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TVアニメ『takt op.Destiny』が捨象したもの:自由と秩序のあわいに響くオーケストラ

はじめに

コミュニケーションは一方的であってはならない。これはドイツやロシアの偉い指揮者たちも大変考え違いをしてきた。彼らにとって指揮者と演奏者が一方的に命令服従の関係である。……そこにはコミュニケーションがない。

(朝比奈隆(聞き手 矢野とおる)『朝比奈隆 わが回想』中公新書、1985年、94頁)

 2021年12月に放送が終了したTVアニメ『takt op.Destinyタクトオーパス デスティニーは、マルチクリエイターの広井王子が原案を務め、クラシック音楽の擬人化に挑んだオリジナルアニメである。本作は西暦2020年頃、流星群の後に黒い隕石が地球に降り注いだ事件に始まる終末もの(apocalyptic fiction)である。「黒夜隕鉄」と名付けられたその石からは「D2」(Despair Dolls)と呼ばれる怪物が生み出された。D2は人の奏でる音楽に引き寄せられ、人々の生活する街を、大地を蹂躙していった。人は黒夜隕鉄と相反するエネルギーを放出する「ハルモニア鉱石」に注目し、そのエネルギーをもとに「ムジカート」という兵器を開発した。ムジカートはクラシック音楽の楽譜スコアを身に宿し、「コンダクター」によって指揮される少女であり、D2に対抗しうる唯一の戦力となった。
 時が経ち、2047年。D2との戦いによって荒廃し、音楽が自粛に追い込まれたアメリカを舞台に、一人のコンダクターが覚醒する。本作の主人公・朝雛タクト(CV: 内山昂輝)は、名指揮者マエストロと称えられた父親・ケンジをD2の襲撃で亡くした少年だ。タクトは幼馴染のアンナ・シュナイダー(CV: 本渡楓)とその妹・コゼット(CV: 若山詩音)に世話を焼かれながら、引きこもってピアノを弾き続ける日々を送っていた。ある日、タクトはコゼットのすすめにより、地元の音楽祭でピアノ演奏を披露することになる。タクトの演奏は喝采をもって聴衆に受け入れられたが、そこにD2が襲来し、コゼットはタクトを庇って瀕死の重傷を負ってしまう。突然の出来事にタクトの慟哭が響くなか、コゼットはムジカート「運命」として自発的に覚醒を遂げ、タクトの生命力を吸ってD2の殲滅を開始するのだった。タクトとアンナは不完全な形で覚醒したコゼットを治療してもらうため、コンダクター及びムジカートを組織する「ニューヨーク・シンフォニカ」を目指し、アメリカを横断する旅に出る。
 本作にはベートホーフェン(ベートーヴェン)及びその関係者を中心に、クラシック音楽の小ネタがちりばめられている。タイトルロゴに引用されている“Vom Herzen ― Möge es wieder zu Herzen gehen(心よりいでて、願わくば再び心へいたらんことを)”という一節は、ベートホーフェンの『ミサ・ソレムニス』(作品123)の一部をなす「キリエ」の楽譜冒頭部に書かれたものである。本作の中盤に噛ませ犬ポジションとして登場するフェリックス・シントラー主席指揮官(CV : 浪川大輔)の名は、ベートホーフェンの伝記を捏造したことで悪名高く、「音楽史上最悪のペテン師」(かげはら史帆『ベートーヴェン捏造:名プロデューサーは嘘をつく』柏書房、2018年、19頁)とも呼ばれるアントン・フェリックス・シントラーに由来すると思われる。自らの実力を勘違いしたうぬぼれ屋がシントラーの名を冠し、タクトと「運命」に翻弄されるのは見ていて爽快ではある。また、シントラーの上役であり、ニューヨーク・シンフォニカの最高責任者グランドマエストロを務めるザーガン(CV : 花輪英司)の名は、ベートホーフェンのパトロンの一人であり、『交響曲第5番』(作品67、通称『運命』)の献呈を受けたザーガン公爵、すなわちフランツ・ヨーゼフ・マクシミリアン・フォン・ロプコヴィッツに由来するのだろう。史実においては、ロプコヴィッツはナポレオンの侵攻による激しいインフレのため、1812年にベートホーフェンへの年金支払いが不能となった。その後、ベートホーフェンは年金不払いを理由にロプコヴィッツを訴えて有利な判決を得ている。こうした経緯を踏まえると、ザーガンが本作の黒幕としてタクトと「運命」の前に立ちはだかるのはなかなか洒落がきいている。そして何より、主人公に与えられた「朝雛」という名字は、関西交響楽団(現大阪フィルハーモニー交響楽団)の創立者であり、常任指揮者に就任した朝比奈隆を思い起こさせる。なお、朝比奈隆はベートホーフェンなどドイツ音楽の大家として世界的評価を確立しており、ここにもベートホーフェンとのつながりが見いだされる。ほかにも、本筋に影響しない小ネタはいくつも伏在しているが、本稿では網羅的な解説は行わない(*)。

