うのを諦めたのではなく、「わからない」からこそ朝食を買うのを諦めたのであるから「が」を採用した。
旅に出て見知らぬ土地に行くと、わからないことはとにかく多い。
行列が長くて時間に間に合わないかもしれないという不安はあるが、不安やわからないことはそれだけではないというニュアンスを出した。

助詞「へ」「に」の使い分け

方向を示す「へ」「に」の使い分けは、正直、どういう使い分けをするべきか明確な基準を知らなかった。フィーリングで書き分けていた。

しかし、旅行記であれば方向を示す表現を多用するようになる。
そうであればやはり、「へ」「に」の使い分けもしっかりとしておきたい。

改めてどういう違いがあるのか調べると、NHKのサイトに以下の様にあった。

「北に向かっている」と「北へ向かっている」の「に」と「へ」は格助詞で、いずれも、「向かう」という移動を表す動詞の到達点や方向性を示しています。一般的に、「に」が到達点そのものに焦点が当てられているのに対して、「へ」はそれよりも広い範囲、つまり到達点とともにそれに向かう経路や方向性に焦点が当てられています(『みんなの日本語事典』参考)。台風の進路を伝える場合は、台風が向かう到着点が決まっているわけではなく、重要なのは「向かう方向」なので、どちらかというと「北へ向かっている」のほうがいいかもしれません。しかし、こうした「に」と「へ」の意味の使い分けは現代では、たいへんあいまいです。

『日本語文法大辞典』によると、「へ」は、もともとは、名詞、特に場所を示す語に付いて、「道の辺(へ)」「浦の沖辺(へ)」などと用いられた名詞「へ(辺)」が格助詞に転成したもので、奈良時代から平安時代にかけて成立したとあります。移動の意を持つ動詞とともに使われ、その動作の方向を示す働きが本来のものでした(万葉集の「新羅へか家にか帰る壱岐の島行かむたどきも思ひかねつも<新羅へ行くか家に帰るか、行く手がかりも思いつかない>」には、本来の「へ」と「に」の使い分けが示されています)。それが、平安時代中期頃からは、「へ」が、本来、動作の帰着・到着点を示す格助詞「に」の用法に侵入して、「帰着・到着点」を示すようになり、現代の「に」と「へ」の使い分けのあいまいさにつながっていると、同辞典では解説しています。

「明日、東京へ行く」と「明日、東京に行く」では、意味を伝えるうえでは、どちらを使っても支障はありません。しかし、「へ」を使った前者は「方向としての東京」を示すのに対して、「に」を使った後者には、「ほかのどこでもない、東京」という到着点が強調されるニュアンスがあります。また、『明鏡国語辞典』(第2版)では、動きの展開をする方向を特に表す「前へ前へ突き進む」「公益法人、民営化の方向へ」などでは「に」は不自然になるとされています。場面によっては、こうしたニュアンスを考慮して、「へ」か「に」かを選ぶことも必要でしょう。

方向を表す「に」と「へ」|NHK放送文化研究所

このルールに従うと、以下の文章の「に」はあまり適切であるように思えない。

せっかく、高い金出して関西行くのであれば、花山院菩提寺だけではなく他にも色々回っておきたいと、ホテルなども手配して、11月3日(金)の早朝、東京駅6時09分発のぞみに間に合うように早起きをして千葉県の自宅を発った。

花山法皇ゆかりの地をゆく①〜花山院菩提寺、紙屋川上陵編〜

どちらでも良いとも思われるが、文脈的に関西という曖昧な方向を示しているのだから、ここは「へ」に変えた方が良いだろう。
実際、この旅行記では関西だけではなく、名古屋や木曽福島などの関西地方以外の場所も訪問している。

せっかく、高い金出して関西行くのであれば、花山院菩提寺だけではなく他にも色々回っておきたいと、ホテルなども手配して、11月3日(金)の早朝、東京駅6時09分発のぞみに間に合うように早起きをして千葉県の自宅を発った。

