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「おばあちゃんの話」4/5 悔いはない。ただ会いたい|公募インタビュー#31

まきさん(仮名) 2021年9月初旬〉

・・・3/5 「1週間」 からの続きです・・・

牧さんは、大好きなお祖母様おばあさまのお話をしてくださいました。お別れから3年が経とうとする今も、寂しくて死を受け入れられないと言います。やさしくすてきだったお祖母様との思い出や、牧さんとのつながりが引き寄せたようなめぐりあわせの数々。時に笑い、時に涙声になりながら語ってくださいました。

土曜日と日曜日 お通夜とお葬式

牧さん お医者さんから月曜日に「いつまでもつかわかりません」って言われた通りに、本当に(数日後の)金曜日に亡くなっちゃって。

 亡くなってからすぐに家に遺体は連れて帰って、次の日の土曜日に通夜して、日曜日の昼間にお葬式でした。それがまたおばあちゃんのすごいところで、親戚みんなびっくりしてたんですけど、もし通夜とかお葬式とかが平日になっちゃったら、よっぽどタイミングよくないとみんな来られない。おばあちゃんは金曜日の夜に亡くなってるから、土曜日通夜、日曜日葬式で、すごい来やすかった(笑)って言って(笑)。遠方の親類も、通夜には間に合わなくてもお葬式には来てくれて。うちの旦那も、ちょうど日曜日まで仕事が休みだったんで、葬式まで出て。その後旦那は飛行機で帰りました。私はもう少し休みをもらって、何日か残って役所を回る手伝いとかしたりして。

 最初帰った時は、まさか死ぬって思って帰ってないし、そもそも飛行機とった時は、おばあちゃんのお見舞いに行くために休みとったり飛行機とったとも思わなかったんですけど、結果的にそうなって。

 なので、通夜とかお葬式に来た親戚も、来る人みんな私がいることにびっくりしてました。私は結婚して遠くに住んでること知ってるから、なんでいるの⁉︎って(笑)。いや、1週間前からいて、ずっとお見舞い来てたって言ったら、みんながみんな、やっぱ、あんたが一番仲良かったし、おばあちゃんもかわいがってたから、呼ばれたんやろね、って……言ってくれて。まあ確かに……そうだったのかなって、飛行機とって帰ろうかなって思ったのも、そういうことだったのかなあとか、後から思うとなんかそういうふうに思えて……

おばあちゃんの「準備」

牧さん お葬式の準備もいろいろ手伝ったんですけど、今どきのお葬式って、始まる前にムービー流すんですよ。人となりとか普段の姿がよりみんなにわかるようにということで、写真をスライドで出していくもので、オプションとかじゃなくて最初からついてて。やります?って言われて、せっかくだからやりたいという話になりました。
 で、そのための写真を、確か最低10枚くださいと言われたんですね。葬儀屋さんが言うには、お年寄りの方って若い人たちみたいに自撮りもしないし、あんまり出かけない人だったらなかなか写真がないらしくて、ありますか?と言われたんですけど、私4年間ずっとおばあちゃんと毎月どっかに行ってたんで、めっちゃくちゃ写真あって、逆にすごいいっぱいあるけど、どれにします?みたいな感じになって(笑)。結局、20枚とか30枚、写真を出した気がします。

 遺影も、普通は直近でちゃんと撮った写真があることは少なくて、写真を引き伸ばしてぼやけてるところを修正したり、着てる服も合成でスーツに変えたりするらしいんです。けど、おばあちゃんは私の結婚式の時に自分でカメラマンさんに言って撮ってもらったやつがあったんで、おばあちゃんが遺影用と言ってたんでこれでいいですかと言って出したら、葬儀屋さんめっちゃびっくりして、こんな画質のいい遺影あんまりないですよって(笑)。

 もう一つびっくりしたのが、戒名かいみょうなんですけど。戒名ってだいたい、亡くなった後にお坊さんが故人の人となりとかを考慮してつけてくれますよね(※様々なケースがある)。なんですけど、お坊さんを呼んで戒名をお願いしますって言ったら、お坊さんが、この人もう戒名ついとるよ、って。どういうこと?って聞いたら、おばあちゃん、亡くなる5年ぐらい前に、老人会かなんかで京都に旅行に行ってたんですよ。で、その時に、確か〇〇寺だったと思うんですけど、一万円ぐらいお金出したら、なんかすごく位が高いお坊さんに戒名つけてもらえるみたいな(笑)プランがあったらしくて、それで戒名つけてもらって持って帰ってきて、それを自分のとこの寺のお坊さんに託して、死んだらこれお願いします、って言ってたって。で、そのお坊さんは、自分じゃつけられんぐらいのいい戒名だって言ってました(笑)。
 