(*)本筋からは外れるが、追加で一点だけ指摘しておく。タクトの指南役を務めるコンダクター・レニー(CV : 日野聡)がオネエ言葉を操るのは、米国の指揮者・作曲家レナード・バーンスタインの同性愛的傾向を意識してのことかもしれないが、ユダヤ系から黒人への置き換えも含めて、差別的な嘲笑に満ちた表現だと言わざるをえない。この点は肯定的に評価しがたい。

 また、2020年頃に突如として湧き出したD2によって音楽が自粛を余儀なくされているという新型コロナウイルスの蔓延を思わせる筋書きについても、本稿では掘り下げない。確かに、広井王子は「アニメ ダ・ヴィンチ」に掲載されたインタビュー(2021年12月17日公開)のなかで、「世界観の設定づくり」に3年を費やしているうちに新型コロナウイルスの流行が始まったため、原案の手直しを行ったことを述べている。

流星群の後、黒い隕石「黒夜隕鉄」が降って、それによって地球の調和が変わる。その調和を戻そうとするところから、スタートするんだよね。そうこうするうちに、現実世界では新型コロナウイルスが流行り始めた。倫理観も変わるし、人間の考え方、人との距離感も変わったわけじゃないですか。そういう現状をどうやってシナリオに埋め込もうかという話も含めて、行ったり来たりしながら原案を作っていきました。

  第6話でも、「なんでこんな世界になったかね。何がD2だ、何が自粛だ、クソッタレが」というセリフが飛び出すなど、「ポストコロナ時代の想像力」とも言うべき要素が本作に見られることは否定できない。しかし、本作を新型コロナウイルスと結びつけて論じることは、本稿の主題から外れる。
 それでは、本稿が注目するポイントとはいったい何なのか。本稿は、本作において奏でる者(コンダクター)/奏でられる音楽(ムジカート)という非対称性が前景化している点、特にムジカートが女性ジェンダー化されている点に注目する。いわゆる「萌え擬人化」の氾濫は今に始まったことではないが、後に述べるようにクラシック音楽を戦闘美少女として擬人化する行為は、オーケストラにおける自由と秩序の葛藤を捨象するものであり、それは「萌え擬人化」の氾濫のさなかでも特筆に値する。さらに言えば、この捨象は複製技術が当たり前になった現代人にとっては、さほど突飛な発想でもないのかもしれない。以上の点につき、議論を進めていく。

