TVアニメ『お兄ちゃんはおしまい!』について:現代の興奮依存症と漂流する「男らしさ」の行方
2023年3月に放送が終了したTVアニメ『お兄ちゃんはおしまい!』(以下、『おにまい』と略記)は、ひきこもりの成人男性がある日突然美少女の姿を手に入れ、女子中高生コミュニティのなかでセルフケアと社会性を身につけていく様子をコミカルに描く作品である。本作をたわいない性転換(TS)コメディの一つにすぎないと片付けるのは簡単だ。しかし、画作り・文藝の両面から見て、本作は良くも悪くも男性の「劣化」を的確に写し取っており、真剣な分析に値すると考える。本作は、童顔とグラマーなスタイルを併せ持つデザインのキャラクターがパステル調の背景に浮かび上がるという奇形的な画作りによって、ネバネバした男性的な性欲の潮汐を感じさせてやまない。この性欲に関するアクセルとブレーキのせめぎあい、言うなれば画作りに見える「冷静と情熱のあいだ」は、「男らしさ」の空洞化と密接に関わっている。本作は文藝の面において、ポルノとゲームが支配的な力を有する現代の情報社会における「男らしさ」の漂流を言い当ててはいる。ただし、それは意識的な問題提起というよりは煩悶の症例そのものと言わざるをえない。
本作の主人公・緒山まひろ(CV: 高野麻里佳)は、物語の開幕時点ですでに2年間外に出ていない、「エロゲーを愛する孤高の自宅警備員」を自称するひきこもりであった(第1話)。ある日、まひろは飛び級で大学に進学した天才科学者の妹・緒山みはり(CV: 石原夏織)が開発した「女の子になる薬」を盛られ、目覚めると女子中学生くらいの体になっていた。みはりは「いかがわしいゲーム三昧」の「ひきこもりのダメニート」である兄の将来を心配し、兄を実験的に美少女に性転換させる「お兄ちゃん改造計画」を案じた。この計画のゴールはまひろの「社会復帰」とされており(第4話)、本作はひきこもり男性が「社会復帰」のために女性化する必然性はあるのかという問いを抱えながら進展していくことになる。
本作において、まひろがひきこもりになった原因は明言されず、優秀な妹の兄であることに対する他人の視線とそれに伴う重圧感が原因の一端として示唆されるにとどまっている(第1話/ただし、これらは本人の自意識過剰や思い込みである場合が多い)。だが、明確な原因を問わずとも、まひろの示す症状に着目して分析を進めることは可能である。日中でもカーテンが閉められたまひろの暗い部屋は、闇のなかに煌々と光るディスプレイを備え、エロゲー、エロマンガ、アニメ雑誌、アニメのディスク、美少女フィギュアで埋め尽くされており、敷いたままの蒲団とゴミの詰まったビニール袋が乱雑な部屋に彩りを添えている。この部屋は、まひろがいつでも好きなときにオナニーできて、インスタントなオーガズムに達することができるように最適化されている。また、まひろはめったに風呂に入らず、女性化したあとも普通に家のトイレで立ち小便をしようとして男性器の不在に気づくなど(第1話)、男性社会からの落伍者であるにもかかわらず、その行動原理はきわめて男性的である。まひろは自分を清潔に保つ意欲を喪失したセルフネグレクトの状態にはまりこんでいるばかりか、立ち小便による飛沫を誰が掃除するのかを気にかけることもなく、自他をケアするという発想をそもそも欠いている。第2話では、まひろはヘアケアを教えられることを通じて女性の入浴時間が長い理由を悟るが、これもどちらかというと男性の側にセルフケアを許さない強迫観念が根づいていると表現するのが正確であろう。
実のところ、こうした症状はまひろに特有のものではない。心理学者のフィリップ・ジンバルドーとそのアシスタントを務めていたニキータ・クーロンは2015年の共著『繋がれない男』(Man (Dis)connected: How technology has sabotaged what it means to be male, London 2015; 邦訳は『男子劣化社会:ネットに繋がりっぱなしで繋がれない』晶文社、2017年)のなかで、さまざまな観点から先進諸国における男性の「劣化」に関する所見を示している。ジンバルドーとクーロンの二人は、症状・原因・解決法の三部構成で、インターネット全盛の情報社会における男性の「劣化」、すなわち「なぜ今日の若い男性が学力的、社会的、また性的にも劣化しているのか」について論じており(『男子劣化社会』、11頁)、日本のひきこもりにも言及している。二人は共著の冒頭で次のように述べている。