不要な「こと」がある

現在の私が所属している会社では、仕事上のドキュメントの文章に「こと」を入れるなと言われる。

たしかに言われてみると、あまり考えずに書いた文章には不要な「こと」が多いし、7割くらいは「こと」を除いて書き直した方がスッキリした読みやすい文章になる。
残りの3割は入れたままの方が良いのだが、どのような場合は入れて、どのような場合は除いた方が良いかの判断は難しいから、芸術表現の文章でなければ「こと」を文章からすべて除いてしまうというルールは有りだと思う。

①要らない「こと」

久しぶりの新幹線グリーン車に少し浮き足立っていた私は、自分の席を見つけると、背負っていたリュックを網棚に乗せようとしたら座席に落としてしまい、すでに着席していた隣席の乗客に睨まれた。全て自分が悪いことだが、2時間30分弱の時間を席を隣にする御人とのファーストコンタクトがこれでは、幸先が悪い。

花山法皇ゆかりの地をゆく①〜花山院菩提寺、紙屋川上陵編〜

これは、完全に他の言葉に置き換えた方が良い「こと」だ。
私の記事にはこういう「こと」がたくさん残っていた。

久しぶりの新幹線グリーン車に少し浮き足立っていた私は、自分の席を見つけると、背負っていたリュックを網棚に乗せようとしたら座席に落としてしまい、すでに着席していた隣席の乗客に睨まれた。全て自分が悪いだが、2時間30分弱の時間を席を隣にする御人とのファーストコンタクトがこれでは、幸先が悪い。

②曖昧表現としての「こと」

先ほどのオバちゃんもバスを待っている。向こうから声をかけられた。清水寺にもいくのですか?と聞かれ、清水寺とは京都ではなく姫路の清水寺のことだろうが、私は菩提寺だけですと答えると、それ以上何も話しかけてこなかった。

花山法皇ゆかりの地をゆく①〜花山院菩提寺、紙屋川上陵編〜

この「こと」は、もっと詳しい表現にできる箇所を「こと」という曖昧な表現で済ましている。
これでも意味は通じるので、そのままでも良いがあえて書き換えてみるとこうなる。

先ほどのオバちゃんもバスを待っている。向こうから声をかけられた。清水寺にもいくのですか?と聞かれ、清水寺とは京都ではなく姫路の清水寺を指しているのだろうが、私は菩提寺だけですと答えると、それ以上何も話しかけてこなかった。

書き換えてみるとはっきりわかるが、「こと」という曖昧な表現は書き手側にとっては便利だが、読み手側にはこの文章を読むにあったって曖昧さを脳内で補完しながら読む分の労力が発生する。
これは読み手側に負担を与えているわけだから、直せるのであれば具体的な表現に直したほうが良い。

しかし、何でもかんでも具体的に文章を書くと、くどい印象を与えるケースだってある。
仕事上の文章であれば具体的に記述した方が良いけれど、note記事のような文章であればうまく「こと」も使いこなしていきたい。

③口語体として使っている「こと」

それでは、「こと」を入れた方が良いケースも挙げてみる。

しかし、実際の歌詞に具体的な地名が入っているわけでもなければ、公式で作詞者ご本人がこの楽曲についてより詳しい情報を発信してもいない。むしろ、作詞家ご本人にしてみれば隠して無かったことにしたいくらいの事件を、私の中だけでわざわざ掘り返したようなものであった。

花山法皇ゆかりの地をゆく②〜阿伏兎観音、山口県編〜

「無かったことにしたい」は口語でよく使う言い回しであるから、こういうカジュアルな文章ではそのままにしておきたい。
あえて直すと以下のようになるが、意味が微妙に変わってしまう。

しかし、実際の歌詞に具体的な地名が入っているわけでもなければ、公式で作詞者ご本人がこの楽曲についてより詳しい情報を発信してもいない。むしろ、作詞家ご本人にしてみれば隠して無かった事件にしたいのに、私の中だけでわざわざ掘り返したようなものであった。