クラシック音楽の戦闘美少女化:『ウマ娘』との対照から見えるもの

 美少女が人類を脅かす怪物に音楽(歌)の力で立ち向かうという筋書きは、『戦姫絶唱シンフォギア』シリーズ(2012~2019年)にも見られるように、特段珍しいものではない。また、クラシック音楽の偉人と同名のキャラクターを現代に登場させる手法も、『クラシカロイド』(2016~2018年)という先行事例がある。これに対して、『takt op.Destiny』の特徴は次の二点にまとめられる。第一に、本作は戦闘美少女から自律性を奪い、奏でる者(コンダクター)/奏でられる音楽(ムジカート)という非対称な関係に置いている。第二に、本作はクラシック音楽の偉人ではなく、「楽譜」すなわち「作品」そのものを戦闘美少女化している。
 これらの点については、本作がスマートフォン向けゲームアプリ『takt op. 運命は真紅き旋律の街を』(2022年リリース予定)の前日譚(要は販促アニメ)であることを踏まえて考えると、見通しがよくなる。キャラクターをコレクションする要素を含むゲームアプリ(いわゆる「ソシャゲ」)においては、プレイヤーとキャラクターとのあいだに中間項を排除した一対一の関係が構築されやすい。有名どころで言えば、プロデューサーとアイドル、提督と艦娘、マスターとサーヴァント、トレーナーとウマ娘といったように、一対一の関係は非対称な命令/服従の関係と相性がいい。この非対称な関係をクラシック音楽で再現した結果、指揮者と楽譜とのあいだに介在するさまざまな中間項は抹消されることになった。
 『takt op.Destiny』における中間項の排除を論じるにあたっては、『ウマ娘 プリティーダービー』との対照が有効だろう。何となれば、クラシック音楽も競馬も一定の歴史を持った文化活動であり、実際にはさまざまな役職の人々によって支えられているからである。2021年5月に公開した『ウマ娘 プリティーダービー』鼎談企画では、競走馬を「ウマ娘」という自我を持った人型の生命体にしたことで、馬主・調教師・騎手・厩務員といった諸々の役割が捨象されたため、プレイヤーは「トレーナー」という曖昧な肩書で呼ばれるようになったことを指摘した。これはつまり、「トレーナー」という融通無碍に複数の役割を包摂する肩書によって、ウマ娘との一対一の関係を際立たせることが可能になったということだ。

  クラシック音楽の楽譜を戦闘美少女化した際にも、同様の事態が生じているように思われる。『takt op.Destiny』においては、コンダクターとムジカートの一対一の絆や「ハーモニー」が強調される一方で、演奏者(楽団員)という中間項は不可視化される。タクトは「音を解き放て!」と叫ぶが、紙片(または知的財産)である楽譜がそれ自体として鳴ることはない。わざわざ言うまでもないことだが、楽譜が音楽として奏でられるためには演奏者が不可欠である。しかし、本作のプレイヤー/視聴者は演奏者ではなく、指揮棒タクトを振る「コンダクター」に感情移入する。ムジカートが楽譜の擬人化だとして、その音は誰が鳴らしているのだろうか。演奏者のいない場で「コンダクター」は何を指揮しているのだろうか。こうした問いから見えてくるのは、本作における「コンダクター」は実際の指揮者とは一致しておらず、『ウマ娘 プリティーダービー』における「トレーナー」に類似した曖昧な肩書だということだ。プレイヤーは「コンダクター」となることで楽譜と直結し、複数の自分自身によって指揮者と演奏者を兼任するような心地よい妄想に浸ることができる。そして、プレイヤーは「コンダクター」である以上、聴き手の側には回らない。
 それでは、本作がクラシック音楽の演奏者と聴衆を捨象したことによって損なったものはないのだろうか。この点について、節を改めて検討する。

指揮者という専門職の役割:デモクラシーにおける自由と秩序

 経済学者の猪木武徳は、『社会思想としてのクラシック音楽』(新潮選書、2021年)のまえがきで、次のような問いを立てている。

音楽芸術が人間にとっていかなる意味や価値、あるいは力を持ちうるのか、社会風土(mores)や政治体制(regime)は、18世紀から20世紀半ばまでの西洋の音楽にいかなる影響を与えて来たのか、西洋社会の変化と「クラシック音楽」の歴史的流れの間にどのような相関的な現象が見られるのか。

(猪木武徳『社会思想としてのクラシック音楽』新潮選書、2021年、4頁)

 猪木は、需要と供給といった経済学の道具立てや経済思想を用いて、前掲の問いに解答を与えていく。本作の主要な登場人物に深く関わるベートホーフェンは1770年に生まれ、1827年に亡くなっているが、彼の生きた時代はまさにデモクラシーと工業社会への転換期に重なっていた。

