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随筆(2021/1/11)恋のマウンティング・マイアヒ(年始からこんなのか)

1.ムダとゴミだらけの山の中に輝く、楽しい奇蹟の本物

どうやらは、それを知らない人にとっては、世界のつまらなさ自分の限界突破する、
「そんなことが起きるとは驚きだ」

「起きたら素晴らしい」
奇蹟
らしい。
多くの少女漫画で至宝として扱われるだけのことはある。

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そして、知っている人にとっては、とは
「世界のつまらなさや自分の限界を克服出来た証」
である。

逆に、恋を知らないということは、どうあっても
「つまらなくて限界のあるやつだ」
という動かぬ証拠でもある。少なくともそう思われている。

2.だから恋は、他人にフルセットの人間扱いをするかしないかの、マウンティングの道具に使われることになる

「知識や経験がないと土俵が違う。フェアなトレードにならない。恋をしたことがあるかどうかは、その顕著な指標である」

という話は、まあ分かるが、この物の見方、実際には

「フルセットの人間扱いと公正取引は大人にだけ与えられるものだ。
大人になれてないガキは信頼ならないから、人間扱いと公正取引の切れっ端でも食ってろ。
保護してやるんだから、そこら辺は甘受されるべきだ。
そこでぐだぐだと文句を言うガキは、盗人猛々しいから、黙ってな」

という結果を導き出してしまいます。

結論でないところがミソ。
理屈としてはもちろん、こんなもん何一つ成り立ってない。
が、実際多くの大人が、これと同じ意味のことを、大人と認めない相手に言ったりやったりしているのは、まあ観測されるところでしょう。
見てない? じゃあ、
「これは現にある物の見方であり、これが例えば家父長制を支える大きな柱だし、また家父長制もこうした物の見方を維持しがちだ」
ということだけ頭の片隅に入れておいて下さい)

念の為言うと、もちろん、そういう姿勢、本当にやめた方がいいんですよ。

社会における実践上は、確かに
「フルセットの人間扱いは大人にだけ与えられるものであり、ガキは切れっ端でも食ってろ」
にならざるを得ない。
保護とのバーター、明らかに、ある。

が、その姿勢そのものは、傲慢な汚いカネモチのそれでしょう。
そんな大人が
「敬意を持って遇されて当たり前だ」
という話には、まあならないんですよ。

成熟したという美徳を、無礼者という悪徳で、自分でドブに叩き込んで、抜け抜けと敬意なんか期待するなよな。
しかも人に自分の話を聞かせようとするな。
そんな話を真に受けてもらえるだけのソンケイはない。そこにないならないですね。
そらそうよ。自分でなくしたんだから、あったらおかしい。 

3.世界がつまらなくない人や、自分の限界にぶち当たってない人にとっては、「突破するキラキラ」とやらを、評価する謂れがそもそもない

なお、今からサツバツとした話をします。

実は、運の巡り合わせにより、世界がつまらなくない人や、自分の限界にぶち当たってない人というのは、かなりいます。
こういう人たちには、特に必要「は」ない。

あればそりゃ素晴らしいかも知れんが、「ないと経験の足りない無能」という話は成り立たなくなる。
そいつらはそんな経験がなくてもべらぼうに強いからだ。

そこは単純に、スキルツリーの伸ばし方の問題だ。
そこに優劣があると言う話は、一般的に成り立たない。

4.恋の奇蹟で突破しようが、やり残した宿題はそこに残っていて、それらはいつか安住の地の足場を吹き飛ばすし、自分は突破できなくなる

もっとヤなことを言うと、
「片付けておいた方が本当は良かった、人生のやり残した宿題」
というのはしばしばある。
成長したらそこをショートカットできるが、すっ飛ばしたままにして顧みないことを、人はふつうやってしまう。
もちろんこれは地雷であり、いつか安住の地の足場を吹き飛ばすし、何ならある種の経験の構築を永遠に妨げることになる。自分は突破できなくなる。

具体的には、「頭が悪い」「やる気がない」「我慢が利かない」「恨みがましい」と、たいてい人生でひっでえ目に遭うし、現に私は遭ってきたんですよ。
それらは人生のやり残した宿題としてしばしば見受けられる類型だ。
そこは、やり残した人は誰しも、いつかちゃんと落とし前はつけねばならない。

