この感情は、いったいどこから 湧いてくるのか。 このようなことを考えたくなる 何とも言えない、気持ちの悪い 感情が湧いてくることがある。 自分の中に、このような憎悪に 満ちた、狂気をはらんだ感情がある ことに驚くわけである。 このような感情が湧いてきたときには、心の穏やかさは、 一瞬でなくなるのである。 恐怖の念が、心を支配するのである。 だから、このような気持ちになった時は、感情の源を探るのである。 すると、感情の源は、両親や兄弟姉妹との魂のルーツにあることがわ
みんな集ってほん気できけよ まづ第一に毎朝起きたら あの高い天を見たまへ お天気なら太陽 雨なら雲のゐる処だ あそこがみんなの命のもとだ いつでもみんなを見てゐてくれる お先祖さまだ・・・・・・ えらい人や名高い人にならうとは決してするな 持って生まれたものを深くさぐつて強く引き出す人になるんだ 天からうけたものを天にむくいる人になるんだ それが自然と此の世の役に立つ ~高村光太郎「少年に与ふ」より~ 大事なことは、「もって生まれたものを探ること」であり、「天から受けたも
誰しも、人生を貫くキーワードが ある。 「世界を舞台とする」 「誰もやらないことをやる」 「人の心に灯をともす」 自らの人生を貫くキーワードをたどると、この三つの言葉に至るのである。 こういった仕事、事業、活動を やりたかったのである。 それゆえ、このようなことに挑んで いる人に興味が湧いたのである。 このようなことを成し遂げた人を みると、心熱くなったのである。 そして、仕事や事業、活動の目的は、「世界平和の礎」となることでならねばならなく、かつ「日本人の目覚め
これまで30年以上にわたり、教育を 生業として、生きてきたのである。 教育の何が好きなのかを考えてみると 「他人の心に灯をともすこと」が、 好きだったわけである。 「心に灯をともっている」とは、 「目標や目的に向かって、困難を恐れることなく、勇んで前進している」という状態のことである。 自らの教育実践を通して、誰かの心に灯をともすことができた時、その瞬間が、至福の喜びだったわけである。 この「誰かの心に灯をともす」ために、一番大事なことは、「自分の心に灯がともっている
内観の目的は、どんな逆境にあっても、感謝報恩の気持ちで、日暮しできる。そういう心に大転換することです。いかなる境遇にさいなまれても、「ありがたいなあ」「幸せやなあ」と受け取れる心境になる方法が内観です。他の人から見て、「あの人は、かわいそうやなあ。気の毒な境遇の人やなあ」という立場であっても、喜んで暮らせる、そういう精神状態に転換すること。どんな地位、境遇、立場、状況にあろうとも、「ありがたいなあ、わしみたいな悪い奴が、今日も元気で達者に、こうして暮らさせてもろうて、幸せやな
人生は、何かと問われたら、 「本当の自分を思い出すための旅」と答えるわけである。 では、「本当の自分とは何か?」と問われたら、「自分の原点」と答えるのである。 「自分の原点は、どうやって発見できるのか?」と問われたら、 「自分の原点は思い出されるもの」と答えるのである。 では、「自分の原点をどうやって思い出すのか?」と問われたら、 「自分から離れること」と答えるのである。 「自分から離れることとはどういうことなのか」と問われたら、 「利他に生きることであり、誰かの
命を懸けるとは、物事に全生命を 打ち込む。 命がけで物事をする。 また、命をあずけてたよる。 生死を任せることをいう。 「志を得ざれば二度とこの地を踏まず」 野口英世の生家の柱に彫られた言葉である。 ウガンダに赴任する18年前、ここを 訪れ、この言葉が胸に刻まれたので ある。 自分も同じ心境だったからである。 日本に家族を残し、職を辞して赴任するウガンダでの国際ボランティア活動に、どれほどの意味と価値があるのか。 あの時は、まったく説明が、つかなかったのである。
「人生二度なし。これ人生における 最大最深の真理なり」 「人生というものは、限りあるものであり、しかもそれは、二度と繰り返すことのできないものです。してみると、そこに許された人生の真の生き方というものは、この限られた年限を、いかに深く生きるかということの外ないわけです」 「人生を生きることの深さは、実は 人生を知ることの深さであり、人生を内面的に洞察することの深さと申してもよいでしょう。」 「求道とは、この二度とない人生を いかに生きるかという根本問題と取り組んで、つね
