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随筆(2021/6/1):レヴィナス『全体性と無限』の「他者(ヒト)が了解可能な訳がない」的断絶から見る「ヒト扱いとモノ扱い」モデルの過酷さ

1.聖女と娼婦とヒト扱い

よく
「聖女と娼婦しか脳内にない男」
という話と、
「女性を一人のヒト扱いしろ」
という話と、
「むしろ、かなり明示的に、一人のヒト扱いしているはずであるが…???」
という話がセットでやってきて、たいてい結果的には不毛な会話になってしまっているじゃないですか。

2.了解不能な他者性に関する困難

ここで唐突に、レヴィナス『全体性と無限』の話をする(本当に唐突だな)。

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これは、了解不能他者性に関する哲学書です。

自分じゃないんだから、他人のことなんか、分かる訳がない。
何? たりめーじゃ? そんなもんが哲学たぁ笑わせらぁ?
そうかね? 本当は、自分には、誰か他人のことが、分かる、と思ってやしないか?
出来ないんだよ。
だからお前のは勘違いだ。分かっとらんやんけ」

とりあえずはそういう本だ(もっと深い意味や広い意味については後でまた書きます)

で、俺が大昔に読んだ『全体性と無限』をふと思い出していて、そこである絶望的なことに気づいた。

何かというと、
「モノ扱いとヒト扱い」
ということと、
ヒトは、モノでないし、了解不能な他者である。
つまり、他人と了解し合えると思ってるやつは愚劣な不敬者である。
他人を了解しようとすること自体がどうしようもなくずうずうしい
ということが、しばしば混同されているのではないか、ということだ。

3.他者(ヒト)扱いすると、聖女扱いになってしまう

ヒトには、誰かに分かってもらいたくない、ほっといてほしいところがある。
他者性をひっくり返すと、
「私はお前にとっては他者である。了解なんかされてたまるか」
ということになる。ということだ。
そこは、もちろん、ある。

でも、分かるでしょう。これは方向性は残念ながら正しいが、その正しさではもちろん社会などやっていけない。

で、これがさっきの「聖女と娼婦とヒト」の話とどうつながるかというと。
「ヒトの内心を理解しようと忖度すること自体が不敬」
という発想をまともに突き詰めると、了解不能な神聖不可侵存在、聖女扱いになっちゃうんですよ。
彼らにとって、「ヒト扱い」とは、了解不能な化物としての「聖女扱い」に他ならないのだ。

当たり前だろう。
他者(ヒト)は、了解不能な化物なのだから。

何? 了解可能だとでも思っていたのか?

他人に自分の内面をじろじろ見られた挙句、「ふんふんこれはこうですね。I got it! (分かりました)」などと理解されてたまるかってんだ。
そんな理解者面、相手への侮辱にしかならないだろ。
何で相手をitと呼んで、しかも抜け抜けとget出来ると信じた?
盗人猛々しいんだよ。

4.機能(モノ)扱いの話を忌避すると、サービスのやり取りは成り立たなくなる

ちなみにこの場合、聖女は甘える相手ではない。
そちらは娼婦に割り振られている。
つまり、ここでは娼婦「甘える先としての機能」等として扱われている。

サービスのやり取りから、「宜しくお願いします」「確かに承りました」すっ飛ばしたら、これではモノ扱いと見なされてもしょうがない。
だが、そもそも、取引というものは、しばしばこれである。そこは気をつけねばならないし、だからこれを安易に否定してもならない訳だ。
「サービスなしで生きていける」という話、今の日本ではもはや成り立たないので、そういう非現実的なことを言わないで欲しい。
例えば、子育ての際に保育士に非人道的な要求をすることや、親の老後のために介護士に非人道的な要求をすることは、かなり多くの親や子にとっては、おそらく非常に回避しずらいことであろう。
倫理的に瑕疵のないはずのこの自分が、そんなことをするはずがない? いやー? そこは覚悟を決めた方がいいでしょうね。

もちろん、サービスのやり取りそのものが、無礼と感じられるので、直ちに吹っ飛ばしたい人、かなりいる。
が、それが「宜しくお願いします」「確かに承りました」が十分になされてないからか、それともそうされても解決しないか(たとえば、サービスをすると損をしているように感じるので気力を温存したくなったか)は、はっきりさせておいた方がいい。
前者なら仁義の話になるし、後者ならリソースの話になる。
求めているものと違うものが解決されても、困るでしょう。
自己は、他者に比べたら、はるかに「分かりやすい」はずだ。だから、見極めた方がいいですよ。

(もし前者なら
「我々は100円入れたら出てくる自動サービス提供マシンではない。ゲーム脳になっていないだろうか? 家族と話をしているだろうか?」
くらいのことは言えるだろう。

後者なら
「いいから100万円の札束を寄越せ。そうしたらサービスだろうがなんだろうがやってやるよ。まずはお前が払えたらな。そんな価値はない? ほー? じゃあ交渉決裂ぅー。さっさと帰ればぁー?」
になるだろう。
というか、これを言いたい保育士や介護士、少なからずいるはずだ。
彼らは、ナメられていることもさることながら、ゴミみたいな給料に心底腹を立てているのだから)

