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『ウマ娘 プリティーダービー』鼎談企画(おすぎ十郎太×夏葉薫×髙橋優):空と地面は遠く 人と馬は近く

はじめに

 人はじつに、自分が馬であり、自分が自分の調教師であり厩務員であり、そして騎手でもある。自分の心身のほんとうの状態ほど、当人にとって知りにくいものはない。「馬体」は絶好調のはずなのに、いざ勝負所で、押しても叩いても動かないことがある。道中折り合って、直線の追い出しも間違いはなかったのに、ゴールでかならず、測ったように、わずかに差されるとか、届かないとか、そんなことが続く。そのうちに掲示板どころか、一ケタの着順にも入らなくなる。
(古井由吉『こんな日もある 競馬徒然草』講談社、2021年、239-240頁;初出は『優駿』2007年6月号)

 このたび、競馬と声優をこよなく愛するライターの二人を招いて、話題沸騰中の『ウマ娘 プリティーダービー』(以下、『ウマ娘』)に関するオンライン鼎談を実施した。

 スペシャルウィーク、サイレンススズカ、トウカイテイオー、メジロマックイーンなど、実在の競走馬の名前と魂を引き継いで駆ける「ウマ娘」たち。彼女たちは一着の栄冠を得るために日々トレーニングを重ね、互いに切磋琢磨し、レースでしのぎを削る。スランプや故障に泣かされた夜もある。しかし、彼女たちはファンの声援や仲間のサポートに支えられて、何度でもターフに立つのだ。他の誰にも、勝利は譲れないから――そんな熱い物語に魅せられた私はふと思った。実際の競馬を観戦した経験も、当然馬券を購入した経験もない門外漢の私は、果たして本作を的確に鑑賞できているのだろうか?
 わからないなら、調べるしかない。経験者に訊くしかない。こうして私は、本作をきっかけに競馬という未知の領域に分け入ることになった。いま、『ウマ娘』をきっかけとして、ずぶの素人と競馬ファンの「指定交流競走」が幕を開ける!

参加者(敬称略)

おすぎ十郎太(おすぎ・じゅうろうた)
アニメのムックや声優さんの写真集を作っている編集・ライターという設定だが最近わりと無職。もし仕事歴などをお知りになりたい方は @utsuro のDMにでもご連絡ください。低学歴なので鍵アカウントで悪口を云われる心配はしていません。

夏葉薫(なつば・かおる) 
1980年生まれ。ライター・ゲームシナリオライター。商業アニソン専門メディアで最初に早見沙織を取り上げた男。推しウマ娘は「一人だけなんて選べないよ」。今今の推し馬はソダシ。共著に『声優論 アニメを彩る女神たち~島本須美から雨宮天まで~』(河出書房新社、2015年)

髙橋優(たかはし・ゆう)
1991年生まれ。これまで、馬という動物に全く興味を持たずに生きてきた。「艦これをきっかけに歴史を学ぶ」動きには抵抗を感じるが、『ばくおん!!』をきっかけに普通二輪免許を取得した自分がいる以上、アニメやゲームを入口としたMake debut! を全否定はできない。『ウマ娘』が自分をどこへ導くのか、時の経過が明らかにしてくれるだろう。
noteで「蛮族のためのアニメ月評」を更新中。

1. 競走馬からウマ娘へ:特殊な原作モノとしての『ウマ娘』

髙橋 本日はお集まりいただき、ありがとうございます。
 『ウマ娘』については、一期・二期を通して隙のないよくできたアニメだと思っていまして、正直毎話ベタに感動しながら見ていました。ただ、私は競馬を観戦したことも、当然馬券を購入したこともない門外漢なものですから、この作品をどう受け止めるべきなのか考えあぐねていました。そこで本日は、競馬ファンのお二人から見て『ウマ娘』がどう見えているのかについて、お話を伺えればと思います。

 アニメ放映前はそれほど熱心に追いかけていたわけではないです。アニメの一期はそれほど入れあげることもなく楽しく見ていました。が、二期は傑作だと感じまして、で、その傑作の放映中にアプリがリリースされたので、プレイしてみることにしました。知り合いのみんながキタサンブラックを完凸してたりするのにはついていけねえなと思いつつ、ボチボチ進めています。

髙橋 声優ありきではない、正統なアニオタ的回答で少し安心しました(笑)。怪我の功名かもしれませんが、アプリのリリース延期が続いたおかげで、アニメがアプリの下位互換にならずに済んだのは結果的によかったと思います。おすぎさんは『ウマ娘』をどうご覧になりましたか?

おすぎ ゲームはやらない人なのでノータッチですが、アニメ自体はよくできたアイドルアニメとかスポーツアニメの文脈で見ていました。キャラデや人間(?)関係を含めたドラマとか、惹かれた要素はありつつ、やっぱり「原作」への思い入れがあるので「これはこれで」という感じの支持ではありますが。ただ妙に細かい部分に「原作」からの引用があったりするので、とても敬意の込められたアニメだったと思います。スタッフは薗部博之(『ダービースタリオン』(以下、『ダビスタ』)シリーズの生みの親)より競馬が好きなんじゃないかなと思ったり(笑)。

髙橋 私も当初は競走馬擬人化アニメではなく、アイドルアニメの一種として『ウマ娘』を楽しんでいました。まあ、アイドルアニメと言っても、単にレースで三着までに入ったウマ娘がファンの前でウイニングライブをやるからではなく、それぞれのウマ娘が自分なりの走り方や勝負の出方を確立し、その上で相互に競り合ったり支え合ったりする構図が見られるからなのですが(*)。一期の主人公・スペシャルウィークにせよ、二期の主人公・トウカイテイオーにせよ、チームメンバーとの距離感を間違えば、個性の確立という大前提が崩れてしまって、途端にレースで勝てなくなってしまう。このあたりが非常にアイドルアニメらしいなあと思っていました。

(*)私は「アイドルアニメ」を、分節(articulation)を前提とした横断的連帯(solidarité horizontale)を描くことで、日本におけるデモクラシーの欠如を補綴するようなカテゴリーと評価している。詳細は以下に掲げる『アイカツ!』評を参照されたい。

 アイドルアニメという観点で『ウマ娘』が明確に優れている点を挙げれば、ステージバトルの説得力が高いところだと思います。アイドルアニメのステージでの勝ち負けって、明確な基準がなくてもやっとすることあるじゃないですか。本作では、勝敗はレースで決まる。ゴール板を1センチでも前で通過した方が勝つ。抜群にわかりやすいですよね。

髙橋 高度に発達したアイドルアニメはスポーツアニメと区別がつかない……?
 まあ、「アイドルアニメ」の定義や用語法はともかくです、さっき述べたように我田引水で『ウマ娘』を楽しんでいたところ、Twitterで薫さんから以下の指摘を受けまして、『ウマ娘』のシナリオやレース展開が「原作」、つまり日本競馬の史実を下敷きにしているということを恥ずかしながら初めて知ったんですよね。

 時々思いがけないことを知らないよね(笑)。まあ誰しもそういうことはあるから別にいいんだけど、史実には伏線とかテーマとかがそもそもないからものすごいシナリオが飛んでくるように見えるところはあると思います。例えば、「織田信長が天下統一を目前にして明智光秀に裏切られる」なんて、シナリオライターは何をキメて考えた展開なんだって話なわけで。

髙橋 ゲームシナリオライターが言うと重みが違いますね(笑)。あと、薫さんからは「ウマ娘は特殊な原作モノで、一期と二期には原作の切り出し方に大きな違いがある」ともご指摘いただきました。改めて、具体的にどういった違いがあるのか教えていただけますか?

