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花山法皇ゆかりの地をゆく⑦〜鳥取市、高梁市 前編〜

鳥取へ

2024年2月10日の土曜日、歯医者の定期検診を終えた私は、品川駅10時28発のぞみ131号に乗車した。

三連休の初日ということもあり、2,3分おきにのぞみ号は運行されているにもかかわらず新幹線は満席との車内放送があった。
品川駅では三列シートの私の横二席は空席であったが、横浜駅で私と同じ年齢程度と思われる母親と成人していると思われる男性の親子が座って来て、二人で仲良く二つの弁当を食べ合っていた。仲良くというのは少し語弊があったかもしれない。母親の方は妙に息子に甘えていたが、息子の方は困惑した様子であった。子離れできない母親なのだろう。
そんな親子を横目に私は、先日Kindleでまとめ買いをした「逃げ上手の若君」を読んでいた。
平成の世で30歳まで童貞だと魔法使いだと風説の流布をしたバカ※がいたが、鎌倉末期では30歳まで童貞だと修羅になれたらしい。※参考『「30歳まで童貞だと魔法使いになる」をネットに初めて書いた男』
それにしても、このような花山法皇の旅を始めてから、あまり乗り慣れていなかった東海道新幹線にも乗り慣れてきた。
熱海や富士山、天竜川に浜名湖に関ケ原といった景色も見慣れてしまった。しかも、あっという間に通り過ぎる。
かつては少なからず感動を覚えていたものに、何の感動も覚えなくなるのに気付くと少し空しくなる。これもまた旅の発見なのだろうか。

12時33分、定刻通りに京都駅着。
京都駅では駅弁と缶ビールを買ったのち、在来線の乗換改札を通り6番線に降りる。

しばらく待っていると、昨今の京都駅にはあまり似つかわしくないディーゼルエンジンの音をうならせたステンレス車体のスーパーはくと号が6番線に入線してきた。
スーパーはくと号は先頭車が展望車となっており、この展望車はグリーン車なんてけち臭いことはせず自由席となっていて、指定席券を持っている私も展望席に乗車する権利はあるのだが、自由席のドア前には楽しそうにはしゃいだ子供を連れた家族連れがすでに並んでいた。
おとなしく、割り当てられた指定席におさまる。

スーパーはくと号に使われているHOT7000系と呼ばれる智頭急行所有の車両は、すでに登場から30年が経過している。
座席は普通のJR特急よりふかふかしていて、足元にはレッグレストもあり豪華なのだろうが、いかんせん、車両のくたびれが目立つ。
壁には経年の汚れが目立ち、走り出せばあちこちから軋みの音がする。
それでも、ディーゼル車らしいエンジン音をうならせながらスーパーはくと号は京都駅を出発した。
京都駅を出ると、早速スーパーはくと号は高速で運転するのかと思いきや、意外とゆっくり走る。上郡駅まではJRの東海道本線と山陽本線を走り、姫路駅までは15分毎に高速で走る新快速の合間を走るのだから、このスーパーはくと号も最高速度の130キロで突っ走るのかと思いきや、そうでもないらしい。
思えば、新快速はスーパーはくと号より停車駅数も多いし、混雑するだけに駅での乗降時間も結構かかる。
その新快速のペースに合わせるのだから、むしろのんびりした走りになってしまうのだろう。

京都駅で買ったえんがわ寿司なるものを広げて食べながら、そんなことを思いつつ東海道線の車窓を見ていた。

14時44分、スーパーはくと号は上郡駅を出発した。
ここからスーパーはくと号はJR線を離れ智頭急行線に入る。智頭急行線は鳥取までの経路を短絡するために建設された鉄道線だ。建設時に採算の見込みが立たなかったためにJRには組み入れられず、第三セクター線となった。
智頭急行線に入ると、トンネルと高架線の連続となった。その線路をスーパーはくと号はこれまで性能を発揮できなかった鬱憤をはらすように高速で走り抜ける。カーブは自慢の振り子機構を駆使して車体を傾けて走る。1990年代に開発された、自慢のディーゼルカー用の振り子制御装置が効いている。
車内放送の声主も変わったようで、上郡でJRの職員から智頭急行の職員に変わったらしい。上郡駅を出てしばらくすると智頭急行の制服を着た男性と女性の二名の車掌が通路を通り過ぎて行った。

