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ラーメンの鬼が託したレシピ。


株式会社サノフード 代表取締役 佐野しおり氏

22歳でシングルマザーとなって、1人娘を育てる。フルコミッションの営業や、化粧品の販売も経験。いずれにおいても高い成績を残し、36歳の時にはエステ(リフレクソロジー)サロンを起業。43歳の時に「支那そばや」の佐野実氏と出会い、再婚。福岡から佐野氏が暮らす横浜に移り、佐野氏をサポートする役割に徹する。佐野氏が他界したのち、佐野氏にかわって代表に就任。佐野氏のお弟子さんとともに、名店「支那そばや」を守りつづけている。

運動神経抜群の少女。

今回、ご登場いただいた株式会社サノフードの社長、佐野しおりさんが生まれたのは1960年。出身は福岡。4人兄弟の長女。

「小さな頃からスポーツは得意」な少女だったそうだ。中でも小学生からはじめたソフトボールで、運動能力が開花する。水泳では県トップレベル。そして、ソフトボールでは中学校時代から注目され、福岡強豪校、中村学園女子に特待生として進学。入学前の春休みから練習に参加した彼女は、いきなりレギュラーに選出されている。

「1年からレギュラーですから、プレッシャーはハンパなかった」と笑う。

ちなみに、のちに結婚される佐野実さんも野球小僧で、一時はプロに憧れていたようだ。

「試合の時はレギュラーですが、それ以外は、ほかの1年生といっしょです」。グラウンドでは球拾いもやったし、先輩の理不尽な指示にもしたがった。

「先輩たちがボールを隠して、困っている私らをみてクスクス笑っているんです」。寮では「マッサージして~」「おなかすいた~」。そのたびにしおりさんは、走り回る。

<成績はどうでしたか?>

「おかげさまで、1年~3年までインターハイにすべて出場しています」。

ソフトボールがオリンピックの正式種目となったのは、1996年アトランタオリンピックから。しおりさんがプレーしていた頃からは、かなり先の話。

22歳のシングルマザー。

高校を卒業したしおりさんは、大学に進むことなく、新たな道を進む。

「父親が亡くなったこともあって、経済的な問題もありましたし、ソフトボールで食べていくなんていう道がなかったですから」。

当時は、今のように女性が社会進出している時代ではない。大学の進学率もそう高くなかったのではないだろうか。

「高校を卒業したあと、アパレルショップに就職します。たいへんでしたよ。女の子っていったって、ファッションとは無縁の世界にいましたからね。でも、たいへんだったけど、ソフトボールの時に比べたら、そんなの、なんでもない(笑)」。

<そちらで3年弱、勤務されているんですよね?>

「そうです。20歳で結婚して、21歳で子どもを産んで、22歳で離婚」と笑う。22歳で、シングルマザー。ただし、ママは強しだ。

「離婚した時の所持金は10万円。家賃2万5000円。敷金礼金を払ったら、残り2万円。笑っちゃうでしょ。それで、1ヵ月、私と子どもが暮らしていかなきゃならない」。

仕事をみつけないといけないわけだが、あかちゃんを抱えたママに、いまのようなサポート体制は整ってはいない。

「10社程度、受けましたが、ぜんぶアウト。今まであまり否定されたことがなかったので、色々な意味でショックですよね。でも、そんなこと言ってられないでしょ」。たまたまチラシでみつけた、ある下着会社に応募。めでたく採用されるのだが。

「採用いただいたのは、3ヵ月経ったらフルコミッションの訪問販売員でした」。

トップセールスと、椎間板ヘルニアと。

「最初の3ヵ月は、固定給だからありがたいなって感じだったんですが、4ヵ月目からはフルコミッションです」。

グラウンドを駆けまわったあの時とは異なる試練がはじまる。

「大型車にのって、『今日はここ』ってエリアにみんなで向かって、到着すると車を中心に四方八方に散らばっていくんです。すごいでしょ」。

<訪問するお宅は決まっていたんですか?>

「手当たり次第にピンポンです。話を聞いてもらいたくても、ドアも開かない(笑)。でも、フルコミだからダメでしたでは済まされないわけですよ」。

当時は、大卒の初任給が12万円程度だった。しおりさんの場合、最初の3ヵ月間こそ月給8万円が保証されたが、4ヵ月目からはゼロか、それ以外か。

「営業って、なに?ってことから始まっていますからね。どうしたらいいか、正直わからなかった」。

ただし、やはり母はつよしである。

「トップセールスの先輩にお願いして3日間、ついてまわったんです。そりゃ、歩くのがはやい、はやい。正直、びっくりするくらい」。

歩いて、ドアをノックしての繰り返し。だが、数は、すべてを凌駕する。

「100軒くらいまわってから、『ここからが勝負よ』なんて、平然というんです。歩くだけなら、私だって負けません。先輩を真似て、4ヵ月目には30万円、その後、70万円になって。おかげさまで、私もトップセールスの1人になっていきます」。

70万円といえば、当時の新卒のおよそ6倍。

「最初はたしかに苦労もしたけど、セールスのこつもわかったし、給料も悪くない。仕事も楽しくなって。10年ほどつづけたんですが、そのあと、椎間板ヘルニアになって、もう動けなくなって。もうこれで人生、終わりかもって(笑)」。

めずらしく弱気になったのは、娘さんが大きくなっていたからだろうか?