 「原作」との関係でいうと、一期のほうが飛躍がありましたよね。エルコンドルパサーがダービーに出てきたり、サイレンススズカが生き残ったり。二期はもっと「原作」どおりで、「原作」が傑作なのでアニメも傑作、という感じを受けました。
 この三十数年、競馬ブーム以降の競馬史を俯瞰したときに「一番傑作な物語を挙げろ」と言われたらトウカイテイオーの親子無敗三冠の挫折からの度重なる故障と有馬記念での大復活か、オグリキャップの快進撃あたりになるはずなんですよ。それぞれ、アニメ二期と『ウマ娘 シンデレラグレイ』(週刊ヤングジャンプで連載中)の「原作」部分ですね。
 エルグラスペの98年クラシック世代は粒ぞろいだったけれど、個々の馬を見たときにそれほど物語性が高いわけではない。スペシャルウィークとグラスワンダーは何度も対戦していますが、エルコンドルパサーはスペシャルウィークともグラスワンダーとも一戦しかしてないです。ライバルと言われても困る。同世代の二冠馬セイウンスカイは古馬になってからはまともに走れていないし……で強かった割に因縁がない。スぺちゃんは在来牝系出自で早くに母を亡くしてサラブレッドじゃない代理母に育てられた、とか、主人公っぽい経歴ではあるんですが、競走成績は無事是名馬で賞金額は嵩んだけど圧倒的なパフォーマンスを見せたかと言われると「うーん、ダービーは強かったけど……それも含めて普通のサンデー系……」という感じの馬ですしね。史上最強議論にはあんまり名前が出てこない。エルグラは結構推す人いるんですけどね。
 サイレンススズカはクラシックシーズンでの挫折と鞍上に武豊を迎えてからの大逃げスタイルでの連勝街道、そしてその死とドラマチックにもほどがありますが、予後不良で終わる物語をソシャゲの宣伝で出せるかと言うと、微妙ですよね。なのにその98年クラシック世代+サイレンススズカで話を作ろうとしたことには作り手の強い意志は感じます。

髙橋 丁寧に補足いただき、ありがとうございます。予後不良で終わる物語をそのままトレースできない問題は、アニメ二期で参戦するライスシャワーにも通じますよね。

おすぎ 私にとってもライスシャワーは思い入れのある馬で、彼の最期のレースは淀(京都競馬場)開催となった宝塚記念でした。本来、仁川(阪神競馬場)で開催されるレースが淀で行われたのは、その年に阪神・淡路大震災が起きたからですが、得意の京都で走れるなら、と、秋に備えて休養せずにレースに出てきた、というか出てきてしまった。そういう運命のままならなさとか、「地震とサラブレッドの命」とか、普通に考えたら繋がらない因果の度し難さみたいな深淵に踏み込めなかったのは、キャラクターとして扱ううえでの限界なのかなとも思います。狙って書けない筋書きだと思うんですけどね。
 もっとも、重症を負ったサラブレッドを安楽死にせざるを得ないのは、四、五百キロある馬体重を三本以下の脚で支え続けると順番に壊死していってしまうからなので、二本脚で走るウマ娘が複雑骨折しても予後不良にならないよなという気もしますが。

髙橋 確かに、ウマ娘ならレースで怪我をしても、松葉杖をついて歩いたり、「リーダー」役としてチームの仲間をサポートしたりできますからね。まあ、予後不良で終わる物語を避けるのは、視聴者やプレイヤーに可能な限り不快感を与えないという前提があるからでしょう。この大前提は『ウマ娘』と「原作」の関係をよく表していて、最近起きた不祥事や騒動を考える鍵にもなると思うのですが……。のちほど、お二人にもご意見を伺いたいと思います。
 さて、基本的なところに話を戻します。実在の競走馬を擬人化するコンテンツが始まるという話を最初に聞いたとき、お二人の第一印象はいかがでしたか?

おすぎ サラブレッドの擬人化ってオタク属性のある競馬ファンなら一度は考えると思うんですよ。だからものすごい斬新なアイデアではない、というか、コミケでそういう同人誌を買ったこともありましたし。あれ作っていた人、いまどんな気分なんだろう……。
 まあ最初に見たときは、商業コンテンツでホントにやる気なのか、とは思いましたけど。

 今更どんな擬人化モノが飛んできても驚かないけど、娘同士で種付けするのかな? とは思いました。

髙橋 このウマ娘はアリアリなのかアリナシなのかという地獄のような論争を招きかねない発言はさておき……『ウマ娘』の擬人化モノとしての特徴はどこに見いだされますかね? 『艦隊これくしょん』、『アズールレーン』なんかと似たような美少女コンテンツだろ、と思っている人も少なくないと思いますが。

 『ウマ娘』の擬人化モノとしての特徴に、世代がバラバラというのは挙げてもいいのかなと思います。マルゼンスキーとサトノダイヤモンドが同じ学園に在籍しているとか。これ、戦国時代の美少女化モノだと北条早雲が二世代古くて伊達政宗が一世代新しいくらいで、あとは織田信長も武田信玄も島津四兄弟も毛利元就も実際に同時代に活動している人物ですよね。でも、マルゼンスキーとサトノダイヤモンドどころか、ナリタブライアンとウオッカでさえ同時に生存していた時期はない。一緒に走っていた時期となるとなおさらです。

おすぎ ウマ娘たちは「擬人化」というよりは『Fate』シリーズのサーヴァントたちのほうが感覚的に近いと思っていて。史実や伝承に出てくる人物の要素を持った別の何か、ですよね。それが同一の時空に集まってくるという。でも、ブリテン人に「アーサー王って川澄綾子声の金髪美少女なんでしょ」って言ったら多分しばかれるじゃないですか(笑)。私がTwitterで『ウマ娘』のファンアートをいっさいRTしないのは、その違和感にいまだに折り合いがつけられないからなんですけど、ともかく「原作」のモデル馬からウマ娘までの間には全体的にそれくらいのかけ離れ方がある。
 
 トレセン学園という場はそういう場だと思います。『Fate/Grand Order』のカルデアのような時代を超越した英雄が大集合している場所。アニメのストーリーはその中から選び抜かれたメンバーで、元になった馬たちの実際の活躍をベースに話を組んでいる。そこに独自性がある気がします。これ、裏から言えば、ゲーム内では人気キャラ(になるかどうかはアニメ放映時点ではわからなかったわけですが)なゴールドシップをあえて本筋のレースに絡ませないことで、ソシャゲアニメあるあるの「キャラ多すぎて初見の客にはわけわかんないけど原作で人気だから外せない」問題を解決しているとも言えると思います。ゲームと「原作」の二重性が成せる技……だけどいまアニメ化してたらゴルシやナイスネイチャの出番はもっと増やさざるを得なかったかもしれませんね。

髙橋 時系列がめちゃめちゃになるのは、ソシャゲの開発が一般にキャラクターありきで進められるからなのでしょうか?

 はい、ガチャによるキャラクターコレクション要素が大きいと思います。運営は引きの強いキャラクターの総数を揃えたいし、ユーザーは手に入れたキャラクターはなるべく自由に起用したい。そのふたつの要求を満たそうとすると、有名な元ネタのキャラクターが時代不問で同時に手に入る、という仕様になるのかなと。戦国モノのソシャゲはだいたい新選組とかが追加されますしね、そのうち。

髙橋 自分だけのドリームチームを作れるのは魅力的ですもんね。そうそう、先程「人気キャラ」としてゴールドシップが話題に出ましたが、このキャラクターを演じる上田瞳はアプリリリースまでの約3年間、「ウマ娘宣伝担当(自称)」として公式YouTubeチャンネルの「ぱかチューブっ!」を支えてきましたよね。最近は小野坂昌也の「ニューヤングTV」にゲスト出演したり、「カンテレ競馬」の公式チャンネルでレジェンド競馬アナウンサーの杉本清とコラボしたりと、引っ張りだこです。こうした一連の宣伝動画についてはどう思われますか?

