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日記(2022/4/16):ラップを聴きながら小説創作に想いを馳せる

1.何があった?

いろんな事情の巡り合わせがあり、鎮座DOPENESS "100%RAP" を聴いていた。

ラップという音楽を、実は生まれて初めて正面から聴いたことになる。

2.音と韻で気持ちよくなって体が感情になって優勝する(ような文章も書けるようにしたいな)

とにかく気持ちよい。ラップ、スゲー! というか鎮座DOPENESSの言葉選びが抜群なのだろう。

俺はCDをWALKMANにリッピングして聴いているけど、ラップはラッパーがオーディエンスを前にやるものであることが多いはずだ。

なので、音と韻で聴いて気持ちよくノってもらわないと、そりゃあ論外なのだろう。

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俺は「長文を練り上げて怒涛の如くやり、かったるいどころか圧倒的大迫力で世界の果てまで押し流したい」というスタイルでやりたがるし、それに頼る。

が、短文でラップをバシバシやることで、五言絶句や連歌めいた小気味良さが出る、というのも、やっぱり芸風としてほしい。(欲張り)

それぞれで脳の別の部位が興奮する。そして、後者のように、ラップで体が感情になって優勝するの、めちゃくちゃええやんけ。という気持ちになっている。

やはり、読んだ時の目と脳の気持ちよさ、決定的に大事。

そこを軽視しておいて、なおも自作小説を読んでもらおうと思うの、マニアしか読まねえし、何ならマニアだって読まねえよ。つまりは誰も読まねえ。

ということがマジで身に沁みた瞬間でした。

3.音と韻で気持ちよくなってもらってから「その後で」隠し剣鬼の爪として意味とイメージをキメて世界観にハマってもらう

その上で、意味とイメージで世界観にハマってもらう、という隠し剣鬼の爪がキクんだろうな。

俺は意味とイメージを、最初から武器として剝き出しにして振るうが、意味とイメージがいきなり気持ちいい人はそんなにいない。もうちょっと多段仕込みで行こう。

今度からそこをちゃんと意識して、また次も創作小説書こう。

4.生活の哀愁に立ち返る

なお、このCDに限って言えば、全体的に生活の哀愁のイメージの話が多めなのもすごくいい。

聴いてて生活を思い出して、そこをフックにしてハマって、しんみりして、没入していく。

これ、俺は自分の創作小説では、一番出来てないところからなあ。

そういう意味では、肩は緩みながらも、身が引き締まる。

(ちなみに、ストレスがあるとうまいもん食わずにはいられないデブの勤め人の私には、12曲目 ”MOGU MOGU” がもうメチャクチャ刺さる(私情))

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そこで生きる場合も、そこから出発する場合も、そこに帰る場合も、生活空間はとてつもなく大事だ。

特に、俺みたいに数学本を読みまくって、生活から遊離したことばかり考えているやつは、気を付けねばならない。

ちゃんと生活空間に立ち返らないと、外に出て得られた知識は、最終的に意味不明になる。

最悪、俺が死んだら、それは全部ごみになる。(そして周囲を見てもしばしばそうなっている)

ちゃんと、よそから持ってきた戦利品を、人にあげよう。

できれば、「今」自分が住んでいる、生活空間の中にいる皆に。

(かつての故郷、とは言わない。故郷が懐かしい人もいるだろうが、故郷が呪わしい人も、もちろんたくさんいるのだから)

もちろん、ほしくない形で渡してもしょうがない。そんなもんごみのままだ。

喜ばれるような形で渡そう。それは結局、気持ちよく、文脈が載った雰囲気で、ということだ。

***

エルマン・サーヴィスが文化人類学の本『民族の世界』で社会Lv.4としての未開国家の先に、社会Lv.5としての民俗社会を置いたことにも、ちゃんと意味があるのだ。(あまりにも無視されがちだが)

社会が高度化して、その影響を受けるという前提で、なお、人の住むところ、至るところ、身近な生活空間は、ある。

そこの話は絶対に大事で、たとえば国家の複雑な官僚行政機構にだけ着目して、
「身近な生活空間、そんなものはどうでもいいし、無視して構わない。
というか、現に無視しているし、注目する値打ちのあるものという認識自体がなかった」
という、激烈に傲慢な態度が、世の中にはかなりある。

だが、それ、現に至るところに住んでいる人たちにとっては、
「そこ一番大事な話じゃねえか。何で無視できるのか訳分かんねえ。
百歩譲って、国家はインフラとしては偉い、ということにしておいてやってもいいが、つまりはインフラだろ。暮らしそのものじゃねえ。
自分たちはそのインフラの上に自分たちの暮らしを立てているんだ。
インフラの連中が、上に住んでる人の暮らしなどどうでもいい、暮らすな、じゃあねえんだよな。
話と頭がおかしいんじゃねーのか?」
くらいの気持ちは、ふつうに抱かれても、何もかもしょうがないんだよな。

***

別に倫理道徳的な意味合いで生活空間に立ち返らなければならないことはないし、立ち返らなくてもいいのだが、立ち返ると猛烈な芸の肥やしになるのは明らかだ。

特に、自分が飯食いに行ったり、散歩をしたりする時に、
「今までごみにしか見えていなかった生活世界、実は光り輝いているのでは?
光り輝いている生活世界、幸せだなあ」
という形で効いてくる訳だ。

そういう文章、書きたいなあ。(まあ頑張ろう)

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