人に「ふれる」関係の豊かさ|稲見昌彦×伊藤亜紗対談シリーズ 第1話
技術と社会のミクロな出会い
伊藤 今日は自在化身体のことを、社会とか倫理などと絡めながら考えると伺っておりまして、人文系の研究者として、そのあたりに注目しながらお話ししたいと思います。
私自身のバックグラウンドは美学という学問です。学生時代、最初は生物学系の学科に所属してたんですが、文転をして美学を専攻しました。美学は哲学のきょうだいとよくいわれて、哲学と同じように基本的に言語を使って分析をします。ただ、哲学が「時間とは何か」とか「存在とは何か」とか、問いも言語で立てるのに対して、美学は言語に対してちょっと疑いを持っているんですね。人間がやっていること全てを言語ではいえないですよね、というところから出発しているんです。
美学の対象は、人間の感性であったり、身体感覚であったり、芸術作品を鑑賞したときの感じとか、すぐには言葉にしにくいものです。それらを、あえて言葉を使って分析する。それによって、感覚自体の解像度も高まるし、言語の方もどんどん繊細に使えるようになってくる。ちょっと相性が良くないものを出会わせるような学問で、そこが哲学と違うかなと思っています。
美学はヨーロッパで18世紀中ごろに生まれたといわれます。個人的に面白いなと思っているのが、18世紀って、それまで職人たちが本当に内輪で、言語だけで伝承してきた様々な技があって、その技を一般の人にも分かるように民主化しましょう、という時代だったんですね。例えば、パンをどうやって作るのかとか、チーズをどうやって作るのかとか、動物の皮をどうやってなめすのかとか。そうした1つひとつの技術や概念を、何十巻もの書籍にまとめた『百科全書』がヨーロッパで流行していたころなんです。
それまで身体と一体化していた様々な技術が観察によって民主化していく過程で、美学という学問が誕生した。いわば、言語化されていなかったものを言語化するツールの1つとして生まれてきたわけです。そういった(美学の)役割は、現代でもいろいろなところで必要かなと思っています。
私自身は、いろんな障害を持った方たちの体について、そのような(言語化する)ことをしています。例えば視覚障害の方が、視覚を使わないでどう世界を認識しているのかを調査して、視覚を持っている人でも何となく想像して分かる形に変換していく。主観的なものを一般化していくような仕事をしています。
テクノロジーと社会の関係を考えるときには、2つの方向性があると思っています。1つはマクロな視点。法律とか、社会制度とか、インフラとか、流通とか、教育とかいった社会全体の仕組みと、テクノロジーの間にある問題を考える視点ですね。一般にテクノロジーと社会というと、ほとんどこっちかなと。つまり、技術があって、それを社会実装するときに、どういう壁を越えなきゃいけないのかという視点が多いと思うんです。
でも私は、もう1つの視点、ミクロな視点がむしろ重要じゃないかなと考えています。社会ってどこに存在するのかといえば、それ自体の実体はないし、制度とかで決められているものだけじゃない。人と人との出会い方とか、人と機械の出会い方とか、一回一回の具体的な出会いに、まさに社会性が生まれるんだと思うんですね。その意味で、すごくミクロな視点で、身体的なものと社会について「個別」を通して考えたいなと思っています。今日もそういう観点からお話しします。
伴走はなぜ楽しいか
伊藤 私がよく出す例が、視覚障害者の伴走です。視覚障害者が走るときには、短距離でも長距離でも必ず晴眼者が伴走者として付きます。そこでロープを使うんですね。テクノロジーとしては最小限ですが、ロープを輪っかにして両側を晴眼者と視覚障害者が持って、手の振りをシンクロさせてずっと走るということをします。
物理的に視覚障害者と伴走者が一緒に走ることを可能にするロープは、実際には単に2つの体をつなぐだけではなくて、すごく細かい情報の回路みたいになっている。例えば、長いこと伴走をしてもらっている視覚障害の方は、「調子がいいと走路が見える」というふうにおっしゃいます。生理的に視覚はないんですが、見える感じがする。例えば坂があったとすると坂が見える。
なぜかといえば、伴走者が坂を見たときに「わあ、坂だ、緊張する」みたいな体の反応があって、それがロープを介して視覚障害者にも伝わっていく。そうすると「ああ、坂なんだな」と分かる。こういうことが細かく細かく積み重なって、バーチャルリアリティのような感じで、視覚障害者にも走路が見えたりするわけです。