「無かったことにしたいくらいの事件を」を「無かった事件にしたいのに」に変えてしまうと、元の文章では作詞者の気持ちを推測していた表現が消えてしまう。
では「無かった事件にしたいはずであろうに」とすれば良いようにも思えるが、これでは元の文章よりも推測したという表現が強くなりすぎる。
仕事上での文章であればこの違いは問題にならないが、note記事ではこのニュアンスの違いにこだわりたい場合だってある。
ここは、「推測ではあるが事件の内容は作詞者にとって無かったことにしたいくらいの事件に違いない」という意味で表現したいし、ここでは推測であるかどうかとか事件の内容がどうかは主題ではないから、書き換えは適切であるように思えない。

④わざと使っている「こと」

上記で「こと」は曖昧表現だと書いたが、わざとあいまいな表現としての「こと」を入れる場合だってある。

鉄道というやつは、いくら我々が鉄道を愛しても、鉄道は我々に乗車券が示す場所まで運んでくれる以上のことはしてくれない。そんな鉄道にいつまでも興味や愛着を持ち続けるには、他に興味を移さないか、あるいは過剰な執着が必要だ。

鉄道の魔力

「こと」が曖昧表現だとすれば、上記の「こと」は具体的に何を指すのだろうか。
鉄道が我々にしてくれる「こと」だから、第一にサービスだと思われるが、その前段で「我々が鉄道を愛しても」と書いているから、それに返す愛や奉仕の意味も含まれる。
しかし、これを以下のように書き換えてしまうと、具体的に書き過ぎて内容を限定してしまい、文章表現の豊かさを損ねている。
文章表現の豊かさとは、読み手側が感じたり解釈する自由とも言い換えられるだろう。

鉄道というやつは、いくら我々が鉄道を愛しても、鉄道は我々に乗車券が示す場所まで運んでくれる以上のサービスや愛や奉仕等はしてくれない。そんな鉄道にいつまでも興味や愛着を持ち続けるには、他に興味を移さないか、あるいは過剰な執着が必要だ。

改行が少ない

note記事において、改行の付け方はクリエイターの個性である。
一般的な紙面の文章より改行の多い文章の方が、note記事では読みやすいとされているが、それだって限界はあるだろう。
それにしても、私の記事は特に初期において改行が少なすぎたので、それも直していく。

三田駅から花山院菩提寺まではバスになる。バスの出発は9時55分だから時間があるが、待ち時間を持て余す。バス停は北口だが、三田駅で賑やかなのはどうやら南口のようだ。しかし、南口に出てみても、この中途半端な時間を潰せるような店はなさそうだった。仕方ないので、何もない北口に戻りバスを待つ。私と同じ年代と思われるリュックを背負ったおばちゃんが一人、私と同じようにバスを待っているようだった。間も無く目的のバスがやってきた。神姫バス母子行き 9時55分三田駅発。バスは私とそのおばちゃんの二人だけだった。花山院菩提寺まではバスで12分程度とのことだったので、歩いても良いかと思ったが、実際にバスに乗ってみると距離もあるし峠越えもある。素直にバスを使って良かったと思った。

花山法皇ゆかりの地をゆく①〜花山院菩提寺、紙屋川上陵編〜

俺は改行をこまめに入れて読者に媚びを売るなんて真似はしないんだと、強がってみてもさすがにこれはひどすぎる。
もしかすると、あやまって写真のキャプションに入ってしまい、修正後に改行の付けなおしをしなかっただけかもしれない。
一つの段落に9つの文章を詰め込むのは、紙面の文章でもやり過ぎだろう。
そもそも、この記事は全体的に改行が少ないので、この箇所だけ直すと逆におかしくなるので、実際に直すかどうかは悩みどころだが、修正例を挙げておく。

