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花山法皇ゆかりの地をゆく①〜花山院菩提寺、紙屋川上陵編〜

今、花山法皇が俺の中だけで熱い。

きっかけは、大鏡でも栄花物語でも拾遺和歌集でもなく、そういった古典がきっかけならば知的かつ風流で格好良かったのかもしれないけど、高校生活をサボった私は古典も日本史もさっぱりだった。
正直に告白をすれば、数年前のネットで花山法皇がバズったのが原因だ。
その時から、バズった中で話題に挙がった花山院菩提寺だけはいつか行っておきたいと思っていたところで、例のコロナ禍で頓挫していた。
そのまま、すっかり忘れていたが、先の11月連休の前々日の2023年11月1日水曜日にふとしたきっかけで思い出し、この週末の連休にどうにかいけないものかと調べたら、2023年11月3日金曜日の朝早いのぞみのグリーン車だけが奇跡的に空いていた。
せっかく、高い金出して関西へ行くのであれば、花山院菩提寺だけではなく他にも色々回っておきたいと、ホテルなども手配して、11月3日の早朝、東京駅6時9分発のぞみに間に合うように早起きをして千葉県の自宅を発った。

兵庫県三田駅へ

JR三田駅

東京駅6時9分発のぞみ283号は、私が東京駅の新幹線ホームを訪れた時は、すでにホームでドアを開けて乗客を迎え入れていた。
久しぶりの新幹線グリーン車に少し浮き足立っていた私は、自分の席を見つけると、背負っていたリュックを網棚に乗せようとしたら座席に落としてしまい、すでに着席していた隣席の乗客に睨まれた。全て自分が悪いのだが、2時間30分弱の時間を席を隣にする御人とのファーストコンタクトがこれでは、幸先が悪い。
のぞみ283号は予定通りに東京駅を出て、品川駅、新横浜駅と本来の実力を隠して点々と駅に止まる。ただでさえ窓の小さいN700A系新幹線電車であるが、隣席の窓際の乗客が日除けを閉めてしまったので景色は全く見えない。
美人の女性パーサーが使い捨てのおしぼりを配った後も何度か通路を行き来しているのを見たり、スマホでネットを漫然と眺めていると、通路を反対側の窓から景色に、浜名湖と思われる大きな湖が見えた。こんなに新幹線て速かったけ?と意外な思いを感じたが、あっという間に名古屋、京都と止まり、終点の新大阪に着いてしまった。せっかくグリーン車に乗ったのに、あっという間に到着してしまい、少しもったいない気持ちになる。8時36分新大阪着。
新大阪の新幹線駅は三連休初日の朝であるためか大混雑で、改札は行列ができていた。行列を横目に新大阪から東海道線に乗り換えて尼崎駅へ。
8時46分新大阪発、8時57分尼崎駅着。
尼崎で宝塚線に乗り換える。宝塚線はかつては福知山線と呼んでいたはずだが、例の事故で印象が悪くなったせいだろうか、名前が変わっていた。
8時58分尼崎駅発。
宝塚線はのんびりと走る。車内の様子を眺めるに、関東より座席の譲り合いの頻度が高い気がする。電車は宝塚を過ぎると住宅街から急に山間部に入った。関東では考えられないダイナミックな景色の変わりようだ。
山間部を抜けて山間の住宅地に入ると、9時30分三田駅着。

花山院 菩提寺

花山院菩提寺

三田駅から花山院菩提寺まではバスになる。
バスの出発は9時55分だから時間があるが、待ち時間を持て余す。花山院菩提寺へ行くバスのバス停は北口だが、三田駅で賑やかなのはどうやら南口のようだ。
しかし、南口に出てみても、この中途半端な時間を潰せるような店はなさそうだった。仕方ないので、何もない北口に戻ってバスを待つ。
私と同じ年代と思われるリュックを背負ったおばちゃんが一人、私と同じようにバスを待っているようだった。間も無く目的のバスはやってきた。
神姫バス母子行き、9時55分三田駅発。バスは私とそのおばちゃんの二人だけだった。花山院菩提寺まではバスで12分程度だったので、歩いても良いかと思ったが、実際にバスに乗ってみると意外に距離もあるし峠越えもある。素直にバスを使って良かったと思った。