 だから、お葬式代にしても戒名にしても遺影の写真にしても、なんか全部が準備よすぎて、そんなことある?っていうくらいスムーズに進んだお葬式でしたね(笑)。
 おばあちゃんの、先見の明っていうのか、そこまでいろいろ準備してたとは、すごい人だなあって。

──牧さんは、お坊さんに、お祖母様ご指定のお湯呑みでお茶を出せたんですか?(※3/5「1週間」の「水曜日〜」の章参照)

牧さん 出せました。ちゃんと見つけました。

──ばっちりですね。いいお湯呑みだったんですか?

牧さん ああ、そうですそうです。有田焼のいい湯呑みで。その湯呑みって、私の結婚式の引き出物だったんですよ。

──えー!なるほど!

牧さん ただ、引き出物って言っても、全員一律の引き出物じゃなくて、おばあちゃんにはこれがいいかなって個別に選んだ有田焼を贈ってたんですよ。うちだけだと思うんですけど、節目節目で親戚に焼き物を贈る文化があって。
 それで、おばあちゃんには、けっこういい値段する湯呑み、蓋、揃いの柄の急須のセットをあげてたんですよ。それでした。

──病室で言われた時は、あなたがくれたものを出してね、と?

牧さん その時にはそこまで言われず、棚のどこどこにしまってある、灰色の湯呑みと蓋にして、って言われて、フーンとか言ってて何も考えてなかったんですけど、出したらそれでした(笑)。ああ、これかーと思って。

──すごいですね、それも。

牧さん はい(笑)。

おじいちゃんとのお別れ

牧さん おばあちゃんは2018年11月に亡くなっちゃったんですけど、おじいちゃんにはおばあちゃんが亡くなったことを言わなかったんですよ。(気落ちしてしまうだろうから)みんなで言わないようにしようねって決めて、だから誰も言ってないと思うんですけど、おじいちゃん、なんか勘付いちゃったみたいで。(※お祖父様はまだらの認知症だった。参照)

 おばあちゃんが亡くなった後、母の姉が地元に戻ってきてくれて、(おばあちゃんがしていた)おじいちゃんの介護を自分が代わりにするって言って、介護し始めたんですよ。

 おばあちゃんが生きてた時は、おじいちゃん、1日に何十回もおばあちゃんを「かあさん!」って言って呼んでたんですよ。何かあったらすぐ「かあさん!」って。暑い時も寒い時も、お茶がほしくなっても「かあさん来てくれー」って言ってたんですよ。けど、おばあちゃんが亡くなって、それを誰も言ってないはずなのに、叔母さんと一緒に暮らし出したら、ぴたっと言わなくなったって。叔母が、だからわかってるんじゃないかな?って言い出して。えーっ、誰も言ってないのにねーって言ってたんですよ。

 叔母さんがずっと家事したりおじいちゃんの世話を見てくれてたんですけど、結局、おじいちゃんもだんだん弱っていって、ごはんを食べる量がすごく少なくなっていって、おばあちゃんが亡くなった翌年の春に亡くなっちゃったんですよね。

 私、冬に1回、帰ったんですよ。お正月だったと思うんですけど、その時、おじいちゃんがちょこっと入院してたんですけど、けっこう前からしょっちゅう入院しては退院して、みたいな生活だったんで、ああまたおじいちゃん入院したなって感じだったんです。

 その時にお見舞いに行ったら、おじいちゃんはもう目がほとんど見えなかったんですけど、その、目がほとんど見えない、寝たきりのおじいちゃんのベッドのすぐ脇のところに、めっちゃでかい字で「奥さんが亡くなったことは言わないでください」って書いた紙が貼ってあって(笑)。

──おお(笑)

牧さん いろんな看護師さんが出入りするから、たぶん、誰も言わないように看護師さんが注意書きを貼ってくれたんだと思うんですよ。おじいちゃんは目が見えないから、わからないんですけど、それがもう、すっごい笑えて。

──超シュールですね。

牧さん はい(笑)。こんな堂々と書いたらちょっとさすがに、と思って笑えちゃったんですけど。

 でも結局、そうやってみんなが言わないように気をつけてたけど、(おじいちゃんはおばあちゃんの死を)わかってたのかなー、って。すごく仲がいい夫婦だったんで、何も聞かなくてもわかってたのかなって思います。

おばあちゃんの人生

牧さん おばあちゃんの話、もうちょっとしてもいいですか?