三田駅から花山院菩提寺まではバスになる。
バスの出発は9時55分だから時間があるが、待ち時間を持て余す。
バス停は北口だが、三田駅で賑やかなのはどうやら南口のようだ。しかし、南口に出てみても、この中途半端な時間を潰せるような店はなさそうだった。仕方ないので、何もない北口に戻りバスを待つ。
私と同じ年代と思われるリュックを背負ったおばちゃんが一人、私と同じようにバスを待っているようだった。

間も無く目的のバスがやってきた。
神姫バス母子行き 9時55分三田駅発。
バスは私とそのおばちゃんの二人だけだった。花山院菩提寺まではバスで12分程度とのことだったので、歩いても良いかと思ったが、実際にバスに乗ってみると距離もあるし峠越えもある。素直にバスを使って良かったと思った。

使用方法を誤った接続詞

これは私の癖なのだが、どうにも「しかし」「だが」のような逆説接続詞を多用してしまう傾向がある。
もちろん、それで意味が通れば問題ないのだが、短い文章の間に何度も「しかし」が続くのは格好悪いし、そもそも逆説接続詞を使う必要がない場面で使ってしまう場合もある。

①選択を誤った接続詞

すでにこの区間の鉄道としての社会的役割は数十年前に終えていて、実際に廃止となれば、一時は市町村の議員や役人が苦情を言い、廃止ニュースに群がる鉄道マニアで少々の賑わいを取り戻すのだろうが、実際に廃止となった後では誰も困らないような路線には違いない。
しかし、旅行者としてはこういう路線の方が乗りごたえがある。

花山法皇ゆかりの地をゆく⑧〜鳥取市、高梁市 後編〜

接続詞の前では因美線が廃止に近いと述べて、その後に乗りごたえがあると書いている。
一見、反対の内容を述べているようにも見えるが、正確には反対ではなく前の説明に対する意外な内容を後ろで述べている。
この場合は同じ逆説接続詞でも「しかし」より「ところが」が適切だ。

すでにこの区間の鉄道としての社会的役割は数十年前に終えていて、実際に廃止となれば、一時は市町村の議員や役人が苦情を言い、廃止ニュースに群がる鉄道マニアで少々の賑わいを取り戻すのだろうが、実際に廃止となった後では誰も困らないような路線には違いない。
ところが、旅行者としてはこういう路線の方が乗りごたえがある。

②使う間隔を誤った接続詞

同じ接続詞が何度も連続して登場するのは、そもそも変である。
「しかし」という逆説接続詞が連続する文章というのは、要は何度も内容をひっくり返しているわけで、それでまともな文章になるはずがない。
「しかし」の使い方を誤っているか、文章の内容を含めた構成がおかしいかのいずれかだ。

藤原兼家は花山天皇を騙して出家をさせた寛和の変の黒幕であるから、花山法皇にとっては互いに政敵、宿敵である。しかし、敵と言っても権力を掌握した60歳近い老練な摂政と、天皇の地位を陰謀で追われた20代前半の若造の身では、実力の差は火を見るより明らかであっただろう。しかし、兼家が健在であった期間は権力構造も安定していただろうし、兼家と実力差が違い過ぎる花山法皇が京の貴族の権力争いに巻き込まれることはなかったのではないか。要は敵ではなかったのだ。しかし、兼家が亡くなり、兼家の息子たちを主として残された貴族たちで骨肉の権力争いが始まると、西国三十三所の巡礼を終えて仏教界でも一目置かれる存在になっていたと思われる花山法皇も、権力争いの渦中に巻き込まれた可能性が高い。

