見出し画像

花山法皇ゆかりの地をゆく⑤〜熊野古道、熊野三山 前編〜

関東地方に住んでいると、紀伊半島の伊勢や和歌山、あるいは吉野でもよいのだが、それより南のいわゆる南紀地方へ訪れようとする機会がめっぽう少ない。

紀伊半島を観光で訪れるとすれば、主な目的は温暖な気候、温泉、海岸、史跡になるのだろうが、関東から黒潮沿いの温暖な気候の保養地、温泉地、海岸を求めるのであれば、紀伊半島よりはるかに近い伊豆半島や房総半島がある。
史跡探訪の場所としての伊豆や房総は熊野に遠く及ばないのかもしれないが、熊野が世界遺産に登録されたといっても、上皇による熊野御幸が盛んだった平安時代後期や鎌倉時代前期の歴史に明るくなければ、日本人であってもその価値はあまり解らないだろう。
しかも、日本人というのは歴史に興味を持っても、その大半は興味の対象が戦国時代や明治維新といった派手な事件や戦乱の多い時期であって、平安時代は資料も少ないし大きい事件もないくせに人間関係はやたらと複雑で興味や関心を持ちにくい時代である。
むしろ、熊野古道よりもフランス巡礼路の方をありがたがってしまう日本人の方が、よっぽど多いかもしれない。

したがって、関東に住んでいると、わざわざ観光先としての紀伊半島に興味が向く機会は少なく、紀伊半島に旅行に行こうと思い立つ機会はますます少ない。

おまけに移動の困難さもある。
車で訪れるとなると、行程の9割以上は東名高速からはじまる自動車専用道を走るのだが、東京から紀伊勝浦までの距離は550kmを越え、これは東京から盛岡の距離に近い。
電車で訪れようとするとさらに厄介で、名古屋駅で新幹線から特急に乗り換えるのが最も近道であるが、名古屋から紀伊勝浦までは実に4時間近い時間がかかり、東京発6時の新幹線から乗り継いでも紀伊勝浦の到着は12時近くになる。同じ名古屋乗換で岐阜県は高山へ行くのでも10時過ぎには到着するのにである。しかも、この特急南紀は1日に4往復しかなく、2023年にJR東海によってHC85系という新型車両が導入されたものの、繁忙期を除くとたったの二両編成というありさまだ。
朝一の新幹線と特急を乗り継いで12時前後に到着する場所というと、距離的には紀伊勝浦よりも遠い、西は鳥取や松山、徳島、北は長万部あたりとなり、これらの地名を並べると、紀伊半島の遠さを改めて実感できる。
鉄道ルートとしては、新大阪からJR西日本の特急くろしおに乗って白浜まで行く方法もあり、このルートでも始発の新幹線から乗り継いで白浜着は12時頃となるが、こちらの方が特急の本数が多いので帰りが便利で、遠回りにはなるが、関東から紀伊半島を訪れる主要ルートはこちらであるように思える。
この他に、安価かつ週末旅行の交通手段として、夜行バスが最も現実的な交通手段のようにも思えるが、50歳も近い老いた身に、仕事の合間の週末で夜行バスを使った旅行は辛すぎる。
かつては、東京から紀伊勝浦まで直通する夜行特急があったようだが、これは1982年には機関士が飲酒事故を起こして客車を大破させたにも関わらず乗客の少なさから幸いにも死者は出ず、バブル景気前の1984年には廃止になってしまった。
このような経緯からも、関東から紀伊半島への輸送需要の少なさがわかる。

このように、関東在住の身として日本地図を眺めると、紀伊半島はせいぜい大阪を越えた神戸や姫路程度の距離感で見てしまいがちだが、実際に旅行を計画すると、あまりの遠さと不便さに二の足を踏んでしまう。

