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死後にも生きる

そもそもこの世の中のことというものは、大抵のことは多少の例外があるものですが、この「人生二度なし」と言う真理のみは、古来只(ただ)一つの例外すらないのです。

 しかしながら、この明白な事実に
対して、諸君たちは、果たしてどの程度に感じているでしょうか。

 すなわち自分のこの命が、今後五十年くらいたてば、永久に消え去って、再び取り返し得ないという事実に対して、諸君たちは、果たしてどれほどの認識と覚悟とを持っていると言えますか。

 諸君たちが、この「人生二度なし」という言葉に対して、深く驚かないのは、要するに、無意識のうちに自分だけはその例外としているからではないでしょうか。

 要するにこのことは、諸君たちが
自分の生命に対して、真に深く思いを致していない何よりの証拠だと言えましょう。

 ところが諸君らは、平生何か自分の好きな物、たとえば菓子とか果物などを貰ったら、それのなくなるのが、いかにも惜しいと思うでしょう。

 そして少し食べては、「もうこれだけしかない」とか「もうこれだけになってしまった」などと、惜しみ惜しみ食べることでしょう。

 私達は、菓子や果物のように、食べてしまえば、ただそれだけの物に対してさえ、なおかつそれほどの惜しみをかけているのです。

 否、うっかりすると、そのために
兄弟喧嘩すら起こしかねないほどです。

 しかるに今この世において、最も惜しまねばならぬ自分の生命に対しては、それほど惜しまないと言ってよいのです。

 おそらく諸君たちの若さでは、今後自分は一体何年くらい生きられるものかなどということは、一度も考えてみたことさえないでしょう。

 しかしながら、今自分の生命の意味を考えて、この二度とない人生を、真に意義深く送ろうとするならば、諸君らの生活も、おのずとその趣を異にしてくることでしょう。

 すべての物事を粗末にせず、その
価値を残りなく生かすためには、
最初からそのものの全体の相を、
見通してかからねばならぬと思うのです。

 したがって今この二度とない人生を、できるだけ有意義に送ろうとすれば、われわれとしては何よりも
まずこの人生が二度と繰り返し得ないものであり、しかも自分はすでに人生のほぼ三分の一とも言いうべき二十年近い歳月を、ほとんど無自覚のうちに過ごしてきたということが、深刻に後悔せられなくてはなるまいと思うのです。

 われわれは、わずか一日の遠足についてさえ、いろいろとプランを立て、種々の調査をするわけです。

 しかるにこの二度とない人生については、人々は果たしてどれほどの調査と研究とをしていると言えるでしょうか。

否、それどころか、この「人生二度なし」という、ただこれだけのことさえ、常に念頭深くおいている人は、割合に少ないかと思うのです。

 かくしてわれわれが、人間として
この世に生まれてきた意味は、この肉体が朽ち果てると同時に消え去るのでは、まだ十分とは言えないと思うのです。

 というのも、この肉体の朽ちるとともに、同時にその人の存在の意味も消え去るというのでは、実は肉体の生きている間も、その精神は十分には生きていなかったという、何よりの証拠と言ってよいでしょう。

 こう考えてきますと、諸君らは生まれて二十年、今こそここに志を立てるべき時です。

 だが諸君!

 諸君らは、誓って死後にも生きるような人間になろう、という大志を立てたことが果たしてあると言えますか。

 しかしこのような志が真に確立しない限り、諸君らは真に深く自分の生命を愛借するとは言えないでしょう。

 何となれば、真の精神は不滅であり、いかに凡人といえども、その生涯を深い真実に生きたなら、必ずやその死後、何らかの意味でその余韻を残しているからです。
森信三「修身教授録」より

 これは、これから小学校教師となる学生に向けた修身の講義である。

「人生二度なし」だからこそ、
「志を立てる」のである。

その志とは、「死後にも生きるような人間になろう」という大志である。

このような大志が確立しなければ、真に深く自分の生命を愛借するとは言えないのである。

たとえ凡人といえども、その生涯を深い真実で生きることができたならば、何らかの意味で、その余韻を残すものだという。

40歳の時、この言葉に出逢い、
自らの大志を追求し始めたわけで
ある。

そのプロセスにおいて、自分の中に、たくさんのご先祖の人生が、
生きていることに気づいたので
ある。

「死後にも生きる」とは、
こういうことだったわけである。

やがて自分なりの大志が確立した
のである。

それもこれも、自分の中に、
森信三の言葉が生きていたからで
ある。

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