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花山法皇ゆかりの地をゆく②〜阿伏兎観音、山口県編〜

前から何となく訪れたいと思ってはいるけど、実際には行かずにそのままにしている場所というものを、皆さんはお持ちではないだろうか。

私の場合、広島県福山市と山口県美祢市がそれであった。
広島県福山市は、学生時代に知って気に入ったある楽曲の歌詞が福山市を舞台としたであろうと、後年になってその楽曲の作詞者のプライベートの報道記事や発表内容から、勝手に推測していた。しかし、実際の歌詞に具体的な地名が入っているわけでもなければ、公式で作詞者ご本人がこの楽曲についてより詳しい情報を発信してもいない。むしろ、作詞家ご本人にしてみれば隠して無かったことにしたいくらいの事件を、私の中だけでわざわざ掘り返したようなものであった。これは推測というよりは、下品なファンによる下種の勘繰りと言った方が正鵠を射ている。
楽曲ゆかりの地として有名なものには、津軽海峡冬景色の竜飛岬や渡良瀬橋があり、これらの場所には歌碑が設置されておりファンや観光客も訪れる価値のあるものだが、福山市にその楽曲にちなんだ施設や歌碑の類は一切無い。そもそも、わかっているのは福山市の西側、川沿いの道があり、バスでの往復が必要そうだ、という程度のもので、これ以上の情報は得られず、詳細な地点の特定はできていない。このような状況であるから、楽曲のゆかりを求めて福山市を訪れたとしても、実際の歌詞の舞台となった場所を広い福山市内から特定して、現地で感動体験を経験するのはおよそあり得ないばかりか、現地はおそらく観光地でもない田舎の閑静な住宅地なので、私のような初老のおっさんが独りでウロウロしていれば、不審者に間違われる可能性すらある。それなりの金銭と時間をかけて訪れても、良くて何も得られず徒労に終るのが関の山、悪いと地元住民の方々から不審者と勘違いされて警察に通報されて職務質問の上に逮捕なんて事態すら有り得るのだ。そのようなわけで、なんとなく福山市で楽曲の背景や空気を現地で少しでも感じ取りたいという思いはあったが、実際に訪れたりはしなかったし、生涯、訪れないだろうと思っていた。

もう一つ、山口県美祢市には「伊佐」という地名があるのだが、私の苗字が「伊佐」であり、何かしらの因縁を感じていた。そもそも、山口県に「伊佐」という地名があるのは、小学生のときに地図帳で見つけて知っていたが、しかしそれだけだった。それだけだったはずが、数年前のある日、前職の職場の年下の上司が「伊佐ってPA(パーキングエリア)があったので寄ってきましたよ」と、バカにしたように揶揄われた。これは自分の変な名前にコンプレックスを持っている私にとっては良い気分ではなかったし、相手もそれを察したからこそ面白がって揶揄ったのだろうが、当時、彼は将来の社長昇進を有力視されていた社内で圧倒的な出世頭のエリートであったのに対し、私は万年課長が有力視されている、いつデリートされてもおかしくない中間管理職であったので、弱小かつ従順な会社の歯車であったサラリーマンの私としては何の抵抗せずに愛想笑いでやり過ごした。しかし、その時から、なぜかその「伊佐」という場所に行ってみたいと朧気に思っていた。実際、その「伊佐」という場所の近くには有名な秋吉台があり、宇部興産の専用道路なども見ものなのかもしれない。しかし、新幹線で4時間、車やバイクであれば12時間以上もかけねば行けない場所であり、そこまでして訪れるような場所とも思えず、ましてや地名が自分の苗字とおなじだからという理由で訪れたところで、やはり何も得るものはないだろうと捨て置いていた。
そのような次第であったのだが、先日、なんとなく花山院菩提寺を訪問したのを皮切りに、花山法皇に興味を持ち始めて、花山法皇のゆかりの地を調べてみると、花山法皇の千年の時を越えた法力によるお導きか、ただの偶然か、広島県福山市と山口県美祢市に花山法皇ゆかりの地があると解った。広島県福山市の阿伏兎観音と山口県美祢市伊佐の桜山南原寺がそれである。ネット上で気軽に調べただけとはいえ、知ってしまったからには行ってみたい気持ちが湧いてくる。高齢独身故の身軽さ。実際に行く決心を固め、これに山口県の桜山南原寺に近い松嶽山正法寺を加えた三か所を、実際に訪れることにした。
また、この三か所を今回の訪問地としたのには別の理由もある。この三か所は自宅の千葉県からは最も遠く、行き辛さも最難関に近いものだ。であれば、そのような場所から潰しておけば、今後、他の花山法皇ゆかり場所を訪れようとしたも億劫になった際、山口県まで行ったのだから、阿伏兎観音まで一時間も歩いたのだからと、将来の自分を鼓舞するか、せめて慰める程度の経験にはなるだろうという、まこと浅はかな策略もあった。