15時22分、スーパーはくと号は智頭駅に到着した。
智頭駅で智頭急行線は終わりJR因美線に入る。因美線の最高速度は高性能な特急であっても95km/hに制限されており、スーパーはくと号もまたおとなしい走りになった。
しかし、智頭駅を過ぎた後も、社内を歩く車掌は智頭急行の車掌のままであった。このまま、鳥取まで常務をするのだろうか。
15時43分、郡家駅着。
本当は郡家駅を降りて、最初の目的地へ行く案もあったのだが、窓には雨粒がついている。小雨であるが雨が降り始めたようだ。今日の目的地訪問はあきらめてこのまま鳥取まで行ってしまおうと思った。
15時54分、鳥取駅着。私のスーパーはくと号の乗車はここまでだが、このスーパーはくと7号は倉吉駅までいく。スーパーはくと号を見送ると、改札を出て明日の切符を買うことにした。
しかし、自動販売機では目的の切符を買えず、窓口の行列に並んでいると、職員に声を掛けられ自動販売機で買えないかと尋ねられた。私が欲しいのは鳥取駅発智頭駅新見駅経由の岡山駅行きの乗車券であった。
職員が自動販売機で入力を試みるが、やはり買えない。もう少し試してみますと言われ、私は行列に戻ると、どのように操作したのかわからないが、どうやら自動販売機でも買えたようだ。職員に言われるがまま、自動販売機に運賃を投入して乗車券を入手した。

駅前のホテルにチェックインをすると、しばらくベッドで横になって休息した後、夕食を食べようと外に出てみた。
雨は本格的に降り始めていた。

繁華街を軽く見て回った後、居酒屋に入るが一軒目は満席で断られ、二軒目の店でカウンターに通された。最初に生ビールと串焼きの盛り合わせを頼む。
串焼きはまずくもないが、格別の味と言うほどでもなかった。
席には飲み放題の飲み物メニューしかなく、どんな酒を置いてあるのかもわからなかったので、二杯目のビールとぶりのカマ焼きを頼むが、カマ焼きは時間がかかるとのことでやんわりと断られ、仕方なくサバの塩焼きを頼む。サバの塩焼き880円。
この塩焼きは小さく塩辛かった。

ホテルに戻ると、気分を変えるためにスナック街にでも繰り出そうかと思ったが、この雨である。
めんどくさい気持ちが勝って、横になっていると眠りに入ってしまった。目が覚めると23時を過ぎていた。仕方ないので、このまま朝まで眠ることにした。

庭見山覚王寺

2024年2月11日、今日は朝からそれなりに歩く予定だから、ホテルの朝食をしっかり目に食べる。
朝食を終えたのち、身支度を整えてチェックアウトをし、鳥取駅に戻った。

8時00分、智頭行きの各駅停車のディーゼルカーは鳥取駅を出発した。このディーゼルカーも智頭急行線のものだが、鳥取駅まで出張ってきているらしい。
外はまだ雨が降っていたのだが、鳥取駅を出てまもなく、ウソのように雲が切れて少しだけ青空が見えてきた。

8時12分、東郡家駅着。一線しかホームは無く、駅舎らしい建物も無いこの無人駅を降りる乗客は私一人だった。
ディーゼルカーを見送ると、私は最初の目的地である庭見山覚王寺を目指して東へ歩き始めた。
昨日のうちに郡家駅をおりて、レンタルサイクルを借りて覚王寺を訪れようとも思っていたが、本日に後回しをした。
覚王寺までいくバスもあるのだが、そのバスは郡家駅を8時ちょうどにでて、覚王寺には8時16分に到着する。ちょうど今頃、覚王寺を通り過ぎているころだ。
今日、郡家駅まで行ってレンタルサイクルを借りても良いが、レンタルサイクルの営業時間は9時15分からとなっていて、この時間に郡家駅まで行っても待たされるだけだし、雨の中で自転車をこぐのは歩くよりも憂鬱だ。かといって、レンタカーを使うほどの距離でもない。
そういう理由で、今回は東郡家駅から覚王寺までのおよそ5kmの道のりを歩くことにした。