10時7分花山院バス停に到着 。例のオバちゃんも私と同じく花山院バス停でバスを降りた。目的の菩提寺へはバス停から舗装された車道の山道を1kmほど歩かなければならない。自家用車で訪れたならば寺前の駐車場まで登れるが、公共交通機関を利用する参拝者はおとなしく歩くしかないので、登り始める。登りはじめはオバちゃんが先を歩いていたが途中で追い越した。
20分程度で菩提寺に到着。境内を一通り眺めて写真を撮ったりする。別に三十三所巡りをするつもりもなければ寺巡りもせず、御朱印帳も持ってきてはいないので、せめてお守りでも買おうかと思ったが、一通り眺めて何も買わなかった。有馬富士や三田市街を眺められる展望台のようなベンチに座って少し休憩する。何も思うことはなく、ただ無心。この数年来、訪れたいと願っていた場所だったのだが、いざ来てみるとこんなものかと空虚になるのは、観光旅行ではいつものことだ。
さて、帰ろうと再度境内を眺めると、意外と参拝者が多いのに気づく。本殿の前で熱心にお経を読んでいる白装束の夫婦もいる。もういいだろうと思い、花山院菩提寺を後にする。アスファルト道を下山していると参拝客の乗用車とも何台かすれ違う。観光客でごった返すような混雑はしていないが、決して寂しくもない、良い感じのお寺だと思った。

花山院と十二妃の墓

十二妃の墓

下り道はあっという間に下り切って、バス停まで戻ってきた。次は十二妃の墓に行きたいが、看板らしきものが見あたらない。GoogleMapを開くとすぐ近くにありそうなので、地図を頼りに民家の間の道を進むと1分ほど歩いてすぐに見つかった。
木陰にお地蔵様と小さな祠がある。十二妃とは花山法皇の最愛の女御、藤原忯子と花山法皇のお世話をしていた女官たちの墓だ。花山法皇がここに移り住むと、女官たちも追ってこの地で暮らすようになったらしい。
女官とはいえ京で生まれて過ごした良家の女性たちだったであろうに、突然、田舎のこの地にやって来て、よく馴染めたものと思う。現代だって、都会人が田舎に移り住んでも馴染めずに都会へ戻る事例はよくあるのに、当時の京と田舎の文化的な差異は現代とは比にならないものだったろう。
彼女らがこの地で暮らすのに、彼女らの人柄と要領が良かったのか権力で押さえつけたのかわからないが、1000年経ってもこの墓が守られていた事実を見るに、前者であったと思いたい。この十二妃の墓は今も地元の人が管理しているようで、賽銭箱にその旨が書いてある。100円を納めて手を合わせて後にした。
バス停に戻ると、バスの時間まではまだ30分近くある。近くの「花山」というそのままの名前の蕎麦屋にはいり、例のバズった内容によれば花山法皇の好みの食事であったとされる蕎麦と山芋を、当時と食べ方は違うらしいが、とろろ蕎麦として食べてバス停に戻った。
先ほどのオバちゃんもバスを待っている。向こうから声をかけられた。清水寺にもいくのですか?と聞かれた。清水寺とは京都ではなく姫路の清水寺を指しているのだろうが、「私は菩提寺だけです。三十三所を回っているわけではないので」と答えると、それ以上何も話しかけてこなかった。