福山駅から鞆の浦へ

カフェ胡屋で食べたハンバーグランチ

2023年11月18日の土曜日、7:30東京駅発のぞみ11号で広島県の福山駅に向かう。今回は普通席が空いていたので、グリーン車なんて贅沢なものは使わず普通席におさまる。
新幹線での移動は暇なので、例の楽曲をイヤホンで繰り返し聞きながら景色をボウと眺めていた。
すると、本来、新横浜と名古屋間では速度を落とさず、全速力で駆け抜けるはずののぞみ号が何度も速度を落としている。どうやら前の電車がつかえているようだ。
名古屋駅には3分遅れで到着し、新大阪には5分遅れの到着となった。福山駅でバスの乗り換えが7分しかないので、これは予定が狂うなと思ったが、新大阪駅からのぞみ号は回復運転をし、予定通りの11:03福山駅着。
福山駅で新幹線のドアから外に出ると、異常に寒く感じた。当日の天気予報によると低気圧の影響で西日本に寒気が南下しているのは知っていたが、覚悟はしていても実際のドアを出た直後の寒さを体感すると、まずはひどく驚いた。いつも寒暖差の激しい東北新幹線であれば慣れっこだが、東海道山陽新幹線であるから尚更だ。おまけに風も強く、雨も少し降っているようだった。
福山駅の南口を出ると、最初の目的地である鞆の浦(とものうら)に行くバスはすぐに見つかった。バスに乗り込むとすでに満席で、後部座席の多くは外国人観光客が占めていた。着席はあきらめてバスの前方で立ち席を決め込むと、バスの扉はすぐにしまった。
11時10分、福山駅前発。バスの中は地元民らしき老人の話声がうるさかったが、その老人は福山駅前から数件先のバス停で降りてしまい、その後のバスの車内は混雑は相変わらずだが静かになった。バスは福山駅前の市街地を抜けると芦田川の河口沿いの道を海に向かって進む。風が強く雨も降っているようだ。今日は鞆の浦からかなりの距離を歩くつもりであったが、雨が強くなるようであれば予定を変更せねばならない。
小雨が止まぬまま、バスは海沿いを進む。
11時50分、5分ほど遅れて、バスは鞆の浦バス停に着いた。観光客は各々鞆の浦の街の中へ消えていく。鞆の浦でもっとも有名な常夜燈へ行くには、一つ先のバス停である鞆港まで乗るべきであったが、どちらかと言えば山側の神社や寺院を眺めたかったので、他の観光客につられたのもあり、降りてしまった。今日はこれからやたらと歩くつもりなので、まずは食事をとれるところを探す。鞆の浦で最も大きいと思われる沼名前神社の参道に沿って歩くと、脇道の一つに入ったところに、古民家を改築したようなカフェがあり、ランチの立て看板を出していたので、何も考えずに古民家というか古商店特有の低い戸口を潜って店に入る。中はいかにも女性が好きそうなお洒落な和風の古民家カフェそのもので、ランチのハンバーグ定食も凝った和食器に盛られてやってきた。写真が好きだった亡妻を連れてきたら、さぞや喜んで写真を撮っただろうと思いながら一人で昼食をとった。
12時30分、カフェを出て沼名前神社を参拝する。階段を上り本殿で参拝をして振り返ると、鞆の浦の街並みから海を挟んで仙酔島まで見えた。

鞆の浦から阿伏兎観音へ

鞆の浦と阿伏兎観音を結ぶ遊歩道

12時45分、一通りの参拝を終えて沼名前神社を出ると、阿伏兎観音へ向けて歩き始める。阿伏兎観音までは5km以上あるが、徒歩で行くことにした。バスで鞆の浦に着いた際には小雨が降っていたが、沼名前神社を下りるときには、風は相変わらず強いままであったが、雲が切れて晴れ間が見えていた。
今回の旅を計画するにあたり、福山での主な目的地は阿伏兎観音であるが、福山市の代表的な観光地である鞆の浦も少しは見ておきたいと思い、鞆の浦と阿伏兎観音を回ると決めた。鞆の浦と阿伏兎観音の距離は車道で5km、普通に車で走れば10分程度の距離しかなく、当然、私の様に公共交通機関を利用する観光客であれば、公共のバスを利用してこの二つの観光地を巡りたいと考えた。
ところが、いざバスの時刻を鞆の浦と阿伏兎観音を結ぶバスはあるにはあるのだが、運行時間は以下の2往復4本しかないのである。

①松永駅南口 6:48発→阿伏兎観音 7:22発→鞆車庫 7:38着
②鞆車庫 7:55発→阿伏兎観音 8:12発→松永駅南口 8:45着
③松永駅南口 16:20発→阿伏兎観音 16:54発→鞆車庫 17:10着
④鞆車庫 17:30発→阿伏兎観音 17:47発→松永駅南口 18:20着