 声優の宣伝動画はコアファンのつなぎ止め以上のものではないように思います。ゴルシ人気もアプリリリース後に爆発しているわけですし。

髙橋 確かに。ただ、声優の宣伝動画がVTuberのガワを被るようになったのは今風じゃないですか? 「邪神ちゃんねる」しかり、「『シスター・プリンセス』20周年チャンネル」しかり……。2020年11月には、パチスロメーカー・山佐に所属するVTuberの虹河ラキが卒業配信で「中の人」(=八木侑紀)を公表するなんて一幕もありました。

 VTuberに関しては『声ヲタグランプリ』Vol. 21の『四月一日さん家の』の記事を見てほしいところですが、VTuberが役者としてガワを映像作品に持ち込むことには一定の新しさがあるけれど、顕名のパフォーマーがVTuberを演じることについては、映像技術の部分を除けば、それほど新しさはないのではないかと思います。VTuberの技術的制約に基づく動きの質感が新たな生々しさを生んでいる、という話はこの際『ウマ娘』の特異性として大事かどうか。ちょっと判断に迷います。第四の壁破壊系キャラのゴルシらしくはあるのかな、あのいかにもVでございという動き。
 ちょうどゴルシの話が出たのでおすぎさんに聞いてみたいんですが、『ウマ娘』のゴルシの白さってどうですか? ゴルシは汚い葦毛だったころのほうが強くて、白くなってからはズブさに磨きがかかって勝てなくなってた印象なのですが。

おすぎ 全体的に毛色あんまり気にしてないですよね。『ウマ娘』のアグネスタキオンってあんまり栗毛要素ないし。

 髪色は一応栗毛っぽい茶髪ですのでまあそこは拾っているかなというところですが、ハルウララはピンクじゃないしツインターボも青くはないですよね。

おすぎ ツインターボの青やハルウララのピンクはメンコから持ってきたイメージカラーですね。

髙橋 ピンク髪や青髪はアニメ的表現として許容するとして、ゴールドシップとメジロマックイーンが同じような髪の色というほうが、毛色を気にしてないなあと思いました。まあ、ゴルシがマックイーンの血統だという繋がりは意識されているのでしょうが。

 マックイーンも葦毛で晩年はいまのゴルシみたいに真っ白だったからまあそこはいいのかなとは。マックは鹿毛ベースの葦毛できれいに灰色だった時期はないんですが、白くなってからはよく似た色です。むしろあの昭和のおばあさんみたいな藤色が不思議なところ。さておき、マックもゴルシもカテゴリーで言えば葦毛の巨漢ステイヤーなので、ゴルシには母父が出ていると言えば出ている。

おすぎ 父子とか祖父と子、とかの関係性の捉え方は「原作」とはだいぶ違うかもしれない。母子ならともかく父子って生まれてから死ぬまでほぼ顔を合わせないし、競馬ファンも現役時代の思い入れは別として、血統表の父とか母父ってパラメータとしか見ないから。

 ざっくり言えば母父メジロマックイーンなら長距離血統だな、母父サクラバクシンオーなら短距離血統だな、というような……(何かを待つ顔)。

おすぎ ……と思っていると母系がメジロ一族のモーリスはマイル~中距離王者として年度代表馬になったし、キタサンブラックは母父サクラバクシンオーなのに高速ステイヤーだし、でもサンデーサイレンス産駒で唯一のダートG1馬だったゴールドアリュールの仔はちゃんとほとんどスマートファルコンみたいなダート馬になるし、ホントにままならないよな、馬は(笑)。

 そしてでもやっぱりクロフネ産駒は二四勝てねえんだよなあ(泣)。

髙橋 馬の野生種はすでに地球上から絶滅しているみたいですが、サラブレッドの誕生以来、人間の手で交配させて血統をつくるという人工的側面がますます強まったのでしょう。「パラメータ」というのは言い得て妙ですね。

 『ウマ娘』のなかにも名門メジロ家というのが登場しますが、あれも「原作」では牧場での産駒の所産なのですよね?

 生産牧場は何代にもわたって同じ牝系を維持してたりするので、同じ牧場の生まれだと血縁がある、というのは実は結構あるあるです。メジロマックイーンはメジロライアンの母の弟の子なので人間でいえば従兄弟です。馬的には女系だけで辿れるわけではないので近親ですらないんですが。弟の子は甥姪ではない競馬の不思議。

おすぎ アニメではマックがお嬢様設定になっていたけど、「原作」でもともと一族の期待を背負っていたのはメジロライアンのほうなんですよね。マックは一族同世代のトップに追いつけ追い越せでやっていたら本当に追い越していってしまった馬なので、お蝶夫人じゃなくて岡ひろみなんですよ、ライアンがお蝶夫人で。菊花賞で初G1を獲ったときも「メジロはメジロでもマックイーンのほうだ!」と実況で言われてしまったくらいなので。

髙橋 それは面白い指摘ですね(笑)。『ウマ娘』の劇中では、メジロパーマー、メジロライアン、メジロマックイーンがどういう関係なのか、はっきりした説明がなくて、なんで同じ屋敷に出入りしているのかもよくわからない。そのへんは史実を下敷きにしつつも、フィクション要素が強いということなんでしょうかね。メジロ家の「おばあさま」というのは実在の人物をモデルにしているようですが。

 「メジロのおばあちゃん」こと北野ミヤですね。馬のほうで考えるとメジロアサマかシェリルかということになります。競走馬とその周辺の人物のイメージをいい塩梅で混淆させて作品に反映させているということですね。

髙橋 お二人のお話から、『ウマ娘』が「特殊な原作モノ」だというのが少しずつわかってきた気がします。引き続き、お二人からお話を伺って、フィクションとしての『ウマ娘』の特質を掘り下げていきたいと思います。

2. 物語性と神秘性:競馬の魅力、馬そのものの魅力

髙橋 私は『ウマ娘』を知るまで、競馬どころか馬という生き物に興味を持ったことがなかったのですが、このコンテンツをきっかけにいろいろ調べてみると、馬というのは非常に面白い動物だなと思うようになりました。古代ローマ史の研究者で、自他ともに認める競馬ファンの本村凌二は、『馬の世界史』(講談社現代新書、2001年;中公文庫、2013年)のなかで、「もし馬がいなかったならば、二一世紀もまだ古代にすぎなかったのではないだろうか」と述べています。

 もし馬がいなかったならば、二一世紀もまだ古代にすぎなかったのではないだろうか。
 人々の意識に流れる時間はゆったりとしており、遠方の地の知識もかすんではっきりしない。すみやかに事を実行するにこしたことはないが、性急に事を運ぶ人間は疎んじられるにちがいない。彼方の出来事などにも、わが身にしみて感じられることではない。古代とは、そんな緩慢と茫漠があたりまえのような世界だった。もし馬が地上に存在しなかったなら、古代という時代が、ひたすらつづいていただろう。(『馬の世界史』新書版、6頁)

 馬がいなければ人間は速度の観念を知り得なかっただろう、というのはなかなか面白い指摘ですよね。人間が家畜化に成功した動物は、実は十種ほどしかいないようですが、そのなかでも馬は特に人類史との関わりが大きい動物でした。馬は農耕にも、交通にも、戦争にも使われ、食用にもなる稀有な動物です。それなのに、これまで全く人類史におけるその重要性を顧みてこなかったのはもったいなかったと思いました。

 人間が乗るのにちょうどいいサイズ感と体型で、食性や生息域もうまいこと重なっていた。すごい偶然ですよね。

おすぎ 戦前戦中の競馬は軍馬の養成を名目に行われていたんですよね。それがギャンブルの対象となり、スポーツ興行となり、いまはガチャゲームのネタになっている、と考えると、犬や猫のような愛玩動物ではないけれど人間社会への密着度が異様に高い動物だなあと思います。

髙橋 お二人が競馬に惹かれるようになったきっかけを教えていただけますか?

おすぎ 自分の場合はまず父親が好きで、地元が京都だったので小さい頃から京都競馬場に連れて行かれていました。そこが入り口で、ちょうど『ダビスタ』が盛り上がっていた頃にゲームにも熱中して。あと、父親がずっと『優駿』(JRAの機関誌)を購読していたんですよ。ハイセイコーブーム(1970年代前半)から2000年くらいまで。それをひたすら読んでいるうちに競馬の物語性に惹かれるというか。掘っても掘っても情報が出てくるので、面白いなと。

 ウチも父親はよく競馬中継を見ていました。ただ、おすぎさんのお父上ほど熱心でもなく、俺自身もたまにテレビで大レースをやってたら見るくらいでした。オペラオーとディープの活躍くらいは追いかけてましたね。が、ゼロ年代の半ばに当時出入りしていた編プロで競馬本を作りまして、それをきっかけに熱心に見るようになりました。紙から入ってるので、物語性ベースで見てるのかなとは思います。
 いつだったか、おすぎさんとはコミケ会場で一緒に有馬記念を見ましたよね。

おすぎ ありましたね。ジェンティルドンナが勝ったとき(2014年)じゃなかったかな。

髙橋 一昔前の『ダビスタ』のような役割を、いまは『ウマ娘』が果たしている……と言うと言い過ぎでしょうか。

 JRAの狂ったようなコラボ群と比べれば、まあ……。

髙橋 お二人が揃っておっしゃる「物語性」をアピールするには、アニメという媒体は適切だったと思います。さらに「掘っても掘っても情報が出てくる」うえに、史実もドラマチックであるというのですから、『ウマ娘』から入った新参ファンにとって、競馬というコンテンツはまさに「沼」ですよね。競馬の歴史自体を真面目に勉強しようと思えば、イギリスにおけるサラブレッドの誕生まで300年ほど遡れるわけですし、「供給が途絶えることがない」コンテンツであるとも言えそうです。
 『ウマ娘』から競馬に入ってくる層については、どう見ていますか?