 アメリカ独立戦争とフランス革命に歩調を合わせるかのように進行する工業化の大波は、19世紀に入ると貴族制からデモクラシーへの転換をもたらし、西欧の多くの国々の社会風土を大きく変え始める。

(同書278-279頁) 

 猪木は、西欧における教会の影響力が低下し、政治体制が貴族制を経てデモクラシーへと転換するに伴って、音楽が演奏・鑑賞される場所も教会から劇場、コンサート・ホールへと移っていったと述べている。

 デモクラシーと市場取引が社会の基本制度となると、音楽の「生産」過程と演奏され鑑賞される場所にも次第に変化が生じて来る。この変化の特質は、西欧における政治と社会生活におけるキリスト教の位置づけの変化とともに進行した。音楽が、キリスト教教会のミサなどの典礼(liturgy)のための実用の音楽としての位置だけでなく、宮廷の王侯貴族の気晴らしや遊び、あるいはブルジョワジーの日常生活や特別な行事のための付随物としての役割の比重が大きくなり、人々の生活の中で占めるキリスト教の重みが失われ始めると、音楽も教会から劇場へと、その創作目的や演奏の場所を移し始めるのである。

(同書39-40頁)

 クラシック音楽が演奏・鑑賞の場所を劇場やコンサート・ホールに移し、オーケストラの規模が少しずつ拡大していくにつれて、ハーモニーをもたらすために演奏全体を統括する指揮者の必要性が高まっていく。こうして18世紀半ば以降、独立した専門職としての指揮者が成立する。音楽評論家のパウル・ベッカー『オーケストラの音楽史』(The Story of the Orchestra, 1936)のなかで、指揮者を「教育的能力を持った第一人者」と定義している(パウル・ベッカー(松村哲哉訳)『オーケストラの音楽史:大作曲家が追い求めた理想の音楽』白水社、2013年、58頁)。ベッカーは指揮者の役割について、次のように述べる。

共通の目的を達成するために集まった個人の集団である点は合唱団もオーケストラも同じだが、合唱団の場合はひとりひとりが発する音は同質であるのに対して、器楽アンサンブルの場合はそれぞれの奏者が出す音は異質である。そのため、オーケストラという個を超越した新たな楽器を創造するためには、構成員ひとりひとりの個性を犠牲にする必要があるからだ。多彩な個性を持つ集団をひとつにくくり、各個人をオルガンのストップ(音栓)やチェンバロのキーボードのキーのような存在、つまり歯車のひとつに変えてしまわなければならない。

(同書58頁)

指揮者は演奏における精神的な支柱となり、すべては指揮者を中心に整然と進んだ。職責を十分に果たすには、オーケストラを完全に掌握し、作曲家の意図を正確にくみ取るだけでなく、音楽的にも規律の面でも完璧な状況を実現できるような人物の存在が前提となる。

(同書247-248頁)

 ベッカーは「オーケストラをひとつの楽器に見立て、指揮者はその演奏者だと考えるのは至極当然」とも述べている(同書248頁)。ここで提示されている啓蒙専制君主的な指揮者像は本作における「コンダクター」とは似て非なるものである。あくまでオーケストラは人の集団であり、楽譜そのものではないことを忘れてはならない。
 猪木はベッカーの見解にも言及しながら、指揮者はいかに「自由と秩序を両立させるか」が問われると述べている(猪木『社会思想としてのクラシック音楽』、142頁)。

交響曲という「オーケストラのソナタ」を演奏する場合、指揮者はそれぞれの楽団員が全体に「合わせる」ように仕向け、そのような気持ちを引き出す必要が生まれる。楽団員が、進んで全体のために「合わせる」という気持ちを持つことは、よき演奏にとって不可欠なことは言うまでもない。

(同書137頁)

共同体とそのリーダーという図式で捉えると、合奏あるいはオーケストラの演奏は、集団とリーダーシップの枠組みで考えることができる。誰かが演奏を全体として方向付け、各プレーヤーはその方向(理想)に共鳴しつつ、その理想に自分の音楽を「合わせる」という姿である。