本数の少なさもさることながら、運行時間帯の不便さにも呆れてしまう。阿伏兎観音を有する磐台寺は午前8時から午後5時までしか参拝できないのだから、このバスで鞆の浦から阿伏兎観音まで往復をしようとすると、最低でも阿伏兎観音に8時12分から16時54分の8時間42分も滞在しなければならない。阿伏兎観音がいくら風光明媚とはいえ、8時間以上も滞在するような場所ではなく、周辺に旅館はあるものの日帰りの客は受け入れておらず、周囲に飲食店らしい店は一切ない。そもそも、福山駅に11時過ぎに到着して、その日の内に鞆の浦と阿伏兎観音を回ろうとしている私のような観光客にとっては、阿伏兎観音へ行くには③の16:54阿伏兎観音着の便しか使えないが、この便で磐台寺に着いた頃には参拝の受付は閉じているだろうから、全く使えない。
しかし、阿伏兎観音と鞆の浦をバスでの移動をあきらめれば、以下のように福山駅前発で阿伏兎観音から1km離れた阿伏兎バス停までを結ぶバスが1日に1.5往復だけある。

①福山駅前 12:20発→阿伏兎 13:08着
②福山駅前 15:00発→阿伏兎 15:47着
③阿伏兎 14:26発→福山駅 15:14着

今回の旅であれば①の便で福山駅から阿伏兎へ向かい、阿伏兎観音がある磐台寺までの1kmを20分ほど歩いて阿伏兎観音を30分程度で参拝し、来た道を1km戻って③の便で福山駅まで帰れそうだが、福山駅に15時過ぎに戻ってきたところで、その後にまたバスを乗り継いで鞆の浦に向かうとなると、鞆の浦に着くのは17時ころになるだろう。そんな時間に鞆の浦についても、主だった商店や博物館、寺院の類はほとんど閉まっているだろうから、観光どころではあるまい。おまけに鞆の浦の海岸は東向きであるから、夕日が眺められるわけでもなく、なおさらこんな時間に鞆の浦を訪れる意義は薄い。
結局、私は今回の旅で沼隈半島を回るにあたり、鞆の浦から阿伏兎観音までのバス移動をあきらめた。さらに、阿伏兎観音から千年橋という西へ3.5kmほどいったバス停であれば、1時間に1本程度の割合で福山駅か松永駅までのバスがあるので、阿伏兎観音から千年橋までの区間も歩くことにした。
阿伏兎観音と千年橋を歩くことにしたのには、もう一つ理由がある。冒頭に述べた楽曲の現場が、この阿伏兎観音と千年橋の区間にあるかもしれないのだ。実際、この区間にあったところで、それを確かめる術はないのだから、やはり不毛な行為には違いないが、それでも、阿伏兎観音から西の沼隈半島は、瀬戸内海の景色が田島、横島、百島で遮られて海の景色が変わりので、楽曲の背景に潜んでいた雰囲気くらいは味わえるかもしれない。
そういったわけで、鞆の浦から阿伏兎観音に立ち寄り千年橋までの約10kmを歩くことにした。
鞆の浦の町を南に向けて歩く。それにしてもこの街は、異様なまでに建物が隙間なく建てられている。建物のほとんどは昭和の戦後に建てられたものであろう古い建物ばかりだが、山沿いの大きな家の中には最近建てられたものもあるようだ。漁村でもここまで建物を敷き詰めるように建てたりはしないだろうから、この街はたしかに港の宿場町として近年までは賑わっていたのだろう。
鞆の浦の街を抜けて、歩道のない車道だけの県道を歩く。鞆の浦と阿伏兎観音を徒歩で移動する人など想定されていないのだ。車がバンバン走る横を歩道のない道の端っこを歩くのは、本当にみじめな気持ちになる。無理をしてでもタクシーを使えばよかったとも思うが、10分程度で遊歩道の入口があると思われる場所に着いた。しかし、問題の遊歩道の入口がみつからない。霊園の入口の横を通るはずなのだが、霊園の入口にはチェーンがかけられ、「関係者以外立ち入り禁止」の張り紙がぶら下がっている。徒歩であるからこのチェーンを越えて入るのは簡単だが、それで後からトラブルになるのも面倒くさい。とはいえ、ここまで来て引き返すわけにもいかず、少し思案した後に、えいとチェーンを越えると30mも進むと遊歩道の入口が見つかった。
遊歩道は舗装されていないが、一般的な登山道より坂は緩いし道幅も広い。ここは千年前の花山法皇の時代も同じような道であっただろう、などと思いながら歩く。
寄り道になるが阿伏兎山の山頂に登る。山頂からは、これまで歩いてきた鞆の浦側と、これから歩こうとしている沼隈半島の南岸とその先の尾道の造船所が見える。阿伏兎岬を境に西側は多島海になるが、島が大きいため海岸の眺めは絶景というわけではなく、海岸から見る海はまるで大きい河川のように見えるだろうと思った。

