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仕事に愛着を持つべきか?

 通訳案件をお引き受けする中で、「楽しいお仕事」というのはいくつもある。
単発で楽しかったというものから、何度かお引き受けするうちに面白くなってきて、愛着を持ってしまうものもある。楽しいイベントの通訳だったという意味ではなくて、その案件の中でお会いした方々と話すのがとても刺激的だったとか、そのプロジェクトなり会議なりの主旨に共感できたとか、何かを感じ共鳴できる心の余裕がある時にたまたまその仕事と巡り会い、忘れがたい思い出になっているのだと思う。

この仕事を初めてからの数年は、そういった思い出が増えていくことが嬉しく、誇らしく思えたものだった。
 しかし最近になって、それはプロとしてはどうなのだろうかとふと考えてしまうのだ。楽しくて愛着を持てるものがあるということは、そうでないものもあるのか。楽しくない仕事にも同じように向き合えているのか。もちろん楽しかったかどうかは後から湧き上がる感情であり、準備段階や通訳中にその感情を認識しているわけではない。従って、「楽しくないかも・・・」と思って手を抜くことはないはずだ。しかし認識していないだけで、既に感情は生まれているとすれば、無意識のうちに、自分が一歩下がってしまっていることもありうるわけだ。となると、「もしかしてこれは苦手かもしれない」という消極的な感情をわずかでも持ってしまうような思考回路は絶たねばならないし、それが積極的な感情に対して相対的に生まれてしまうのであれば、楽しいという感情も持つべきではないことになる。

しかしそれではあまりにも人生として味気ない。それ以外に、どの案件にも同じ積極性を以て公平にサービスを提供できるようにするにはどうしたらよいのか。恐らく答えは、「どの案件にも愛着を持つ」しかない。前職でお世話になった上司のモットーが「仕事は楽しく!」だったが、部下の前でわざわざ口に出していたのはこういうことだったのかと改めて気づく。

仕事というのは結果を出そうとすればするほど本質的に辛いものである。どれほど憧れてその職についたとしても、やはり薔薇色というわけにはいかない。通訳という仕事も、世の中の多くの仕事とその点は同じである。ただ気の重さを軽減する方法はある。その一つは徹底的に準備をして本番に臨むことだろう。もちろんそれでも歯が立たない場合もあるのだが、準備不足で後悔するよりは、気持ちを切替えやすいように思う。しかし時間は有限なので、どこかで「人事を尽くして・・・」と覚悟を決めることになり、気づけば精神論になっている。しかしそもそも楽しいかどうか、愛着を持てるかどうかはある意味、一過性の思い込みや高揚感なのだから、そこをコントロールしていくのがプロなのだと思う。
というわけで、私は今日も自分で自分をなだめすかし、ご機嫌をとっている。
 

“執筆者:川井 円(かわい まどか) インターグループの専属通訳者として、スポーツ関連の通訳から政府間会合まで、幅広い分野の通訳現場で活躍。 意外にも、学生時代に好きだった教科は英語ではなく国語。今は英語力だけでなく、持ち前の国語力で質の高い通訳に定評がある。趣味は読書と国内旅行。”