しかし、私は去年の年末から花山法皇のゆかりの地を訪ねると志したので、紀伊半島南部にある熊野や那智を無視するわけにはいかない。
花山法皇は未来の上皇院政時代に先駆けて熊野御幸を実施しており、資料毎に記載されている訪問年がバラバラであるため正確な時期ははっきりしないが、花山法皇が那智山に長期滞在をしたのは事実であるようだし、西国三十三所の縁起においては花山法皇が那智山の千日行によってあらわれた熊野権現のお導きにより西国三十三所巡礼を始めたとしているのだから、花山法皇にとっては京都や比叡山、花山院菩薩寺に次ぐ重要な土地に違いはなく、花山法皇のゆかりの地を訪ねると謳ったからには、訪問先から外すわけにはいかなかった。

そのような次第で紀伊半島の南紀地方訪問を決めたのだが、当初の計画では那智山にある青岸渡寺と那智大社、それに熊野速玉大社のいわゆる熊野三山のうちの二社を訪れればよいだろうと思っていた。
これであれば、初日は特急南紀で紀伊勝浦駅まで訪れて、そこからバスで那智山を訪れて紀伊勝浦駅周辺に宿泊、翌日は新宮に移動して熊野速玉大社を参拝しても時間には十分余裕がある。

しかし、熊野を調べてみると熊野古道の中辺路の途中にある箸折峠や紀伊半島西側の千里海岸にも花山法皇に関連する石碑の類があるようで、それを知ってしまうと訪問先に含めたくなる。
また、それらを訪れるのであれば、熊野本宮大社だって訪れたいし、熊野古道の主要な王子も見ておきたい。
すると、現地での気楽なバス移動は諦めてレンタカーを使うことになるが、それでも、週末の土日二日間では時間が足りない。
南紀地方までの移動手段に電車を使うと、紀伊勝浦駅と白浜駅のどちらを起点にするにせよ、レンタカーを借りて行動を開始するのは12時過ぎになってしまい、月曜日は仕事があるから遅くとも日曜日は22時前には自宅に帰ってこれるように復路を計画をすると、二日目は新宮駅に13時、あるいは白浜駅で15時までにレンタカーを返して帰路の特急に乗らなければならない。
この時間内では、熊野三山と箸折峠を回るだけでも精一杯なようであるし、渋滞などの些細なトラブルに巻き込まれると、その計画ですら破綻する。仮に首尾よく各所を回れたとしても、また昼食を摂る時間すらろくにない旅行になりかねない。

試案をした挙句、今回は飛行機を使用することにした。
朝一の飛行機で熊野観光の拠点となる南紀白浜空港に降り立てば、朝は9時から行動できるし、帰りの最終便を使えば17時過ぎまで動ける。
羽田空港から南紀白浜空港への便に運賃の安いLCCなどはなく、日本航空しかない。
日本航空の運賃は、割引が大して効かないどころか新幹線よりもかなりの割高となっていたが、初めての南紀地方の旅行でもあるし、これから先、生涯に何度訪れるかわからないだろうからと奮発し、高額な航空運賃は先の2024年1月2日の羽田空港火災事故の見舞金だと思いひとり納得をした。

飛行機で南紀白浜空港へ

2024年1月20日の土曜日、私は南紀白浜空港行きの飛行機に乗るために、朝の6時30分に羽田空港へやってきた。

私は電車に乗るが好きだし、電車にはコロナ渦の最中でもよく乗ったが、飛行機にはめったに乗らない。
今回の飛行機の搭乗は7~8年ぶりくらいかもしれない。
無人のチェックインを済ませ手荷物検査場を通ると、手荷物検査に引っかかってしまった。リュックに入れっぱなしにしていた登山用のファーストエイドキットに小型のアーミーナイフが入っていたのだ。捨てろと言われるかと思ったが、預け入れで対応してくれた。
どうにか検査場を抜けて、売店で朝飯のサンドイッチを買って近くのベンチで手荷物のウェストバッグを整理し、自分が乗る便のゲートへ向かう途中でスマートウォッチを失くしたのに気づいた。これも登山用で、10万円以上するものである。失くすのは惜しい。手荷物検査時にウェストバッグ内に入っているのは確かに見たから、その後には違いないが、どこで落としたかわからない。
あわてて、きた道を引き返し売店の店員さんに尋ねても、みつからなかったが、幸い売店横の荷物を整理したベンチに残っていた。
慣れない空港での一人旅に四苦八苦してしまったし、職員の方にも迷惑をかけたが、どうやらまだ運は尽きていないらしい。

