過去に公開した自分の記事を校正する
私は文章が下手だ。
下手なのは仕方ないのだが、下手なくせに長い文章を書くから面倒くさい。
下手なのに書く量だけ多いと、書いた後の校正というか自己レビューで直すべき箇所が多くなる。これが面倒くさい。
面倒くさいので、校正もそこそこに公開してしまい後悔する。
公開後もこっそり直すのだが、それでも直しきれずに放置してしまう。
そんな記事を引っ張り出して、再度校正してみようと思う。
恥をさらすようなものだが、私の記事は大して閲覧者もいないし、そもそも、このアカウントは匿名であるから多少の恥はかき捨てである。
直すべき箇所が多いので、修正点を全て上げたらきりがないのだけれど、修正点を見つける観点はある程度限定できるので、観点別に代表的なものを挙げてみたい。
助詞「が」「は」「も」「を」「で」の使い分け
いわゆる「てにをは」の「てをは」の使い分けである。
「てをは」は助詞の「で」「を」「は」を指すが、他にも同類で間違いやすい助詞に「が」「も」もある。
「てにをは」を使いこなせない、あるいは文章内で誤りが多いと、日本では社会人失格のレッテルを貼られること請け合いだが、そうはいっても文章の構造が複雑になれば校正なしの一発文章では、どうしても誤りは出てしまう。
これら助詞の誤りを直していくが、その前に、そもそもこれらはどういう助詞であったかを見直す。
「が」「は」「も」の使い分け方
助詞の「が」「は」「も」はいずれも、後ろの動詞に対して前はその動詞の行動の主体(だれが行動したのか、あるいは何について行動したのか)を表している。英文法でいうところの主語(S)と述語(V)、あるいは目的語(O)と述語(V)bである。
どれも、前が主語で後ろが述語であるのであれば、どれを使っても同じのように思えるが、日本語ではこの3つは明確に違うものとされ、使い方を誤ると日本語が下手だと詰られる。
「が」は、文章の要点は後ろの動詞であって、前の行動主体は動詞を修飾する役割程度の意味になる。
一方で「は」と「も」は、この助詞の前にある行動主体が文章の要点であるのを表現しているのは同じであるが、「は」は主体の限定、「も」は主体の重複を表している。
説明だけではわかり辛いだろうから、具体的に簡単な文章で説明する。
まず彼が動くでは、「動く」がメインであって「彼が」は「動く」を補足する「誰が?」の問いに答える情報に過ぎない。
これが彼は動くとなると、主眼を向けるべきは「彼」であって、後ろにあるのは「どうした?」の答えである動詞となる。さらに「動く」のは「彼」のみであり、他の「動かない」存在を暗に示している。
最後に彼も動くにすると、主眼を向けるべきは「彼」であるのは「は」と違いないが、「は」とは反対に他の「動く」存在があると、こちらは明確に示している。
もう少し解りやすい例を挙げると、俺は海賊王になるだと重要なのは「俺」である。構造を分析すると、「俺はなりたいものがある」→「そのなりたいものは海賊王だ」となる。先に挙げた「俺にはなりたいものがある」が重要なのだ。また、俺「は」であるから、暗に海賊王にはならない存在もほのめかしているが、文脈によってはこれがあまり重要とならない場合もある。
これを俺が海賊王になるに変えると、「海賊王になる」の方が重要になる。構造的には、「誰かが海賊王になる」→「それは俺だ」となる。もっとも重要なのは誰が海賊王になるかという点であり、ここでは俺がどうなりたいかの関心は低いのだ。
海賊王という誰も認知していないあやふやなポジションを自分自身で定義して、それを自分の目標として宣言するのであれば俺は海賊王になるの方が適切だろう。一方で、すでに複数人の間で海賊王の座を奪い合っている段階で、自分がその奪い合いに勝ち抜く意思を示すのであれば俺が海賊王になるの方が適切だろう。
「が」「を」の使い分け方
では、「を」は何かというと、後ろにくるのは動詞でも他動詞となる。他動詞なので「を」の前には行動主体ではなく行動対象が置かれる。
他動詞とは行動の主体とは別に、行動の作用する対象がいる動詞だ。
例えば、「動く」「行く」「できる」「死ぬ」「会う」「別れる」は自動詞なので、前に「~を」と付けられない。
一方で、「動かす」「殺す」「会わせる」「読む」「食べる」などは他動詞なので、前に「~を」を付けて行動の対象を表現する。むしろ、他動詞は「~を」を付けないと意味が通らないものが多い。私は読むという文章では、意味が解らないだろう。私は本を読むと書いてやっと意味が通る。
彼を動かすと書けば、「動いた」ものは誰もおらず「動かされた」ものがあり、「動かされた」対象は「彼」である。
