役者に求められる「知性」とはなにか:つるの剛士の外国人差別発言を契機に、自衛隊コラボアニメ『GATE』を振り返る

はじめに:2020年からの再定位

 役者にはある種の知性が求められる。知性を欠いた役者(これを「痴性」の発露とでも呼べばよいだろうか)は、舞台の外でおぞましい醜態を晒すことになる。
 醜態を晒し続けている役者の一人に、『ウルトラマンダイナ』で主役のアスカ・シンを務めたつるの剛士がいる。彼が「おバカタレント」として持て囃されたのも今は昔、現在はTwitterで無理筋の安倍政権擁護、ありがちな野党批判、差別発言などをひっきりなしに垂れ流すインスタント右翼(普通の日本人ともいう)となってしまった。
 彼はつい先日も、自身の畑のパクチーが盗難被害に遭ったことについて、外国人への憎悪を煽るような発言を繰り返しており(下掲記事を参照)、「愛すべきバカ」では済まない次元に足を踏み入れようとしている。

 つるの剛士の「無邪気」な問題発言は今に始まった話ではなく、2019年8月3日には福田裕彦から「つるの剛士にウルトラマン俳優を名乗る資格なし。恥を知れ。」と名指しで批判されるなど、ウルトラシリーズ関係者との間にも軋轢を生じさせる原因となってきた。本件の発端は、つるの剛士が同年8月2日にあいちトリエンナーレの「表現の不自由展」を「自国ヘイト作品を展示するアート展」と呼んで攻撃したことだったが、福田裕彦の歯に衣着せぬ物言いには快哉を叫ぶほかない。

 しかし、私がウルトラシリーズを愛する者であって、とりわけ初期シリーズに込められた反戦・反帝国主義・反差別・在日米軍批判のメッセージを真摯に受け取る者である以上、単純に快哉を叫ぶばかりではいられない。沖縄出身のパイオニアたち――金城哲夫や上原正三に代表される――の精神が知性を欠いた役者に蹂躙されているという事実、これが私の心を傷つけてやまないのである。
 特定の作品や役者のファンであれば、役者の言行を完全に無視することはできない。どれだけ外部の情報をシャットアウトして、かけがえのない作品や演技を自分の殻の中だけで愛玩しようとしても、それらを不変の思い出として記憶にとどめることはできない。ファンは絶えず役者の言行に苛まれ、期待と失望の間を行きつ戻りつ、何らかの折り合いをつけて生きていかざるを得ない。
 そこで重要なのが、知性を欠いた役者を評価しないという態度を示すことである。この態度決定は、ファンをやめる、あるいは自身の思い出と訣別するという痛みを伴うかもしれない。しかし、どうせファンをやるなら、荒療治も辞さない気概を持ってファンをやりたいものではないか。つるの剛士の此度の発言は、改めて役者の知性(及びそれと向き合う覚悟)の重要性を認識する契機となった。
 さて、「契機」と書いた通り、つるの剛士の話題は役者の知性を論じるとっかかりに過ぎない。そろそろ声優の話をしよう――なぜなら私は声ヲタだから。また、ここまで知性という言葉を無定義に使ってきたが、以下では「役者に求められる知性とはなにか」という問いにはっきり答えよう。
 以下に掲載するのは、私が2015年12月に同人誌に掲載した『GATE 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり』第1期の劇評を一部修正したものである(いま読み返すと目に余る部分もあるが、若書きのアーカイブであることに鑑みて、最低限の修正にとどめた)。いま、『GATE』を取り上げる理由は、5年前と比べて本邦のキナ臭い状況が悪化している中、役者の知性について検討するにあたり、クリティカルな論点を提示している作品だと考えるからだ。悪趣味な作品が逆説的に声優の知性を際立たせる――その好例として『GATE』を見てほしい。

『GATE 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり』第1期評

 『GATE』という作品を語る上で看過できないトピックはあまりに多すぎる。俗悪なクールジャパンの称揚と擁護、自衛官募集ビラなどとの無節操なコラボ(長谷川晴生が言うところの「対キモヲタ協力」)、戦闘シーンでの『ヴァルキューレの騎行』の使用、皇民化政策さながらの日本語・日本文化の「土着化」、「特地」進出は植民地侵略には当たらないとするおぞましい詭弁、小泉純一郎・安倍晋三・麻生太郎をモデルとした政治家の登場、米中露を極とした甚だ通俗的なパワー・ポリティクスからの国際政治理解、そして米中露を圧倒する日本の「国力」等々、問題のあるトピックは枚挙に暇がないが、幸か不幸かこの場は「声優アニメレビュー」である。従って、逃げを打っているわけではないが、本稿では作品自体の構造や展開に対する批判を行うことはしない。さしあたり押さえておくべきことは、以上のような種々の問題点にもかかわらず、『GATE』が声優アニメとしては成立しているということである。