気を取り直して出発ゲートへ進んだ。
羽田空港7時40分発のJAL213便は、いわゆる沖止めで出発ゲートからバスで飛行機まで向かった。
搭乗すると、ほぼ定刻通りにドアが閉まり、羽田空港の長いタキシングを経て、8時ちょうどくらいにD滑走路から離陸をした。
飛行機はガタガタと揺れながら雲を抜けて青空の下まで登ると、眼下の一面は雲海の海であった。

ここ最近の天気はずっと晴れだったし、この週末を過ぎた先の週間予報も晴れであるのに、この週末だけ予報は雨である。
旅行の時くらい晴れてくれと思うが、紀伊半島は雨の多い地域と聞く。むしろ、雨の紀伊半島こそ本来の姿が見れるのだと、ひとり自分をなぐさめる。
飛行機は水平飛行に入り、CAから配られたホットコーヒーをすすっていると、まだ飲み終わらないうちに、あと10分で着陸態勢に入るとアナウンスがあった。羽田空港と南紀白浜空港の直線距離は500km程度、飛行機の巡航速度であれば30分程度の距離なのだ。
8時50分、南紀白浜空港着。予定より5分早く着いた。
預け入れたリュックサックは早々に受取り、レンタカーを借りるためインフォメーションを右往左往して、どうにかレンタカー事務所にたどり着いた。

レンタカー事務所は、土曜日の朝一便の到着直後であるから週の中で最も忙しい日であろう。3人ほど先客が待っており、私も大人しくその後ろで待つ。受付係の若い店員さんは一人あたり3分程度で手際よくこなし、年配の店員さんが車の案内を流れ作業でする。
私はレンタカーを受け取ると、ETCカードの差し込み口だけその年配の店員さんに聞いた。店員さんからは「どこに行くのですか」と聞かれたので、私は「熊野三山です」と言うと、「それじゃあ、ETCはいらないですね」と言われた。

千里海岸

9時10分、南紀白浜空港をレンタカーで発った。熊野三山だけが目的であれば、さっそく中辺路沿いの国道311号に入って熊野本宮大社をめざすところであるが、この旅は花山法皇のゆかりの地を訪ねる旅なので、先に訪れておきたい場所があった。

ひとまず国道311号と中辺路は無視して国道42号を北上し、国道沿いがにぎやかな田辺市を抜けてさらにしばらく進んだところに、千里海岸という白浜の海岸がある。
そこには千里観音というお寺と、千里王子跡の神社があり、花山法皇の歌碑があるとの情報を事前に得ていたので、今回の訪問先に加えていた。

レンタカー備え付けのナビに従い千里観音を目指すと、海岸を見下ろす高台にある未舗装の駐車場に着いた。
駐車場に車を止めると、千里観音を指し示す看板があったので、それに従い階段を下りる。
千里観音のお寺があったので、賽銭を入れて参拝を済ませるが、寺の敷地内に花山法皇の歌碑は見つからない。

一度階段を下りて海岸に出ると、そこから千里観音とは反対側へ登ったところに千里王子跡があり、花山法皇の歌碑も見つかった。

たびの空 夜半の煙と のぼりなば あまの藻汐火 たくかとや見む

乱暴な意訳をすると「どうせ俺が死んだって誰も気にしないんだろ」というひねくれたもので、旅先のこの千里王子で体調を崩した際に詠まれた和歌のようだ。
まともな医療などない平安時代では体調不良が死に直結しただろうし、熱でも出せばもう死ぬかもと思うのは当然だったのかもしれないが、当時の花山法皇の境遇を考えると、どうも熊野御幸は病気以前に死に場所を探す旅であったように思える。
最愛の妻に死なれ、幼馴染の貴族たちには騙されて、出家して籠った比叡山もドロドロとした派閥争いが繰り広げられていて、いつ自分も巻き込まれるかもわからないのだ。
全てから逃げ出すように旅に出てみたのは良いけど、帰る場所がない。
旅のその後の展望が見えなければ、積極的に死にたいとまでは思わなくても、花山法皇の頭の中には常に死があったのではなかろうか。