5.他者(ヒト)との断絶の先に開示があるが、そこに伴う不完全さには耐えねばならない

もちろん、娼婦扱いなんかされたり、聖女扱いなんかされたりしても、人間関係においては、メチャクチャ困るだけだ。
理解してほしいところは理解してほしい。
それに、心を開いた関係は尊いものだ。
そういうことがしたい。
そういうヒト扱いを望んでいる人たち、かなり多いだろう。

他者を理解することは不可能である。
モノじゃないんだから。
それに、自分が何考えているかなんて、他人に理解されてたまるか、というところがある。

じゃあ、開示に頼らねばならない。
つまりは、自分が相手に、自分のことを、説明せねばならない。

もちろん、見て分からないからといって、説明されれば分かる、という話は別に成り立たない。
引き続き、他者への理解は不可能である。

そうであろうが、そこの諦めを肚に据えて、開示をせねばならない。
見えないところの説明は、それによってのみ成り立つ。

理解できなくても、その程度の開示に甘んじることはできる。
そこら辺は、実は諦めるべきではなかったところなんですよ。

6.他者論を真に受けて、断絶の方に比重を重く置きすぎることの、危うさ

「今更何言ってやがる」
と思われるかもしれない。
だって、
「自由は尊重されるべきで、断絶も受け入れられるべきものだ」
というのはごもっともな話で、
「理解してほしいところは理解してほしいし、心を開いた関係は尊いものだ」
というのもやはりごもっともな話であるが、そのままではまあ両立しない事柄でしょう。
こんなもんどうやってシラフで「両方」呑み込める? デタラメじゃねえか。
それとも、なんか折り合いをつけられるのか?

「自由は尊重されるべきで、断絶も受け入れられるべきものだ」
という話の方に重点を置くと、
「断絶しろ。心を開き合って断絶していないが如く振る舞うための努力など、不敬で汚らわしいからやめろ」
という意味になってしまう。
そんなつもりで言ってるんじゃないだろうけど、この文脈で現にしばしば解釈されている。
だって、何も先入観無しで読めば、そうなってしまうからだ。
(常識がないとも言う)
(が、自分や誰かがたまたま持っているだけの常識を、相手が持っていると信じ込むのも、またバカみたいな話じゃないですか)

で、
「断絶しろ。心を開き合うための努力など、不敬で汚らわしいからやめろ」
という、話者の意図せざる話を、しかし確かに話者に吞まされた人、そんな価値観では、他人との社交も処世もできるわけがないんですよ。
ヒト、しかも個人への畏敬でやっているのは、その正当性も込みで、認めたい。
で。
だから何?
それ、社交でも処世でも何でもない。
そして、それらがやれている人はたくさんいる。
何かおかしいぞ。そんなやり方での畏敬を、本当にやるべきだったのか?
「役に立たない正しさ」というやつなのでは?

人との心の開き合いの価値観すら、断腸の思いで捨て去った人、いる。
大事なそれを捨て去るまで追い詰められた(しかも結果的に追い詰めた側にはそんな意図はそもそも毛頭なかった)のは可哀想なことだ。
だが、それをやってしまった人、ただの内臓を抜いたミイラですよ。
ミイラと社会生活ができる人はあまりいない。
そういうの、なっても損なだけだ。やめた方がいい。

個人の自由の尊重の志向は、
「断絶を呑め」
と言ってるんだから、心を開き合った人間関係の志向とは相性が悪い。だが、どんなに
「前者が大事だ、これこそが要であり、後者が前者に反するものであるなら、後者をするな。やめろ」
と説かれても、それは真に受けてはならないし、後者を捨てたらいけないのだ。

7.モノとヒトは違うし、ヒトは断絶されている。そこから話を始める

あの、一見何言ってるのか何も分からない、レヴィナス『全体性と無限』は、
「モノらしさからヒトらしさは生じない」
「ヒトは断絶している」
「でもヒトは心を開き合い、社会を作ったり、エロスの状態にもなる」

「じゃあどういう仕組みでそうなるのか」
という話をやっていたのだ。ようやく分かってきた。

レヴィナスの前の理論である、メルロ=ポンティ身体論に立脚した他者論は、便利ですよ。
なんで断絶した他者との共感が可能になるのかというと、そもそも断絶している感覚以前に、自他の未分化な感覚(いわゆる間主観性)があったのだし、それはみんな持ってるから、つながってる感じが成り立ってしまうのだ。

そういう観点からレヴィナスの理論を見ていると、
「モノとヒトは違うし、ヒトは断絶されているが、どうやったら心を開き合って社会を作ったり、あるいはエロスの状態になったりするのか」

「モノとヒトは違うし、ヒトは断絶されている」
の部分の話
がしたかったのだな。
心を開き合う、エロスの状態になるための、自他の未分化な感覚の話は、もうメルロ=ポンティがしてるからだ。

ヒトは「世界の何ものとも断絶されてない」原始的な感覚を持っている。
だが、結果的に、ヒトは他者とは断絶しているものだ。
また、道具を使うような感覚のモノらしさからは、そうした断絶したヒトらしさは生じない。
ヒトはモノから出来ているが、ヒトらしさはモノらしさからは出来ていない訳だ。

とはいえ、心を開き合う価値観を捨てずに、「断絶」の現実と、「断絶されていない」原始的な感覚を弁えて、心を開き合うことは、できる。
そういうことをしましょう。やっていきましょう。
これを捨てるように導く言説、無視していきましょう。社交も処世も出来なくなるぞ。最悪だ。
(いじょうです)

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