東郡家駅を出て最初のうちは小雨が降っていたが、まもなく雨は止み、目的地の東の方面の雲は切れて青空が見えるようになっていた。山あいは霧に包まれていて幽玄な景色を見せてくれた。
覚王寺が近づくと、奥に見える山は山頂付近の樹が霜で白くなっていた。暖冬とはいえ、まだまだ冬であると思わされた。

覚王寺は思った通りではあったが、廃寺に近いようなさびれた寺であった。しかし、電灯が備えられているので、まだ完全にうち捨てられたものでもないらしい。
格子から中を覗いてみると、お経を唱える座布団と、誰を祀っているのかわからないが遺影のようなものが掲げられていた。

こういう山寺にありがちな、奥に続く山道をみつける。
この寺にも奥之院があるのかと思い登ってみると、少し登ったところに祠があるだけであった。

階段を降りると、本堂の横の姿から、やはりこの寺の未来は明るくないことが見て取れる。
土壁の一部は崩れて中の藁が見えていた。下部は安っぽい木目調のプラスチックの板で覆われていたが、これが精いっぱいのこの本堂にできる補修であったのだろう。
今後、この寺がこれ以上に金銭をかけて保護改修を受けるとは思えない。
数十年後には今のお寺の三割はなくなるというが、三割のなかにこの覚王寺は入ってしまうように思えた。

そもそも、私が覚王寺を訪れたのは、この覚王寺が花山法皇御幸地であるからであったが、それを示すようなものは何も見つからなかった。
そもそも、花山法皇御幸地であるというのは、ブログの一記事によるものだ。それ以上の情報は無い。
しかもそのブログでは、覚王寺訪問で誰かに見られているような感じがしたと、薄気味悪いことも書いている。
今回の訪問では、そのような心霊的な感じは全く受けなかったが、花山法皇の痕跡を示す証拠も何も得られなかった。
覚王寺周辺の住民の方々に聞き込みをすれば何かしらの話は聞けるのだろうが、私は研究者ではないので、そのようなことをしても住民の方々の協力に応えるような成果を出せない。したがって、ここは大人しく引き下がることにする。
帰り道、民家の一つが薪ストーブを焚いていたらしく、その匂いが印象的だった。


花山法皇ゆかりの地をまとめていて、何故ゆかりの地となったのかが、どうにもわからない場所があった。

それは、鳥取県鳥取市の「庭見山覚王寺」と岡山県高梁市の「八幡神社」「瑞源山深耕寺」「薬師院」の四か所である。

この四か所は、いずれも花山法皇が御幸で訪れた地として伝承されている。

とはいえ、この四か所の関係者の方々には失礼なのだが、花山法皇の仏教修行の地としても、あるいはバカンス地としても、わざわざ訪れるような場所には思えない。
では、どこかへ行く途中の通り道だったのではと考えてみるのだが、京都や花山院菩提寺がある三田を起点とした場合に、高梁市がどこかへ行く際の通り道になるような場所とは思えないし、鳥取市も日本海側の沿岸部であれば天橋立や城崎温泉から出雲大社へと抜ける通り道になり得るが、「庭見山覚王寺」はそれより大分内陸にある。
これもわざわざ通るような場所には思えない。