未来を知る立場から見ると、仮にここで花山法皇が亡くなっていたのならば、990年には寛和の変の首謀者である藤原兼家が亡くなるし、994年からは京で天然痘が大流行し、995年には藤原道隆、藤原道兼が立て続けに亡くなるから、花山法皇の奇行と好色の不名誉な伝承はかき消されて、崇徳天皇に先立って菅原道真や平将門と並んで日本三大怨霊に数えられていたかもしれない。
さらに言えば、ここで花山法皇が亡くなって長徳の変が起きずに藤原隆家の失脚が発生しないと、1019年の刀伊の入寇を防げなかった可能性が高く、それで九州や本州でも大陸からの侵略者で大被害が出たとすると、それから現代にいたるまでの日本人の朝鮮半島と大陸に対する感情と防衛政策は大きく違っていただろう。
当時の花山法皇にはわかるはずもないだろうが、ここで花山法皇が死なずに生き残ったのは、塩を焚くかどうかなんて些末なものどころではなく、花山法皇自身の後世の評判はもちろん、1000年後の今を生きる我々日本人にとっても大きな意味があるのだ。

砂浜に下りてみる。
冬とは思えない、湿ったぬるい風を感じた。
今日の予報は雨だったはずだが、ここでは青空が見えた。
砂浜は白くてきれいだった。
しかし、誰もいない冬の砂浜というのは、寂寥感がひどい。
とても長い時間はいられそうになく、写真を数枚だけ撮ると、さっさと駐車場に引き返した。

滝尻王子・箸折峠

次は中辺路のなかでも重要な王子となる、滝尻王子を目指す。ナビに滝尻王子近くの熊野古道会館なる施設を入れると、田辺の市街地から海岸沿いを外れて山中に入り、途中で国道311号線に合流するルートを示したので、その通りに進む。
国道311号線に入ると富田川沿いに進むが、富田川は河原が広く川沿いに農村が続いている。しかし、滝尻王子手前になると谷が急峻になり続いていた里が途切れる。
熊野古道の中辺路も、滝尻王子からは川沿いではなく山の尾根を歩く道に変わる。その境界が滝尻王子なのだそうだ。
そのようなわけで、現代で熊野古道を歩くというのは、基本的にはこの滝尻王子から熊野本宮大社を経て熊野那智大社までの山道となるらしい。

今回の旅にあたっては、宮脇俊三の「日本探検二泊三日」と「平安鎌倉史紀行」を参考にした。
この本は30年以上前に書かれたものだが、数ある南紀地方の名所の中で、およそどこを訪れればよいの参考になった。
宮脇俊三も滝尻王子を訪れて、ここから始まる熊野古道の山道をつまみ食い程度に歩いたようであるが、急な登りと木々に囲まれた鬱蒼とした環境にすぐに辟易としてしまったようだ。

実際に歩いてみると、奥多摩の登山道を歩くよりは坂に石段が組まれていて歩きやすいのだが、それでも登山に慣れていない人にはつらいのかもしれない。
私も今回は熊野古道を歩くのが目的ではないので、200mほど登ってすぐに引き返して車に戻った。

次は箸折峠と牛馬童子である。
滝尻王子を出てすぐくらいから、車のフロントガラスに細かい雨粒が付くようになった。まだ小雨ではあるが、予報通り雨が降り始めた。
今日の山道歩きは牛馬童子までであるから、どうにか雨が強くならないうちに牛馬童子をこなしたい。

