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読書|表紙、むらさきのスカートじゃないよねー『むらさきのスカートの女』

ごきげんよう。社会の水垢です。

今村夏子氏の『むらさきのスカートの女』を読みました。
私はレビューを読んでから本を読むことがほんのたまにあります。この作品を読む前に読んだレビューには「主人公が不気味」だとか「よくわからないけどなんか怖い」だとか書いてあったのですが、私は少し感想が違ったので今回はそれについて書いていこうと思います。


あらすじ

どこにだって、「ちょっと変わった人」は存在します。学校、会社、電車、道端…。大抵の場合、そのような人に注意を向けるのはほんの一瞬だけです。
しかし、本作の主人公である“黄色いカーディガンの女”は違います。近所に住んでいる「ちょっと変わった人」である‘’むらさきのスカートの女”のことが毎日毎日気になって仕方がないのです。黄色いカーディガンの女は、ストーカーじみた行動をして日々彼女のことを考察し、住所を特定し、さらには自分の職場でむらさきのスカートの女が働くように仕向けてしまいます。そしてちゃっかり成功。とにかく彼女とお近付きになりたいのです。まあ、はっきり言ってどうかしていますね。

『むらさきのスカートの女』は、そんな感じで“むらさきのスカートの女”と“黄色いカーディガンの女”それぞれの線が交わる、というか大体の場合一方的に黄色いカーディガンの女が絡みに行く、といった風に進んでいく物語です。

読んで考えたこと

何故「考察」と書かないのか?それは、これが考察ではなく思いついたことを書き散らす備忘録だからです。一般に考察と言われるような順序だって説明されたものは他の記事に任せて、私は好き勝手に書いていきます。皆さんがこの作品を読まれていることを前提に話を進めますのでそこのところはご了承ください。

ちなみに、“一般的な考察”でよく言われているのは、黄色いカーディガンの女=むらさきのスカートの女説(二重人格説)などなど。調べると出てくるので是非。

それでは…レッツ⭐️スターティンッ❣️

①怖いけど、これが人間

むらさきのスカートの女は、黄色いカーディガンの女視点では変人として描かれます。実際、彼女はどこか変わっているのです。毎日毎日公園の同じベンチ(そのベンチはむらさきのスカートの女専用シートと名付けられている)に座っており、それを面白がった子供達の遊びに使われているのですが、全く気にする素振りを見せない。何か人間を惹きつける雰囲気があるようで、近所の有名人なのです。そんな彼女をよく表している場面があります。むらさきのスカートの女が黄色いカーディガンの女の企みで彼女と同じ職場に就職してすぐのワンシーンです。


 どこか抜けている、いわゆる天然な人。それがむらさきのスカートの女が変人と描写される所以です。ですが、彼女は「できない奴」というふうに距離を置かれたり虐められたりすることはなく、どんどん職場に馴染んでいきます。変人として描かれるむらさきのスカートの女ですが、その実態は世の中に溢れている「何処か抜けている愛されキャラ」だったのです。皆さんもこういう人、1人か2人は会ったことがあるんじゃないでしょうか。

対して、黄色いカーディガンの女。彼女は愛されキャラでも、目立つキャラでもありません。それゆえに、愛されキャラで近所でも職場でも目立っているむらさきのスカートの女を僻みに僻みまくります。次に紹介するのは、小学生がタカオニ(高いところに逃げる鬼ごっこの一種)をいつも同じ場所にいるむらさきのスカートの女を使ってやっていたのが、その日は黄色いカーディガンの女だけがその場所に居た、という場面です。

「黄色いカーディガンの女では、彼らのお役には立てないらしい」…彼女は常に、必要とされていないという欲求不満を抱えています。彼女の承認欲求が、現実と噛み合っていないのです。それゆえ、“自分に本来与えられるべき注目”を与えられているむらさきのスカートの女に嫉妬心を抱き、異様なまでに執着しているように思えます。

彼女の執着が見えるシーンのひとつに、「むらさきのスカートの女のために商店街で石鹸を配る」というものがあります。そのシーンをまるまる引用するとなかなか長くなってしまうので割愛しますが、なぜそのような行動に至ったかというと
「むらさきのスカートの女とともだちになりたい!」