このような場所であるから、この「花山法皇ゆかりの地をゆく」のシリーズで旅をするのにも、当初はこれらの場所は訪問地から外すつもりでいた。

この四か所について連続で訪問したという記録も無いのだが、とりあえず、地図上でこの四か所を線で結んでみた。

参考までに、地図の東側に花山法皇が晩年の隠棲地とした花山院菩薩寺も、マークしてみた。
隠棲期の花山法皇が菩薩寺を起点として、これらの地を訪れたのではと考えたが、やはり、これらの地を目的地とするにせよ、通り過ぎるだけにせよ、わざわざ訪問するべき理由は薄いように思える。
もちろん、花山法皇が都会から離れた内陸部の寒村を訪問して、内陸の辺境に住む民に仏の教えを広めたり激励をしていた可能性は十分にあるが、花山法皇がそういう御幸をしていたのであれば、1000年経った現在でも、鳥取市や高梁市だけではなく、もっと多数の花山法皇御幸を伝承する地が散在しているはずだ。
そもそも、平安時代は治安が非常に悪く、前回訪れた熊野古道も含めて見通しがきかなければ人の往来も少ない山間部の道は野盗や山賊の類も多く、山中で空が雲に覆われて太陽や星が見えなくなって方角を見失い道があやふやになれば道迷いの可能性だってある。
近畿中国地方であれば、海沿いの主要な街道を逸れて山間部を旅するのはリスクが高いはずで、法皇がそのような地を積極的に訪れる可能性は低いのではないか。

このように不可解な御幸の伝承が残る場所であったのだが、鳥取市の覚王寺と高梁を結んだ線の北東の先には小松市、南西の先には鞆の浦があり、989年訪問の小松市那谷寺と990年訪問の山口県の松嶽山正法寺を結び付ける御幸地になり得るのではとないかと思いついた。

つまり、花山法皇は以下のような経路で那谷寺のある現在の小松市から、西をめざすために鞆の浦まで歩いたのではなかろうか。

鞆の浦は船舶の動力が機械化されるまで、瀬戸内海の潮流の分水嶺となる海運の要所であった。

花山法皇がこのルートを通ったとすると、この旅程においては、京や朝廷を避ける意図が見て取れるだろう。
さらに本気で朝廷の目を潜り抜けようとしたのであれば、さらなる短縮路として上の地図のように舞鶴あたりの若狭湾沿岸部は歩いて通らず、船で福井と城崎の間にある若狭湾をショートカットをしただろう。
そうすれば、時間短縮に加えて下流の広い河川を渡るリスクも減らせる。
おそらく、平安時代の当時は河川に架けられた橋の数は少ないだろうし、その少ない橋や渡し船は絶好の関所になっただろうから、隠密に移動をするのに、沿岸部の幅が広い河川を渡河するのは大きなリスクであっただろう。

この旅程で、花山法皇が具体的に西のどこを目指したのかはわからない。
おそらく、最初から山口県小野田市の松嶽山を目指していたとは思えないのだ。当時の松嶽山には何もないからである。
結果的に、松嶽山に着いてしまっただけのように思われる。

道中が、公然とした、のんびりした御幸であったとも思えない。
仮に公然の御幸であれば、朝廷や仏教の宣伝のためにも、旅中の主要な町に立ち寄って多少なりとも住人との親交を深めようとしただろう。途中にある福井、舞鶴、城崎、鳥取、津山、福山などの大きい町にも滞在していたはずで、公然と行われた御幸であれば、これらの街のいずれかには花山法皇の伝承が残っていると思われるからだ。
鳥取市の「庭見山覚王寺」も、高梁市の「八幡神社」「瑞源山深耕寺」も、Googleで見る限り住民と親交を深めた場所というより、交易路からも外れた山中の潜伏先のような場所に見えた。

福山からさらに西へ向かうのに、船を実際に使ったかどうかもわからない。福山から先も歩いて移動した可能性は大いにあるが、福山と山口県の間に花山法皇が御幸で訪れたという伝承地は無さそうだし、朝廷の役人や追跡者から逃れるのであれば、海沿いの下流にある大きな河川の橋や渡し船はなるべく避けたいだろうから、海路を使った方が安全に移動できただろう。

ともかく、989年に那谷寺を訪れた花山法皇は、そこから京を避けて日本海側沿いに西へと移動し、鳥取あたりから内陸を経由して南西へ移動、福山あたりで瀬戸内海に出て山口県にたどり着いたと推測すると、鳥取市と高梁市に花山法皇御幸の伝承地があるのは納得できる。