国道311号線を進み、道の駅熊野古道中辺路の駐車場で車を止める。ここから箸折峠までは、駐車場から国道311号線を渡ったらすぐにぶつかる熊野古道を徒歩で800mほど東へ進んだ場所らしい。
雨は小雨のままだが、いつ強くなるかわからない。
登山用のレインジャケットを羽織って車を出た。
事前に調べた通り、道の駅から国道311号線をわたると、すぐに熊野古道に入ることができた。熊野古道を近露方面に進む。宮脇俊三いわく急な登りとのことだが、実際は緩やかな坂を200mほど登ると舗装はされているが中央分離帯のない旧道に合流する。
現在の逢坂トンネルができる前はこちらが本筋の国道だったのだろう。
「日本探検二泊三日」では、この箸折峠の入口に宮脇俊三は旧道を走るバスで訪れた。30数年ほど前までは国道311号も今のような完全二車線の便利な道ではなかったのだ。
旧道を進むと、すぐに熊野古道は旧道から分岐して、また山道を歩く。

道は緩やかで高低差も少ないので歩くのは楽である。幸い雨も弱いままだった。
30年前の宮脇俊三が訪れた当時は崩れて枝につかまって歩かなければならない箇所もあったようだが、世界遺産登録の影響か、現在の山道は幅も広く道はしっかりしている。
山道を進むと、産業用モノレールが山道を跨いでいた。見た目は細くて頼りなさそうなレールだが、少し触ってみると当たり前だが人間の体重程度ではびくともしなさそうなほどしっかりとしていた。

それらを過ぎると、箸折峠である。
箸折峠は、花山法皇の一行が休んで弁当を食べようとしたときに、箸が無いのに気づき、近くの柴を折って箸にしたので、その場所の名前が箸折峠と名付けられた。その柴から赤い汁が滴ったのを花山法皇が見て「これは血か露か」と言ったから、箸折峠を下りた里の名前が近露となったらしい。
法皇というのも、何気なく口走った言葉が地名になってしまうのだから、うかつな発言もできない。
箸折峠には、花山法皇からは後の世となる鎌倉時代に花山法皇の写経と法衣を埋めたとされる宝篋印塔と、その後ろには牛馬童子像がある。
こんなところに埋めないで、宝物庫にでも保管してくれていれば、今でも実物を拝めたかもしれないのにと思うが、そんなことを言っても仕方ない。

牛馬童子像は明治に作られたもので歴史的価値はなさそうだが、それでも数年前に童子の頭が壊されて盗まれたのがニュースになった。頭は復元されたし、盗まれたものも見つかったようである。

熊野本宮大社

中辺路と並行して川沿いの谷間を延々とはしっていた国道311号線は、小雲鳥乗越の下にある大日山トンネルを抜けた本宮交差点を右に曲がり、新宮を目指すルートをとる。
新宮より先に熊野本宮大社を訪れたいので、私は本宮交差点を左に曲がった。
すると、熊野本宮大社につづく国道168号線はやたらと河原が広い熊野川沿いを走るようになった。しばらくすると、熊野本宮大社が近づいてきて道沿いがにぎやかになった。

12時20分、私は熊野本宮大社より手前の大斎原を訪れるため、手前の公衆トイレの駐車場に車を止めた。

大斎原は明治まで熊野本宮大社があった場所で、明治時代に洪水で熊野本宮が流されてしまったため、現在の位置に移転したらしい。
往時を描いたイラストを見ると、川の中州に熊野本宮があったようだ。そりゃ流されるだろうと思うが、宮脇俊三いわく、明治時代までは1000年以上も流されなかったのだから、明治以降の急な森林伐採と開発のせいではということらしい。1989年前後はとかく自然破壊や工業化を憂いていた時代でもある。

この因果関係の真偽はよくわからないが、とりあえず日本一の大鳥居を眺める。でかいけど、鳥居の先にあるのはあるのは本殿の跡地の石垣と、石垣の上にポツンと供えられた石碑のみである。
雨のせいもあるが、どうにも大鳥居を眺めても空しく寂しい。
どうせでかい鳥居を作るのであれば、あたらしい本宮大社の方に作ればよいのにと思うが、信仰心の故か無常感を表現したかったのだろうか、そういう単純な話でもないのだろう。