おすぎ 「The Legend」のCMシリーズに再び注目も当たりつつあることだし、愛を持って入ってくる人がほとんどっぽいので、基本的にはいい流れだなーと思って眺めています。お誕生日祝いとか、ふだん競馬ファンが馬の誕生日を意識することってあんまりないので(みんな1月1日に歳をとるから)、そこらへんは外から人が入ってこなければ起きなかった流れですよね。懸念点があるとすれば、『ウマ娘』に出ていない馬への扱いに差が出ないといいなあとか、それくらいですかね。

 ナイスネイチャのバースデードネーションが目標額をぶっちぎりで突破して話題ですが、あれもナイスネイチャが人気ウマ娘になっていなかったらここまでではなかったんじゃないか、という懸念はあります。

髙橋 前田佳織里が桜坂しずくの誕生日を祝ったときよりも、ナイスネイチャの誕生日を祝ったときの方が、いいね・リツイート貰っていたのは面白かったです(笑)。

おすぎ 古田敦也に野球を習い、杉本清に競馬実況を習った声優……よくわからんがすごい。

髙橋 「競馬の物語性」に話を戻すと、ほかのスポーツ、特にレース系スポーツにだって「物語性」があると言えそうな気もするのですが、競輪や競艇、モータースポーツとは異なる競馬ならではの魅力とはどこにあるのでしょうか?

 「人気する」とかの言語感覚……は競馬ならではのディティールだけど、それはまあ、各スポーツにあるわけですよね。
 そうですね、馬という人間の努力ではどうにもならない要素が絡んでくることの神秘性というのはあるのかなと思います。人間よりも大きく、力強く、速い生き物のお気持ち次第で結果が変わるもどかしさが不思議と心地いいというか。
 あとは直接人間の営為に金を賭けることへの後ろめたさがない、馬というワンクッションがある気楽さですかねえ。人間の営為に直接賭けるのは多分みんななんとなくイヤなんですよ。だから、競輪ですら自転車を挟む。短距離であれ、マラソンや駅伝であれ、生身の人間が体一つで走る競技は、その結果に金を賭ける公営ギャンブルにはなっていないわけです。人間の徒競走だとマギレが起こらないからギャンブル的な旨味がないというのもあると思いますが。

髙橋 スポーツくじも、個人戦ではなくマギレの起こりうるチームスポーツを賭けの対象にすることで、「人間の営為に直接賭ける」ものにならないようにしている、と言うことができるのかもしれません。先程名前を挙げた本村凌二は、『競馬の世界史:サラブレッド誕生から21世紀の凱旋門賞まで』(中公新書、2016年)のなかで、ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』を引きながら次のように述べていますが、競馬が「文化的」たりうるのも、馬という不確定要素があるからなのかもしれないですね。確かに、人間の徒競走に賭けるのは「文化的」ではなさそう。

 この名著の書き出しは「遊戯は文化よりも古い」ではじまる。文化をもたない動物でも遊び戯れる。だが、動物は賭けるという遊びを知らなかった。しばしば人間と動物の違いに言語の有無があげられるが、賭け事の有無も大きな差異をもたらしている。というのも、賭けるという行為は優劣を選び分けることであり、賭けを知らない動物は文化を築くことができなかった。推理して賭ける遊びは人間だけのもの。その人間だけが文化をもつことができたのだ。賭けるという一か八かがともなえば遊びが真剣なものになり、それが文化に欠かせないものになるのだろう。(『競馬の世界史』、78頁)

 俺自身馬券は買わないですけど、馬券というものがあることで、競技の見方への影響はあるのかなという気はします。特定の競技者を応援するスタイルが絶対視されない。どいつが勝つかわからない、その勝ち負けで大きなお金が動くという目で見るから、競馬ファンをやろうと思うと自然競技全体の趨勢を見させられるというか。応援している競技者が10年走るってことはないのが普通だから単推しでは見続けられない。

おすぎ 私も馬券はほとんど買わないタイプのファンですが、買ったら買ったで没入感が変わってきます。獲ったレースや惜しいところで獲りそこねたレース、そこで走っていた馬のことはやっぱりよく覚えているし、オケラ(掛け金を毟り取られる)になってトボトボ帰る途中の夕暮れの風の冷たさとか、妙に印象に残っていたりする。そういう感傷というか、詩情が味わえるスポーツはあんまりないかもしれない。

髙橋 「飲む・打つ・買う」という昭和の娯楽が、平成・令和の世になって「ヘイト・ガチャ・イキリ(スパチャ)」になった、というツイートを思い出しました。後者については「砂を噛むような思い出にしかなり得ないのではなかろうか」と書かれていますが、おすぎさんの体験談を聞くと、確かに「飲む・打つ・買う」は娯楽としての文化度は高かったのかもしれんなあ、と思わされました……。

 現代人は『ウマ娘』のガチャを回したり、ガチャに爆死する様子を配信するVTuberに赤スパ(高額スパチャ)を送ったりせずに、馬券を買え! と言うべきなのか? いまはネットでも馬券を買えるわけですし。

おすぎ まあ、生活がかかっていない範囲でなら文化的かもしれない……。

 ガチャも馬券も生活を破綻させない程度に楽しみましょう。

髙橋 馬券なら当たれば戻りがあるわけですが、ガチャだと当たっても貰えるのはボイス付きイラスト(しかもサービス終了までしか見られない!)なので、ソシャゲ運営は最強の胴元だなと思いますね……。
 ともあれ、賭け事としての競馬を白熱させ、観客を魅了してやまないのは、馬というワンクッション、不確定要素なのでしょう。であれば、競馬の魅力とは何よりも馬そのものの魅力だと言えると思います。『ウマ娘』はそんな競馬の魅力をトレースできていると言えるのですかね?

おすぎ  人と馬って、相通じる……ような気がしないでもない、くらいの不思議な距離感なんですよね。岡部幸雄がレース中にシンボリルドルフに話しかけていたのは有名ですし、キーストンのようにレース中に脚が完全に折れてしまったのに落馬した騎手を気遣いに行くような馬もいる。そうかと思えばタケさん(武豊)は「たまに通じるかなと思って馬に話しかけてみるけど、しょせん『馬の耳に念仏』ですよ」なんて言っていたりもしますが(笑)。でも「好き馬と話せたら」って、この作品の成立上、けっこう重要な動機なんじゃないかって気がしてきた。

 競馬の魅力としてひとつあるのは、世代交代の早さと、パターンレースの存在ですよね。3~5年でがらっと競技者が入れ替わる。競走能力が高い馬ほど古馬になってから走る期間が短くなるから、障害とか超長距離とかじゃない限り、絶対王者が2~3年で変わる。いまの最強馬グランアレグリアも来年の3月でターフを去る。そしてその彼女が伝説を残したマイルCSやVMにまた新たな王者がやってくる。そういう意味で、学園という設定とは相性がいいのかもしれない。学生スポーツと人間プロスポーツのいいとこどりのような文化ですよね。

髙橋 いま、目から鱗が落ちました。『ウマ娘』のトレセン学園は『Fate/Grand Order』のカルデアみたいなマルチバースの結節点だ、という話から始まって、まさか競馬と学園モノ(学生スポーツ)の親和性に到達するとは思いませんでした。高校野球や箱根駅伝が学生アスリートの選手生命を短くしているとはよく言われますが、それでも多くの人々は、昨今流行りのサステナビリティとやらに逆行して、一瞬の輝きに懸ける学生アスリートの姿に感動を覚えてしまいます。薫さんは「単推しでは見続けられない」とおっしゃいましたが、まさに「乗換え」の快楽が競馬にもあるのでしょう。そして、孝行のしたい時分に親はなし、推し事のしたい時分に推しはなし、とはよく言ったものですが、競走馬がいつ引退するかわかったものではない以上、そこから派生したウマ娘が「アイドル」のようにウイニングライブを挙行するのも必然性があると言うべきなのかもしれませんね。