紙屋川上陵へ

阪急宝塚線急行

12時0分、三田駅に戻ってきた。帰りのバスは思いのほか混んでいて、1時間に一本の閑散路線であるが意外と使われているのだな、と感心した。
後の予定は、神戸鉄道で新開地まで行き、もっこすラーメンを食べるなり異人街をぶらつくなりして、17時0分、大阪上本町発の近鉄特急ひのとりで名古屋へ向かうつもりであった。
しかし、神戸鉄道の改札を抜け電車内で出発を待っていると、人身事故による運転見合わせのアナウンス。復旧までは30分程度らしいがあてにはならない。
仕方ないので神戸鉄道の改札を出てJRの改札に入り、とりあえず大阪方面に戻ろうと次の上り電車に乗る。
12時24分、三田駅発。とりあえず大阪に戻るとは決めたが行く先は何も考えていない。
12時41分、何の考えもなしに宝塚駅で降りてしまう。なんとなく、マルーン色の阪急電鉄に、これまで一度も乗った経験がなかったので乗ってみたいと思った。
目的もなく阪急電鉄の12時50分発大阪梅田行き急行に乗る。急行と言ってもしばらくは各駅にのんびりと止まりながら進む。車内のロングシートは通勤車仕様そのものであるが、関東私鉄よりは座面が広くて柔らかくゆったりしている。なんとなく、このまま大阪で時間を潰すのは手持無沙汰になりそうだし、せっかく阪急に乗ったならメインの京都線も乗った方がよかろうと思い、そういえば、京都には花山法皇の紙屋川上陵があると思い出して、このまま阪急電車を乗り継いで京都へ行くことにした。
13:20十三駅着。3分で京都行の特急が来るらしいが、いまいち乗換の方法がわからない。一度跨線橋を登るがどうやら同じホームでよかったようだ。
13時23分、阪急特急京都河原町行きで十三駅発。さて、京都の紙屋川上陵にはどうやって行ったものか。GoogleMapを見ると、終点の京都河原町駅まで行くよりは西院駅で降りた方がよさそうだが、そこからの交通がわからない。歩いても何とかなりそうな距離だが、徒歩では30分くらいはかかりそうだ。であれば、阪急嵐山駅へ行って嵐電で北野白梅町駅まで行った方が良さそうだと思った。
それにしても、阪急の車内広告は特徴的だ。まずは「小林一三生誕150年」の広告。小林一三は明治の経営者として偉大な人物なのかもしれないが、自社の創業者の生誕祭を公けで大体的にやるものだろうか。あと、宝塚歌劇団の広告もコロナ渦後だからか例の不祥事事件の直後のためか、妙に力が入っているようであった。
13時55分、桂駅着。嵐山線に乗り換える。
14時00分、桂駅発。
14時07分、嵐山駅着。

嵐山渡月橋

嵐山近辺の地理関係をあまり認識していないまま来てしまったが、阪急の嵐山駅と嵐鉄嵐山駅は渡月橋をはさんだ対岸にあるようだった。ネットの乗換案内では乗り換え時間は2分と出ていたが、とても2分で乗り換えられる距離ではない。特に今日は3連休の初日でご陽気も大変によろしく、京都の嵐山は観光客でごった返していた。
渡月橋も歩行者で渋滞しており、思うように進まない。こちらも腹をくくって観光客気分で歩くことにする。
観光客でごった返すなか、どうにか嵐鉄嵐山駅に着く。売店のようなところで、さつま揚げのようなものを買い食いをして、次の電車の行列に行儀よく並ぶ。
14時33分、嵐鉄嵐山駅発。嵐鉄は古い路面電車のような車両が二連で、観光客を目一杯乗せて走る。吊り掛け駆動というやつなのか、走行音が子供のころに乗った東武電車のようで懐かしい。
14時40分、帷子ノ辻着。ここで更に北に向かう電車に乗り換える。こちら一両のみだったが、やはり観光客で満員だった。
14時46分、帷子ノ辻発。相変わらず満員電車の嵐電にのって、のんびりと専用軌道を進む。途中、春は桜の名所です、との車内放送があったが、桜が美しい春の京都に再訪することはあるのだろうかと、残りの余生を思う。
14時58分、北野白梅町着。素直に西院駅から紙屋川上陵へ向かっていれば、今頃とっくについていただろうに、遠回りをしてしまったなとは思ったが、嵐山にも寄れたし良しとする。平野神社手前のパン屋でクロワッサンを買い食いなどしながら、徒歩で紙屋川上陵を目指す。京都市内の距離感がわからず果たしてどれくらいでつくのか、歩きながらヤキモキした。

紙屋川上陵

15時18分、紙屋川上陵着。閑静な住宅街の中にある、公園とも言えない何とも厳かではあるが奇妙な雰囲気の場所であった。入口は狭く、中に進むと広い敷地があるつくりになっている。中にはプレハブ小屋のような事務所があるので、無人ではないらしい。まさか墓荒らしなどいないだろうが、万が一でもそのような事件があれば皇室の威厳に関わるのだろう。一通り写真を撮ると、あとは何もすることもないので、早々に紙屋川上陵を後にした。

名古屋へ、その後

犬山城

先にも書いた通り17時0分近鉄大阪上本町駅発の近鉄特急を予約してあるのだが、果たして15時30分に金閣寺近くの西大路通にいて間に合うものかがわからない。16時0分京都発の新快速に乗れば間に合いそうだが、京都駅まで30分で辿り着けるものか。西大路通に戻ると京都行のバスが見えたので飛び乗ったが、乗客を満タンに乗せたバスは15時45分の時点で二条城の横を走っており、これはダメだと思い次善策を思案する。今夜は名古屋栄町のホテルを取ってあるので、近鉄での移動は止めて京都から新幹線に乗ってしまうか、あるいは近鉄特急で別の便を予約しなおすか。だめもとで近鉄の予約サイトを調べたら、17:23発の近鉄特急に振替えができたので、予定通り大阪に戻ることにした。