彼を動くになると、「動く」が他動詞ではなく自動詞なので、文法的に完全な誤りとなる。意味も通らない。
ところで、彼を動かすだけでは誰が「動かした」のかを表現できない。「動かした」ものが誰かを表現したければ、私が彼を動かすや私は彼を動かすのように「を」の前の対象物のさらにその前に、「が」「は」あるいは「も」を挟んで書けばよい。
ここで注意したいのは、私が彼を動かすは彼を私が動かすと書いても強調したい対象の僅少な違いはあっても、基本は同じ意味になる点だ。
「が」「は」「も」の前に示す主語と「を」の前に目的語の位置を入れ替えても同じ意味になるのだから、助詞を間違えると文章の意味は大きく違ってしまう。
私が彼を動かすを私を彼が動かすと書き間違えると、全く異なる意味になる。
だから、助詞の選別を間違えてはいけないのだ。
一方で、こんな「が」と「を」の使い分けもある。
文章が読める
文章を読める
この場合、「読める」というフィジビリティを表す動詞に対して、「が」も「を」も動作の対象を表している。
しかし、以下のように助詞の前の単語を書き換えると、助詞の前後の関係が変わってします。
彼が読める
彼を読める
上記の場合、彼が読めるは読めるという行動をしているのが彼であるのに対し、彼を読めるでは読めるの対象が彼になる。
つまり、助詞の後ろにある動詞は同じでも、前と後ろの意味の関連によって、助詞の前で示している単語が後ろの動詞との関係性が変わってしまう。
つまり「を」は、どのような場合でも後ろの述語の目的語を示しているのに対し、「が」と「は」ろ「も」については前後の単語の意味を理解していないと文章全体の正確な構造がつかめないのだ。
これは、文法上は正しい使い方でも、長い文章の中ではあまり入れたくない表現である。
読み手にとっての解釈にかかる負担が大きいのだ。
であれば、「が」と「を」のどちらでも意味が通る場合は「を」に統一してしまった方が良いように思う。
「を」「で」の使い分け方
「を」が動詞の目的語とすると、「で」は動詞の手段を表している。
解りやすい例ではインターネットで調べるとインターネットを調べるでは、意味が明確に異なるのはわかるだろう。
前者は「インターネットを利用して調べる」という意味であるし、後者は「インターネットとは何かを調べる」という意味になる。
これも、間違いようが無いように思えるが、例えば、
世界の頭脳で集結させた
世界の頭脳が集結させた
世界の頭脳を集結させた
のように、用いる単語によっては「で」「を」「が」のどれでも少々無理はあるが意味が通ってしまうケースもある。
特に比喩表現や婉曲表現を用いる際には注意が必要となるケースが多いように思える。
このような場合、そもそも文章で何を表現しようとしていたかに立ち返らないと、助詞の選択を誤ってしまう。
①「が」と「も」の使い分けの誤りを直す
「が」と「も」を使い分けを間違えるケースは少ない。
しかし、文章を何度も書き直しているうちに前後関係が滅茶苦茶になって間違えるケースはまれにある。
太字の「が」について単独ではおかしくはないのだが、前にある南原寺崩御との対比で花山院菩提寺、京都、石川県那谷寺を挙げているのだから、ここは「が」ではなく「も」が正しい。
意外と私の記事では「が」と「も」の間違いが多いので、もう一つ例を挙げておく。
これも大泰寺を宿泊先に選択した理由として「①一人の宿泊者を受け入れる施設が少ない」「②仏教を軽んじていたのを反省する」の二つがあるのだから、「が」ではなく「も」が正しいだろう。
ただ、理由の大きさとして②の方が大きいのを強調するために、あえて「が」を使ったともいえる。その場合「しかし、それ以前に」の箇所を直して、二つの理由は並べられるものではないともっと強調した表現に変えたい。
②「が」と「は」の使い分けの誤りを直す
「が」と「は」の使い分けは微妙だ。
英語であれば、わざわざ使い分けなど発生しないケースもあるが、日本語では「が」と「は」の選択を常に迫られる。
どちらでも意味が通るケースは多いし、その際はどちらを使うべきかを悩まされる。
これは、修正するべきかどうかは微妙な線だが、前の文章でバスを待っていると書いたのだから、「は」でやってきたのは待っていたバスであると限定した表現にした方が良いと思われる。
選択のポイントは「目的のバスはどうしていたか」と「ここに何かがやってきた」の、どちらに興味が向いていたかによるだろう。どちらも興味あるよ、あるいは興味ないよと言われればそれまでだが。