──もちろん。

牧さん おばあちゃんはですね、結婚した後はおじいちゃんが転勤族だったんであちこち行きはしたけど、最終的に生まれ育った町に戻ってきて、その町で亡くなってるんですよ。

 おばあちゃんの実家はすごく貧乏だったらしいです。ちょうど若い時に戦争を経験してて、きょうだいも多いし、戦時中は食べものがないので、芋のツルとかカボチャのツルを食べてた、って。
 戦後、おじいちゃんと結婚しました。

 おじいちゃんは長男で、親を戦時中に亡くしていました。おじいちゃんのお父さんは戦争に行って亡くなり、お母さんは病死。おじいちゃん自身も、戦時中に満州に出稼ぎに行ってて、そしたら満州で徴兵されたそうです。ただそれが戦争の終わる7日前で、満州からシベリアへ向かっている時に戦争が終わったんで、急いで日本に帰ってこなきゃいけなくて、おじいちゃんが言うには、万里の長城を超えたらしいです。死に物狂いで帰ってきたら、親が死んでた、と。

 おじいちゃんは長男なんで、弟や妹の世話を見なくちゃいけないんですけど、確か弟妹が6〜7人いるんですよ。おじいちゃんを合わせて8人きょうだいだったかなと思うんですけど、だからその時、一番下の弟とかはまだ赤ん坊だったんです。その全員の面倒を見なきゃいけないから、おじいちゃんもずっと貧乏で

 で、戦後おじいちゃんとおばあちゃんは結婚して、私の母と叔母が生まれたんですけど、ずーっと貧乏で。おじいちゃんはサラリーマンとして働いていて、おばあちゃんはスーツとかジャケットを作る洋裁をしていたそうです。お針子さんを何人も雇って、朝から晩まで、採寸からデザインから縫うのまでやって、働いて。

 うちの母が言うには、おじいちゃんの一番下の弟と母や叔母があんまり歳が変わらないから、本当にきょうだいみたいにして育ったそうです。だから、おばあちゃんはおじいちゃんの弟妹のお母さん代わりで、本当に母さん母さんって言われてて。ずーっとおばあちゃんは苦労して子供を育てたんですね。一番下の弟さんを大学に行かせて、それでやっと生活が楽になり始めたって母が言ってました。子供がみんなそうやって大きくなって、うちのお母さんも大学に行き出してしばらくしておじいちゃんが過労で倒れて、それから半身不随になって、地元に戻ってきた。そしてずーっと40年間介護生活、だったんですね。

 だから、おばあちゃんは苦労続きの人生だったんですけど、それをぐちぐち言ったりとか、すごく大変だったとか言ったりすることはなかったです。おばあちゃんの口からはこんなことがあったとか、貧しかったみたいなことはあんまり聞いたことがなくて、そういう話はお母さんから聞いたんですけど。お母さんは、お母さんがちっちゃい時もおばあちゃんは宿題を見るような暇がなくて全然見てくれなかった、とか、仕事ばっかりしてるから、おばあちゃんは昔ごはん作るの下手であんまりおいしくなくて、とか、お金がないからおじいちゃんが釣ってきた魚ばっかり食べさせられてた、とか(笑)、そういう話をいろいろしてくれたんですけど。おばあちゃんはあんまり言わなかったです、そういうことは。

 何年か前にアニメ映画で『この世界の片隅に』(※)ってあったんですけど、

※こうの史代の同名漫画を原作とする長編アニメーション映画。2016年公開。昭和19年(1944年)に広島市江波から呉に18歳で嫁いだ主人公すずが、戦時下の困難の中にあっても工夫を凝らして豊かに生きる姿を描く。引用:Wikipedia