二人は現代の情報社会において、「あまりに多くの男子がはっきりした方向性も基本的な社交スキルも持ち合わせていないという事実」を指摘している(同書11頁)。二人はこうした「劣化」の一因として、ゲームとオンラインポルノの隆盛を挙げている。
特筆すべきことに、二人はゲームとポルノを単なる現実逃避の手段と位置づけてはいない。二人は共著のなかで、ポルノ依存症からの回復過程にあるゲイブ・ディームという人物の言葉を紹介している。彼の発言は現代の情報社会におけるゲームとポルノの機能について考えるうえで、示唆に富んでいる。
要するに、ジンバルドーとクーロンの二人が言うように、「ゲームとポルノは高いレベルでの興奮を達成または維持するために新規のものを探し続ける“興奮依存症”だと考えていい」のである(同書152頁)。この興奮依存症は使用者に負のフィードバックを生じさせる。「楽しそう」、「やってみたい」という好奇心からゲームやポルノに惹きつけられ、ひとたびインスタントな快楽の虜になれば、常用によって自己愛が際限なく膨らみ、「自分を取り巻く人間関係やコミュニティの一部にはなりたくないし、自分以外の誰かの人生をよりよくする義務も感じない」ようになってしまう(同書200頁)。そうなれば当然、社交スキルの低下によって対人関係がうまくいかなくなり、ますます予測や制御がしやすいオンラインや仮想世界への撤退を志向するようになる。結果として、自己愛が複利効果のように膨れ上がっていく。二人はこのような負のフィードバックを「新種のシャイネス」と呼んでいる。
『おにまい』の主人公・まひろは、まさしくこの「新種のシャイネス」に陥っていたように見える。つまり、問題の本質は脱落や落伍ではなく、コンシューマーゲーム、オンラインゲーム、そしてエロゲーへの過度の依存であり、それを促進する技術的環境である。だからこそ、みはりは兄を強制的に女性化させ、女子中高生コミュニティのなかに放り込むことによって、まず男性的な「劣化」のループを断つ必要があったと解釈することができる。たしかに、みはりの「お兄ちゃん改造計画」は依存症回復プログラムとして一定の成果をあげている。まひろは妹のはからいによって女友達を得るとともに、細かい手続はさておき、転校生として二度目の中学生活に入る。まひろはその過程でバレンタインデーの「友チョコ」という文化を知って実践したり(第10話)、化粧を教員から見咎められたことについて「ねー、ひどいよねー」とクラスメートの女子に愚痴ったりするなど(第11話)、共感というよりは同調や迎合を基盤とした社交スキルを人並みに高めていく。まひろは女友達のアドバイスを受けて、妹の看病のためにおかゆをつくることにも取り組むようになる(第3話)。このように、まひろは収奪する者(taker)として事実上ふんぞり返っていた姿勢を改め、与える者(giver)として主体的に行動する喜びを知り、小さな成功体験を積み重ねていく。
しかし、女子中学生に扮した「人付き合いの練習」(第3話)が「いかがわしいゲーム三昧」のひきこもり生活より幾分マシなのは否定しがたいとはいえ、今一度「お兄ちゃん改造計画」のゴールに立ち返ってみると、女子中高生コミュニティへの帰属が「社会復帰」に繋がるという理路は必ずしも明らかではない。本作における「社会復帰」が何を意味しているのかを明らかにするためには、まひろが女子中高生に同性として取り囲まれる環境に対してどのような感想や認識を抱いたか、そしてひきこもり時代と比べてどのように物事の判断基準が変わったかを検討する必要がある。
