見出し画像

#419 ランキングで示されるほど、世の中単純ではないという話

 番付表とは、元々は相撲や歌舞伎役者の序列を順番に書き付けたもので、江戸時代後期(18 世紀後半)には、すでに刷物として発行されていました。やがて相撲や歌舞伎役者の番付表に見立てて、物事をランキング化する見立番付が盛んに作られるようになりました。ある事柄を東西に分けて大関・関脇・小結・前頭の順に格付けし、中央や下部に別格として行司・世話人・勧進元などを配しました。対象となるものは、地域の特産物やお土産、温泉や酒の銘柄など多種に渉る。プロ野球のドラフト会議を模したバラエティ番組が人気があるように、私たちは何かを比較することが好きなのかもしれません。

 ふとその理由を考えてみる。競争社会の中で生きる私たちは、生まれた時から、常に比較し比較される世界に放り込まれる。自分自身を他者との比較によって定義されることに慣れた私たちは自然と、様々なものを比べランクづけすることが好きになっていくのかもしれない。

 私がパートナーに「今まで行ったラーメン屋ベスト3は?」と聞いた時、彼女は非常にびっくりした顔をしていたのを覚えています。彼女にとって、自分が美味しいと感じたものを比べることに意味はなかったのかもしれません(もちろん彼女の中でも味覚に対する基準はある)。今となっては私も、無意識的に多くの事柄を比較していたのだと反省しています。

 『「本当に強い大学ランキング」教育・研究力TOP50』という記事を見つけました。

 偏差値と学歴社会に生きる現代において、「〇〇な〜Top10」みたいな記事はありとあらゆるところに存在します。様々な人が、様々な修飾語を用いながら世の中をランクづけしているのです。情報過多の世の中に置いて、誰かの尺度によって決められたランキングは時として役立つ場合もある。美容品やPC関連のガジェットなど、細かな違いがわからない素人の私にとってはありがい。一方、それはあくまで1つの基準に過ぎないし、その基準によって社会が定義されるほど、私たちは単純な世界に生きてはいないのです。

 教育ジャーナリスト・おおたとしまささんは、『なぜ日本人は「東大合格者ランキング」が好きなのか 教育格差・学歴格差への処方箋を教育ジャーナリストが提案』の記事の中でランク付けそのものに意味はないと指摘しています。

 学校は、得られる人生が学力によって変わってしまうという思想を子どもたちに刷り込む巨大な装置として機能する。義務教育だけでも九年間、高校までを入れると一二年間、子どもたちは常にそういうメッセージを受け取る。一八歳時点での大学入試の結果によってほぼ決まる最終学歴で社会に出たときの地位や収入が違うのは当然だと思い込まされている。

とおおた氏は述べています。

 物事の比較とは、多くの場合、誰かの主観的な要素の中に存在し、またそれぞれの物事にはそれぞれの特徴がある。もちろんその分野に対する一定の基準をクリアする要素は必要だが、それを越えればあとはその個人がそこがいいと思うかどうか。自分が一番学びを進めることができる環境を見つけることができれば、それで問題ない。比較することに慣れた私たちは、比較することの本質を見出さなければならないのです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?