阿伏兎観音

阿伏兎観音

14時10分、阿伏兎観音がある磐台寺に到着。当たり前だが、私以外に鞆の浦と阿伏兎観音間を歩いて移動しようなんて観光客には一人として出会わなかったが、自動車で磐台寺を訪れている観光客は何名かいるようであった。相変わらず風が強く、磐台寺に向かう歩道には波が打ち付けて乗り上げていた。
実際に訪れた阿伏兎観音を有する磐台寺は、その知名度に比べると、非常に小規模な寺院だった。入口はまるで民家の庭のようで、民家の勝手口のような窓口で参拝料の100円を払う。中に入ると本堂があるが、これも少し大きめの屋敷程度のものだ。かろうじて小規模な法事を開催できるだろうが、大人数は収容できそうにない。
このように小規模の場所であるから、観光客にとってバスでのアクセスが不便である理由も推測できる。仮に、鞆の浦と阿伏兎観音間でシャトルバスなどを一時間に一便ずつでも走らせてしまうと、毎時間20~50人近い観光客を運ぶ事態になる。バスの乗客が一斉に磐台寺に押し寄せると、磐台寺内部は一気に観光客で溢れかえる。磐台寺内部は観音堂に10人、観音堂を眺める金剛福寺に10人、本堂に10人も入れば満杯になる。特に観音堂の通路の柵は膝上程度の高さの頼りないものであるから、人が押し合い圧し合いなどしていたら、簡単に転落する。だからといって、転落防止のネットやらを設けたら、観音堂の景観は台無しになる。名所であっても多人数を受け入れられないから交通を不便にしているようだ。バスなどで観光客を運ばずとも、この日も子宝祈願と思われるカップルが自家用車で引っ切り無しに訪れていて、磐台寺に閑古鳥が鳴いたりはしないのだろうこれは、遠方からわざわざ訪れる観光客側からすると噴飯ものの事態だが、よそ者が何と言おうとこれでバランスが取れているのだから何も言うべきでもないだろう。
磐台寺内の看板には、阿伏兎観音は花山法皇が986年に観音像を祀ったと磐台寺の案内看板にあったが、986年というのはまだ花山天皇在位二年目であり最愛の女御である藤原忯子を病気で亡くした年でもあるから、そのような時期に御幸でここに訪れたとは思えない。一部の情報では992年創建とあり、どうやらこちらの情報の方が正確と思われる。
お目当ての阿伏兎観音の観音堂は、実物を見ると思っていた以上に朱色が煤けていた。今年前半まで続いたコロナ渦のせいで、メンテナンスが行き届いていないのか。赤い塗料の色落ちは早いと聞くが、せっかく訪れた名所の建物がこれではさみしい。さみしいが、それでも崖の上に立つ観音堂はやはり非日常の奇景、絶景であるから、一度は目にしておいた方が良いと思う。観音堂を登ると、観光客の歩ける軒先が若干有無側に傾いており、柵も低く危なっかしい。観音堂の中には入れないが、例のおっぱい絵馬が大量に祀られており、奥には中央に「花」の字が書かれた菊花紋章の幕がかけられていた。おそらく奥には観音像があるのだろうが、観音像の本体は見れなかった。