走路が何となく見える中で走るのと、何も分からないで走るのじゃ全然違います。感覚的な経験はもちろん、社会性も違うと思うんですね。つまり伴走者との関係が、まるで変わる。これは伴走者の方の言葉ですが、「伴走してあげる」とか「してもらう」という関係じゃないんだと。一緒に走っているんだというふうにおっしゃいます。
実は、伴走するのってすごく楽しいんです。伴走をやっている「バンバンクラブ」というサークルがあって、晴眼者にものすごい人気がある。何でかっていうと「してあげる」じゃないからなんですよ。一緒に走る経験には、自分一人で走るのとは全然違う面白さがあります。伴走しているときの方がタイムも良かったりする。
障害者と介助する人の関係を考えたときに、一方的に「してあげる」「してもらう」だと、お互いやっぱりしんどいんですよね。ところが、ロープを介して視覚障害者にも走路が分かる、それどころかお互いの体の情報が完全に開示されたような状態になる。本人も意識していない体の緊張まで伝わってしまう。「伝える」じゃなくて「伝わっちゃう」という、完全にオープンな体の状態(の交流)が何時間も続く中で生まれるお互いの関係は、「介助する」「される」とは違う社会性、人間関係を作り出している。このことからも、やっぱり物理的な仕組みの中に生じる社会的なものって、すごく重要だと思います。
「さわる」は伝達、「ふれる」は生成
伊藤 こうした関係では、触覚がすごく大事かなと思っています。この1~2年、触覚に生じる人間関係についてよく考えているんですが、いつも手掛かりにするのが日本語には「touch」に相当する言葉が2つあることです。「さわる」と「ふれる」ですね。
「さわる」は、接触しようとする側が一方的に接触することです。それに対して「ふれる」は、接触しようとする側が、接触される人の反応を見ながら、自分の接触のパターンを微調整していく。行為と感覚が連動しているのが「ふれる」なんですね。「さわる」は行為だけ、自分の動作だけがあって一方的なんですけど、「ふれる」は受け取りつつ行為するという連動が、リアルタイムで調整を生み出している。
分かりやすいのは「傷口にさわる」と「傷口にふれる」でしょうか。「傷口にさわる」といわれると、一種の攻撃性を感じてちょっと手を引っ込めたくなるんですが、「傷口にふれる」といわれれば、ちょっと痛いかもしれないけど我慢しようかなという感じ。どこか双方向的なんですね。この違いは、結構、微妙なんですけど大事だと思います。
この2つをコミュニケーションのレベルで捉えると、「さわる」は一方的なので、発信者の中にメッセージがあって、それを受信者に一方的に伝えるという、伝達的なコミュニケーションなんですね。(シャノンの情報理論のような)伝統的なコミュニケーション理論は、このような伝達モードを想定したものが多いと思います。
これに対して、最初からいいたいことがあって伝えるんじゃなくて、食事中の雑談など、お互いに接触する中でメッセージが生まれてくるようなモードがあります。生まれてくるという意味で、生成モードと呼んでいます。お互いの役割が明確じゃなくて、発信する側も受け取っているし、受け取る側も発信している。(「ふれる」のように)お互いの接触の中でつくられていく、そういう人間関係ですね。
伝達モードはすごく上下がはっきりしているけど、生成モードは割と水平的な関係です。こうした社会的な関係が、(「さわる」のような一方的な)運動だけなのか、それとも(「ふれる」や伴走のように)感覚と運動が連動しているのかという、(コミュニケーションの当事者の間を取り持つ)インターフェースをどうデザインするかで変わってくるのは、すごく面白いなと思っています。
触覚が媒介する社会性
伊藤 稲見さんの同僚の熊谷晋一郎さん、脳性まひで身体の可動域がかなり制限されている方と、砂連尾理さんというダンサーが、棒を使ってコミュニケーションするワークショップをやったことがあります。2メートルぐらいの木の棒を、熊谷さんは手の甲で、砂連尾さんは手のひらとかでつっかい棒みたいにしながら、お互いコミュニケーションを取り合ったんですね。その後で2人がどんな感想をいったかというと、(相手が)全く別人に見えると。