どんなバスも訪れる気配のないバス停であれば「バスがやってきた」の方が良いが、様々なバスが訪れる中で目的のバスがきたのであれば「バスはやってきた」の方が良い。この場合はどちらでもないのが厄介だ。
③「が」と「を」の使い分けの誤りを直す
「が」と「を」の違いは明白で間違えなど起こりえないように思えるが、日常の会話では使い分けを曖昧にしているケースがあり、それが文章にも出てしまう。
これは、明らかに使い方を間違えてしまった。
本来は「~ができる」が正しいのに、世間ではなんとなく「~をできる」という誤った文法も使われてしまっているせいだ。
反対に「を」を使うべきところを、「が」にしてしまっている文章もある。
これは「~ができる」につられた誤りだ。
この文章では「紀伊半島の遠さ」は「実感できる」の対象なのだから「を」が正しい。
④「を」と「で」の使い分けの誤りを直す
「を」と「で」も使い分けの誤りはある。
これを誤りではないが、微妙なラインのように思える。
「調べられる限り」の後方に略されている言葉を「ネットで調べられる限り(の情報)でまとめた」とすれば誤りであるが、「ネットで調べられる限り(の情報だけ)でまとめた」とすれば誤りとは言い切れない。
しかし、「まとめてみた」という他動詞の目的語が不在なのがわかりにくい表現には違いないので、直すとすれば以下のようになるはずだ。
⑤「が」「は」の省略を直す
「が」「は」を口語では省略できるケースもある。しかし、文章にすると意味は通じるが砕けすぎてしまう。
「時間に間に合うかわからない」は口に出して喋る分には問題ないだろうけど、文章としては稚拙な印象を与えてしまう。きちんと助詞を入れておきたい。
これも「が」「は」のどちらを使うか悩むケースだが、ここで「は」を使うと、他はわかっているんだというニュアンスが出る。
「行列ができて」いるせいで朝食を買うのを諦めたのではなく、「わからない」からこそ朝食を買うのを諦めたのであるから「が」を採用した。
旅に出て見知らぬ土地に行くと、わからないことはとにかく多い。
行列が長くて時間に間に合わないかもしれないという不安はあるが、不安やわからないことはそれだけではないというニュアンスを出した。
助詞「へ」「に」の使い分け
方向を示す「へ」「に」の使い分けは、正直、どういう使い分けをするべきか明確な基準を知らなかった。フィーリングで書き分けていた。
しかし、旅行記であれば方向を示す表現を多用するようになる。
そうであればやはり、「へ」「に」の使い分けもしっかりとしておきたい。
改めてどういう違いがあるのか調べると、NHKのサイトに以下の様にあった。
このルールに従うと、以下の文章の「に」はあまり適切であるように思えない。
どちらでも良いとも思われるが、文脈的に関西という曖昧な方向を示しているのだから、ここは「へ」に変えた方が良いだろう。
実際、この旅行記では関西だけではなく、名古屋や木曽福島などの関西地方以外の場所も訪問している。
不要な「こと」がある
現在の私が所属している会社では、仕事上のドキュメントの文章に「こと」を入れるなと言われる。
たしかに言われてみると、あまり考えずに書いた文章には不要な「こと」が多いし、7割くらいは「こと」を除いて書き直した方がスッキリした読みやすい文章になる。
残りの3割は入れたままの方が良いのだが、どのような場合は入れて、どのような場合は除いた方が良いかの判断は難しいから、芸術表現の文章でなければ「こと」を文章からすべて除いてしまうというルールは有りだと思う。
①要らない「こと」
これは、完全に他の言葉に置き換えた方が良い「こと」だ。
私の記事にはこういう「こと」がたくさん残っていた。
②曖昧表現としての「こと」
この「こと」は、もっと詳しい表現にできる箇所を「こと」という曖昧な表現で済ましている。
これでも意味は通じるので、そのままでも良いがあえて書き換えてみるとこうなる。
書き換えてみるとはっきりわかるが、「こと」という曖昧な表現は書き手側にとっては便利だが、読み手側にはこの文章を読むにあったって曖昧さを脳内で補完しながら読む分の労力が発生する。
これは読み手側に負担を与えているわけだから、直せるのであれば具体的な表現に直したほうが良い。
しかし、何でもかんでも具体的に文章を書くと、くどい印象を与えるケースだってある。
仕事上の文章であれば具体的に記述した方が良いけれど、note記事のような文章であればうまく「こと」も使いこなしていきたい。
③口語体として使っている「こと」
それでは、「こと」を入れた方が良いケースも挙げてみる。