 役者にはある種の知性が求められる。このことは評者がかねてから強く主張してきたことだ。役者は役柄を徹底的に突き放したうえで、すなわち役柄と自分自身の絶え間ない緊張関係の中で演じなければならない。役者のそうした批判・相対化の力をここでは「知性」と呼ぶ(学歴や実質的な知能指数を問題としているわけではない)。これは舞台の外、すなわち役者にとっての現実世界で働くものである。知性は役柄との同一化を阻止する力となるが、その反面で役者は役者である以上、舞台の上では役柄になりきらなければならない。役柄を理解し、役柄の立場で考え、役柄として行動しなければならない。山本太郎を例に出すまでもなく、舞台の外で働く知性が舞台の上での役者の使命を凌駕するとき、それは役者が舞台から降りるときなのだ。役者は知性を維持しつつも、与えられた役柄を舞台の上で十全に成立させるべく、原作者や音響監督などのスタッフ陣からの要求を満たさなければならない。
 『GATE』に話を戻せば、本作は若手女性声優の中でも特に「賢い」、すなわち鋭い知性を備えた声優を3人のヒロインに配役していることが分かる。炎龍に父親を奪われたという現実を受け入れられず、空想の中に生きるエルフ族の少女テュカには、金元寿子。金元寿子は、どこかコミュニケーションの回路が壊れた、排他される役柄に相応しい白痴感をよい塩梅で調節してくる力を持った声優である。テュカは迷彩服を来た「緑の人」とも「特地」の原住民とも正しい距離感をつかむことができない。心神耗弱も同然のテュカは、自身を取り巻きつつある邪悪に全く気付かない。それは彼女がヴァーチャル・リアリティ(あるいはフィクション)の中に生きているからである。金元寿子はセリフの数こそ少ないながらも、抜群のコントロール性能を我々に見せつけている。
 頭脳明晰の流浪の魔道士レレイには、東山奈央。人気者には人気者の理由がある。花田清輝が言うには、「映画スターとは、自分自身に、売れるかもしれないところの肉体も、売れるかもしれないところの芸も、きれいさっぱりもちあわせのないということを、骨身に徹して自覚している人間のことをさすのである。一言にしていえば、かれらは、かれら自身が完全なデクノボーだ、ということをちゃんと知っているのだ」(花田清輝「スター意識について」『花田清輝著作集V』未来社、1965年、310頁より引用)。東山奈央の若年にして華々しい経歴はまさに「映画スター」のそれと言うべきなのではないか。レレイは劇中で一番最初に日本語を習得する天才であるが、長寿の種族も多い「特地」では特に若年と思われる僅か15歳の少女に過ぎない。かよわい彼女は自身が生き残るための最良の現実判断として自衛隊と結託する道を選ぶ。自衛隊側と「特地」側の双方でスポークスウーマンとして活躍するレレイは、乏しい表情の後ろに冷徹な計算を隠しているのである。東山奈央はこうした透徹したリアリズムと「少女性」を両立させることに成功している。東山奈央は役柄の要求に過不足なく応じたが、その何気ないパフォーマンスは若くしてスターダムに駆け上がった彼女の苦悩に裏打ちされているのではないか。少なくとも評者にはそう思われた。
 そして、死と断罪の神エムロイの使徒たる亜神ロゥリィには、種田梨沙。2015年5月16日に東京大学本郷キャンパスで開催されたトークショー「東大でみんなに会えてうれシード♪」において、『新世界より』や『四月は君の嘘』にかけた並々ならぬ思いを吐露していた種田梨沙の姿が思い出される。種田梨沙の役者としての真摯さは凡俗な評者の想像を遙かに超えていた。そんな彼女が挑むロゥリィは、死者の魂が自身の肉体を通じて天に召されるという体質のため、戦闘や虐殺のたびに性的快感に悶えてしまうという悪趣味な役柄だ。それに加えて、ロゥリィ自身が流血と殺戮を好む残忍な性格というのだから、悪趣味ここに極まれりという感じがする。そんな悪を体現するロゥリィであれば、自衛隊の秘められた凶暴性についても早々に見抜いていたに違いないが、彼女はそれを承知でわざわざ自衛隊と結託したのである。これは悪を善だと言い張ったり、不正を正義と強弁したりする中途半端な正当化ではなく、遙かに深刻な、悪そのものへの堕落である。悪を自認し、破滅すらも渇望する女。なんと文学的でエロティックなのだろう。
 そして、種田梨沙は夜這いのシーンにおいて間違いなく百戦錬磨の娼婦だった。評者もあの時急激な屹立を覚え(蠱惑に対するこの反応を「マナー勃起」という)、禁止事項を無視して襲いかかりたくなるあの衝動と自宅で格闘するハメになった。はっきり言っておく。キモヲタの粗末な一物(とテクニック)では決して、このファム・ファタルを絶頂に至らせることなど出来はしない。評者はここで一物の実測サイズを問題にしているのではない。国会参考人質疑のシーンで「あなたおバカァ?」と叫んだ種田梨沙の「残響」が舞台の外においてはどこへ伝わっていくのか。実際にバカなのは誰なのか。これらの点についてもう一度考え直してみよ。その時、種田梨沙という声優の恐るべき知性が実感を伴って理解されることだろう。つまり、種田梨沙は完全にロゥリィという役柄を読み切っていた。これほどに偉大な知性を前にして、なおも本番のチャンスを窺うような愚か者は、「声ヲタ失格」の烙印を押されても文句は言えないだろう。
 その他、戸松遥の勘違いノーブル感、内田真礼の『食戟のソーマ』にも通じるあけすけ感、日笠陽子の今更ピュア感等々、他の出演声優についても語るべきことは数多く残っているが、本稿で掘り下げることはしない。
 『GATE』は『魔法科高校の劣等生』にも似た「無邪気」なプロパガンダ作品としては一定の成功を収めたと言うべきだろうが、その悪辣な世界観を声優の力で完全に糊塗することができたわけではなかった。むしろ、巧みな配役と正確な調律のせいで却って、現実離れしたおぞましい悪趣味を悪趣味のまま維持することになってしまった。だがそれでいい。それこそが『GATE』が声優アニメとしては成立している証左なのだから。声ヲタは声優の「演技」を聴くのみならず、舞台の外におけるその「残響」をも聴かなければならない。舞台の外でしか働かない声優の知性を読み取り、そこに寄り添おうとする気概を持った声ヲタでありたいものだ。