熊谷さんは、視覚的には身体の可動域が狭いように見えるんですが、(動きを)棒に限定して触覚的なコミュニケーションに置き換えると、ものすごい活発で、割と攻めてくる感じの人に見える。一方で熊谷さんは「砂連尾さんの材質みたいなものが伝わってくる」とおっしゃいました。とても面白い表現ですが、恐らく本当の体の硬さとかではなくて、棒で押したときに、例えば10押すと13返ってくる人と、5しか返ってこない人がいる、その返り方みたいなことだと思います。物理的なものと人間関係的なものの両方を指す言葉でしょう。
この棒を介して、触覚面でお互い感覚しながら運動する。それによって、私たちの生活ほとんどに関わる視覚的な人間関係のルールと全然違う、触覚的な人間関係や人格が生まれている。特に、障害を持っている人の生活では触覚的なコミュニケーションは重要で、健常者ももっとそのチャンネルを使うと、実は違う社会性がつくれるんじゃないかなと。
その典型的な場面がケアだと思うんです。また熊谷さんから引用すると、リハビリとか介助をする人が伝達モードだと、介助される側からすると単純に怖いんです。一方的に「立ちますよ」「はい、どうぞ」みたいな感じだと、やっぱりすごい怖い。「今日の調子どうかな」とか、「ここで体重一気に運ぶと怖いかな」とか、ちゃんと読み取ってくれる感じが行為の中に含まれていると、介助される側としても、とても安心なんですね。自分からのサインを聞いてくれる。
これちょっと微妙で、聞きすぎても面倒くさいと思うんですよね。いいあんばいが必要で、感じることと行為することがちゃんと連動している人間関係が、一番安心できるかなと思います。
体を空っぽにする技術
伊藤 感じながら運動する場合、すごく大事なのが「余白」です。いろんな障害を持っている方は、ほかの人の能力をうまく取り込んで自分の行為を完結させる力がすごく高い。そういう人は、余白の作り方がうまいんですね。いわば、自分の体に余白をつくって、相手を呼び込んで行為するみたいな。
例えば盲導犬と外出するとき、盲導犬が歩行して、それに視覚障害者が付いていくイメージがあると思うんですが、13年ほど盲導犬と一緒に生活された方に聞くと、そんな単純な話ではない。「とにかく意識して、盲導犬のハーネスを持っている手をボーっとさせておくのが重要だった」とおっしゃいます。
盲導犬ってペットとは全然違って、基本、ハーネスは引っ張らないんですね。何で手を「ボーっと」させておくかというと、自分の能動性を発揮してしまうと、盲導犬からの情報が入ってこなくなっちゃう。そこを空っぽにしておくことで、盲導犬がちょっと顔の向きを変えたりすると、その変化がハーネスを伝わって自分の中に入ってくる。さっきの伴走のロープと同じで、相手が伝えようとしていなかった情報までちゃんとキャッチするためには、自分の中に、ボーっとしておく、能動性を発揮しない意識が必要で、そうすることですごく情報が増えるんですね。
この方の盲導犬は1年ぐらい前に亡くなったんですが、片手をボーっとしておく習慣がずっと残っていて、しばらくは白杖をちゃんと使えなかったらしいです。そのぐらい体の半分を盲導犬のために使っていたっていうんでしょうか。
分身ロボットも、体を空っぽにする技術の1つかなと思います。この1年半ぐらい研究で使っていますが、現場の人たちの振る舞いが面白いんですね。最初はみんな、中にAIが入っていると思うんですけど、そうじゃなくて「遠隔で人間が操作してるんですよ」といわれると、みんな急に扱いが変わる。手を振ってみたりとか。生身の人間を相手にした現場の人の行為が、すごく引き出されるなって思うんですね。そこに、社会性も引き出されてくる。
例えば、とあるイベントで現場の音声さんが分身ロボットにジャックを挿すときに、本当に申し訳なさそうに「すいません、失礼します」みたいな感じでやるんです。そういうふうに現場の人が、生身の人間として分身ロボットを扱うことで、遠隔で操作している方(パイロット)にも、「その場に行ってる感」をつくるんですね。本当にロボットとして、物体として扱ってしまうと、そういう感覚を持てないんです。社会的な関係が感覚的な質を変えることがすごく面白いなと。
実際にパイロットの方が「実体がそこにないからこそ存在に触れられるんだ、存在に触れてもらえるんだ」と話されています。(パイロットと現場の間に)物理的な触覚がないからこそ、さらにその先の存在みたいなものと触れ合うことができている。「自分はそこにいない」という余白をつくることで、それができるっていうのは面白いなと思います。
究極の余白を巡って