沼隈半島南部を歩く

敷名の人魚像

14時30分、磐台寺を出て千年橋に向かって歩き始める。ここからは観光客などは決して訪れない田舎の住宅地の中を歩くので、不審者と思われないように注意する。瀬戸内海を左に見ながら淡々とあるく。途中には自動販売機は点在してあるが、飲食店の類はもちろん、コンビニの一件もない。昼から歩き続けて、さすがに疲労を感じ始めたが休む場所もないので歩き続ける。街の雰囲気は鞆の浦周辺より大きい住宅が多く、おそらく豊かな土地なのだろうと思われる。田舎ではあるが、漁業はあるし造船業もあるから、この地でも暮らしていけるのだろう。瀬戸内海は景色は南の田島にさえぎられるため、まるで河川のようである。それでも、水面から山が突き出すような景色は優しいと思った。
15時30分、千年橋バス停に到着。バスの時刻表を見ると、15時50分松永駅行き、16時26分福山駅前行きのバスがあるようだ。松永駅に行っても仕方ないと思い、16時26分の福山駅前行バスの発車まで周辺を歩くことにする。
千年橋の川は山南川の支流のようで、千年橋から東側数100mは桜並木になっている。今の時期は葉も落ちて枝だけの寂しい風景であるが、桜の季節を思いながら歩いてみる。川沿いの桜並木は、私が子供のころの近所の風景に似ている。子供のころについて、今思い返してもあまりいい思い出は無かったが、この歳になると、それでも懐かしい思いに駆られるのは不思議なものだった。この桜並木は歩いている地元民も多く、私のようなよそ者も挨拶をされる。不審者と思われては仕方ないので、なるべく自然に挨拶を返した。
次に、沼隈半島と田島を結ぶ内海大橋の麓にある、敷名の人魚像を訪れた。きっと夕日と内海大橋をバックに写真を撮ると美しいのかもしれないが、周りは住宅で風が冷たい。夕日の時間まで待つこともかなわず、数枚写真を撮るとすぐにその場を後にした。
千年橋に戻る道すがら、例の楽曲を思い出す。この楽曲は、冬のある日の恋の終わりの歌である。当たり前だが、この歌の舞台がこの近辺であったかなどは、結局わからなかった。しかし、それで良いと思った。風は冷たかったが、田島を正面に置いた狭い海の景色は優しく、人間の営みを「自然の厳しさ」などという言葉で突き放すようなことはせず、包み込んでくれるようにさえ思えた。
千年橋バス停に戻ると、あと10分程度で福山駅前行のバスが来るようだ。バス停には私のほかにもう一人、地元民と思われる老人がバスを待っている。言葉を交わすことなく二人でバスを待った。
16時26分、千年橋バス停を出発。このまま福山駅まで帰ってさっさとホテルにチェックインをしてしまえばよかったのだが、その日はみろくの里という遊園地とその近くの神勝寺でライトアップイベントがあるとのことで、思い付きで「みろくの里東口」というバス停で降りてしまった。16:37着。
さて、みろくの里へは車道を登っていかなければならない。また、とぼとぼと歩道のない車道を歩く。歩いていると、日も暮れて空気が異様に冷たくなる。背中のザックを下ろして防寒着を着込む。車の通りは意外に多い。
17時00分、みろくの里の入口に着く。空は日が暮れて薄暗くなっている。入場口で入場券を買えば、みろくの里のライトアップイベントを見れるのだが、歩き疲れと、入場者がカップル家族連ればかりで、私のような高齢独身の独り者はおよそ場違いな場所に思えてしまい、土産物屋でマースカレーとビンゴソースのレトルトカレーと寺岡屋の牡蠣醤油なるものを買って、17:23の福山駅前行きバスで福山駅に戻った。
福山駅に着くと、ホテルに入る前に駅前の尾道ラーメンの店でチャーシューメンを食べた。これは旨かった。ホテルの部屋に入ると、熱いシャワーを浴びて、コンビニで買った缶ビールを飲むと、すぐに眠りについた。

新山口駅へ

2023年11月19日の日曜日、昨晩泊まったホテルで目が覚めると時刻はまだ午前5時だった。窓から外を眺めると、東側の瀬戸内海に面した空は朝日で赤くなっている。今日は福山駅7:41発のこだま号で新山口まで向かうつもりであったが、ホテルの朝食は大抵7時からであるので、予約時にホテルの朝食は辞したのだが、このホテルの朝食の開始は6:30からであった。後から朝食だけ追加料金を払って食べるのも何だか癪なので、もう少しベッドで横になり、6:30くらいにベッドから起きて、シャワーを浴びたりして身支度を整えた。
7時20分、ホテルのチェックアウトを済ませ福山駅に戻ってきた。福山駅内のパン屋で新幹線内で食べる朝食を買おうと思ったが、思ったより行列ができていて時間に間に合うかわからないので、対面のコンビニでお茶だけ買った。
こうして新幹線改札を抜けてホームへあがろうとすると、正面エスカレーターでは初老の男性が上りエスカレーターから転げ落ちていた。幸い、大きなけがもなさそうで、周囲の人が助けていたので、私はそのまま通過したが、これまた幸先が悪い。本日はレンタカーを借りるので、せいぜい事故を起こさないように注意しようと、気持ちを引き締める。
7時41分、福山駅からこだま835号に乗る。この列車は500系車両が使われていた。500系新幹線は私が大学生の時によく東京駅で走っているのを見かけたものだが、当時はのぞみの中でも数の少ない最速の車両で、たまに見かけると神々しく見えたものだった。それから20年以上の月日が流れ、いまでも当時と同じの車両に乗れるのはありがたいが、さすがに外見にも草臥れが見えていて、外壁は細かく波を打ち、行先表示などの外面の穴からは錆とも埃とも言えない汚れが風に吹かれて飛び散った後が見える。
車両内に乗り込むと、車齢が20年を越えた車両にしてはキレイに保たれていたが、走り出すとカタカタと振動音が聞こえてくる。客扱いをする新幹線車両でこの500系は、いまだにダイヤグラムを組む上での速度種別では最新のN700S系を押さえて最速の車両らしいが、さすがに老兵の衰えは隠せないようであった。
9時04分、 新山口駅着。はて、そういえば新山口駅とは何だろうか。昔は小郡と呼んだはずだが、と不思議に思っていたが、2003年ののぞみ停車を機に駅名を改称したらしい。
新山口駅を降りると、お土産屋に併設された小さいパン屋の客席にて、パンとコーヒーをいただく。この後、レンタカーで寺を巡る予定だが、昼食を食べる時間があるかわからなかったからだ。9:30にレンタカー店に赴きレンタカーを借りて、新山口駅を発った。