──見ました。

牧さん 見ました? 私もあれ見て、すごくいいなって思って、2回は一人で見て、3回目に、おばあちゃんも一緒に見に行く?って聞いたんですよ。おばあちゃんは映画とか、私が一緒に行こうって言わないと行かないので、この映画すごくよかったから行く?って聞いたら、おばあちゃん、うーん、どうしよっかなーって言ってたんですよ。お母さんは、おばあちゃん、戦時中はそうやってつらい思いしてるから、見ると思い出しちゃうし見たくないのかもしれないって言ってたんですけど、おばあちゃん、迷ってたけど結局は、行こっかな、せっかくだから、って言って、行ったんですよ。私もお母さんに「おばあちゃんはあんまり見たくないのかもよ」って言われたから、おばあちゃんが見てどう思うか心配だったんですけど、見終わった後、「すごくよかった」って。「昔のこと思い出した」って、それだけ言ってました

──お祖母様が芋のツルを食べてらしたみたいに、映画の中でも食糧のないなか工夫して食べるシーンがありましたね。

牧さん そうですね。戦争映画っていうと、人が死ぬシーンや戦闘シーンがクローズアップされますけど、あの映画は普通の人の普通の生活を書いてるから、私はおばあちゃんがそういうのを見ると思うところあるかなーと思って行ったら、そこがやっぱよかったのかなって。思い出した、とは言ってましたね。

会いたい

牧さん 旦那に聞かれたんですよ。近しい人が亡くなった時に、もっとこうしとけばよかった、ああしとけばよかったって思うことあると思うけど、(牧さんは)もっとおばあちゃんにやっといてあげたかったなって思うこととかある?って。私、それはまったくなくって。
 おばあちゃんのこと、温泉にもいっぱい連れてったし、おばあちゃん見たがってた海にも連れてったし、水族館も行ったことないって言ってたけど連れてったし、映画も見に行ったし、っていろいろ思うと、なんかもう、これ以上やっときゃよかったなってことあんまりないな、って。

──すごいことですね、それって。

牧さん けっこうやり尽くしたな、とは思うんですけど、でもやっぱり、いまだにおばあちゃんが亡くなったことが信じられないっていうか、まだ受け入れられなくて。(亡くなって)3年経つんですけど。おばあちゃん亡くなったあと、最初の半年とか1年とかは、おばあちゃんのこと思い出すだけでめっちゃ泣いてたんですよ。で、あの……その時も、旦那とか親とかにも、結局こういうのは……時間が解決するから、だんだん大丈夫になっていくよ、みたいなことを言われたんですけど、でも3年経っても全然大丈夫じゃなくて。時間が経てば経つほど、やっぱり……今までの人生の中で、いちばん好きだったのはおばあちゃんだったのかな、って。だったんで……受け入れられないですね。なんか、急に亡くなっちゃったし。

──ああ……

牧さん おばあちゃんが亡くなってすぐは、親戚みんな、信じられないって言って。おばあちゃんちに行っても、おばあちゃんがひょって出てきそうな気がする、ってみんな言ってて。ほんと、なんか私、いまだにそんな気がします。

──お祖母様に胸の中で話しかけたりすることってありますか?

牧さん いや、ないです、夢には一回も出てきたことないです。

──あ、夢というか、おばあちゃんにこれ言いたいなーとか。

牧さん ああ、いや、でも、それもない、ですよ。言いたいこととか、やってあげたかったことは、何もないです。でも、会えるんだったら、会いたい……

──会って、何かしたいとかじゃなくて、一緒にいたい?

牧さん そうですね。さっきも言ったんですけど、なんかなんとなーく、本当に、おばあちゃんはずーっと死ぬ気がしないなって思ってたんです。おじいちゃんは物心ついた時から半身不随だし、脳梗塞になったり、心臓も弱かったんでペースメーカー入ってたんですよ。おじいちゃんはあちこち悪くて、すぐ熱も出て、よく入院していたから、おじいちゃんは毎回、死んじゃうのかな?って思うこともあったし、おじいちゃんが死んだ時もわりかし受け入れられたっていうか、心の準備ができてたんですけど。おばあちゃんは本当に、死ぬって思ってなかったから、この人はずっとこのまま一緒にいてくれるのかなって……そんなわけないんですけど……なんか、思っちゃってて……

──今も、悲しい、という感じですか?

牧さん いや、寂しい、ですね。おばあちゃんに会いたいなって思うこと、けっこうありますね。

5/5 私の大好きな人 へ続く)

※インタビューは音声のみの通話で行いました。
※病状などの記述は個人の状態によるものです。万人に当てはまるものではありません。



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