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辞書による苦痛を超えて

没頭する対象を間違えただけで、人生とやかく言われるなんて、不平等すぎる。

もし、勉強に没頭できたら、褒められることが多いのに、ゲームに没頭したら、文句言われるのだから。本当は、それがどんな対象であっても、尊重されるべきなんだ。偶然、勉強に没頭できた生徒だけが、優等生だと思われるなんて、残酷すぎるでしょ? でも、アイドルを好きになっても握手会には行かないし、サッカーのテレビ中継は見るけれど、スタジアムで観戦しようとしない、そういう中途半端な態度に嫌気が差す。それで、ぐずぐず没頭できずにいると、いつの間にか冷めてしまっているのだから、永遠に中途半端が繰り返されていくようだ。それは本当に没頭できるものに出会えていないんだ、という正当化を作り上げて、その場をやり過ごそうとするけれど、それにも限度があるんだと思う。白馬の王子様を待ち続けているようだね、と誰かに言われそうで、ロマンチストという言葉が、褒め言葉なのか、悪口なのか、よく分からなくなる。言葉の意味なんて、文脈で変わるのだから、辞書で定義されている意味は、全部嘘なんじゃないか。辞書が必要になったのは、言葉が文脈に負けるのを恐れたから、かもしれない。好きという言葉を、何にも左右されない確固たる意味として受け取るために、辞書を作ったのだとしたら、没頭という定義から外れてしまう行為も許せる気がした。

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