桜山南原寺

「伝」花山法皇御廟

レンタカーのカーナビの案内に従い、桜山南原寺を目指す。土地勘は全くないが、とりあえずカーナビの通りに進めば1時間程度で南原寺には着くようだ。
市街地を抜けると国道453号線の山間の谷の道を進む。たまに建てられた青看板には秋吉台の行先がでるようになる。そういえば、今回の旅程に秋吉台を入れていなかったな、と思い出す。南原寺に行ったら正法寺は止めて秋吉台に行くか、とも思う。正法寺は写真を見る限りは平凡な里山の寺院のようで、訪れてもどうにもつまらないように思えたからだ。とはいえ、南原寺の次は南原寺を出てから考えればよかろうと思い、穏やかな景色を眺めながら車を走らせる。
景色はとにかく穏やかで優しい。山が低いので険しいという印象が無い。美祢市街にはいると、土地も広く農村としても厳しい環境とは思えなかった。
美祢市街を抜けて、中国自動車道沿いの山道を進む。さらに分岐を経て南原寺に向かう険しい林道に入り、山を登って行った。
10:10 桜山南原寺着。駐車場には数台の自動車が止まっている。入口で参拝料100円を払って、パンフレットと入場券のようなものを受け取り、境内に入る。
どうやら南原寺は花山法皇より雪舟を推しているようで、まずは雪舟の庭なるものを眺める。紅葉の色づきがいまいちであったが、それでもいい庭園だなと思う。次に、花山法皇従者の墓があるので、そちらに向かう。南原寺の境内から少し離れた山の中にその墓地はある。10m四方程度のくぼ地のような場所に、現代の感覚でいえば粗末な石造りの石碑が何個も並んでいる。一つや二つではないのは、どういうことなのか。桜山南原寺のWebページでは、花山法皇の従者として7名の名前が記されているが、7名全員この地で亡くなったのか、あるいは、この地を花山法皇が終身暮らした場所だと捏造するために、こんな墓まで作ったのか。腑に落ちぬまま、本堂を参拝する。本堂の横では絵本とお守りを並べて売っていた。絵本を眺めていると、売り場の係と思われるおばちゃんが、「これは雪舟ですよ」と声をかけてくれた。
本堂の裏に花山法皇御廟があるので、山の上を目指して歩く。花山法皇の正式な御廟は先日訪れた京都の紙屋川上陵が本物に違いないだろうから、フェイクであろうが、昭和の発掘でこの御廟から人骨が見つかったというから、フェイクにしても穏やかではない。にしても、とうの南原寺内の案内杭にも「『伝』花山法皇御廟」とあるので、南原寺としてもこの御廟が本物だとは信じていないようだ。しかし、実際に山を登っても御廟らしきものが見つからない。もちろん看板はまったく無い。とにかく上へと登ると、桜山の山頂についてしまった。まさか、山を越えた向こう側とは思えないので一度降りる。苔の生えた石が並べられている箇所があり、これが御廟なのかもしれないが、看板も無く確信を持てない。後日、あらためて南原寺のWebページをみたら、この場所が御廟で間違いなさそうであったが、その時は結局山の中をウロウロして、御廟があったのかなかったのかもわからないままレンタカーに戻り、南原寺を後にしてしまった。

松嶽山正法寺

正法寺から眺めた厚狭市街

結局、南原寺では花山法皇御廟があったのかなかったのかわからないままで、モヤモヤした気分となってしまった。こんな終わり方では、どうにもこの旅が締まらないと思い、秋吉台に行くことはあきらめ、本来行く予定であった正法寺へ行こうと思い直した。
レンタカーのカーナビに従って正法寺を目指して進むが、厚狭の市街地を抜けて正法寺に向かう林道に入ると、その林道は碌に清掃もされていないようで、枝や小石が大量に積もっており、ホイールハウスをガラガラと鳴らしながら進んだ。レンタカーとはいえ傷がつかないか気になる。
林道の終わり手前で正法寺の入口と思われる石碑と看板を見つけるが、駐車場がなくさらに先に進めば駐車場があるのではと進んでみるが見つからず、引き返して林道の道沿いにレンタカーを駐車する。
石碑の横に寺に続く山道があるようだが、この道も荒れていて、枝や枯葉が積み重なっている。しかし、他に正法寺にアクセスする方法も見つからず、南原寺で御陵の存在を曖昧にしてしまった手前、引き返すのも癪なので、この山道を進むことにした。
5分ほど整備されていない壊れかけの山道を登ると、正法寺は確かにあった。Webページの写真どおり、きれいな石垣の上に立派な本堂がある。どうにも山の狐に騙されたような気分になる。
本堂の賽銭箱に賽銭を入れて一通りの参拝を終えたのち、本堂の中を覗くが人の気配がない。本堂の横に住職の住居と思われる家屋があるが、こちらも気配が無く、住職は下山しているのだろうか。
本堂の横に最近整備されたと思われる石段があったが、清掃をされていないようで、石段の上に小枝や枯葉が積もっている。石段を登ると右に古い鐘をみつけたが、さらに登ると少し開けた展望台のような広場があった。ここも整備清掃はされていないようで雑草で荒れていた。しかし、ここからの景色は大したもので、厚狭の街並みとその先の瀬戸内海が見渡せる、風光明媚な場所であった。
この景色は、花山院菩提寺から眺めた景色に似ていた。
たしかに、この場所に花山法皇はいたのだと、独り合点ではあるが確信した。
思えば、今回の旅は景色がどれも優しかった。沼隈半島南岸の田島を正面にした瀬戸内海、低い山に囲まれた美祢市の里、正法寺から見下ろす厚狭市街。「優しい」というのは「退屈」「つまらない」と同義であり裏返しでもあるが、こういう景色を優しいと感じられるようになったのは、老いなのだろうと思った。