駐車場に戻り、車を数百メートルほど進ませて、熊野本宮大社前の駐車場に止める。
現在の熊野本宮大社は、丘の上にあり鳥居をくぐったあと、石段を登る必要がある。
雨はまだ小雨にはちがいないが、少しずつ強くなってきた。

石段を登り、参拝をする。
この手の大きい神社にありがちな、いくつもの拝殿が並んでいるので、右から手を合わせていく。
花山法皇とは違い、上皇として権勢をふるった白河上皇の歌碑がある。

咲きにほふ 花のけしきを 見るからに 神のこころぞ そらにしらるゝ

花山法皇の御詠歌にも多いが、和歌に神や仏を入れられると、どうにも白けてしまう。
現代の歌謡曲で安易に愛という言葉を入れてしまうようなものだろうか。
おそらく花山法皇に関する書籍・論文で最も信憑性が高いと思われる今井源衛著の今井源衛著の「花山院の研究」の冒頭で、研究対象のはずの花山法皇を「三流作家」呼ばわりしているが、その一因にもなっているのかもしれない。
当時の信仰心は現代とは比べ物にならないほど強いものであったから、神や仏の存在も現代人には想像もできないほど日常に溶け込んでいたのかもしれないが、千年経った我々との心情の壁を感じてしまう。

熊野本宮大社を訪れたら、もう一か所訪れたい場所があった。
伏拝王子跡である。
宮脇俊三が「日本探検二泊三日」のなかで、素晴らしい景色として熊野紀行の結末にも書かれた場所だ。
花山法皇だって、熊野古道をはるばる歩いてたどり着いた伏拝王子から、中州に浮かぶ熊野本宮大社を見下ろしたはずである。
現在でも天気が良ければ大斎原の大鳥居がみえるのかもしれない。
しかし、今の天気は雨。空には重い雲がかかっていて、周囲の山を覆っている。しかし、大鳥居から北の山を見上げた時は、かろうじて山頂付近が見えていたので、もしや眺望が拝めるかもと思い伏拝王子跡へ向かうことにした。
国道168号を十津川方面に少し進み、脇に入る。

民家が点在している狭い山道を登った先に伏拝王子跡はあった。
やはり、というか予想はしていたが、伏拝王子跡から眺めた景色は雲に覆われていた。

来た道を戻り、次は熊野速玉大社へ向けて次は新宮を目指すのであるが、その前に昼食をとりたくなった。
13時20分、新宮とは逆の方向へ数百メートルほど進んだ「道の駅奥熊野古道ほんぐう」に入った。
小規模の道の駅の食堂はあまり期待できないものだが、この道の駅もその例にもれず、そばとうどんにカレーライスと言ったありきたりのメニューであった。

その中で私は、おすすめにもなっていた山菜そばとめはり寿司のセットを注文した。
めはり寿司は高菜を酢飯ではないご飯でくるんだものであった。素朴だが、高菜の塩味が丁度良いので、旨いと感じた。
そばの汁が関東とは違い、薄い色のしょっぱさより旨味が強いものであった。このそば汁で、はじめて遠い所へ来たという実感を得た。

熊野速玉大社

熊野本宮大社の前を通り過ぎ、熊野川沿いに新宮を目指して車を走らせる。食事をとったので眠気が出てくる。相変わらず小雨が降っているが、窓を開けて車内の空気を入れ替えながらどうにか進む。
しかし、こうして車で走っていても、紀伊半島まで来たという実感がまだ薄い。飛行機でさっと来てしまったせいだろうか。景色も関東近辺の関東の奥多摩や群馬の山奥を走っているのと、あまり変わらないような気もする。気持ちが昂らないまま、淡々と進む。
新宮に至る道では最後となる新越路トンネルを抜けると、景色は山間から新宮の市街地へと急に変わったが、なぜか既視感があった。
何だろうと思い返してみると、日本一長い路線バスの八木新宮線の動画で同じ風景を見たからであった。現在、日本一長い路線バスは、近鉄の大和八木駅から新宮駅までの約170kmを、十津川などを経由して6時間以上かけて結んでいるらしい。