3. 融解する役割分担:「トレーナー」というごまかし、ちらつく馬主の影

髙橋 ここからは、『ウマ娘』におけるプレイヤーや視聴者の立ち位置について話をしていきたいと思います。実際の競馬の世界は、馬主、調教師、騎手、厩務員といったさまざまな立場の人々によって支えられていますが、『ウマ娘』の世界では、個々のウマ娘は自我を持った人型の生命体であるがゆえに、馬主、調教師、騎手といった役職の人間は不要になります。その結果、ウマ娘を育成するプレイヤーは「トレーナー」という曖昧な肩書で呼ばれるようになります。こうなってくると、女子陸上競技モノ、スポ根モノに限りなく近づくわけです。『ウマ娘』のプレイヤーや視聴者は、どの立場になりきって楽しんでいると言えるのでしょうか。私としては、『ウマ娘』におけるトレーナーのなかでは都合よくいろんな立場が混ざり合って、融通無碍に使い分けられているという印象なのですが。

おすぎ 競馬場で走っている馬に人が寄せる思いって、とにかくいろいろあるわけです。「今日の俺の晩メシはお前にかかってんだ」から「走る姿が可愛くて好き」とか、「とにかく無事に走り終えて厩舎に帰ってきてくれよ」とか。幸か不幸か実際の馬に伝わるのは雰囲気までなんですけど。
 さっきの「馬とは話せない」という話題と重なるんですが、そこから馬をヒトとコミュニケートできる存在にしたことで、競馬というスポーツに渦巻いているいろんな情念を具体化したのがこの作品の肝なんだと思います。

 主人公というか、なんというかなんですが、アニメに限らず、企画当初から『ウマ娘』には武豊の影があります。公式のプロモーターだしアニメにも出てる関係者だからということではなくね。スペシャルウィークが「古馬になっても元気に走った早めの世代のサンデー産駒」以上の何者かだとしたら、それは「平成競馬ブームのオグリキャップ・サンデーサイレンスと並ぶ立役者、武豊の最初のダービー馬」ですよね。サイレンススズカとの縁も、同じサンデー産駒というだけではなく、どちらもユタカさんのお手馬だというのを外すと見えてこない。そういう意味では90年代の競馬の主人公は武豊で、その視点をなぞらされている感じはあるなあと思っています。エアグルーヴがサイレンススズカを奇妙に意識するのとか、98年の宝塚記念で武豊がエアグルーヴを選んで負けたのを踏まえてるわけですし。

おすぎ 『ウマ娘』世界のタケさんって何やってる人なんですかね(笑)。細江さんもなんで解説やってるのかよくわからないけど、あの世界では元トレーナーとかだったりするんだろうか。

 細江さんはウマ娘だったのかもしれません(笑)。

髙橋 実際の競馬の世界では、騎手から解説者、騎手から調教師といったキャリアがあるわけですが、『ウマ娘』の世界ではトレーナーしかいないので、確かに謎ですね。引退したウマ娘やトレーナーってどうなるんだろう……。

 キングヘイローの母親は元競走ウマ娘の勝負服デザイナーという設定ですね。アプリに出てくるトレセン学園の理事長はノーザンテーストで、理事長秘書はトキノミノルではないか、という説はあります。トレセン学園や各競馬場のスタッフになってるのが王道なんじゃないでしょうか。

おすぎ 騎手や調教師の存在が実質オミットされているのはちょっと寂しいところではありますね。ゴールドシップやソダシのトレーナーが元騎手とは思えない体型をしているとか、馬だけじゃなくヒトにも面白い話がいっぱいある世界なので。まぁトウカイテイオーに最後に乗った騎手とかメイショウドトウの主戦騎手とかの話をするとシブくなりますけど……。

 田原成貴はマヤノトップガンちゃんの造形に確実に反映されているので……。

おすぎ あと、「調教師」を「トレーナー」と呼び替えているのはとてもポリティカルでコレクトネスな判断ですね。話が逸れていくので掘り下げないですけど。

髙橋 あと、「原作」の人間をオミットして、「原作」の競走馬に自我を持たせたことで、ウマ娘同士が切磋琢磨し、レースで競り合う「人間ドラマ」を描けるようになった、という点も現実との大きな違いの一つでしょう。もちろん、「原作」の競走馬にも感情や意思はあったとは思いますが、ウマ娘同士の「人間関係」については、競馬ファンとしてどうご覧になりましたか? これは脚本家やシリーズ構成の独創性と言えるのでしょうか?

おすぎ マックとテイオーの絡みでほぼ1クールのドラマを作ったのはアニメ二期のオリジナリティですよね。1992年春の天皇賞で1度だけ対戦があったのは「原作」どおりなんですけど、マック陣営が「世紀の対決とか笑わせんなや、おととい来やがれ!」って一蹴しただけで終わって、結果的にはドラマティックでも何でもなかったので。タケさんが珍しくレース前に相手を挑発するようなコメントを出したり、むしろ殺伐とした対戦でした。

 その結果として第二の主人公としてライスシャワーがフィーチャーされたのはよかったなと思います。無敗三冠のテイオーが破れた夢を達成しようとしているミホノブルボン、それを阻止したライスシャワーがマックイーンも破って新たなライバルとして……は登場しないんですが。
 一度だけ、しかもマックの完全ホームで対戦しただけのふたりをフィーチャーしたことで、二期では「二度と絡み合わない因縁」と「果たされることがない約束」と「叶えられない願い」が頻出しましたよね。未回収の伏線だらけと言えばそうなんだけど、我々はトウカイテイオーとツインターボがレースで相まみえなかったことを知っているし、ミホノブルボンがターフに戻ってこなかったことも知っている。でも、そんな未来を知らないまま少女たちは再戦を約束する。「ウマ娘ちゃん、尊い……!」とアグネスデジタル顔になってしまうエモさです。思えば、競馬における「叶えられない願い」とは、まず何よりもはずれ馬券のことですよね。はずれ馬券は観客にとっては悪夢ですが、しかしそれこそがJRAの経営を支えている。なるほど、そういう意味では二期は実に「競馬らしい」ストーリーだったのかもしれない!

おすぎ ガチャに転嫁されたと思っていたギャンブル要素がそこに!(どうだろう)

髙橋 「二度と絡み合わない因縁」、「果たされることがない約束」、そして「叶えられない願い」ですか……。物は言いようですが、いい言葉ですね。世代交代の早さや運命の残酷さがギャンブル要素なのは否定できませんが、これを「一期一会」のエモさに凝縮できたのは『ウマ娘』の功績かもしれません。競馬ファンのなかには「一期一会」を振り向かないことと考えている人もいるみたいですから。例えば、古井由吉も『優駿』に連載していた競馬エッセイのなかで、自分がどれほど熱中した馬であっても、第一線を退いてしまえば名前すら忘れてしまうことがあると書いています。

 また、こんなこともある。今日の特別戦の出馬表を眺めている。出走馬たちの、イメージがどうにもしぼりきれない。おまけに日盛りにかかり、うだるように暑い。新聞をひろげたきり、つい、うとうとしてしまう。すっかり眠ったわけではなく、頭の隅ではもうろうと、レース検討を続けている。そのうちに、ちょっと真剣なようになる。やがて気がついたら、馬は馬でも、もう十年も十五年も昔の馬たちの、比較検討をやっている。なかば閉じた目がひきつづき今日の新聞の上へ注がれていて、半夢半醒、現実の出馬表の中から、過去の馬たちの名前を読み取っているのだ。
 過去の馬たちと言っても、ビッグレースを賑わせた名馬たちではない。重賞を勝ち負けした馬たちでもない。目の前にひろげているのはただの特別戦の出馬表なので、そこは白昼夢でも筋は通っていて、すべて条件戦止まりの馬ばかりである。しかし昔、競馬場で、走ったと言ってはよろこび、走られたと言っては口惜しがり、ほんとうに一喜一憂させられた馬たちなのだ。そんなに熱中させてくれた馬たちなのに、ターフを去って五年もすれば、名前すら失念してしまう。真昼の寝惚けの中ではしかし、その名前がはっきり蘇っている。馬名も分からずに、どうして馬券検討ができようぞ。ところが、目をさましたとたんに、すべてまた、きれいに忘れてしまう。旧盆も近い。
(古井由吉『こんな日もある 競馬徒然草』講談社、2021年、73頁;初出は『優駿』1991年9月号)

 少し話が脇道にそれましたが、おすぎさんのほうでは、印象に残ったシーンなどありましたか?