帰宅後~謎多き花山法皇の長門国滞在を思う~

磐台寺の案内板
南原寺の案内板
正法寺の案内板

実は、山口県、当時の長門国の桜山南原寺と松嶽山正法寺まで花山法皇が訪れて、さらに長期間滞在をしていたという伝承については、ずっと疑念を持っていて、今回の旅を終えた後もその疑念は晴れずにいた。
仮に花山法皇が、自由に各地を修行という名目で諸国を漫遊していたのであれば、桜山南原寺が伝えるように長門国の里山に二年近くの長期滞在をしたのが、どうにも合点がいかないのだ。
当初は、花山法皇が数日立ち寄ったものを、地元民が舞い上がって何年も滞在したり地元の尼と恋愛関係なったりした物語を捏造したものだと思っていた。しかし、実際に桜山南原寺などを訪れてみると、従者の墓所や御陵跡が、そのような与太話の伝承で出来上がったものではないように思えてきた。すると伝承通り、花山法皇はこの長門国の地に二年近く滞在したことになるが、今度は、なぜ花山法皇がこのような地に長期滞在をしたのかが、わからなくなった。
例えば、厳しい修行が目的であれば、那谷寺訪問前にすでに登山を果たしていたであろう白山に加えて、同じく当時すでに開山をして修験者の修行場となっていた立山や御嶽山を目指しただろうし、様々な土地を訪れて見分を広めたいのであれば、西は四国や九州、東は関東まで足を延ばせたはずだ。平安時代の当時であっても、自由に旅ができるのであれば、山口県の長門国よりもっと訪れるべき場所はいくらでもあったはずなのだ。桜山南原寺の滞在の理由が伝承通りの美祢尼との恋愛であったとして、これは確かに好色で知られる花山法皇らしい話ではあるが、その前の松嶽山正法寺に一年近く滞在した理由がない。
改めて桜山南原寺の花山法皇のWebページを見ると、花山法皇は、正暦元年、西暦では990年まずは松嶽山正法寺を開創、すなわち何もない山の中に寺を作り、西厚保、つまり厚狭の海とは反対側の里山で暮らしたとのことだ。これは、果たして一般的な修行であったのだろうか。
色々と疑念が積り、改めて当時の歴史を整理してみると、花山法皇がなるべく京から離れた遠い場所に逃げて隠遁というか、おそらくは潜伏生活をしていた可能性があるな、と思い直した。
花山法皇の長門国訪問の前後をまとめると以下の様になる。

989年 花山法皇 小松市那谷寺を訪れる ※この前に西国三十三所巡礼を終えたと思われる
   藤原兼家 太政大臣就任
990年 藤原兼家 死去
   花山法皇 松嶽山正法寺を開創 現在の西厚保町に滞在
991年 花山法皇 桜山南原寺を訪問 滞在
992年 花山法皇 阿伏兎岬に石造十一面観音像を祀る
   花山法皇 花山院菩提寺を隠遁地に決める
   花山法皇 春頃に熊野那智山に入山 千日行を開始する