伊藤 最近、ずっと気になっているのは、究極の余白ともいえるALS(筋萎縮性側索硬化症)の方の体ですね。ALSに関する運動をやられている川口(有美子)さんという方が、ALS患者だったお母さまの闘病について書かれていて、途中まで眼球の運動などでコミュニケーションを取れていたのが、完全にロックトイン状態で動けなくなってしまいます。
こうした全く意思疎通ができない体について、川口さんが興味深いことをお話しされています。お母さまの脳波を取ったら、θ波という深い瞑想のときに出る脳波が出ていたらしいんですね。それまで川口さんは、お母さまの気持ちが分からないので、自分を責める気持ちがあったようなんです。娘としてお母さんに生きてほしいから人工呼吸器を付けているけれど、お母さんにとってかわいそうなことをしてるんじゃないかと。でも脳波を取ったらθ波だったので、「ああ、うちのお母さん、完成されたな」と思ったらしいんです。「お母さんはもう天国と地上の中間ぐらいに行っている」と。もう地上のことにそんな関心はないし、心配もしてないんだと。
それにもかかわらず、お母さんが生身の体を地上に残してるのがすごいって川口さんは思った。物理的な体にもうお母さんは存在しない、お母さんの意識の外部になってしまったけれど、体がそこにあったからこそみんながケアできて、その中ですごくいい社会みたいなものが生まれたっていうんです。ご家族も、いろんなヘルパーさんも、川口さんの比喩でいうと、みんなで蘭の花を育てる感じで、今日の顔色はどうだとか、発汗の量がどうだとか、生理的な指標を細かくみんなで観察しながら、お母さまの体を何年間もケアし続けて、それがとても幸せだったとおっしゃるんですね。もうお母さまの意識は体にないわけですから、ある意味で余白なんですが、でもそこに余白があるからこそ、みんなが関われて社会性が生まれてくる。
障害を持っている方は、多かれ少なかれ体が自分のものではないというか、ほかの人が入り込むものとして想定しています。そこ(究極の余白)まで考える人はそんなに多くないかもしれないけれど、体が自分だけのものではないという意識は、多くの方にあるんじゃないかなと思います。
余白の弱みを信頼で補う
伊藤 このように体に余白をつくることはすごく重要だし、それが社会性を生み出す一方で、余白があることは、様々な他者やいろんなテクノロジーが入り込んで本人の主体性が失われることと表裏一体です。最近話題の監視資本主義なんて、まさにそういう話だと思います。人間の行動のコントロールは実は結構簡単で、私たち、自分で決めていると思いながら、(ECサイトのレコメンドなど)いろんな方法で、もう決めさせられているともいえる。
社会全体がそういう方向に向かう中で、余白の危険性もめちゃくちゃ考えなきゃいけない。どうしたら、いい社会性を生み出す余白をつくれるのか。それから、生産性の問題も関係してくると思うんです。生産性を持たない状態といえる余白に、どうやってちゃんと価値を付けていくかも大きな問題かなと。
その上で1つキーワードになるのは、私がこの1年半ぐらい言い続けている「信頼」かと思います。さっきの川口さんのお母さまは、周りの人を信頼しているから、体が空っぽになれた。信頼していなかったら、自分の体にほかの人が介入し続けるのはただの苦痛でしかないですよね。
よく社会心理学などでいわれますが、信頼は安心と似ているようで違います。安心とは、「この人は自分とは違う人だから、どういう行動をするか分からない」といった不確実性を、限りなくゼロにすることです。結果的に、(人の行動の)管理につながっていきます。ところが信頼というのは、不確実性があったとしても「でもたぶん大丈夫だろう」と、相手に任せることなんですね。
信頼って、一見すると非合理で人間ならではの感覚かもしれない。(子供の居場所をGPSで常に把握するなど)テクノロジーは安心の実現が得意なので、それを追求してしまいがちですが、100%の安心はないし、安心を追求することによって信頼が失われることがよくある。このあたりをよく考えると、いい余白のつくり方につながるのではないかと思います。
いったん、ここまでで終わりにしたいと思います。ありがとうございました。
(第2話に続く)
自在化身体セミナー スピーカー情報
ゲスト: 伊藤 亜紗
東京工業大学 科学技術創成研究院
未来の人類研究センター センター長
リベラルアーツ研究教育院 教授
ホスト: 稲見 昌彦
東京大学先端科学技術研究センター
身体情報学分野 教授
(Photo: Daisuke Uriu)