「無かったことにしたい」は口語でよく使う言い回しであるから、こういうカジュアルな文章ではそのままにしておきたい。
あえて直すと以下のようになるが、意味が微妙に変わってしまう。
「無かったことにしたいくらいの事件を」を「無かった事件にしたいのに」に変えてしまうと、元の文章では作詞者の気持ちを推測していた表現が消えてしまう。
では「無かった事件にしたいはずであろうに」とすれば良いようにも思えるが、これでは元の文章よりも推測したという表現が強くなりすぎる。
仕事上での文章であればこの違いは問題にならないが、note記事ではこのニュアンスの違いにこだわりたい場合だってある。
ここは、「推測ではあるが事件の内容は作詞者にとって無かったことにしたいくらいの事件に違いない」という意味で表現したいし、ここでは推測であるかどうかとか事件の内容がどうかは主題ではないから、書き換えは適切であるように思えない。
④わざと使っている「こと」
上記で「こと」は曖昧表現だと書いたが、わざとあいまいな表現としての「こと」を入れる場合だってある。
「こと」が曖昧表現だとすれば、上記の「こと」は具体的に何を指すのだろうか。
鉄道が我々にしてくれる「こと」だから、第一にサービスだと思われるが、その前段で「我々が鉄道を愛しても」と書いているから、それに返す愛や奉仕の意味も含まれる。
しかし、これを以下のように書き換えてしまうと、具体的に書き過ぎて内容を限定してしまい、文章表現の豊かさを損ねている。
文章表現の豊かさとは、読み手側が感じたり解釈する自由とも言い換えられるだろう。
改行が少ない
note記事において、改行の付け方はクリエイターの個性である。
一般的な紙面の文章より改行の多い文章の方が、note記事では読みやすいとされているが、それだって限界はあるだろう。
それにしても、私の記事は特に初期において改行が少なすぎたので、それも直していく。
俺は改行をこまめに入れて読者に媚びを売るなんて真似はしないんだと、強がってみてもさすがにこれはひどすぎる。
もしかすると、あやまって写真のキャプションに入ってしまい、修正後に改行の付けなおしをしなかっただけかもしれない。
一つの段落に9つの文章を詰め込むのは、紙面の文章でもやり過ぎだろう。
そもそも、この記事は全体的に改行が少ないので、この箇所だけ直すと逆におかしくなるので、実際に直すかどうかは悩みどころだが、修正例を挙げておく。
使用方法を誤った接続詞
これは私の癖なのだが、どうにも「しかし」「だが」のような逆説接続詞を多用してしまう傾向がある。
もちろん、それで意味が通れば問題ないのだが、短い文章の間に何度も「しかし」が続くのは格好悪いし、そもそも逆説接続詞を使う必要がない場面で使ってしまう場合もある。
①選択を誤った接続詞
接続詞の前では因美線が廃止に近いと述べて、その後に乗りごたえがあると書いている。
一見、反対の内容を述べているようにも見えるが、正確には反対ではなく前の説明に対する意外な内容を後ろで述べている。
この場合は同じ逆説接続詞でも「しかし」より「ところが」が適切だ。
②使う間隔を誤った接続詞
同じ接続詞が何度も連続して登場するのは、そもそも変である。
「しかし」という逆説接続詞が連続する文章というのは、要は何度も内容をひっくり返しているわけで、それでまともな文章になるはずがない。
「しかし」の使い方を誤っているか、文章の内容を含めた構成がおかしいかのいずれかだ。
これは特に私が「しかし」を多用してしまう悪癖が出てしまった文章だ。
改めてこの文章を構成を把握するために、内容を箇条書きにすると以下のようになる。
藤原兼家と花山法皇は宿敵だ
兼家と花山法皇の実力差は明らかだ
兼家の権力は安定していたから、花山法皇は権力争いには巻き込まれなかっただろう
兼家が亡くなると花山法皇も権力争いの渦中に巻き込まれただろう
こうして整理をすると、3.と4.は兼家の死によって花山法皇の状況が反対になったと予測しているから、「しかし」のような逆説接続詞で両者をつなぐのは適切であるように思える。
しかし、1.と2.については「敵である」と「実力差が明らか」は正反対の内容ではないので、「しかし」より柔らかい表現の逆説接続詞に変えたい。
2.と3.についても、実力差が大きいから、兼家の実力が強いから花山法皇が権力争いに巻き込まれなかっただろうというロジックなので、逆説接続詞よりは順説接続詞の理由と原因をつなぐ接続詞に置き換えたい。
一つの文章に複数の接続詞
これは一つの文章が長くなりすぎて、おかしな文章になっているケースである。