この点については、第1話からすでにある程度の答えは示されていたと言うことができる。まひろは第1話で女性化した直後、自分が「身の丈に合った位置」に収まった気がすると独白していた。また、まひろは第7話では、期末テストの点数が悪かったことを女友達からイジられて、「変に気張る必要ないんだった」と自分に言い聞かせていた。反対解釈として、まひろは次のように認識しているのだと言える。男性(あるいは兄)は必死に背伸びや痩せ我慢をして「気張る」必要があり、絶えず緊張を強いられている。男性は年長者からの期待や抑圧、同年代からの嫉妬や挑発といったプレッシャーにさらされており、心を許せる友人関係の構築は難しく、とにかく気が休まらない。こうした認識の背後からは、「泣かないの、男の子でしょ」という幻聴が聞こえてくるようだ。ジンバルドーとクーロンの二人も男性社会に幼少期から刻印された負の側面について、次のように述べている。
『おにまい』の結末もまた、「男らしさ」を強要される苦しさを間接的に描こうとはしている。最終回(第12話)において、まひろは女友達との旅行中に「女の子になる薬」の効力が切れてしまい、男の体に戻り始めてしまう。このとき、まひろには二つの選択肢があった。予備の「女の子になる薬」を服用するか(ただし、また当分のあいだ女の子になってしまう)、それとも男の体に戻って時限の女子中学生ライフの終わりを受け入れるか。まひろは「元に戻ったらこういうのもおしまいか」とつぶやき、自分にとって女子中高生コミュニティの居心地がよかったことを自覚する。そして、まひろは「女の子になる薬」を再び飲み干すことを選ぶ。まひろはみはりに対して「女の子でいたいわけじゃないぞ」と言うが、だとすればこの選択は結局「男らしさ」からの逃避でしかない。要するに、まひろは居心地の悪さと向き合うことを回避し、当面の居心地のよさを重視したのであり、その意味では両親のいない家にひきこもることと妄想の女子中高生コミュニティに入り浸ることは同じ方向性を有していると言わざるをえない。「お兄ちゃん改造計画」はゲームやポルノよりももっと楽しいことが外界にあると教えるための依存症回復プログラムのはずが、それ自体依存性を秘めていて、ここには出口がない。このプログラムは「社会復帰」を謳いつつ、実際にはまひろを元のレールに戻すのではなくて、ポイントを切り替えて別のレールを時限的に走らせている。まひろにとって、女子中高生コミュニティは安全地帯の代替、あるいは興奮依存症の新たな火種としてしか機能していない。
とはいえ、本作は身勝手な女性羨望との批判を避けるためか、女性の大変さについても申し訳程度に言及している。まひろは女性化によって生理を経験して青ざめ(第2話)、女子トイレに並ぶ長蛇の列に驚愕する(第3話)。アニメイトタイムズに掲載されたインタビュー記事(2023年3月24日最終更新)のなかで、本作の監督を務めた藤井慎吾は「元々、自分は男なので、バランスを取るためどうしても脚本家を女性に頼みたいとお願いして横手さん〔注:横手美智子〕になった経緯があったので、その分女性ならではの描写をサポートして貰いました」とか、「基本的には、脚本の横手さんや制作の女性に意見を聞いたりしてます。それでも足りない部分は実際に調べてもらうといった感じです」などと、制作にあたって実際の女性の声を参考にした旨述べている。しかし、女性スタッフを起用して女性特有の問題を多少描けば、物事を両面から見ていることになると考えるのは甘い。
この甘さは、21世紀後半の日本を舞台としたディストピアSF小説、田中兆子『徴産制』(新潮文庫、2021年)と比較してみると鮮明になる。この小説は、女性にのみ発症する悪性新型インフルエンザ「スミダインフルエンザ」の流行によって女性人口が激減した日本で、出生率上昇を促進するため、日本国籍を有する満18歳以上31歳未満の男子すべてに最大24ヶ月間「女」になる義務が課される――つまり性転換によって妊娠・出産を強制される――という秀逸な設定が光っている。この徴兵制ならぬ「徴産制」が施行された日本の日常が、生まれも職業も思想も異なる5人の登場人物の視点から淡々と綴られていくのは非常に刺激的である。
