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アメリカ仕込みのハングリー精神で商機をつかむ。


株式会社ハミングバード・インターナショナル 代表取締役 青木聡志氏

仙台生まれ、仙台育ち。祖父の代から仙台で飲食業を営む一家の長男として生まれた。大学時代にアメリカに留学するも父の店が債務超過に陥ったことから日本へ帰国、わずか3年で黒字体質に転換させ、それから躍進。イタリア料理から焼き鳥、居酒屋、うどん、ラーメンなど多業態での出店を得意とする。


文武両道なのに控えめな少年時代。

飲食店を経営していた夫婦の3人息子の長男として誕生した青木聡志氏。小学生時代はリトルリーグに参加。4月生まれでほかの子供たちより体格がよかったこともあり、ピッチャーでありながらクリーンナップも任され、チームの主要メンバーとして活躍していた。しかし、骨格が出来上がる前に無理な投球を続けたためだろう。肘を壊したことから、小学6年の夏にリトルリーグ卒業とともに野球の道を断念した。

次に始めたのはバスケットボールだった。身長はそれほど高くはなかったが、持ち前の運動神経でメキメキと上達。入部1か月後にはスターティングメンバーにも選ばれた。続く中学校でもバスケット部に入部し、部活に明け暮れる日々だった。

運動神経抜群で、成績優秀。にもかかわらず、キャプテンなど人の上に立つような性格ではなかったという。当時の友人たちの青木氏評は、『何をやっても卒なくこなすタイプ』。いわゆる、クラスのバランサー的な存在だったのかもしれない。

人生初の挫折。

これまで大きな失敗をすることなく成長してきた青木氏。宮城県で毎年行われている高校入試対策模擬試験では8位という好成績を収め、誰もが彼の希望校入学は確実だと思っていった。同級生たちが志望校のほかに滑り止めを2~3校受ける中、青木氏が受験したのはたった1校だけ。それくらい自信があったのだが……

結果は、『サクラ チル』

人生初の挫折に、おおいに動揺し絶望する青木氏。誰もが彼を気遣い、腫物を触るようだったという。

「結局すべり止めとして受けた私立校に入学しました。あれを受けていなかったらどうなっていたかと思うと、ちょっと怖いですね」。

この時の体験は、少年期の大きな出来事として今でも鮮明に覚えている。

3代目としてとしての自覚。

翻って、家庭での青木氏はどんな子供だったろう。

1957年に、青木氏の祖父が仙台駅前に洋食店を開業。高度成長期ということもあって、店は大いに繁盛した。2代目として家業を継ぐことになった青木氏の父親は、修行先の東京で時流を見る目を養っていく。「この先、仙台でもパスタ屋が流行るはず」と考え、父親(青木氏の祖父)に提案するも、頑として受け付けてもらえなかった。パスタ専門店『ハミングバード』が仙台に誕生したのは祖父が亡くなった2年後の1980年、青木氏が5歳の時だった。

小学生時代の将来の夢は『社長』だったというくらい、家業を継ぐ意識はあったという青木氏。それはなにも家が金持ちで、ボンボンとして育ったからではない。

子供のころの父親のイメージはとにかく『怖い』。怒鳴るし、殴るし、顔つきも怖い。まさにヤクザの親分そのものだ。レストランの経営を巡って、両親はよくケンカをしていたが、子供たちには優しかった。だがその表情はいつも疲れていて、それを見るのは辛かった。

「長男の僕が家を盛り上げなきゃいけないって思ったんです」。

責任感の強い子供だったのだ。

子供に「ヤクザの親分」と評された青木氏の父ではあるが、もともと専守的で先見の明もあり、ここぞという時には果敢にチャレンジしていくような面も持ち合わせていた。親に反対されて叶わなかった自身の留学という夢を、自分の子供には見させてやりたいと思ったのだろう。青木氏がアメリカ留学を希望した時も、すぐに許してくれたという。幸いにも空前の円高時代で、月々の仕送りもしてくれた。

異国で開花したハングリー精神。

大学時代のアメリカでの体験は、青木氏の人生を大きく変えた。黙っていては、誰も話を聞いてくれない。自己主張をしなければ、何一つ物事が進まない。人種や出自に対する差別も平然と存在し、それに対する反発もあった。そんな環境で過ごすうちに、内に秘められていたハングリー精神はどんどん鍛えられていった。