花山法皇が長門国を訪問し滞在を開始した時期は、藤原兼家の死去の時期と重なる。
藤原兼家は花山天皇を騙して出家をさせた寛和の変の黒幕であるから、花山法皇にとっては互いに政敵、宿敵である。とはいうものの、敵と言っても権力を掌握した60歳近い老練な摂政と、天皇の地位を陰謀で追われた20代前半の若造の身では、実力の差は火を見るより明らかであっただろう。ゆえに、兼家が健在であった期間は権力構造も安定していただろうし、兼家と実力差が違い過ぎる花山法皇が京の貴族の権力争いに巻き込まれる事態はなかったのではないか。要は敵ではなかったのだ。しかし、兼家が亡くなり、兼家の息子たちを主として残された貴族たちで骨肉の権力争いが始まると、西国三十三所の巡礼を終えて仏教界でも一目置かれる存在になっていたと思われる花山法皇も、権力争いの渦中に巻き込まれた可能性が高い。歴史上、実際に例はなかったが、還俗して天皇に返り咲くのだって、不可能ではなかったであろう。特に、寛和の変で花山法皇を陥れた藤原道兼などは花山法皇の存在を露骨に邪魔扱いをしたであろうし、後に長徳の変を起こす藤原伊周の父である藤原道隆も、この時期には強い警戒心を持っていただろう。
このような彼らが、花山法皇の暗殺を企んだとしても不思議ではないし、歴史には記録されていないが、花山法皇に有馬皇子のような謀反の嫌疑をかけた可能性すらある。
そのような次第で京の有力貴族から逃げてきたのであれば、船で海を渡って四国や九州を目指すとなると、当時の船を出せるような船着場は限られているだろうから、そこで刺客や役人に待ち伏せをされる可能性もある。暗殺や捕縛の危機から逃れて身を隠すには、本州の西端である長門国が潜伏先として最適であったかはわからないが、とりあえず京から少しでも遠くへと西に逃げてきて、これ以上遠くへは逃げられずに行き着いた先が長門国の辺境の里山だった、というのは自然な話ではないか。
花山法皇の長門国滞在が「潜伏」であったとすると、おそらく京から長門国に派遣された国司の援助は得られなかっただろうから、七名の従者と共に暮らした花山法皇の長門国での生活は、およそ皇族には似つかわしくない、過酷なものではなかったか。桜山南原寺の花山方法にまつわる伝承では、ひばり峠で狩りをし、南原寺を拠点に従者が長門国各地で寺院を開創し、花山法皇は美祢尼との恋愛を楽しんだようで、ずいぶんと優雅な印象を受ける。それらの伝承自体は事実であったのかもしれないが、しかし、その実態は日々の糊口をしのぐにも苦労するような生活だったのではないか。そのように仮定すると、南原寺の従者の墓や、実際に人骨が埋められていた花山法皇の御陵の存在も、単なる地元民の与太話のような伝承で設置された安易なフェイクなどではなく、過酷な潜伏生活で力尽きる従者がいて、亡くなった従者を弔いながら潜伏生活が限界を迎えて自身の死を偽装するために御陵を捏造するところまで追い詰められた花山法皇がいたのではないか。すると、事実関係があやしい南原寺の花山法皇ゆかりの、従者の墓や御陵の存在も筋が通って納得できる。そもそも、嘘の物語で他人の、ましてや法皇の墓を作るとは思えないし、仮に京で亡くなった花山法皇の偲んで地元民が建てた御陵であれば、もっと人目に付く場所に立派のものを作るだろう。
正法寺の景色も、旅中は風光明媚な景色だ程度の感想しかなかったが、改めて思い返せば、厚狭の里と海上の船を監視をするのに絶好の場所である。七人の従者が周りを固める花山法皇を確実に捕えるには、数十人の兵を用意しなければならないだろう。数十人の軍団が厚狭の里を進軍していれば、正法寺からでも視力が良ければ不審な動きとして見つけられるだろうから、そのような動きを見つければ、監視役がすぐに裏の西厚保側の里に下りて花山法皇を含む仲間たちに知らせ、一旦ちりちりバラバラに散開し、無人で廃寺となっていた南原寺に集合する手はずであったのかもしれない。
背景はどうあれ、二年間の花山法皇の長門国滞在が事実であれば、992年に祀られた阿伏兎観音は、厚狭から大阪までを船で帰京する際中に祀ったもで間違いないと思われる。経緯は解らないが、この頃には逃亡の必要がなくなり、潜伏生活を終えて船で帰京を果たしたのではなかろうか。陸路であれば鞆の浦や阿伏兎岬を通らないだろうから、花山法皇が航路を使って長門国から京へ戻ったのは間違いないだろう。その後の歴史から推測するに、藤原道長が花山法皇のバックアップ役を買って花山法皇の京での安全を保障し、帰京の船も手配したのかもしれない。阿伏兎岬に西から接近すると、多島海が終わり水平線が見えるほど海が開けるようになる。花山法皇が阿伏兎岬に何か感じるものがあったとすると、西から船で進入して阿伏兎岬とその先に広がる海を眺めて、この先の航海と、果ては帰京後の自身の安全を願ったのではないか。また、鞆の浦は瀬戸内海の潮流の境目になる中間地点でもあるから、阿伏兎観音には長門国で亡くなった従者を弔う意味もあったのかもしれない。

これらは所詮、証明の仕様の無い、学者でもない貧しい無学な一般人のつたない仮説でしかないが、こういう勝手な妄想をできるのも、歴史に興味を持つ醍醐味ではないだろうか。

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