新宮の市街地の熊野川沿いに熊野速玉大社はあった。
14時10分に熊野速玉大社に到着した。

駐車場に車を止めて、参拝を済ます。本殿の反対側には、上皇の御幸を刻んた石碑がある。花山法皇は正歴二年に一度と刻まれていた。


最初にも書いたが花山法皇の熊野御幸の年代はどの資料を見てもはっきりしない。
熊野速玉大社の熊野御幸の石碑には「花山法皇 一度 正歴二年」とあるので991年となるが、先にも書いた今井源衛著の「花山院の研究」においては正歴三年(992年)から一年間程度が熊野の滞在期間と推測しているし、992年を花山法皇の熊野御幸の年としている資料文献も多い。
しかし、他の文献では、花山法皇の熊野御幸を天皇退位の986年としているものもあれば987年や989年としているものもあり、とにかく986年から992年の間であるのは間違いなさそうだが、それ以上の正確な情報がつかめない。
この旅行記で後に訪れる霊符山大陽寺では、花山法皇の西国三十三所巡礼の年を989年と伝承している。

ここからは私の推測であるが、花山法皇が熊野を訪れるにはそれなりの資金が必要で、資金を捻出できない限りは熊野御幸も実現しなかったと思われる。
これは、999年に花山法皇が熊野御幸を希望しても藤原道長が断った記録があり、道長が花山法皇の御幸を止めるのは資金的な要因くらいしかないであろうから、間違いない推測だろう。
花山法皇が寛和の変により退位した直後の書写山円教寺の御幸では、花山法皇は百石を奉納して、それにより大講堂を建立したとの記録がある。
この時代の百石の価値がよくわからないのだが、一石はコメ約150kg相当で、1年間で大人一人が消費するコメの量に相当するらしい。江戸時代初期で百石が約1000万円程度であったとされ、江戸時代と平安時代では同じ面積の田の収穫量に三倍の差があったらしいので、最低でも3000万円、現在の立派な大講堂ではないにせよ書写山に講堂を一棟建てる価値はあったのだから、もしかすると1億円近い価値はあったかもしれない。
私のような庶民には大金であるが、前年には播磨国司の藤原季孝が三百石を書写山に収めているので、政治闘争に敗れて退位したとはいえ、つい先月まで朝廷のトップであった花山法皇の寄進額としては少し寂しい。

とはいえ、花山法皇が熊野御幸で熊野三山や青岸渡寺を訪れるには、従者を含めた旅費と巡礼先の各寺社の寄進で、かなりの金が動いたのは間違いない。現代の価値で数億円から数十億円相当の出費があったと思われる。
荘園の経営などをして独自の資金源を持っていたようには思われない花山法皇は、どのように御幸の資金を捻出したのだろうか。
後の白河上皇から続く院政の時代であれば、上皇自身が御幸に必要な資金を朝廷の公的資金から出させたりもできたのだろうが、花山法皇の時代に朝廷で実権を握っていたのは、花山法皇を皇位から蹴落とした藤原兼家である。
花山法皇が比叡山に籠って大人しく修行に勤しんでいるのであれば、朝廷から比叡山へ世話料分の寄進くらいはしていただろうが、修行と称して諸国漫遊をする御幸資金の捻出を兼家が簡単に首を縦に振ったとは思い難く、西国三十三所巡礼の実現までには長い交渉期間があったのではないか。