「学校がない日は、朝から晩までアルバイトをしていたんですね。そしたら同僚に『あんたはフルタイムなんだから、この仕事もやらなきゃダメじゃない』って叱られたんです。僕は学生なんだからパートタイムでしょ?って思っていたので、驚きました。アルバイトと正社員って違うと言ったら、『あなたの可能性に自分でふたをしてはいけない』って」。

あの体験がなかったら、今の自分はなかったという青木氏。彼の経営者としての才覚は、アメリカが育ててくれたものだった。

このままアメリカで経験を積んで、将来は経営コンサルタントになりたい……そんな夢を抱くまで成長していた青木氏に、日本の父から国際電話があった。「3店舗の店の経営がどうしてもうまくいかない。帰ってきてくれ」と。

― あの父が弱音を吐いている。何より自分に助けを求めている ―

1998年7月。23歳だった青木氏は、電話を受けたその月内にアメリカを後にした。

経営の手本は一冊の本。

仙台に戻ってみると、親の会社は昔ながらの帳簿付けというアナログさ。まずは現状把握をということで、青木氏は父が購入したばかりだというWindows 98のエクセルに数字を打ち込むことから始めた。

当時3軒あった店のうち、20坪の店の業績はまあよかったが、14坪の店はトントン。元凶は98年に出店したばかりの仙台市一番町のイタリアンだった。70坪もあるこの店の借入金は一億円。オープン当初から閑古鳥が鳴く状態で、父は資金繰りに奔走していた。

右も左も分からないまま一番町店の店長に就任したが、古株の社員たちにしてみれば、社長の息子というだけで未経験の若造がポンと店長になるのは面白くなかっただろう。四面楚歌でのスタートだったそうだ。

青木氏はまずランチメニューに手を付けた。粗利ミックスを用いて目玉商品を開発し、利益を最適化。顧客が買いやすい価格を設定しつつ、原価をコントロールしていった。ランチタイムがうまく回り始めたところで、夜のメニューにも着手。「最初は四面楚歌でしたね」ひと月、ふた月と経つにつれ、その効果は客数の増加という形で表れてきた。

― その見事な手法は、どこで学んだんですか?

「清水均さんの『フードサービス攻めのマネジメント』シリーズです。著者の清水さんにもお会いしたことがありますよ」。

飲食業の経験もなければ知識もない、孤立無援の状態。頼れる知り合いや先輩もいない中で「まず教科書が必要だ」と思った青木氏は、本屋で手に取ったその一冊を繰り返し読み、本に書いてあることを片っ端からやってみた。債務を返済し終えたのは、入社3年目の2001年だった。

リスクを取る勇気が成功を呼ぶ。

2003年、父親の希望でもあった焼き鳥屋『炙屋十兵衛 二日町本店』を開業。しかし青木氏は当初、この店のオープンには反対だった。せっかくイタリアンが軌道に乗り始めたのに、わざわざ新しい業態にチャレンジするのは非効率だ。ましてや二日町は仙台駅からも遠く、周辺にはめぼしい店もない。人流を考えるとあまりにリスクが大きすぎる。

それを聞いた父は、こう断言した。

「(仙台市の繁華街である)国分町にオープンしても埋もれるだけ、店の存在に気付いてもらわないと意味がない。大切なのは、リスク分散だ」。

この考え方が、のちのハミングバード・インターナショナルの基本路線になった。リスクを分散することで、可能性を広げていく。幅広い客層を取り込むと同時に、社内の人的資源も最大限活用していく。もちろん効率の悪さは否めないが、メリットのほうがはるかに大きかった。

『炙屋十兵衛 二日町本店』の成功は、駅ビル地下のレストラン街進出というハミングバード・インターナショナル最大の好機につながった。駅ビルだけあって、家賃はもとより敷金も相当な額で、それこそ清水の舞台から飛び降りる覚悟が必要だった。そんな青木氏に父は「勝負だな」と背中を押し、母は黙って見守ってくれていたそうだ。

自身の商機を見る目を信じた青木氏。その結果はグループで27店舗、年商26億(2024年6月現在)という数字に表れている。

24/07/05
株式会社ハミングバード・インターナショナル 代表取締役 青木聡志氏

飲食の戦士たちより

主な業態

osteria humming bird
炙屋 十兵衛

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