花山法皇ゆかりの地をゆく②〜阿伏兎観音、山口県編〜

これは特に私が「しかし」を多用してしまう悪癖が出てしまった文章だ。
改めてこの文章を構成を把握するために、内容を箇条書きにすると以下のようになる。

  1. 藤原兼家と花山法皇は宿敵だ

  2. 兼家と花山法皇の実力差は明らかだ

  3. 兼家の権力は安定していたから、花山法皇は権力争いには巻き込まれなかっただろう

  4. 兼家が亡くなると花山法皇も権力争いの渦中に巻き込まれただろう

こうして整理をすると、3.と4.は兼家の死によって花山法皇の状況が反対になったと予測しているから、「しかし」のような逆説接続詞で両者をつなぐのは適切であるように思える。
しかし、1.と2.については「敵である」と「実力差が明らか」は正反対の内容ではないので、「しかし」より柔らかい表現の逆説接続詞に変えたい。
2.と3.についても、実力差が大きいから、兼家の実力が強いから花山法皇が権力争いに巻き込まれなかっただろうというロジックなので、逆説接続詞よりは順説接続詞の理由と原因をつなぐ接続詞に置き換えたい。

藤原兼家は花山天皇を騙して出家をさせた寛和の変の黒幕であるから、花山法皇にとっては互いに政敵、宿敵である。とはいうものの、敵と言っても権力を掌握した60歳近い老練な摂政と、天皇の地位を陰謀で追われた20代前半の若造の身では、実力の差は火を見るより明らかであっただろう。ゆえに、兼家が健在であった期間は権力構造も安定していただろうし、兼家と実力差が違い過ぎる花山法皇が京の貴族の権力争いに巻き込まれることはなかったのではないか。要は敵ではなかったのだ。しかし、兼家が亡くなり、兼家の息子たちを主として残された貴族たちで骨肉の権力争いが始まると、西国三十三所の巡礼を終えて仏教界でも一目置かれる存在になっていたと思われる花山法皇も、権力争いの渦中に巻き込まれた可能性が高い。

一つの文章に複数の接続詞

これは一つの文章が長くなりすぎて、おかしな文章になっているケースである。

①逆説接続詞の連続

「しかし」のような逆説接続詞を一つの文章で二つ以上入る文章は、冒頭の内容に対して逆の逆まで一つの文章内で述べている状態だ。
これは、いくら文法上は誤りではないとして、好ましい表現ではない。

福山駅内のパン屋で新幹線内で食べる朝食を買おうと思った、思ったより行列ができていて時間に間に合うかわからないので、対面のコンビニでお茶だけ買って、新幹線改札を抜けてホームへあがろうとする、正面エスカレーターでは初老の男性が上りエスカレーターから転げ落ちていた。

花山法皇ゆかりの地をゆく②〜阿伏兎観音、山口県編〜

上記の文章では、起こった事象を淡々と一つの文章で書き連ねていたら、全体として不自然な文章になってしまった。しかも、後半の「が」は前後が逆説の関係にないから、そもそも接続詞の使い方を誤っている。

福山駅内のパン屋で新幹線内で食べる朝食を買おうと思ったが、思ったより行列ができていて時間に間に合うかわからないので、対面のコンビニでお茶だけ買った。
こうして新幹線改札を抜けてホームへあがろうとすると、正面エスカレーターでは初老の男性が上りエスカレーターから転げ落ちていた。

②順説接続詞の連続

「だから」のような順説接続詞は、前の事象に対して後に原因や要因を記述する際に使う。
一つの文章に複数の順説接続詞が入るのは、内容が矛盾していなければ事象に対する原因の原因となってしまうが、そのような複雑な構成であれば、そもそも文章全体の表現を見直したい。

おまけに、1002年には花山法皇は引退した性空上人の元を訪れて、当時暮らしていた弥勒寺に立派なお堂を建てるのだから、性空上人は寛和の変の直後に訪れた花山法皇を、けんもほろろな扱いをした訳ではないだろうから、一泊のわずかな期間で、花山法皇を開眼させるような何かを性空上人は与えたのではないだろうか。

