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【日記】いまさら見た『万引き家族』の感想(存在の根拠と縁起、または業の肯定)

◆目次
■はじめに
■注意書き
■あの映画のテーマは何だったのか?
■あとがき


■はじめに
今更ですが、先日やっと見ました『万引き家族』
うん。良かった。凄まじかった。

事前に様々なレビュー、批評家の批評も目にしておりました。
偶然TVで見た母からもストーリーをざっくり聞かされておりました。
なんなら約40分におよぶ是枝監督の記者会見も見ました。
慢心相違の完全ネタバレ状態での映画観賞。

なぜ先に映画を見ないのか・・(苦笑)
理由はちっぽけなもんでして、
世間が『万引き家族』の熱にうなされている間は見たく無い。
なんか今じゃ無い気がする・・。
より深く理解したいので、背景など洗い出したかった。
せいぜいそんなところでした。

ただし、上記のようなフライング的な行動には多少言い訳があります。

社会学者であり、映画批評家でもある宮台真司さんのお言葉をお借りしますと、『良い映画というのは、ネタバレしても全く価値は下がらない』

まさにその言葉通りでありました。
また、今回改めてその言葉の重みをいっそう強く実感しました。

なぜ完全ネタバレ状態でも価値が下がらいのか・・・

それはきっと『普遍的なテーマ』を描いているからだと思います。

『万引き』
『家族』

この2つのキーワードから、
なぜ普遍的なテーマについて語る事ができたのか、
ここまで人の心を強く動かし、えぐり、癒したのか。

自分の気持ちの整理を兼ねて、日記にしたためさせて頂きます。


■注意書き
※あくまで『私が感じた事』であり、必ずしも監督の意図ではありません。
※あくまで『私が感じた事』であり、『あなたがどう感じるか』はあなた次第です。
※若干のネタバレはあるかもしれません。(以降注意してお読み下さい)


■あの映画のテーマは何だったのか?
”万引で生活をしのぐ血の繋がらない集団”
彼等を形容するとしたらそんな感じになるだろうか。

では彼等の生活を通して描きたかったのは何なのだろうか。
『貧困』や『犯罪』ではないと感じてます。
またそういった貧困や社会問題に対してメスを切り込む・・
という作品でも無いと思います。

もっと普遍的な何か・・
現代社会において忘れられつつある何か・・
しかし、忘れられつつもちゃんと『そこ』にある『何か』・・

恥ずかしながら、無理して言語化するならば、
『そこ』=社会の外(あるいは法の外)
『何か』=関係性/存在の根拠(仏教における"縁起"のような物)

なのではないでしょうか。

社会の外、あるいは法律の外側にいる人間にしか知り得ない、
自分と他者の関係性から編み出される存在根拠。
ここで言う存在の根拠=生きる理由。生かされてる理由。
と解釈してもいいかも知れません

・・・って自分でも何を言っているのやら。
ただ、自分はあの映画を通してそれを感じました。

※是枝監督さん。
違ってたら勝手な事を言って本当にすいません。


というのも、『家族』という形態は社会共同体の最小単位に近いものかと思いますが、この『家族』という概念が人類史上、意外と曖昧な物なのではないかと考えています。

森から出たばかりの人類は群れのような小さな共同体で過ごしていたでしょうし、群れの中ではオス・メス共に可能な限り種の保存の為に交配がなされたでしょう。

つい100年くらい前までは『ムラ=村』のような共同体で生活しており、村の中では『夜這い』などから生まれた、親が特定出来ない子供を『村みんなの子供』という意味で『ミナコ』と名付けて、村のみんなで育てたという話を聞いた事があります。

社会学や民俗学、人類学に詳しいわけでは無いので独自解釈になってしまうかと思いますが、こういった現代における、いわゆるみんなのイメージする『家族』という概念、特に『血縁による家族=自分の存在の根拠を血縁に頼るしかない共同体』というのはせいぜい、ここ100年程度の概念で本来非常に曖昧で脆い関係なのではないでしょうか。