①逆説接続詞の連続
「しかし」のような逆説接続詞を一つの文章で二つ以上入る文章は、冒頭の内容に対して逆の逆まで一つの文章内で述べている状態だ。
これは、いくら文法上は誤りではないとして、好ましい表現ではない。
上記の文章では、起こった事象を淡々と一つの文章で書き連ねていたら、全体として不自然な文章になってしまった。しかも、後半の「が」は前後が逆説の関係にないから、そもそも接続詞の使い方を誤っている。
②順説接続詞の連続
「だから」のような順説接続詞は、前の事象に対して後に原因や要因を記述する際に使う。
一つの文章に複数の順説接続詞が入るのは、内容が矛盾していなければ事象に対する原因の原因となってしまうが、そのような複雑な構成であれば、そもそも文章全体の表現を見直したい。
「1002年に弥勒寺に立派なお堂を建てた」→「寛和の変の直後に訪れた花山法皇をけんもほろろな扱いをしていないはず」→「わずかな期間で、花山法皇を開眼させるような何かを性空上人は与えた」という論理構成なのだが、これではわかり辛い。
1002年の前に986年の御幸でも花山法皇は性空上人の元を訪れていて、この文章は986年の御幸についてを書いているのだが、それもこの文章だけ読むとさっぱりわからない。
こうなると、全体的な文章の見直しをしなければならない。
漢字とひらがなの使い分け
これはプロのライターになると鍛えられるようだが、文章上の漢字とひらがなの使い分けというのは素人には難しい。
PCやスマホで文章を入力するのであれば、なんでも変換一発で済むのだから漢字にしてしまえばよいようにも思えるが、過剰な漢字表現は堅苦しくて読みづらい文章というイメージを読者に与えてしまう。
しかし、日本語というのは基本的に漢字を使った表意文字であるから、使うべき箇所で漢字を使わないと、意味がわかりづらい文章になってしまう。
①漢字を使うべき箇所をひらがなにしてしまっている
「出」という漢字は難しくはないから、余程の理由がない限りは使っておきたい。
おまけに「でて」と濁点の有無はあるが「て」が続いてしまっているのは、読み手に対する印象が悪い。
②ひらがなを使うべき箇所を漢字にしてしまっている
ニュアンスや感じ方の問題だが、この「独り」は「一人」でも良いはずだ。
どちらが適切であるか曖昧であれば、書き手に強いこだわりが無ければ漢字ではなくひらがなにしてしまった方が良い。
名詞単語の表記ゆれ
同じ記事内で同一のものを指す名詞単語に、複数の異なる単語を使って表現すると、読者に混乱を招く。
特に意図が無ければ、同じものを指す名詞の単語は、表記を統一しなければならない。
この記事では鉄道路線としての「智頭急行線」と、会社としての「智頭急行」を分けて記述していた。
そのルールに従うと「智頭急行線の車掌」は誤りで、正しくは「智頭急行の車掌」となる。
金額や日付の書式統一
①金額の書式
金額は読みやすさを考えると3桁ごとに",”(カンマ)を入れたい。
万単位であればカンマが無くても大抵の読者は読めるだろうけれど、こういう表現は統一したい。
②日付の書式
初期のころの記事は日付の書式を統一できず、何度も修正をしていた。その修正漏れがまだ残っている。
後の記事では、記事内で日付が変わった最初の記述には年を含めた日付も入れて時刻を記載している。また分の数字が一桁だった場合に二桁目の0は入れないようにした。
また、日付の書式を統一すると、文章も直さなければならなくなる。
同じ表現の重複
これまでは名詞と書式の統一するように訂正をしていたが、形容詞などの修飾表現は逆に、文章内の近い範囲での重複を避けたい。
上記の文章では、修飾語ではないが「こちらも」という語句が、短い文章の間に何度も出てきてくどい印象を受ける文章になってしまった。
意味は通じるが、もう少し工夫したい。
日本語は難しい
こうして修正方針を書きだしながら、自分で書いた記事の修正箇所を探していると、改めて日本語の難しさを思い知らされる。
私の場合、別に気負ってnote記事を書いているわけではないが、それでも他人に見せるものだから少しは色気を出したくなる。恰好を付けたくなる。
だからと言って、他人に公開するからと、一流の文豪が書くような書体を素人が真似ても、変な文章になるだけである。
まずは正しい文法で、具体的でわかりやすく読みやすい文章を書くようにこころがけたい。
平易で解りやすい文章でも、価値のある文章はたくさんあるのだから。
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