おわりに:役者は何にでもなれるわけではない

 役者には知性が求められる。役者は役柄を徹底的に突き放したうえで、すなわち役柄と自分自身の絶え間ない緊張関係の中で演じなければならない。
 この主張は初稿から5年が経過したいまも変わりはない。2020年7月10日、声優・エッセイストの池澤春菜が、トランスジェンダー役をシスジェンダーが演ずることに当事者から批判が集まっている件に対して、「わたしたちは何にでもなれる」とコメントしたのは記憶に新しい。

 ここで問題になっているのは雇用における不均衡であって、役者としての「演技力」や「表現力」ではないのだが、池澤春菜はその点を見誤り、「年齢も性別も国籍も、生物としての特性でさえ、すべてを超えることができる」と傲慢な姿勢を露呈するに至った。これは花田清輝の言う「映画スター」の態度ではなく、知性を欠いた「イキリ」としか形容しようがない。
 現実世界は演劇ではない。現実世界はアニメではない。舞台の外で働く知性と舞台の上での役者の使命はしばしば衝突する。池澤春菜においてこの衝突が生じなかったのは、役者である前に一人の市民であるという自覚が欠如していたからではないか。そして、自覚が欠如していたのは彼女一人だけではなく、彼女を擁護しようとした取り巻き全員であろう。我々は複雑なものを複雑なまま理解しようとする努力を重ねていかなければならない。平板な理解は陰謀論や歴史修正主義の温床となっていく。その意味で、つるの剛士はありうべき我々としての普通の日本人なのだ。
 役者は何にでもなれるわけではない。知性を欠いた役者はしばしばこの点を認めようとしないが、そのような見苦しい振る舞いに対して、ファンであればこそ「ノー」を突きつけるべきだ。なぜなら役者はファンの鏡なのだから。役者の「残響」に対する態度は、そのままファン自身の現実世界に対する態度に影響を与える。そう、ファンは役者と向き合っているようでいて、その実自分自身と向き合っているのだ。役者の知性を欠いた振る舞いを批判することで、ファンは自身の襟を正す機会を得るのだ。ファンは役者の召使いではない。ファン活動を自己陶冶の一環とするような、豊かな趣味生活を送る者が増えることを祈りつつ、筆を擱くことにする。

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