そこに存在の根拠(生きる理由、生かされている理由)はあったのでしょうか。

しかし人間は悲しいかな『自分の存在根拠』という物を求めてしまう生き物です。

『万引き=犯罪』というのはあくまで『今いる世界の外側』のメタファーであり、万引きだろうが不倫だろうが、会社のルールだろうが学校のルールだろうが、ルールや規程の外側なら本当は何でも良いのかもしれません。
私はそう考えました。

では外側には何があるのか。

そもそも『私・あなた』が『存在』する事に『根拠』などいらない。

それが答えなんじゃないでしょうか。

先ほど例えで使った仏教における縁起は難解で複雑なお話になり、私自身勉強不足である為またまた独自解釈になるかと思います。
縁起が意味するところは原因が在って結果が在る、今の自分の在り様は、過去の自分の行為が作り出している。
それを拡大解釈するとすれば、存在するという事は、全ての物事が互いに複雑に絡み合う事で初めて生ずる(そう見える)一時的な幻想に近いもろい現象で、決して単独で存在し得るものはない。

裏を返せば、自分が存在する事に本来根拠などは無く。
生きる事に根拠や許しなどそもそも必要ない。

『あなた』や『他者』がいて、そこに関係性が生まれるから『私が存在する』だけ。

あの少年にも存在する為の根拠などいらない
あの少女にも、老婆にも、あの幻想の父母も、存在する(生きる)のに根拠など必要はない。

複雑に絡み合い縁起があるだけ。
劇中の表現では『法を犯して互いに助け合う』という生活の中で、縁起があり、お互いの関係を確かめ合う事で自分の姿がぼんやり見えてくる。

彼等を通して、忘れかけていたけどシンプルで大事な事。
誰だって、何の許しも根拠も理由もなく生きてていいんだ。
だから大事な事は、大変だし複雑だけど本当の意味で(時に法を犯してでも)関係性を編み出す事(助け合う事)が重要なんだ。

誰もが大海原を泳ぐ孤独なスイミーなんだ。

そんな強烈なメッセージを受け取った気がしました。

■あとがき
記者会見での是枝監督の言葉で非常に印象的な言葉がありました。

映画を作る際に政治家や官僚の顔を思い浮かべたか?という質問に対して、是枝監督ははこう答えました。
『テレビ(ドキュメンタリー)をやっていた20代の頃に、先輩に(不特定多数ではなく)『誰か一人に向かって作れ』と言われた。母親でもいいし、田舎のおばあちゃんでも、友達でもいい。誰か一人の顔を思い浮かべろと。以来、ずっとそうしています』
その方が人の心に刺さる作品が作れると教えてもらったそうです。

またフランス人のジャーナリストが
『では今回は誰にむけて作品を作ったのか?』との旨の質問をした時に、『いま話しながら自分でも改めてはっきり気付きましたが、あのスイミーを読んでくれた女の子に向けて作りました』そう語っておりました。

ちなみに、『あの女の子』とは、映画撮影の準備段階で是枝監督が孤児院を訪れた際に、『今何を勉強してるの?』と何気なく質問した女の子の事で、初対面にも関わらず快くスイミーを朗読してくれたそうで。その女の子の事なんだそうです。劇中のスイミーもそこから着想を得たとか。

あの映画においてスイミーの存在と、万引きしたのに売れなかった釣竿は、非常に印象に残りました。

助け合うから初めて『自分』でいられる。
また立川談志師匠の言葉をお借りすると『業の肯定』が描かれており、
ずるくて汚くて情けない。けど愛さずにはいられない。
それが人間。
そんな人間への暖かな愛を感じる映画でした。

■引用
▼縁起とは
仏教の縁起は、「全ての物事、現象は、ある原因(因)と、それを助長する条件(縁)によって生起し、相互に関係し合って成立している。孤立して存在するものは、この宇宙に一つもない」という意味です。
https://shimbun.kosei-shuppan.co.jp/buddhism/19857/

▼Youtubeより
日本外国特派員協会会見|是枝裕和監督(映画「万引き家族」)
https://www.youtube.com/watch?v=w0ZvznrGje0

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