随筆(2019/12/30):『自罰の呪いで成長する人と、その破滅』2_1-2_3(「圧倒的不幸になろうが圧倒的成長がしたい、幸不幸は飯が食えてから考える」という人たち他)

2.自罰の呪いで成長する人と、その破滅

2_1.「自罰の呪い」で圧倒的成長

自罰的な性格の人は、ある意味、自分の中の問題とガチンコで向き合うので、その限りでは問題解決に有利に働き、スキルも身につく。という話をこの前はしました。

自罰的な人は、
・壁にぶつかり腐る
・いつかやってらんなくなってキレて何もかもぶち壊しにする
・そして他にやり方を知らないのでやはり「自罰の呪い」に頼る

この3つを永遠に繰り返しながら、スキルツリーだけはべらぼうに伸ばしていくことができます。
(あまりぶち壊しにしないタイプの人だったら、成果も評価もたくさん残るでしょう)

2_2.「自罰の呪い」で圧倒的不幸

ちなみに、言ってませんでしたが、私もそういう人です。
という訳で、「言ってもいいかな」と思うので、言いますが、この性格も、努力も、スキルツリーの成長も、基本的には「呪わしい」ものです。
腐ったりぶち壊しにしたり呪いに頼らざるを得なくなったりするのが、ハッピーなわけがない。

そんな呪われた努力による成果も評価にも、どうしても呪いの影を見てとってしまう。
呪われた努力なしで、こいつらが評価してくれただろうか? こいつらは俺が呪われてまで努力して成果を出したからこそ評価しているだけで、呪いを拒んで遅々とした努力を重ねていたら、おそらく今よりはるかに評価は厳しかっただろう。これらを繋げると、自分が呪われていたことが遠因で、こいつらに評価されたのだ。というクソの塊のような話、かなり避けがたくなる。

努力すれば努力するほど、そして得られれば得られるほど、そいつらは全部呪いのアイテムのうずたかく積まれたゴミの山に過ぎなくなる。
だから、主観的には「投資したっきり永遠に失われたリソースの分だけ損をしている」という話にどうしてもなる。当然、どんどん幸福からは遠くなる。
(これ自体が、「頑張れば、それ以上に報われて欲しいし、報われなかったらおかしい」という、『衡平』の価値観に基づいた話なんですけどね。
もちろん、ふつうの人はふつうこれを持ってるし、特定の条件を満たさないとまず捨てられない。
だから、それはふつう、人間の幸福の概念の中に、最初から組み込まれている価値観だ

2_3.「圧倒的不幸になろうが圧倒的成長がしたい、幸不幸は飯が食えてから考える」という人たち

もちろん、これを贅沢な悩みだと思う人もたくさんいる。それはよく分かっています。
スキルやリソースがまだ間に合ってないから、幸不幸以前に、そもそも生を維持できない、という状況、たくさんあります。
スキルツリーが伸びないくらいなら、スキルツリーを伸ばすために、副作用があろうともこの呪いに頼りたくなる。幸不幸は飯が食えてから考える。

たとえその飯を得るのにどんだけ酷い代償を払ったとしても。その飯がどんなに不味くても。舌どころか胃袋を満たすことさえ怪しかったとしても。
そして、それで脳を揺さぶる『快楽』があろうが、それが痛み止めとしての機能しか果たしていなくても。
世界の中の・今・ここ・私(哲学者マルティン・ハイデッガーの言うところの『世界内存在』)が、別に何一つ『幸福』でも何でもなかったのだとしても。
そういう選択肢、ごく自然なものです。死はものすごく大きな苦痛だ。それに恐ろしい。そりゃあ出来ることなら選びたくない。

***

なお、「人は一般に快楽を求め苦痛を避ける」という話は、こういうところでも柔軟を欠くところがあります。

死は、たいてい、ものすごく大きな苦痛だ。一発で痛みのない死に方が出来るかというと、だいぶ難しい。
失敗すると? ずーっと後遺症と苦痛が残る生になるか、長く苦しんで死ぬかだ。ヤですよそんなの。

それに、もし真に苦痛のない安楽死が出来るのだとしても、別口で苦痛をもたらす、死の恐怖の方は解決できない。
存在しなくなるとはどういうことなのか、存在している身には想像すらつかない。本格的に想像もつかないことは、本格的に恐ろしい。

そりゃあ、死、出来ることなら選びたくない。

だが、まともに食えてないし、不味い飯しか食えてないし、代償の方が大きい、そして今後もちゃんと食える見込みのない生、これもかなり大きな、しかもリアルな苦痛です。
代償の大きい働き方をしている、ある種の社会人には、「想像してごらん」と言われるまでもなく、よく知っているし、分かってるでしょう。
さらに言うと、死の苦痛は一瞬の時点の話だが、生の苦痛は生きている間ずっと続く分、期間の話になり、余計辛いとも言える。

そんなわけで、ここで機能しているのは、むしろ「大きな苦痛を避けるために、小さな苦痛を選ぶ」という話のように見えます。
今のところ、生は苦痛しかもたらしてない。という人にとっては、生はイヤなものであるに決まってる。
が、もっと強烈な苦痛や恐怖をもたらす死の方が、もっとずっとイヤだ。そういう、ごく単純な話です。

それでも、依然として、苦痛に満ちた生は、苦痛に他ならないんだからな。

もちろん、そういう生の苦痛の方を重く見るバイアスも有り得ます。
そういう時、人は自殺さえ選択する。
生が余程辛かったら、そりゃ当然そうなる。例外的なケースだが、それなりにある話だ。

しかし、まあ、ふつうは死の苦痛&恐怖のバイアスの方が圧倒的に強い訳です。
だから、生の苦痛が大きいと分かっていても、なおもほとんどの人は生を選ぶ。

***

そんな話を突き詰めると、ふつうは、不幸でも、生をやっていくことからは逃げられない。
生をやっていくためなら、不幸になる呪いだろうが、何でも使う。
そういう選択肢、「ある」と思います。

(続きは、また明日にします)

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