資金以外の問題もある。
花山法皇が身分を偽って、一般の修験者か水戸黄門のように各地を巡るのであれば朝廷だって何も言わないかもしれないが、仮にも天皇在位経験者である法皇を名乗って各地の寺を巡るのである。
朝廷としても、法皇が巡幸中の道端で行き倒れなどされようものなら、朝廷の権威が失墜するだろうから、豪華絢爛な御幸行列は必要ないにせよ、最低でも安全を守るための兵士と法皇の身の回りのお世話をする従者は必要で、そういった従者として長期の巡幸にも耐えうる人選をしなければならない。
寺側だって、そんな偉い人が来るのであれば、ある日突然訪問されても困るだろうし、できれば事前に伝えてもらって清掃はもちろん、可能であればお堂の改修や新築だってしたいはずだ。
また、巡幸の最中に法皇が野党や山賊の類に襲われたとか、巡幸中に道が壊れていて滑落したとかの諸々のトラブルが発生すれば、そこを所領とする国司の責任問題になりかねない。であれば、国司だって事前に道路整備や治安維持、宿泊施設の建設などの準備が必要で、そのために巡幸計画を事前に伝えてほしいだろう。
すると、法皇という立場では行き当たりばったりの自由な旅などできず、事前に詳細に調査をして綿密な計画を立てる必要があり、当時はGoogle MapやGPSはもちろん地図すら精密ではなかったのだから、従者候補が事前に現地に赴いてルートや宿泊候補施設の調査をしていたかもしれない。

このように考えると、花山法皇の西国三十三所巡礼というのは、莫大な費用と準備の時間が必要で、思い付きでできるようなものではなかったはずだ。
また、花山法皇本人も西国三十三所巡礼に向けた朝廷の官僚との打ち合わせを重ねたはずで、そのためには京か比叡山に滞在する必要があっただろう。

結論として、花山法皇の西国三十三所巡礼は、花山法皇が比叡山に滞在していたと思われる986年から988年の期間で朝廷の承認を得るところから始まり、時間をかけて諸々の準備が進められ、989年に那智山青岸渡寺の訪問を皮切りに西国三十三所巡礼が始まったと思われる。
すると、花山法皇が西国三十三所巡礼を始めるきっかけを作ったのは、出家まもない花山法皇に西国三十三所の観音様についての知識などなかっただろうから、書写山の性空上人との会合時に性空上人が勧めたのではなかろうか。

では花山法皇の熊野御幸とは何かというと、991~992年の間にも青岸渡寺を訪れて千日行という名目で那智の滝周辺に庵を構えて長期の滞在をしていたのを、現在の花山法皇の唯一の熊野御幸の記録として伝えているのではないか。
992年には、熊野御幸とは別に兵庫県の花山院菩提寺を隠遁地として決めたようだが、もともとは紫雲山観音寺という地味な山寺であったものを、法皇が滞在するのに必要な施設を建築しただろうから、花山院菩提寺の準備が終わるまでの間の一時的な滞在地として京や比叡山を嫌って熊野にとどまっていたとするのが、自然であるように思える。

一方で西国三十三所巡礼の伝承では、花山法皇は那智山での千日行の末に悟りを開き、熊野大権現のお告げで西国三十三所を巡礼したするのを正史としている。
私はこの伝承をウソだというつもりはない。
むしろ逆で、熊野大権現ほどの偉い神様であれば、時系列を超越するくらいのことはやってのけるのではないか。
こう考えるのはどうだろうか。
将来、那智の滝を気に入って長期修行に入る花山法皇が人生の道を見失っていた時期に、熊野大権現は西国三十三所巡礼の勧めを書写山の性空上人の口を借りてしたのだと。

このような勝手な推測について、どうにも真偽を確かめようもないのだが、私個人的には合点がいき、花山法皇の熊野御幸のつながってきたように思えた。


本殿の参拝を済ませて山門を出ると、山門の手前で「もうで餅」なる餅菓子を売っていた。本宮大社にも同じものを売っていたので、印象に残っていた。
鳥居の写真を撮って戻ってくると、私も「もうで餅」を買い求めた。
「もうで餅」は今日の朝つき立てで、賞味期限は三日のみらしい。
職場の土産にはなりそうにないので、宿泊時の夜食にでもするかと思い、「もうで餅」を手から下げて車に戻った。

「花山法皇ゆかりの地をゆく⑥〜熊野古道、熊野三山 後編〜」へ続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?