(同書139頁)

 猪木は「自律性を保持しながら全体の調和を生み出す」オーケストラの精神にデモクラティックな可能性を見ていると言えるだろう(同書143頁)。猪木が敬愛する指揮者・朝比奈隆は回想録のなかで「指揮というのはコミュニケーションなんですよ」と述べている(『朝比奈隆 わが回想』、93頁)。「コミュニケーションですから、こっちからの指示ももちろん必要ですし、その指示に従うために必要なことは、向こうの言い分も聞いてやらなければいけない。わからなかったらしょうがないですからね」と朝比奈は言う(同書95頁)。猪木が理想として掲げる自由と秩序の両立、あるいは自律性と調和の両立は、朝比奈の言葉のなかに端的に表れていると言えるだろう。そう考えると、本作の第6話において、元チューバ奏者の男性が「マエストロは練習のときもずっと、思いをまっすぐ伝えてくれてな、気付くと俺たちも夢中になってた……」とタクトの父・ケンジとの思い出を語るシーンも、朝比奈に対するオマージュと見るべきなのかもしれない。
 以上の検討から言えるのは、指揮者というオーケストラの調整役は非常に骨の折れる仕事であるということだ。日常の苦痛を麻痺させる快楽を求める消費者はそんなストレスフルな役割を担いたくない、いや担う能力がないので、プレイヤーにしてみれば、個々人の自由意志でうごめく御しがたい演奏者を排除して、「コンダクター」として楽譜と直結するという妄想は魅力的に映る。しかし、この妄想はオーケストラにおける分節(articulation)を前提とした横断的/水平的な連帯の構造を壊して、「コンダクター」を頂点とする垂直的な権力構造を打ち立てるものであり、デモクラシーの精神を損なっていると言わざるをえない。そればかりか、「コンダクター」が奏でる音楽も誰に向けられたものなのか判然としないため、音楽の聴き手を想定するのが難しくなり、結果として聴衆が自由な聴き手として演奏に主体的に参与する機会、言い換えれば演奏に批判的に聴き入る意識も奪われてしまった。
 このように、『takt op.Destiny』を指揮者とオーケストラの関係に注目して分析することで、前節で対照した『ウマ娘 プリティーダービー』ではそれほど前景化しなかったデモクラシーの論点、自由と秩序の両立という難題が浮かび上がってくる。

クラシック音楽における複製技術:レコードからムジカートへ

 『takt op.Destiny』は、指揮者と演奏者とのコミュニケーションの側面を捨象して、指揮者による統合作用、あるいは指揮者の教導的性格ばかりに焦点を絞った。本作は自由と秩序のうち、後者の維持に傾斜していると言わざるをえない。とはいえ、本作の発想は複製技術が生み出す「音楽商品」が当たり前になった現代人にとっては、それほど突飛なものでもないのかもしれない。猪木は思想家のヴァルター・ベンヤミンが著した『複製技術時代における芸術作品』(Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit, 1935)を参照しながら、次のように整理する。

優れた複製技術が市場を支配し、聴衆から自律性を奪い、市場に現れる「音楽商品」を無批判に受け入れさせ、彼らの嗜好さえ変えてしまうようなこともある。したがって市場経済とデモクラシーにおいて、複製技術が持つ商品を社会に広く浸透させる力の意味合いは大きい。

(猪木『社会思想としてのクラシック音楽』、154-155頁)

オリジナルが持つパワーを、目に見えない流動物、Aura(現代の日本語でも使われるオーラ)と呼び、「複製物」にはオリジナルと比べるとAuraが少ないとベンヤミンは捉える。技術展開が手工業的複製から工場生産の複製へと進展するにつれ、芸術作品が、初めて創り出されたときに持っていた「オリジナル」としてのAuraはコピーにおいては消え去る。
 言い換えれば、芸術作品は複製されることによって、「礼拝価値」から「展示価値」へとその社会的機能をシフトさせる。技術の力によって複製された芸術品は、いまや多くの人間が、いつでも、どこでも、近づくことができる「展示物」と化すのだ。