花山法皇ゆかりの地をゆく③〜元慶寺、比叡山延暦寺、書写山圓教寺編〜

「1002年に弥勒寺に立派なお堂を建てた」→「寛和の変の直後に訪れた花山法皇をけんもほろろな扱いをしていないはず」→「わずかな期間で、花山法皇を開眼させるような何かを性空上人は与えた」という論理構成なのだが、これではわかり辛い。
1002年の前に986年の御幸でも花山法皇は性空上人の元を訪れていて、この文章は986年の御幸についてを書いているのだが、それもこの文章だけ読むとさっぱりわからない。

こうなると、全体的な文章の見直しをしなければならない。

おまけに、1002年には花山法皇は引退した性空上人の元を訪れて、当時暮らしていた弥勒寺に立派なお堂を建てている。
未来にそのような恩返しをするのだから、寛和の変直後の986年の御幸で性空上人は花山法皇にけんもほろろな扱いをした訳はなく、むしろ、一泊のわずかな時間で開眼させるような何かを性空上人は花山法皇へ与えたのではないだろうか。

漢字とひらがなの使い分け

これはプロのライターになると鍛えられるようだが、文章上の漢字とひらがなの使い分けというのは素人には難しい。

PCやスマホで文章を入力するのであれば、なんでも変換一発で済むのだから漢字にしてしまえばよいようにも思えるが、過剰な漢字表現は堅苦しくて読みづらい文章というイメージを読者に与えてしまう。
しかし、日本語というのは基本的に漢字を使った表意文字であるから、使うべき箇所で漢字を使わないと、意味がわかりづらい文章になってしまう。

①漢字を使うべき箇所をひらがなにしてしまっている

14時30分、磐台寺をでて千年橋に向かって歩き始める。ここからは観光客などは決して訪れない田舎の住宅地の中を歩くので、不審者と思われないように注意する

花山法皇ゆかりの地をゆく②〜阿伏兎観音、山口県編〜

「出」という漢字は難しくはないから、余程の理由がない限りは使っておきたい。
おまけに「でて」と濁点の有無はあるが「て」が続いてしまっているのは、読み手に対する印象が悪い。

14時30分、磐台寺を出て千年橋に向かって歩き始める。ここからは観光客などは決して訪れない田舎の住宅地の中を歩くので、不審者と思われないように注意する

②ひらがなを使うべき箇所を漢字にしてしまっている

代わりに、京都ブライトンホテルという、宗教施設のような不思議な形をしたホテルがあった。おそらく、安倍晴明の法力で、そのようなホテルが未来のこの世に建ったのだろうと、独り納得する。

花山法皇ゆかりの地をゆく③〜元慶寺、比叡山延暦寺、書写山圓教寺編〜

ニュアンスや感じ方の問題だが、この「独り」は「一人」でも良いはずだ。
どちらが適切であるか曖昧であれば、書き手に強いこだわりが無ければ漢字ではなくひらがなにしてしまった方が良い。

代わりに、京都ブライトンホテルという、宗教施設のような不思議な形をしたホテルがあった。おそらく、安倍晴明の法力で、そのようなホテルが未来のこの世に建ったのだろうと、ひとり納得する。

名詞単語の表記ゆれ

同じ記事内で同一のものを指す名詞単語に、複数の異なる単語を使って表現すると、読者に混乱を招く。
特に意図が無ければ、同じものを指す名詞の単語は、表記を統一しなければならない。

上郡でJRの職員から智頭急行の職員に変わったらしい。上郡駅を出てしばらくすると智頭急行の制服を着た男性と女性の二名の車掌が通路を通り過ぎて行った。
(中略)
しかし、智頭駅を過ぎた後も、社内を歩く車掌は智頭急行線の車掌のままであった。このまま、鳥取まで常務をするのだろうか。

花山法皇ゆかりの地をゆく⑦〜鳥取市、高梁市 前編〜

この記事では鉄道路線としての「智頭急行線」と、会社としての「智頭急行」を分けて記述していた。
そのルールに従うと「智頭急行線の車掌」は誤りで、正しくは「智頭急行の車掌」となる。