おすぎ ブルボンがライスに仮託したり、ナイスネイチャが「テイオーだけの世代じゃない」みたいな意地を見せたりするのは素直によかったと思います。その馬の真価は別の世代と戦ったときの強さで測られるところがあるので。ブルボンは同世代としか戦えなかったけど、ブルボンと戦ったライスが当時の現役最強馬だったマックを負かしたことで世代の名誉が守られるわけです。

 ですね。

おすぎ まあ、実際のブルボンやライスがそう考えていたかどうかはわからないですけど(たぶん考えていない)、そういう関係者やファンが思っていたことを人型になることで背負うのがウマ娘なんだろうなあと。

髙橋 ライスシャワーの話にかこつけて、冒頭で予告していた予後不良の問題に戻りたいのですが、実際の競馬には競走馬の安楽死や騎手同士の因縁など、単なる熱い物語では済まない、険しい側面があります。『ウマ娘』が「スポ根」というシンプルな構造を選び、予後不良を回避する「やさしい」シナリオを描いたのは、視聴者やプレイヤーに可能な限りストレスをかけないためだと思うんです。現実に横たわる問題を突きつけるような展開にしたら、ファンがソシャゲのゆりかごのなかで「ママ、ママ」と言い続けることができなくなってしまいますから。
 しかし、現実の競馬は複雑系であって、不都合なことも不愉快なことも起こるわけです。それを脱色・単純化して描くからこそ、「原作」周辺の不祥事やトラブルが起こるたびに、『ウマ娘』という箱庭は外側から揺すられてしまいます。直近で話題になった件としては、北海道帯広市のばんえい競馬の騎手や厩務員が競走馬の顔を蹴ったことが報道されて「炎上」したり、セイウンスカイやニシノフラワーの馬主である西山茂行オーナーがネット民の嫌がらせに激怒したりといったことが挙げられます。

 ばんえい競馬については、2020年8月にも競走馬の出産による出走取消で調教師が戒告処分を下されるという珍事が起こっていますから、「また管理不行届ですか……」という感想ですが、西山オーナーの件はさすがにげんなりしましたね。ああ、『ウマ娘』というコンテンツは、平和裏に、やりすごしながら楽しむことはできないコンテンツだったんだな、と自分の不明を恥じたというか。変な凸者が出るのを抑えきれない以上、同じようなトラブルは何度でも起こる可能性がありますよね。

 公式凸はやめろ、としか言いようがないんですけどね。西山オーナーの件は、本質的にはネットで放言しがちな脇の甘い関係者が凸られた、という人気作品にはたまにある件だと思います。西山オーナーには「災難でしたね。これに懲りずいい馬を走らせてください」と申し上げたい。
 ばんえいについては、J-CASTの捏造とかいう話も出て、にんともかんともです。
 むしろ、本当に普通にひどい不正は、笠松のほうでしょう。これを機にちゃんと膿を出してクリーンになれとしか。こういうの、昭和で滅んだと思ってたんだけどなあ……。

おすぎ 半世紀前の「黒い霧事件」当時みたいなノリがまだ残っているのかと思っちゃいますよね。馬券売上じたいはずっと好調だったんですけどね。
 あと、二次創作がR18モノとイコールになっているヤツは脳ミソがキンタマについている異常者だから異常者として引っ叩いておけとしか。

髙橋 『ウマ娘』の二次創作については、Cygamesの「応援してくださっているファンの皆さまにご注意いただきたいこと」というガイドラインに言及せざるを得ません。このガイドラインは2018年6月20日に公表されたものですが、表現の自由戦士がおもちゃにしたせいか、にわかに話題になりましたね。

キャラクターならびにモチーフとなる競走馬のイメージを著しく損なう表現は行わないようご配慮いただけますと幸いです。
本作品には実在する競走馬をモチーフとしたキャラクターが登場しており、許諾をいただいて馬名をお借りしている馬主のみなさまを含め、たくさんの方の協力により実現している作品です。
モチーフとなる競走馬のファンの皆さまや、馬主さまおよび関係者の方々が不快に思われる表現、ならびに競走馬またはキャラクターのイメージを著しく損なう表現は行わないようご配慮くださいますようお願いいたします。
https://umamusume.jp/news/detail.php?id=news-0106

 Cygamesが馬主に対して一定の配慮を示しているような文面であるため、一方では馬主を過剰に忖度して自警団ぶる人があらわれ、他方では公式凸してでもエロ・グロ表現を貫徹しようとする愉快犯が出てしまいました。そもそも、Cygamesが馬主の力に屈している、萎縮しているという見方は妥当なのでしょうか?

 このガイドラインは本当に書いてあるとおりの内容だと思います。たくさんの方の協力を得て成立しているものだから、その人たちに悲しい思いをしてほしくない。それだけのことであって、馬主の圧力をCygamesが恐れているとかそういう話ではないでしょう。
 馬主はお金持ちというのはその通りです。社会的地位も高いでしょう。でも、セガサミーの里見治会長が馬主になったときには「とんでもない金持ちがものすげー財力で攻めてきた!」と恐れおののかれました。資産家だが、里見治ほどではない。それが多くの馬主の経済力の相場です。馬主の個人資産で里見治の向こうを張れるのは「ダノン」の冠名で知られるオービックの野田順弘会長と、それこそつい最近参入したサイバーエージェントの藤田晋社長くらいじゃないでしょうか。
 馬名のゲームでの使用に対して馬主は権利を主張できないという判決もあるわけだし(ギャロップレーサー事件上告審判決、最判平成16年2月13日)、馬主に対する配慮なんてCygamesには一切する理由がないんですよ、銭金と法的権利で言えば。にもかかわらずこういうガイドラインを出すのは、単にリスペクトがあるからと受け取っておけばいいでしょう。
 なのに、「Cygamesが競馬カルチャーにリスペクトを持っている」と考えることに困難を感じ、「Cygamesは馬主の権力を恐れている」と考えることに納得してしまう。そのバイアスはなんなんだろうと思いますね。

おすぎ そもそも個人馬主よりもソニーやバンダイの法務のほうが「おっかない」に決まっとるだろうがと。違う文化圏の人たちからの預かりものなのでローカルルールで対応できんからな? ということがなんで理解できないのか。

髙橋 結局、権力関係以外の仁義とか倫理といった次元が理解できないのでしょうね。良識がないと言ってもいい。一部のオタクは執拗に『宇崎ちゃんは遊びたい!』の献血ポスターを引き合いに出して「フェミ」や「サヨク」への嫌がらせを欠かさないくせに、馬主に対しては同様の態度を取れていません。人を見て態度を変えているとも言えますが、彼らが馬主に臆する原理を解明するのは今後の研究課題でしょうね。馬主が有閑階級だということが鍵になりそう、とだけ申し上げておきます。

4. ウマ娘と声優:「競走馬らしさ」の欠缺と寄せ集めの布陣

髙橋 『ウマ娘』の声優陣についても見ていきましょう。声優の側でも役作りのために、自身が担当するキャラクターのモチーフになった競走馬のことを調べているようで、実際に馬券を買うようになった声優さえいるほどですが、声優陣は果たしてそれぞれの「競走馬らしさ」を表現できているのでしょうか。声優と競馬の両方に一家言あるお二人に、お話を伺います。

おすぎ これはキャラクタービジュアルも含めてなんですけど、「原作」のイメージと照らし合わせてバチンと来た感じがあんまりないんですよね。各々、可愛いしよくできているなと思う点は局所局所であるんですが。
 声優まわりに関していえば、そういう局所局所で感じたキャストの熱が作画にどれだけ影響を与えたのかなあってことですかね。ちょっと前まではアフレコ時にどれだけ作画が間に合っているかが声優のパフォーマンスに関わって来ましたけど、最近ではアフレコが先行するのでそれに画づくりが引っ張られる、という話を聞くんですよね。誰か取材すればいいのに(笑)。

 まず目を引くのはシンボリルドルフの田所あずさですよね。その蹄跡を追うトウカイテイオーがMachicoというのはホリプロスカウトキャラバン脳か! という感じがします。シンボリルドルフなんか、普通に考えたらプレイアブルじゃないキャラで実装して、CVは超大物というポジションですよね。いっそ林原めぐみとかでも驚かないくらい。そこに田所あずさというのは……つまり?

