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随筆(2022/12/1):自由と呪縛_3.自由意志は意思決定や現状認識のレベルの問題ではなく、自己感覚のレベルの問題である

3.自由意志は意思決定や現状認識のレベルの問題ではなく、自己感覚のレベルの問題である

さて、自由意志について、もうちょっと考えてみましょう。

自由意志意思決定現状認識のレベルの問題なのでしょうか。
そうではありません。
それらは自由意志に「効く」ところですし、
「意思決定こそが自由意志の本質である」
という話は、一見説得力があるのですが、
「何らかの行為を、特に引っかかりなくやれる」
という自由の感覚に立ち返ると、微妙に芯がずれています。
ふつう、どういう時に「自由だ」と感じるかと言うと、「なされた行為や、それをなす前の精神の動き」に着目するというより、なされた後で振り返ったときの「引っかかりなくやれているという感覚」に着目することで、そのようになっている訳です。
じゃあ、「引っかかりなくやれているという感覚」の話をすることで、初めて自由意志と呼びたくなるレベルの話に踏み込めることになります。
意思決定は自由意志の大事な前提であるが、それはだいぶ手前の話になってしまいます。

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じゃあ、意思決定から先にある領域のうち、どういう領域が、「引っかかりなくやれているという感覚」の話とより密接にかかわるのか。

どうも、「これをやっている」という運動主体感や、さらに発展して「私の身体等「が」これをやっている」という自己感覚と、かかわりがありそうに見える。
「私がこれをやっていて、引っかかりなくできると、私は自由であるように感じる」
というのが、非常に素直な自由の感覚でしょう。

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とはいえ、気を付けるべきポイントもあります。

行為においては、脳の反応が先にある。
「私がこれをやっている」という運動主体感は、実は脳の反応の結果ではあっても、行為そのものには寄与していない。
というのは、ベンジャミン・リベットの実験で知られた大きな知見です。

何の話か。
「運動主体感は、行為に関する自由の前提かもしれないが、行為の構成要素でない」
ということです。

ベンジャミン・リベット『マインド・タイム』

行為脳の反応因果論的・機械論的結果です。これは確かでしょう。
しかし、自由の方を言えば、
「「自らに由っている。これは自分のやったことである」という感覚に、「因果論・機械論を破る」という大それた迂遠な話が、本当に要るのか?」
という話でもあります。

運動主体感(やったことの感覚)身体保持感(自分の身体や私的領域などの空間的な感覚)がうまく結合して自己感覚(自分の身体や私的領域が、これをやった、と思える感覚)に結び付けば、じゃあその
「自分の身体や私的領域が、これをやった」
と思える感覚こそが、
「自らに由っている。これは己のやったことである」
という感覚そのもの、あるいはその中核
でしょう。

自由意志は、意思決定現状認識の問題と言うのは本当は正しくないのであり、運動主体感自己感覚のレベルで初めて問題になることである。というのが、より実態に即しているのではないでしょうか。

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運動主体感と自己感覚はもちろん、行為や、意思決定や現状認識が統合された結果、行為に関する自由、いわゆる自由意志は生じます。

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そして、そうした行為に関する自由の領域から、
「これは己がやったことである」
という、行為に対する責任感も芽生えて来るのです。

これは、社会をやる以上、とてつもなく大事な話で、これがなければ約束や約束事を結ぶことは極めて困難になります。
「俺そんなことしたっけ?
というか、昔俺がそういうことをしたからって、それが今の俺に何か関係あるのか?
そんなことはどうでもいいんじゃないの?
俺はどうでもいいが?」
という人と約束をしても、それは次の瞬間には反故にされる可能性が当然にあるのです。
例えば、これで取引をしたら、
「物品を受け取ったりサービスを受けた後で、相手方に対価を払わずに、それどころか何らかの足止めのための攻撃を行い、自分は逃げる」
ことが横行するでしょう。
それがされていればされているほど、取引は信用ならなくなります(そしてそういう市場はしばしばあります)。
これが横行していたら、取引などというものは基本成り立たなくなります(そしてそこまで行くと市場はほぼ機能しなくなります)。
それで社会が、特に経済が、成り立つ訳がない。

「自由は社会を出し抜くためのものである」
と考えていたら、ついつい忘れ去られてしまう発想ですが、
「自由は責任と契約と経済を通じて社会をもたらす」
と考えた方が、より適切なのではないでしょうか。

***

ということで、
「自由意志は意思決定や現状認識のレベルの問題ではなく、もうちょっと後に自己感覚のレベルの問題が控えており、そこが問題の領域である」
「という風に読み替えても、例えば行為に対する責任感や、契約や経済や社会の領域では、特に困らない」

という話をしました。

これを踏まえて、次回は「自由」を阻害する「呪縛」の方の話をしたいと思います。乞うご期待。
(ご期待を乞うべき話題かこれ?)

(続く)

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