そもそもこの世の中のことというものは、大抵のことは多少の例外があるものですが、この「人生二度なし」と言う真理のみは、古来只(ただ)一つの例外すらないのです。 しかしながら、この明白な事実に 対して、諸君たちは、果たしてどの程度に感じているでしょうか。 すなわち自分のこの命が、今後五十年くらいたてば、永久に消え去って、再び取り返し得ないという事実に対して、諸君たちは、果たしてどれほどの認識と覚悟とを持っていると言えますか。 諸君たちが、この「人生二度なし」という言葉
生というのは、本来は、天地の 大徳、無限の生成力をいう。 「生生不息」とも言うように、流転しながらも、絶えず新しい生として更改し、発展してゆくということでありますから、ここでは、絶対の死というものは考えられない。 種子によって連続する草木の生の ごときものであります。ところが、 命の場合はそうではない。命を持つ者は限られている。 生ある者すべて命を持つとは言えないのであります。少なくとも、文字の上から申しますと、草木には生がある。しかし、草木に命があるとは言えないのです。 命
「満身創痍に、縦横無尽に受けた人生の切り傷を通じて、つかまれた真理でなければ、真の力とはなりがたい」 森信三 真理をつかみたかったのである。 本当のことを知りたかったのである。 人生についての原理原則、根本原理を知りたかったのである。 であるのに、傷つくのを恐れていたのである。 できれば難なく、できるだけ無傷で、真理を獲得したいと考えていたので ある。 あら
「日本の学問というのは、感動が 土台なんだよ。真理は感動によってのみ授受される」森信三 真理、すなわち本当のこととは、 感動することによってのみ、 初めて伝わるのである。 頭でわかるのではなく、腹落ち するのである。 では、「感動とはどうやって味わう ことができるのか。」を 考えるわけである。 それは、「何かに無我夢中、 一心不乱にのめり込むこと」と 考えるのである。 そして、「絶体絶命、茫然自失の 状況になること」 これが、絶対必要条件と考える のである。 そし
「広大な海を見渡すことを考えてみてください。腕を伸ばして、海の水を手ですくい取ってみてください。手を挙げる瞬間、指から水があふれ落ちるでしょう。その水は、人間の一生です、生まれてから死ぬまで~それはまるで手と指の間からこぼれ落ちてすべてを失う。この世では尊いものだとしても、すべて同じ運命です。しかし、 私が命をかけて、神の国を語る理由は、神の国は、海全体のことを指しています。人々は、ただ、その流れる水、1コップ少量を得るために生きて いる。 イエスキリストに聞き従う者は、 少
映画「クロスロード」は、理想でも、きれいごとでもない。リアルな青年海外協力隊を描いた作品である。 カメラマンの助手になったものの、 目標の見えない日々を過ごしていた 沢田は、自分を変えようと青年海外協力隊に参加したのである。 ある日、現地に住む少年ノエルと 出会い、沢田は、彼に写真のとりかたを教える。 その熱心な姿をみて、ノエルの 姉アンジェラは、「なぜ弟に写真を 教えてくれるの」と、尋ねるので ある。 「それは、俺に似ているから。俺も父親が死んで、貧乏だった。でも、
自信とは、自分の価値・能力を信ずること。自己を信頼する心のことを いう。 それゆえ、自信がつくのは、他に 秀でた成果を出したり、価値ある 目標を実現したり、そのような 経験が必要と考えていたわけである。 しかし、今あらためて思うに、奈落の底に落ち、そこから這い上がる。 そのプロセスにこそ、本当の自信が 芽生えるのだと考えるわけである。 なぜならば、どん底に落ちることで、これまで見えていなかったことが見えてくるからである。 七転八倒の苦しみの中で、これまで 当たり前と考
「心を燃やした夢はいつまでも 終わらない 」 ハウンドドッグ ~ 「アンビシャス」より ロサンゼルス-ドジャースの大谷翔平選手がフォローしていると話題となっているウガンダのカスンバ選手。孤児である彼に野球を指導してきたのが、 センパ-ジョン-ボスココーチ。 私の教え子でありました。 「心を燃やした夢は、いつまでも終わ らない 」 このことを実感しており ます。