この仮説に基づいて、あらためて小松市を発った花山法皇の、鳥取から高梁までの行動を整理してみる。

京や朝廷を避けたかった花山法皇は、現在の小松市を出発するとなるべく隠密かつ迅速に日本海側に沿って、京の北側を西へ進む。
鳥取市くらい京と距離を置いた場所まで来れば、朝廷の影響力も弱くなるだろうから、人目が付きにくい内陸に入って、一旦、これまでの急ぎの旅の休憩をして、従者は里や町に出て今後の進路についての情報収集をする。
これが「庭見山覚王寺」。
ここで仮に鳥取市近辺での目撃情報が追跡者に入ったとしても、花山法皇一行が先の進路を南西へ変えて本州内陸を進めば、追跡者はそのまま日本海側を西へ、つまり、米子から出雲へと進むか、あるいは南下して姫路や岡山へ出ると予測するだろうから、津山を抜けて高梁まで来て停滞していればかく乱もできる。
この停滞地となった高梁には、「八幡神社」「瑞源山深耕寺」「薬師院」が後の世にできた。
さらに、高梁で花山法皇が待機をしている間に、今後の進路や朝廷の情勢を探るために、従者の者に斥候として福山で情報を収集させて、さらに鞆の浦で船舶の手配まで済ませておけば、人でにぎわう福山や鞆の浦でも役人などの人目を避けて通過して、さらに西へと船で移動することも可能だろう。

私は過去に山口県の桜山南原寺と松嶽山正法寺を訪れた際の紀行文では、花山法皇は暗殺から逃れて山口県の松嶽山正法寺と桜山南原寺で潜伏生活をしていたのではないかと書いた。

仮に暗殺から逃れる逃避行であったとしても、暗殺の指示者が京に居て、暗殺者が京からやってくるのであれば、やはり花山法皇がこのルートを隠密に歩いたとすると合点がいく。

いずれにせよ正解はわからないが、少なくとも上記のルートで花山法皇は石川県小松市から広島県の福山市のおそらく鞆の浦へ抜けるルートとして、鳥取市と高梁市を訪れたとする推測について、確信にまでは至らないが、ある程度の可能性はあるだろうと思うようになった。


そのようなわけで、今回の覚王寺訪問となったのだが、結局何も得られなかった。それでも、あの覚王寺の本堂に花山法皇が滞在したのであれば、やはりそれは修行や朝廷の宣伝といった目的ではなく、隠密の移動に違いなかっただろうと、周辺の雰囲気から確信を得られた。

東郡家駅までの帰り道は、山の周りを覆っていた霧も晴れ、平凡な山村の風景が見えた。
残雪が道端の所々に残っているのは、最近、大雪が降ったのだろう。家の玄関には雪かきのスコップを立てかけている家も多い。
高校生くらいの女性とすれ違い際にあいさつをされたので、こちらも挨拶を返す。この近辺を徒歩で歩く観光客など全くいないだろうから、さぞや怪しい男に映っただろう。

11時5分、東郡家駅まで戻ってきた。11時15分に上郡行きの各駅停車があるので丁度良い時間であった。
やってきた各駅停車の列車は、先ほど乗車したのと同じ、列車とも言えない1両編成の智頭急行のディーゼルカーであった。このディーゼルカーは、すでに登場から30年も経過しているためか、塗装は一部ひびが入って、中からサビがにじみ出ている。智頭急行の予算では、塗装の全面塗り直しもできないのだろう。これから先、智頭急行線はどうなってしまうのか、車両を見ていて不安に思う。

智頭駅、11時53到着。
次は、引き続き鉄道を乗り継いで津山に向かうのだが、津山行きの列車出発までは1時間近くの待ち時間がある。
智頭駅を出て、駅近くの喫茶店に入りシフォンケーキとコーヒーのセットを注文した。980円であった。
喫茶店は老人と若い女性の二人で切り盛りしていたが、先客でいた老人は店の老人となじみらしく、私の注文をそろえ終えると、老人二人で客席で談笑が始まった。
私はテレビから聞こえるバレンタインデーの話題を聞き流しながら、シフォンケーキを食べてコーヒーを時間をかけて飲んだ。

花山法皇ゆかりの地をゆく⑧〜鳥取市、高梁市 後編〜へ続く

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