(同書166頁)

 複製技術は音楽を楽しむ人々の数と機会を増やした。技術は芸術世界にも民主化をもたらした。しかし同時に、逆説的なことだが、その民主化が極めて強い「隷属の精神」を生み出すかもしれない。それは政治の世界において無制約な平等化の進展が、強力な独裁権力と、その権力に追随する隷属の精神を生み出す現象と軌を一にしていることは言うまでもない。

(同書173頁)

 もはや現代人にとって、複製技術の産物である「音源」がクラシック音楽とのファースト・コンタクトの機会となるのは珍しいことではない。しかし、初めから和音として鳴って聞こえる「音源」から入った者は、オーケストラにおける自由と秩序の動的な葛藤を認識しにくい。その結果、コンサート・ホールにおける生の演奏が一部の好事家のためのものに見えたり、生の演奏に固執する姿勢を嫌味な文化的エリートのそれとして疎ましく思ったりすることもあるだろう。さらに、デスクトップミュージック(DTM)やVOCALOIDの普及によって、複数の楽器の音色や音域を使い分けた一人作曲・編曲・再生が可能となった現在、一つの楽曲を演奏するために複数の楽団員が一堂に会するのは自明のことではなくなっている。かかる時代状況を踏まえると、本作においてクラシック音楽の演奏者と聴衆が捨象されたのもある程度は納得がいくし、クラシック音楽の戦闘美少女化、すなわち人格化も、作品が複製技術によって「音源」として固定された後の時代だからこそ実現可能となったのだと理解することができる。
 猪木は著書のなかで、複製技術の評価をめぐって、ピアニストのグレン・グールドと哲学者のテオドーア・アドルノが異なった見解を示していることを紹介している。

グールドは、レコードの登場によって、音楽を聴くという行為も、コンサート・ホールに縛り付けられる制約から解放されたと見る。コンサート・ホールにおけるただ一回の「本番」ではなく、何度でも、都合のよいときに演奏を耳にすることができるようになったからだ。加えて、レコードによって生の演奏会では聴き取れないような多くの音を聴き分けることも可能になった。コンサートでただ受け身となって音楽を楽しんでいた聴き手は、録音・再生技術の進歩によって、芸術への「参与者」となったのだ。ここに、演奏家は作曲家の意図を忠実に再現し、それを与えられたものとして聴き手は受け入れる、という一方的な従属関係は崩れ、「作曲家・演奏家・聴き手」の三者がそれぞれ自律的に芸術活動を担うという「参与の構造」が生まれるとグールドは考えた。

(同書170-171頁)

グールドの考えと対立するかの如き論を展開したアドルノは、複製技術の登場によって聴衆の持続力や集中力は退化し、もはや音楽にじっくり耳を傾けなくなると指摘した。テクノロジーは、最も抽象的な芸術とみなされてきた音楽を、レコードやCDという物質に具象化することによって、物神的性格を強め、その結果グールドが唱えたのとは逆に、聴衆は受け身になり、音楽に対して無批判的になる。文化商品となったレコードはその自己完結性ゆえに(演奏者と聴き手との)相互性と有機的繋がりを失い、音楽を自律的に聴くという行為を人々から奪い去るとアドルノは強調する。

(同書181頁)

 グールドとアドルノの見解の相違は、「聴衆に何を期待するのか、聴衆のどこに危うさを見てとるのか」による議論の重点の違いであり、「デモクラシーの存立にとって、分厚い中間層の存在が果たす役割に期待するか否かという議論にも通じる」と猪木は整理する(同書182頁)。猪木はグールドの楽観的な議論に「安易に多数の専制、ポピュリズムに流れる危険性と隣り合わせである」と注釈を付しつつ(同書183頁)、アドルノの「貴族主義的なエリート意識」にも注意を促している(同書184頁)。そして、猪木は巻末で次のように述べて、自由と秩序の動的な葛藤がいかに重要であるかを読者に印象づけている。