しかし、智頭駅を過ぎた後も、社内を歩く車掌は智頭急行の車掌のままであった。このまま、鳥取まで常務をするのだろうか。

金額や日付の書式統一

①金額の書式

金額は読みやすさを考えると3桁ごとに",”(カンマ)を入れたい。

着席して渡されたメニューを見たら、ディナーメニューは10000円前後する。値段の高さにひるむが、腹をくくって8000円の熊野牛フィレステーキを注文した。

花山法皇ゆかりの地をゆく⑥〜熊野古道、熊野三山 後編〜

万単位であればカンマが無くても大抵の読者は読めるだろうけれど、こういう表現は統一したい。

着席して渡されたメニューを見たら、ディナーメニューは10,000円前後する。値段の高さにひるむが、腹をくくって8,000円の熊野牛フィレステーキを注文した。

②日付の書式

初期のころの記事は日付の書式を統一できず、何度も修正をしていた。その修正漏れがまだ残っている。

11月3日(金)の早朝、東京駅6時09分発のぞみに間に合うように早起きをして千葉県の自宅を発った。

花山法皇ゆかりの地をゆく①〜花山院菩提寺、紙屋川上陵編〜

後の記事では、記事内で日付が変わった最初の記述には年を含めた日付も入れて時刻を記載している。また分の数字が一桁だった場合に二桁目の0は入れないようにした。
また、日付の書式を統一すると、文章も直さなければならなくなる。

2023年11月3日金曜日6時9分の早朝に出発するのぞみに間に合うように早起きをして千葉県の自宅を発った。

同じ表現の重複

これまでは名詞と書式の統一するように訂正をしていたが、形容詞などの修飾表現は逆に、文章内の近い範囲での重複を避けたい。

本堂の賽銭箱に賽銭を入れて一通りの参拝を終えたのち、本堂の中を覗くが人の気配がない。本堂の横に住職の住居と思われる家屋があるが、こちらも気配が無く、住職は下山しているのだろうか。
本堂の横に最近整備されたと思われる石段があったが、こちらも清掃はされていないようで、石段の上に小枝や枯葉が積もっている。石段を登ると右に古い鐘をみつけたが、さらに登ると少し開けた展望台のような広場があった。こちらも整備清掃はされていないようで雑草で荒れていた。しかし、ここからの景色は大したもので、厚狭の街並みとその先の瀬戸内海が見渡せる、風光明媚な場所であった。

花山法皇ゆかりの地をゆく②〜阿伏兎観音、山口県編〜

上記の文章では、修飾語ではないが「こちらも」という語句が、短い文章の間に何度も出てきてくどい印象を受ける文章になってしまった。
意味は通じるが、もう少し工夫したい。

本堂の賽銭箱に賽銭を入れて一通りの参拝を終えたのち、本堂の中を覗くが人の気配がない。本堂の横に住職の住居と思われる家屋があるが、こちらも気配が無く、住職は下山しているのだろうか。
本堂の横に最近整備されたと思われる石段があったが、清掃をされていないようで、石段の上に小枝や枯葉が積もっている。石段を登ると右に古い鐘をみつけたが、さらに登ると少し開けた展望台のような広場があった。ここも整備清掃はされていないようで雑草で荒れていた。しかし、ここからの景色は大したもので、厚狭の街並みとその先の瀬戸内海が見渡せる、風光明媚な場所であった。

日本語は難しい

こうして修正方針を書きだしながら、自分で書いた記事の修正箇所を探していると、改めて日本語の難しさを思い知らされる。

私の場合、別に気負ってnote記事を書いているわけではないが、それでも他人に見せるものだから少しは色気を出したくなる。恰好を付けたくなる。
だからと言って、他人に公開するからと、一流の文豪が書くような書体を素人が真似ても、変な文章になるだけである。
まずは正しい文法で、具体的でわかりやすく読みやすい文章を書くようにこころがけたい。

平易で解りやすい文章でも、価値のある文章はたくさんあるのだから。

この記事が参加している募集

noteの書き方

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?