「徴産制」によって性転換を余儀なくされた男性たちは、社会のなかで女性が直面する大変さを身をもって知ることになるが、その描写はまことに切れ味が鋭い。「デカくてブサイクな男が、そのまま、デカくてブサイクな女になっただけのことだった」(『徴産制』、34頁)、「独身男がいろんな相手とセックスしても、何も言われないどころか絶倫と褒められることさえあるのに、女だったら一転してバッシングされる」(同書115頁)、「子供を産んだ男はえらい。子供を産んで働いている男はもっとえらい。子供を産まず仕事だけしている男は、男として不完全である。子供も産まず自由だけ謳歌した男が、年を取って『税金で助けてください』というのはおかしい。ヒコクミンである」(同書115-116頁)、「国は、子供の数を増やすことが目的で徴産制を施行したと主張している。けれども、裏の目的は、若い男が女に代わって、若くない男を慰安するため」(同書209頁)、「私は男のキミユキと結婚したの! 自分の夫が女性になるなんていやに決まってるでしょ。もっとヤなのが、自分の夫が男性とセックスすること!」(同書235頁)――このような多面的な女性の大変さが、『おにまい』で描かれることはない。『おにまい』はまひろを美少女の姿に変え、人間関係を女子中高生コミュニティに縮減することによって、居心地のよさばかりを強調している。評論家の小谷真理は、『徴産制』の文庫版解説のなかで「無邪気な(男の)女体化幻想」に言及しているが(『徴産制』、文庫版解説、365頁)、この指摘は『おにまい』にもそのまま当てはまる。
さらに悪いことに、『おにまい』はまひろがお手盛りで男性的な性欲を満たすことを許容している。まひろは美容室で美容師から胸を押し当てられたり、女友達に密着されたりすることを「最高」と評する一方で、女子トイレで女子中学生と隣同士の個室に入ったり、体育の着替えのために女子更衣室に居合わせたり、女友達と一緒に入浴したりすることにはなぜか抵抗を感じる。この奇妙な倫理観は、まひろがきわめて健全な(言い換えれば変態性欲ではない)男性としての加害性を内面化していることの証左であり、「男らしさ」から逃避したとしても「男らしさ」を喪失するわけではないということをよく示している。まひろの感じている居心地のよさは、自分を透明な俯瞰者の位置に置く植民者の感覚に近い。ちょうど都会から田舎へ移住して、田舎のよい部分だけが見えているのと同じようなもので、この状態が続くかぎり、まひろは土着・生来の属性をまとって生きていくしかない人々の苦しみや悲しみを察することはない。その意味で、まひろの物事の判断基準はひきこもり時代と比べても根本的には変わってなどいないのだ。
第9話において、まひろは初詣に行くが、そこで神様に何をお願いしたのかは明言されない。最終回(第12話)におけるまひろの選択と整合的に理解するならば、「この日常がまだ続きますように」というお願いだった蓋然性は高い。だが、その居心地のよい日常も女性にとってはミスの許されない、息の詰まる探り合いであるという可能性にも目を開いておくべきである。最後に、ジンバルドーとクーロンからの引用を掲げて、筆を擱くことにする。隣の芝生が青く見えたとしても、それは「男らしさ」の呪縛からの解脱を可能ならしめるユートピアなどでは断じてない。現代の情報社会における男性の「劣化」は男性こそが取り組むべきアクチュアルな問題であり、望ましい「男らしさ」とは何なのかという問いから逃げない胆力こそが必要なのだ。
参考文献
田中兆子『徴産制』新潮文庫、2021年。
フィリップ・ジンバルドー/ニキータ・クーロン(高月園子訳)『男子劣化社会:ネットに繋がりっぱなしで繋がれない』晶文社、2017年。
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