とはいえ、毎回下から積み上げねばならないとも思わないし、埋められる支柱は埋められる時に埋めていけばいいし、それはまあそんなもんだと思うけど。
ぶっちゃけ、ボトムアップの美学に、興味がない。
勝てば官軍、負ければ賊軍、己を知り敵を知れば百戦危うからず。
それで十分であり、美学など勝ってからこだわればええねん。

恋は素晴らしいが、やり残した宿題から逃げないようにしましょう。
やっていきましょう。
それらは、いつか、幸福の絶頂や、そこまで行ってないタイミングで、爆発するのだから。
ふつう、人は、そういうのを喰らって、耐え切ることは出来ないのだから。

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5.つまり…どういうことだってばよ?

恋は出来れば素晴らしいが、出来ない人には出来ない理由がある。
しばしばそれは「恋が必要になるシチュエーションがないから必要ない」というやつだ。
平たく言うと、「世界がつまんなくない」か、「自分に限界がまだ来ていない」かだ。

それを、
「世界がつまんなかったし、自分の限界に打ちひしがれたので、突破するキラキラを欲しがった人」
が、バカにするの、良くないですよ。
これ、要するにニーチェが時々言う、ルサンチマンというやつなのですね。
勝ててない人が、別のところでは勝てたことにして、自己正当化して逆張りでマウントする。これがルサンチマンです。

そういう目で見ると、
「世界がつまんなかったし、自分の限界にうちひしがれていた人」
が、自分たちに
「人生の深みを味わった経験者」
という地位を授けて、
「世界がつまんなくなくて、自分に限界をまだ迎えてない人」
を、
「人生の深みの足りないバカ」
という文脈でバカにする話、これぞルサンチマンそのものになっちゃうんですよ。

ニーチェのこの手の理屈、好きか嫌いかで言えば嫌いで、
「それじゃ強いやつ以外やっていけねえよ」
とか
「この人は『弱いくせにマウント取りやがって』みたいなこと自体が嫌いなんだろうなあ」
というおそろしく冷たい感情が湧いてきてしまうのです。

が、まあ、確かに、マウントそのものは猛烈に不愉快ですよ。
「少なくとも、この人たちが、それを言える立場か?」
みたいな気持ちも、私も人間なので分かる。
善いか悪いかはさておき、人間の実際の社会の成り方としては。

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「自分は世界に適応できないが、理解のある配偶者氏がいてくれたから、それでいいのである」
類型の物語、本屋に時々あるやつだ。
要は、これなんですよ。恋でマウント取っちゃう人。みっともねえ。

このみっともなさは、世界がつまんなくない人や、自分に限界がまだ来ていない人に、
「お前らには、大多数の人が持つ、「つまんなさや限界を突破する、キラキラした恋に憧れる」という価値観がない。だから大多数の発達に共感できない。数の時点で完全に劣る」
という価値観で上書き(マウント!)することで、一応は克服されることが多い。

でもねえ。結局それ、
「自分はみっともなくなくなり、自分は世界に適応できていたと思い込んでいたが、依然としてできない事態にぶち当たる。おかしい。不快感は解決されたのではなかったのか」
という話は、避けられないんですよ。

だって何も問題解決しとらんのやから。
そのための世界への働きかけも、自分の頭と手を動かす実践も、しとらんのやから。

そりゃあ、また、問題は起きる。なくなる訳がない。

何よりこの世界は、どんな役割だろうと、自分で頭と手を動かすことは避けられない。

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6.それでも

それでも。

私も、
「恋が素晴らしいと言い放っている人たち」
が、
「単にトチ狂っているだけだ」
とは、最早思ってはいない。

かつて誰かのたましいが震えたことは、俺も外野の立場から呑気に否定したくないんですよ。
そういう外野ムーブがみっともねえの、当の外野の俺ですら分かる。

そこには実際に、たましいを震わす、何らかの何かがあるのだろう。
きっと、恋は素晴らしいのであろう。

やっていきましょう。

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