ここからは、花山法皇とは関係のない場所を巡ったのでダイジェストにしたい。

予定通り、17時23分発名古屋行きの近鉄特急ひのとり号に乗り、近鉄名古屋駅には少し遅れで19時35分頃に到着した。その後、地下鉄で栄町に行きホテルにチェックインをして、栄町で夕食を摂る店を探したが、三連休初日の夜だからかどの店も混んでいて一人客を受け入れるような店は少ない。うどん屋に入って牛すじうどんなるものを食べた。旨かったが旅先の夕食としては少々味気なく、宿泊ホテルの近所のバーでウイスキーを二杯飲んでその夜はホテルに戻った。

2023年11月4日土曜日、栄町から名古屋駅に戻り名鉄に乗って犬山城に向かった。犬山城は大混雑だったが、当時の建築そのままの中身を見れて満足し、それからリニア・鉄道館へ行った。こちらも、懐かしい新幹線食堂車などを眺めたりして満足し、名古屋から木曽福島に向かった。せっかくの三連休なのだから目一杯旅を満喫しようと、11月4日の宿泊地として木曽福島の旅館を予約しておいた。
その旅館は海外からの観光客向けに改装したのか、畳敷きの和室に畳ベッドが備えられているという珍妙な部屋であったが、温泉の大浴場は気持ちよかったし、おおむね満足であった。ただし、その旅館の夕食はどうにも味気無さそうだったので、外のフランス料理屋を事前に電話で予約して夕食を摂った。一人でフランス料理のコースを食べるのは、何とも寂しい気分にもなるが、味は旨く、満足のできる夕食となった。

御嶽山ロープウェイから中央アルプスと南アルプス

2023年11月5日日曜日、最終日は木曽福島駅からバスで御嶽ロープウェイに向かい、ロープウェイで御嶽山の中腹から中央アルプスとその裏にある南アルプスを眺めた。本来であれば登山で訪れて、山頂まで行きたいところであったが、今回は行き当たりばったりの旅であるため致し方なし。御嶽ロープウェイは11月5日の本日が今シーズン最終日だったが、以前の噴火で客足が遠のいたのか客足も乏しく土産物屋も閑散として寂しい雰囲気であった。13時に木曽福島駅に戻り、塩尻駅で特急を乗り継いで千葉県の自宅に戻った。

終わりに

帰りの特急の中で暇を持て余したので、花山法皇のゆかりの地を調べてみたら、京都や西国三十三所以外にも各地に花山法皇の伝承を伝える寺院や跡地があるとわかり、そういったものをまとめているWebサイトもないので、noteに記事として投稿した。

花山法皇が、かように現代にいたるまで約1000年間もの間各地で寺院や庶民の間で途切れず伝承されたのは、各地を修行の名目で御幸で巡られたのと、権力争いに敗れて謀略の末に出家を強制された悲劇の天皇という面が大きいのだろう。
明治時代に入り義務教育が施行されるようになると、皇室の権威を保つという点で奇行の多かった花山法皇が日本史の授業で取り上げられる機会は少なくなり、一般人の認知と影響力は大きく落ちたと思われるが、それまでは西国三十三所の中興の祖、ひいては札所巡礼のアイコンとして庶民への影響力はかなり強かったのではないだろうか。
私は華々しい権力者、才能あふれる学者や芸術家、勇猛な武将なんかよりも、騙されて落ちぶれてそれでも精一杯生きた人間の方が気になる。精一杯生きた点については怪しいが、それ以外は私も同じようなものだからだろうか。
花山法皇ゆかりの地を調べたら、他の場所も巡ってみたいと思った。関東住まいの身には、西日本を旅するのは費用もかかるし、週末を使って動き回れば翌週の仕事にも影響が出る。そもそも、寺院巡りなどあまり楽しいものではないし、noteの記事なんぞを書いても誰も望んでいないのかもしれないが、それでも、気になるところを回って、それをnoteの記事に残そうと思う。

はっきりした動機などないが、人間がなにか行動を起こすきっかけなんて、そんなものではないか。


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