「むらさきのスカートの女を自分の職場で働かせて仲良くなろう!」

「そのためには会社の面接受からなきゃな…でもむらさきのスカートの女は髪がボサボサで外見が良くないから落ちちゃうかも!」

「よし、商店街で石鹸を配る人に見せかけてむらさきのスカートの女に石鹸を渡そう!そうしたら彼女の髪の毛が綺麗になる!」
という訳です。結局、商店街の人に見つかって退散しますが…。
とにかく凄い執着心。狂気を感じますね。 

むらさきのスカートの女のようなどこか抜けている愛されキャラは、この世界に沢山いるということが明らかです。変人のように見えるけど、ちゃんと社会に馴染むことができる。
では、黄色いカーディガンの女のような人は?
彼女のような行動をとる人は、多分、全くと言って良いぐらいにはいないでしょう。ですが、彼女と本質的には共通している部分がある人は、ある意味むらさきのスカートの女よりも沢山いると思います。「誰かに自分を認めて欲しい」「自分を見て欲しい」「皆んなに構われるあの子が気に入らない」…。ネット社会になった今、「承認欲求が満たされていない人」というのはより多くなったのではないかと思います。ネット(勿論noteも)はハートの数で承認欲求を満たす世界。ハートで自分を満たそうとするので、無限に広がっているネットの世界ではいつまで経っても満足できない人ばかりです。自分の心が“ハート”に乗っ取られて、他人の力でしか満足を得ようとしない。いずれその考え方は現実にも及んでくるーーそれをnoteで言うのもおかしな話ですが、まあとにかく「むらさきのスカートの女」はそんな現代人のフラストレーションのメタファーなんじゃないかな、と思う訳です。
こう考えると、レビューで聞こえた「主人公が不気味」「なんか怖い」といった声も、なかなか面白く聞こえてきます。多分、彼らはレビュー以外にもネットを使っているでしょうから、きっとネットの世界での承認欲求を抱えていることでしょう。そんな自分の承認欲求を『むらさきのスカートの女』という作品、或いは黄色いカーディガンの女という存在を介して「不気味、怖い」と言っているのです。もし、今私が考えたようなことを作者の今村氏が考えていたとしたら、レビューのような声を聞いて
_人人人人人人人_
> 大成功だぜ <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄
と思っているでしょう。(そんな人じゃない)
現代人の承認欲求の恐ろしさを作品を介して提起しようとした物語、それが『むらさきのスカートの女』なんじゃないでしょうか。

②表紙が「むらさきのスカート」じゃないうえに足が4本ある件

これは、色々な解釈が浮かびましたが、ひとつだけ話させてください。

表紙の絵は、スカートというよりも大きな布に見えます。それを2人の人間が被っているような…。では、その2人とは誰か?
黄色いカーディガンの女とむらさきのスカートの女?黄色いカーディガンの女と権藤(黄色いカーディガンの女と同一人物だが名前を分けて描かれる人物)?或いは、「物語」と「読者」?
綺麗に揃えられた足と少し脱力感のある足は、我々の想像を掻き立てます。「足と、そのちょっとの違い」そして「水玉模様の布」しか情報がないからこそ、何かしらの意味があるのではないかと勘ぐり、色々と考えてしまうのです。この状態、まさに「黄色いカーディガンの女」なのではないでしょうか。「むらさきのスカートの女」のことなんて元々はほとんど知らないのに、知らないからこそどうにかして知ろうとしてしまう。元々知っていたらそんなに知りたがらないですからね。そうやって知ろうとしているうちに、断片的な情報で「むらさきのスカートの女」を作り上げ、自分との違いで僻んでしまうのです。我々も、断片的な情報で「偶像」や「虚構」を作り上げているのではないか…。そんなようなことを表紙を介して伝えようとしているのだとしたら、面白いですよね。

まとめ

『むらさきのスカートの女』という作品は、得体の知れない不気味さがあります。しかし、その不気味さの正体は現代人独特の「認めてほしいのに認めてくれない」というフラストレーションだったのかもしれません。作品(そして表紙)を介して、現代に生きる我々固有の価値観を教えてくれる『むらさきのスカートの女』。ーーこのように一方的に解釈することも黄色いカーディガンの女が「むらさきのスカートの女」を作っているのと同じようで、それもまた面白い、というか複雑な感情にさせてくれますが。

評価依存の世の中を俯瞰して見て、そこに内包される狂気じみた価値観を描くことで、我々に気付きを与えてくれる本作。是非、お読みになってみてはいかがでしょうか。

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それでは。👋

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