おすぎ つまり? といわれても……。とりあえず、競馬を知らなかった人から見てみるとどうだったんだろう?

髙橋 全体的に統一感のないキャスティングですよね。それに「競走馬らしさ」を度外視しても、アニメ一期では特段目立ったパフォーマンスも確認できなかったので、ピンポイントで考えても「ここが聴きどころだ」という点を挙げにくい……というのが正直な感想です。主役級に限って話をすると、スペシャルウィークを演じる和氣あず未については、日本総大将として主人公を務めていた一期よりも、変な脇役・ギャグ要員として活躍していた二期のほうが輝いていたと思います。サイレンススズカを演じる高野麻里佳は幸薄い感が出ていましたが、この感覚も役者のイメージに引っ張られたものである可能性が大きいですね。そこそこメインを張る出演数はあるし、一部熱狂的なファンもいるけれど……という。強いて印象に残ったシーンを挙げるなら、ブロワイエを演じる池澤春菜がいきなりフランス語を喋り始めるあたりでしょうか。スペの「勝利は私のものだ!」(La victoire est à moi!)を「調子に乗んな!」と超訳していたのも相まって、流石に笑いを禁じ得ませんでした(笑)。ただ、目立ったパフォーマンスがないというのは「悪目立ち」がないということでもあるので、前述の「アイドルアニメ」文脈に載せるなら、統一感がないからこそ連帯感は生まれていたとは言えると思います。
 それに対して二期は、プロット自体がドラマチックだったのも影響しているでしょうが、印象に残る個々のパフォーマンスが多かったです。「歌のお姉さん」的なイメージしかなかったMachicoがトウカイテイオー役で気持ちのいいボクっ娘をやってくれたのも、万能主役感があって「声のざらつき」(le grain de la voix)を感じられなかった大西沙織がメジロマックイーン役でライバルお嬢様感をこれでもかと濃縮してきたのもよかったです。大西沙織はもっと悪役令嬢モノに出演してもいいんじゃないか(笑)。二期エンディングテーマの「木漏れ日のエール」も素敵な楽曲で、Machicoと大西沙織のデュエットを聴きながら、おセンチな気分に浸れましたよ。また、ライスシャワーを演じる石見舞菜香とツインターボを演じる花井美春(両名とも2021年4月末時点で23歳)は特に素晴らしかったです。頑迷さと気迫を小動物感の中に込めて、内圧を高めて爆発させるパフォーマンスは荒削りながらも、息を呑む新鮮な驚きに満ちていました。
 なお、これは余談ですが、『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』(2020年10月期)で高咲侑を演じた矢野妃菜喜がトウカイテイオーに「トキメいちゃう」キタサンブラック役で出演していたのは、結果的に『ニジガク』への意趣返しにも見えて面白かったです。私は『ニジガク』をスクールアイドルの僭主が客席へと暫定的に放逐される話と解釈していますが(下掲記事を参照)、『ウマ娘』二期の最後でキタサンブラックはトレセン学園への入学を果たすわけですから、「輝きたい!」を地で行くストーリー展開になっている。やはり、観覧席から応援しているだけでなくトレセン学園に入ろう、「アイドルじゃない私」として「みんな」を応援しているだけでなくスクールアイドルを始めよう、ということですね。

 ともあれ、統一感のないキャスティングになった原因としては、元々キャラクターありきで開発が進められたので、コヒーレンスを意識しない、良く言えばおもちゃ箱的な、悪く言えば寄せ集めの布陣になったと考えればよいのですかね?

おすぎ まあ、アニメじゃなくてゲームのためのキャスト、で人数が必要、となるとだいたいそういう感じになりますよね。

 『アイドルマスターシンデレラガールズ』、『アイドルマスターミリオンスターズ』とはキャストがかなり被ってるんですよね。もともと『アイマス』の総合ディレクターだった石原章弘がコンテンツプロデューサーを務めていたこと、Cygamesが『シンデレラガールズ』のデベロッパーであることとの関係は意識せざるを得ないところかなと。声かけやすいところに声かけて集めたのかな、というのは想像されるところ。
 そういう人的なつながりを見出すのもアニメを見る楽しみのひとつではありますが、そこでやはり史上最強のウマ娘が田所あずさというのがまたぞろ気にかかってくるわけです。『アイカツスターズ!』(2016年4月~2018年3月)、『アイカツフレンズ!』(2018年4月~2019年9月)では作中の最強キャラである二階堂ゆず、神城カレンをそれぞれ務めていたわけだけど、これって無印の霧矢あおいからの積み重ねで、『アイカツ』シリーズだけで通じる特有の文脈が生じていたからで、その文脈を外したところで田所あずさが史上最強、という世界観が通用するのかはちょいと気になります。

おすぎ ルドルフ最強論者ってもう相当年齢層が高くなるんじゃないかなあ……。

 でもまあ、わざわざメインを張らせたいエルグラスぺの10年以上前の馬を引っ張ってくるのは歴史的存在として、史上最強を謳われた馬へのリスペクトがあるってことではあるわけで。あと、ディープもシンザンもクリフジもアーモンドアイもいないから、ルドルフ最強って言うしかないじゃないですか(笑)。

おすぎ まあ、登場している中で一番実績があるのがルドルフで、ひょっとしたらルドルフより強かったかもしれないマルゼンスキーがその隣にいるのはそれなりに納得感はある。

髙橋 当初、シンボリルドルフが「皇帝」と呼ばれるほどの強い馬だったということを知らなかった身としては、田所あずさが三冠ウマ娘で生徒会長というのは背伸び感があるなあと思って見ていました。一期の第二話で、“Eclipse first, the rest nowhere”(エクリプス一着、他の馬はどこにも見当たらない)という有名な格言がトレセン学園のスクールモットーとして掲げられていましたよね。あのシーンでは、重々しい画面のなかで田所あずさが「唯一抜きん出て、並ぶものなし」と言いますが、圧倒的な実力を備えた「強そう」な感じは受けませんでした。むしろなめらか・爽やかで、若くして栄光を掴んだ天才肌のキャラクターみたいに聞こえました。

おすぎ 確かに「昔ムチャクチャ強かったウマ娘」って感じは特にしないんですけど、日常の枠外から突然やってきてお告げをささやいて去っていく、みたいな役どころとしては説得力があるんですよ、田所あずさ。

 もったりしたドスケベボイスの持ち主であると同時に、不思議に世俗に塗れない清潔感がありますよね。『神達に拾われた男』(2020年10月期)がなにか爽やかな視聴感を残すのはまさにその田所あずさの超俗性あればこそですよね。
 田所あずさの超俗性という観点からすると、主人公メンツから一歩引いたところでアドバイスしてくるポジションはアリという気がします。しかしルドルフか……。ジェンティルドンナくらいにまからんかったかなあ……。

髙橋 田所あずさについて補足いただき、ありがとうございます。『神達に拾われた男』は、『無職転生~異世界行ったら本気だす~』(2021年1月期)における杉田智和と内山夕実の「二人一役」とは違って、転生後に主人公の精神年齢が少年時代へと逆戻りする展開がよかったですね。安元洋貴と田所あずさの落差は、薫さんのおっしゃる「超俗性」によっても際立つことになっていたのだなあと思います。彼女の醸し出す「超俗性」ゆえに、公爵家の人々に甘えることを選んだときの泣きの演技が光るわけですね。
 話は変わりますが、現在ウマ娘として実装されていない競走馬のなかで、今後登場してほしいと思う競走馬はいますか? できれば、妄想キャスティング込みでお答えください。

 でも実際出てくるのは新人さんかそれに準ずる若手で正直妄想のしようもないかなと思わなくも。そうですねえ、最重量のヒシアケボノが松嵜麗なら、最軽量のメロディーレーンは五十嵐裕美、とかはすぐ思いつきますけど、それ以外だと、うーん、シンザンとかTTG(トウショウボーイ、テンポイント、グリーングラス)とかかなあ。
 シンザン誰がいいですか? トキノミノルが藤井ゆきよでノーザンテースト水橋かおりという世界で。

おすぎ 花澤香菜とかでええのでは。

 アイマス声優だし、それだ! でもどうでしょう、花澤香菜には幸薄そうなイメージがあると思うんですが、いまはみんなそんなことないのかなあ。

髙橋 私は『セキレイ』(2008年7月期)、『かんなぎ』(2008年10月期)、『バスカッシュ!』(2009年4月期・7月期)、『化物語』(2009年7月期)、『こばと。』(2009年10月期・2010年1月期)あたりで花澤香菜を覚えたので、幸薄そうなイメージってそもそもないんですよね。早い時期から売れっ子の若手声優で、どんどんふてぶてしく成長していったと思うので、伝説の五冠馬シンザンにいまハナカナをあてるのはありっちゃありか?