「でも、働かないわけにはいかないから、下着の会社を辞めてちかくのドラッグストアではたらき始めます。ストアなら、歩かなくていいですからね」。

こちらのドラッグストアでもすぐに頭角を現した。なにをするにしても、しおりさんは、すぐに才能を開花させる。開花までのスピードもまたハンパない。

「資生堂や花王ソフィーナといった化粧品コーナーを任されるんですが、こちらでもおかげさまで、福岡県でトップになります。もっとも、いくら業績を上げても固定給だから前職の時のようにはいきません。そこがちょっと物足りなかったですね(笑)」。

こちらで6年勤務し、36歳になった時、今度は自身で、エステ(リフレクソロジー)サロンを開業する。

1996年、バブルがはじけた頃。まだまだ女性の社会進出が進んでいなかった頃に、今度は起業家としてデビューする。エステ(リフレクソロジー)は中国西安で習った本格派。

「これが実は、佐野と出会うきっかけになるんです」。

佐野実さんと、タラバガニと。

「結婚なんて頭になかった」としおりさんは言う。生活も安定していたし、ビジネスも起業した。だれに頼ることなく、生きてはいける。だが、人の出会いは、わからない。

「そのリフレクソロジーがある施設内で、久留米ラーメンフェスタを開催される事になり、お手伝いする事になりました。その手伝いが佐野さんのサポートでした」。

佐野さんはもう有名人。テレビで観るイメージと違ったが、眼光はたしかに鋭い。「ラーメンの鬼」という異名もあながち間違いじゃない、と思ったに違いない。

「その会場で、何十人ものラーメン店主達とお酒が入りラーメン談義が始まります。皆ラーメンの話しが止まらず、お酒のピッチも上がりサポートしてる私は大忙しです(笑)」。

ラーメンにどうしてここまで没頭できるんだろう。話の邪魔にならないよう、つぎつぎと、お酒のおかわりをつくった。

「みなさん、お酒を注いでも気づかれません。でもね、佐野だけが、きっちりこちらを向いて、『ありがとう』っていうんですね」。

鬼がお礼を言っている。

お礼は、そのあともつづいた。

「佐野が横浜に帰ってから、大きなタラバガニが二杯、送られてきたんです。福岡の人間ですから、タラバなんて食べたことはなかったんですが、すごくおいしくて、お礼の電話を差し上げたんです。そしたら」。

その時も、むろん、「結婚」は頭になかったが、電話口から聞こえる、佐野さんの真摯な言葉が、しおりさんの胸を打つ。

「佐野から、3回続けて『会いたい』って言われたんです。1回目は『横浜に遊び来ない?』と気楽な感じで。返事を曖昧にしていたら、次は『遊びに来てください』と丁寧なお誘いいただいて。それでも迷っていたら、とうとう最後に『来て頂けないでしょうか?』と(笑)」。

託されたレシピ。

佐野さんとしおりさんは9つ違い。

「すぐに結婚の話になって。でも、私には娘もいたし、母もいましたし、サロンもあったでしょ。だから、福岡を離れられないと思っていたわけです。でも、不思議なことに、娘はすぐにOKしてくれて、母の面倒は弟がみてくれることになって。サロンはスタッフが買い取ってくれることになって。あれ、結婚できちゃうって(笑)」。

佐野さんとの結婚生活は、ぴったり10年とのこと。

10年間、しおりさんは、「ラーメンの鬼」の、一点の曇りもない純朴さに惹かれつづけた。

「繊細で、やさしい人。たぶん、それは、私一人じゃなく、佐野と接した多くの方々がご存じのはずです。ただ、そのなかでも私は飛び切り、繊細で、やさしい佐野と触れ合うことができたんじゃないかなって思っています」。

佐野さんを慕うラーメン店主は、数多い。いずれもラーメン文化をクリエイトしてきた人たちだ。「佐野JAPAN」のメンバーたちは、その一例。

ただ、佐野さんの系譜でなくても、ラーメン店の店主というからには、佐野さんの影響からはのがれることはできないだろう。

「佐野が他界したのは、2014年です。以前からからだが悪いのはわかっていました。もちろん、残念ですが、生涯をラーメンにささげてきた、悔いのない人生だったんじゃないかなと」。

現在、サノフードとエヌアールフードという2つの会社があり、サノフードの代表をしおりさんが務めている。

10年の結婚生活、佐野さんの周りには決まってだれかがいたらしい。佐野さんを慕う人が、360日、佐野さんを離さない。佐野家にはいつも誰かがいたし、外食に行ってもかならず誰かといっしょだった。佐野さんはだれかとラーメンの話をし、食材の話をし、それをしおりさんいつも見ていた。「ただね。1年のうちたった5日くらいだけど、2人になる時間をつくってくれたんです」。

その時、おふたりはどんな話を交わされたんだろうか。ラーメンの話か、それとも。たぶん、しおりさんが喜ぶことを話題になされていたんじゃないだろうか? 佐野さんとはそういう人。

しおりさんあての、最後のラブレターは、完璧なかたちにファイリングされたラーメンのレシピだった。「いつもは鍵付きのカバンに大事にあったのに、私のために整理して残してくれたんでしょうね。つくえの引き出しを整理している時に、みつけました」。

しおりさんが、生涯をかけ守り抜いていかなければならない、佐野さんの生涯と同じ意味と重みをもつレシピだった。

24/06/25
株式会社サノフード 代表取締役 佐野しおり氏

飲食の戦士たちより

主な業態

支那そばや

自家製麺・国産小麦の普及、厳選素材など、いまでは当たり前に語られるようになりましたが、そのパイオニアは「支那そばや」創業者の佐野実さん。ラーメンの歴史書があるとするならば、100年後、200年後に必ず語り継がれる職人です。

https://www.raumen.co.jp/shop/shinasobaya.html

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