2021.8.16 デザイナーの道をずっといきたい
女性 33歳 デザイナー
「出身は台湾です。子供の頃は、人形と遊ぶのが好きでした。紙で出来た着せ替え人形で。市販されているもので好きなものがなかったり、持っているものがボロボロになったら自分で作ったりしていました。人形の絵を描いて、着せる服も描いて。バービー人形で遊んだりもすごく好きでした。
子供の頃は人形で着せ替えをするのが好きだったけど、それを職業にするという考えはなかったです。そもそも、台湾でデザイナーをやることは非現実的な感じがあって。台湾のファッション業界は日本みたいに発達していないんです。日本のファッション業界はオリジナルブランドがたくさんあるじゃないですか。台湾はOEMとかODMがメインになっていて、台湾のオリジナルブランドやデザイナーズブランドはそもそも少なかったんです。台湾でデザイナーをやろうとしたら、環境としては難しい。本当にやりたかったら留学などをするしかなかったです。
恥ずかしいけど、昔、日本のアイドルが好きで。その人達に近づくにはどうしたらいい?と考えて、スタイリストをやろうとしていたんですよ。スタイリストをやろうとしたら服装の勉強をしなくてはいけなくて。高校の時の進路調査で学校からの推薦枠があって、そこから将来のことを考え始めました。
台湾の大学で服装の勉強をしていて、そこから日本を好きになって独学で日本語も勉強していました。大学3、4年の時に家族と相談して、それから日本に来ました。日本語のコミュニケーションは難しい時もあります。専門用語とか、日常会話に出てこない言葉を初めて聞いたら分からないですね。
日本はずっと住みたい国だったし、住みやすい環境だと思いました。留学した時はそこまで深く考えなかったけど、就職して社会人になった時に想像とちょっと違ったなということはありましたね。会社にもよると思うけど、私が新卒で入ったところはコレクションブランドの会社で上下関係が厳しかったです。先輩に雑務をやらせたら怒られたりとか。デザイナー枠はそもそも毎年そんなにとるものじゃないんです。私が年齢が一番下で、一緒に働いている方たちとは年齢が離れていました。最初会社に入った時は、日本の会社の事情も分からなかったし、日本語もそこまで分からなくて何も言えない状況で、2、3年は辛かったです。その後は自分の意見を出せるようになりました。そうしたら上司に「うちはチームだから、あなただけそういう考えがあると(組織が)円滑にまわらない」と言われて。この会社はちょっと無理やな、と思いました。台湾だとそこはそんなに厳しくなくて、手が空いている人が雑務をすればいい話なのに。その時は働き方改革とか言っていたのに、この人は真逆のことを言っている、と思って。
今は転職して、別の会社でデザイナーをしています。今の環境も良いとは言えないけど、これまでの経験もあってキャリアも積んだので、もう少し自分の意見を言えるようになりました。
日本に来て、台湾の友達や家族と離れていて。コロナの関係もあって1年半以上台湾に帰っていないので皆に会いたいです。
旦那は韓国人なんですよ。出会いは日本の大学院で、最初の授業で彼は隣の作業台に座っていたんです。私が日本に着いて2週間経った頃には出会っていて、そのあと1ヶ月後には付き合っていて、そこからずっとです。私の日本での歴史にはずっと彼がいる感じです。2人が出会ったのは運命でした。私が日本に来たのは2012年で、彼はもともとは1つ上の先輩のはずだったけど、2011年に東日本大震災があったから一度休学していて、彼も次の年の2012年に入ったんですよ。その時の席は番号順で、私たちの間に本当は誰かがいたはずだったけど、その人も休学していたんですよ。いろいろ偶然があった。こういうことがなかったら旦那とは普通の先輩として知り合っていたかもしれない。
日本はすごく住みやすくて、しばらくは住みたいけど、死ぬまではいるのかな?という感じで。やっぱり台湾に帰りたいですし、旦那は韓国だから、いつか韓国にも行かないといけないかなという感じです。将来的に、どこにいるのかはなんとも言えない未来です。
デザイナーの道をずっといきたいです。私が作った服が街中などでたくさん見られるようになったらいいな。日本だけでなく、グローバルに他の国の人たちにも見てもらえたらいいなと思います。」
この記事はBE AT TOKYOのプロジェクト、【BE AT TOKYO DIARY】で制作しました。
※感染症等の対策を十分行った上で取材しています。
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