12音の音高すべてに主従の差なく均等な役割を与える音楽が聴衆の不在を生み出すとすれば、それは価値の多様化ではなく、価値という概念とは無縁な音の世界の出来しゅったいを意味することになる。政治体制との類比で考えれば、徹底した平等を謳うデモクラシーは、12音の音高の均等性によって中心を失った音楽のように、「多数の専制」がもたらす無秩序か、政治権力によって強いられた見せかけの秩序という、自由の精神とは全くかけ離れた世界と見ることができよう。

(同書288頁)

 ここで、コンダクターが奏でる音楽の聴き手は誰なのかという問いに立ち返ってみよう。本作は後半部分に入ってようやく、聴き手の問題に向き合うようになる。第7話において、タクトは演奏のみならず、作曲にも取り組み始める。タクトの脳裏をよぎるのは、幼少期の父との記憶だ。記憶のなかで、父・ケンジは作曲法について「大切なのは、誰に聴いてほしいか」と語る。しかし、タクトが聴かせたい相手・コゼットはもういない。ムジカートは「以前の人格とは別の存在」であり(第3話)、「運命」はコゼットと同じ姿形をしていても、もはやコゼットその人ではないのだ。
 第7話で、シンフォニカ上層部のマッチポンプが明らかにされて以降、D2との戦いはシンフォニカ上層部との戦いに移行していく。最高責任者グランドマエストロのザーガンは主席指揮官のシントラー(実はコンダクターとしての素質は皆無)を隠れ蓑として、休眠状態にあったD2を自ら目覚めさせ、各地を襲撃させていた。シントラーは、疲弊した大地を救うためには人口を減らして、人類の過剰な消費活動を抑制しなければならないと語る。ザーガンは人々の阿鼻叫喚によって「痛み」という音楽を感じることを求める。こうした同床異夢のシンフォニカ上層部の攻勢に、タクトと「運命」は追い込まれていく。
 第8話において、シントラーとの激戦のさなか、タクトは一つの答えに辿り着く。タクトは「運命」に問う。「この世界には、僕の曲を必要としてる人がいる――お前はそう言ったな。なら、お前はどうなんだ」。この問いに対して、「運命」は「わたくしも――いえ、わたくしは、マエストロの曲が聴きたいです」と応じる。この問答には、楽譜/作品そのものであるムジカート(奏でられる音楽)が、コンダクター(奏でる者)の手掛ける音楽の聴き手の座も占めるという再帰的な循環が見られる。かかる再帰的/自閉的な循環はクライマックスに向かって激しさを増していく。第9話で、ニューヨーク・シンフォニカに到着したタクト・「運命」・アンナの三人は、アンナの姉・シャルロッテ(CV: 加隈亜衣)から、タクトと「運命」が解除できない契約によって拘束されていることを告げられる。いわば「野生の獣」(第3話)として不完全な覚醒を遂げた「運命」はタクトの生命力に依存しており、タクト自身も「運命」から侵食を受けているというのだ。このまま戦い続ければ、二人とも長くは生きられない。この定式は、コンダクターとムジカートとの非対称な命令/服従の関係を相互依存的に自壊する時限の関係で上書きすることによって、主人公たちの「特別感」を演出するものではある。しかし、これを何の気まずさも感じることなく、揺さぶられない安全地帯から女性ジェンダー化されたものを「鳴かせたい」という欲望に対する意趣返しと受け取るのも難しい。何となれば、これは男女が破滅に向かって二人で堕ちていく、その散華のはかなさに思い切り泣きたいという通俗的な欲望を満たすものではあるからだ。
 タクトと「運命」は仲間を失いながらもザーガンとの最終決戦に向かい、ザーガンの狂気じみた野望を打ち砕く。そして、満身創痍のタクトを残して「運命」は消滅する――「タクト、あなたのことが好きです」と言い残して。このように、本作は全編通じて感傷的なつくりとなっており、確かに涙を誘われる感動作ではあった。しかし、新鮮味には欠けたし、自由と秩序のうち、後者の維持に傾斜しているのもあって、なかなか肯定的に評価しがたい。なお、ザーガンが使役する「天国」(CV: 水瀬いのり)「地獄」(CV: 上田麗奈)が最終回直前で合体して「地獄のオルフェ」(Orphée aux Enfers)、すなわち邦題「天国と地獄」になる(しかもCV: 三石琴乃!)というギミックは、恥も外聞もない感じで失笑を隠せなかった。
 本作の出演者についても、ごく簡単に触れておく。本作の構造や筋書きの評価はともかく、主人公ペアを演じる内山昂輝・若山詩音の元子役・劇団ひまわり所属コンビは素晴らしかった。最もセクシーな若手男性声優の一人である内山昂輝が、やせぎすで不健康そうな色白の「ピアノバカ」を奏でるのはたまらない。若山詩音は徐々に人間味を増していく「運命」を好演し、ロボっ娘的なトーンからの解放を視聴者に見せつけた。これは若い世代にとっては、筆者にとっての2009年の早見沙織体験(『そらのおとしもの』)に似たものとなるのだろうか。彼女からは今後もますます目が離せない。主人公ペア以外に一人だけ挙げるなら、シントラーを演じる浪川大輔だろう(レニーの相棒「巨人タイタン」を演じた伊藤美来を挙げてもよかったが、本稿では割愛する)。シントラーから放たれるどこか品のいい小物感は芸術肌のタクトとの好対照をなしており、これぞやられ役の美学とも言うべき、悪くない小品であった。