  昼行燈キャラは合いそうですね、確かに。シンザンのトレーナーが遠征についてきてないことに気づいて、対戦相手のウメノチカラは慌ててるのに「チームの他の子も見なきゃいけないし、いいんじゃない?」と気にしないハナカナシンザン、見たいですね。
 TTGはマルゼンスキーに負かされてたかもしれない馬ということなので、Lynnに負けていたかも知れない声優……『風夏』(2017年1月期)脳的には早見沙織かなあ。早見沙織はトウショウボーイとテンポイント、どっちがいいのか。

おすぎ 早見沙織のいる三人組、だったらそれこそ『バスカッシュ!』に出てきた三人娘(戸松遥、早見沙織、中島愛)でまとめたらいいんじゃないですか。ユニット名も「エクリップス」だし、出来過ぎている(笑)。

 それだ! 天馬・戸松遥、流星の貴公子・早見沙織、緑の刺客・中島愛!

髙橋 おすぎさんはいかがですか? 今後登場してほしいと思う競走馬っています?

おすぎ 私はアニメ放送時からホクトベガの名前を挙げています。いまのダート路線が整備されたのはこの馬のおかげなので。ここ二、三十年でいちばんJRAの競走体系に影響を与えた馬なんじゃないかな。キャストがパッと浮かんで来ないんですけど。

 ベガはベガでもアドマイヤベガは咲々木瞳なので、咲々木瞳の母親っぽい声優のライバルっぽい声優がいいんじゃないでしょうか。咲々木瞳のアニメの代表作は『双星の陰陽師』(2016年4月~2017年3月)の小枝役なので、その母親っぽいのはヒロイン紅緒役の潘めぐみ。潘めぐみがベガということなので、潘めぐみのライバルというと……?

おすぎ いやわかんないよ……。打たれ強いけど幸せにはなれない感じの声……高橋李依あたりでしょうか。ファイルーズあいも思い浮かんだけれど、ちょっとパワフルすぎるかな。

髙橋 コメントありがとうございます。妄想キャスティングは裏切られてナンボなので(笑)、お二人に挙げていただいた馬もウマ娘として実装されてほしいですね。答え合わせで一杯やれる日が来るのを楽しみにしています。

5. 馬と人間の紐帯:馬は「最良の奴隷」、それではウマ娘は?

髙橋 最後にもう一度、本村凌二『馬の世界史』に立ち返って、この鼎談を締めたいと思います。本書の巻末では、犬と馬が人類史上で担った役割が比較されており、犬が人間の「最良の友」なのに対して、馬は「最良の奴隷」または「かぎりなく友に近い下僕」であるとまとめられています。

 現代人は、人間にとって最良の友は犬であると思っている。たしかに、犬は、どこでも飼うことができるし、なつきやすく、従順でもある。一方、馬は大型動物であり、どこでも飼うというわけにはいかない。それでも、飼い慣らし御する者には、馬もなつきやすく従順である。それだけでなく、過酷な条件のもとでも指示に従って任務を果たすことができる。その忠実さにおいて馬は犬に劣ることはない。犬が最良の友であるなら、馬は最良の奴隷であったともいえるだろう。しかも、馬は躍動感にあふれ、美しさを損なうことがなかった。だから、それは人間から敬愛されるもっとも高貴な奴隷である。むしろ、かぎりなく友に近い下僕であるのだ。
(『馬の世界史』新書版、261頁)

 しかし、現代人はそんな馬との関係を忘却してしまいました。19世紀の西欧の小説を読むと、普通に交通手段として馬車が登場しますが、我々はもはや馬が公道を走る様子をリアルに想像することはできないでしょう。都市生活のなかで馬に触れる機会はほとんどなくなっており、大人への生育過程で乗馬や牧場訪問を体験したとしても、それはアミューズメントパークに連れていってもらうような非日常の体験でしかありえません。

現代人は歴史における馬の役割を忘却してしまったのだから、みずからの想像力の欠如こそ嘆くべきことかもしれない。それは人間の頭脳知に甘んじ、それだけを自負する傲慢さからまぬがれることでもある。さらには、自分たちが生きる自然環境あるいは動植物の生態系に広く目を向けることでもある。というよりも、人間が自然の恩恵のなかで生かされていることへの自覚を深めることにもなるだろう。(同書262頁)

 このように考えてみると、競馬とは失われた馬との紐帯をかろうじて取り戻させるスポーツなのではないかと思えてきます。そして『ウマ娘』も、競馬の興奮や熱狂の一端は伝えていると言えるのではないでしょうか。さらに「大型動物であり、どこでも飼うというわけにはいかない」ものを携帯端末のなかで馴致する快楽は、馬と人間のミッシング・リンクを埋めるのに一役買っているようにも思います。

 その紐帯がナイスネイチャへのドネーションにつながるわけですね。とはいうものの、その馬を女性として表象することに危ういものがないとは言い切れない。
 その危うさを体現しているのは、何度も名前の出てきたゴールドシップですよね。頭絡をモチーフにした皮紐で締め付けられ、セクシーな体つきをこれでもかと強調されている勝負服からして露骨です。エロいというか、どぎついデザイン。「馬と称してエッチなお姉ちゃんを走らせる闇金持ちの闇遊戯のコスチューム」と言われたら、すごくしっくりくる。明確な描写の存在しない人の耳があるところを強調する人間の耳当て風のヘッドアクセサリーもその線を踏まえると意味深です。
 これは作り手の馬を女性として表象することの危うさへの自覚の表れと受け取りたいところです。そんなゴルシが第四の壁に向けてドロップキックするたびに夢女が増えるのも業の深い話です。

おすぎ 自分が25年くらい前に「面白ぇー」と思って夢中で読みふけったエピソードや知識にいまたくさんの人が感銘を受けているのを見るのはとても不思議な気分です。「違う文化圏」という言葉を先程も使いましたけど、それがぶつかるときには大なり小なり軋轢を生むもので、繁忙期の牧場にアポなし凸撃しちゃうファンとか、もう何度も問題になってきたことでもあります。
 一方で、薫さんが挙げたようなナイスネイチャへのドネーションとか、いままでになかった流れも出てきているので、うまいこと融合してくれたらいいなと思います。
 騎手とか調教師とか、『ウマ娘』ではオミットされている要素も面白いですよ。親子とか孫レベルじゃなくサイアーライン/フィメールラインで血統をたどっているだけで余裕で一晩つぶせるくらい楽しいし。競馬ってカネかかんない趣味なんですよ、実は。

髙橋 薫さんのおっしゃるように、ウマ娘は「最良の女奴隷」と言われても仕方ない表象ではあります。だからこそ、ウマ娘というキャラクターを消費するだけで終わらずに、競馬の世界へと一歩踏み出してみることが重要になってくるでしょう。もちろん、おすぎさんがおっしゃるように、馬券を買って賭けることだけが競馬の楽しみではありません。テレビ放送されているレースを見るだけでもいいんです。私にとっても、『ウマ娘』をきっかけに競馬文化の裾野の広さを知ることができたのは僥倖でした。
 『ウマ娘』というコンテンツの周辺では、今後もさまざまなトラブルが生じ続けることでしょう。しかしそれでも、「何事もほどほどに」(ne quid nimis)というモットーに沿って、ちょうどいい温度感でやっていこう! と宣言すべきではないでしょうか。そんな楽観主義は必ず裏切られる、必要なのは『ウマ娘』ファン膺懲だと言う人がいるかもしれません。ですが、私は「良識を持ちましょう」というウザい言葉を口にすることを当面の間やめるつもりはありません。「たとえその気持ちが何百回裏切られようと」、です。良識を嘲笑し、大衆を愚民呼ばわりするのは、俗流の「進化心理学」を奉じる人たちと何が違うというのでしょうか。『ウマ娘』を批判する方々に対しては、良識を鍛え直すいい機会だと思って『ウマ娘』と向き合ってみたら、なにか見えてくるものがあるかもしれませんよ、と言っておくことにします。

(以上)

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