おわりに

 日本共産党委員長の志位和夫は2022年2月15日のツイートで、就寝前にシューベルトの音源を聴いたという近況報告を「ブルジョア」と揶揄されたことに反応して、「クラシック=ブルジョアなんていう悪口は悲しい」と述べた。

  しかし、「ブルジョア」という日本語の用法はともかく、猪木が概括的に示したクラシック音楽の受容史に鑑みると、クラシック音楽が中産階級の市民(Bürger, bourgeois)の文化だったことは否定できないのではないだろうか。志位は「いろいろな意見があるかも知れないけれど、寝るときくらい好きな音楽を聴いても、いいでしょ」と言う。志位の考え方は複製技術以降の世界においてはありふれたものであって、僻み根性が染み付いた人々から妙な絡まれ方をしているのは同情すら覚える。だが、「好きな音楽」を任意のタイミングと配列で聴くことができるという「民主化」の効能とは裏腹に、自由と秩序とのせめぎ合いを実感できる「現場」が少なくなり、楽譜/作品をムジカートなる戦闘美少女に表象するという珍妙なコンテンツが発信されるにいたっていることを思うと、志位のツイートも全面的には是認しがたい。「好きな音楽」の強調は商業主義への隷属を引き起こす危険を含んでいるのではないだろうか。クラシック音楽が「ブルジョア」の文化の殻を破ったのは本当にいいことだったのだろうか。本作は逆説的に、そのような問いを投げかけている。
 本作の最終回において、ザーガンとの決着がついた後、タクトはシャルロッテによって低温睡眠槽に収容され、アンナはシンフォニカの職員となる道を選ぶ。ラストシーンでアンナは瞳の色が変わり、「運命」の衣装をまとって退場する。「運命」の声優は若山詩音から本渡楓へ託された、続きはゲームで――というオチていない終幕である。ゲームアプリ『takt op. 運命は真紅き旋律の街を』の舞台はアニメから20年後、2067年の世界だという。自由と秩序の両立という難題が次作で解かれることは期待できそうにないが、この難題を念頭に置いてプレイするのもそれはそれで一興かもしれない。

参考文献

朝比奈隆(聞き手 矢野暢)『朝比奈隆 わが回想』中公新書、1985年(徳間文庫、2002年)。

猪木武徳『社会思想としてのクラシック音楽』新潮選書、2021年。

かげはら史帆『ベートーヴェン捏造:名プロデューサーは嘘をつく』柏書房、2018年。

パウル・ベッカー(松村哲哉訳)『オーケストラの音楽史:大作曲家が追い求めた理想の音楽』白水社、2013年。

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