ライニア乱記 神住む湖 第二章 平穏と騒動の狭間で 五、決意新たに
シランに喫茶店で会った翌日、レンはいつものようにリリを迎えに行こうとした。トープの宣言が朝に流れた日は焦っていたようだったが、何日か経っている今は落ち着いているはずだ。だが家を訪れた時に慌てた様子で集合住宅の玄関から出てきたのは、リリの母だった。
「リリなら、昨日から帰ってきていないの。レンちゃん、何か知っていることはない?」
彼女がしてきた問いにしばらく答えられず、レンは胸騒ぎを覚える。リリが放課後に喫茶店へ行っていたことは、彼女の母も知っているらしい。思い当たる行き先があるか聞かれて、またも黙り込む。正面にいる女と、目を合わせることが出来ない。
まさかリリは本当に、今回の事件に向けて動こうとしているのか。もしイホノ湖へ行けば、カルマの命が危ないだろうに。彼の時と同じく、止めることが出来なかった。なぜ強く言えないのか、レンは奥歯を噛んで悔やむ。
今のところ、イホノ湖に侵入者が現れたといった報道はされていない。ここでリリの家族をいたずらに怖がらせてもいけないだろう。考えた末、事実を端的にだけ述べる。
「どこに行ったかなんて、わたしにも分かりません。お店に来た客と言い合いっぽいことをして怒ってはいましたが」
リリの母は娘の行動に驚きを見せていたが、すぐに心配を掛けたことを謝ってきた。どうも友人は、消却事件の後からやきもきした様子だったらしい。先に避難を勧めて怖い思いをさせてしまったのが良くなかったか、そう言った女がさらに付け加える。
「あの子、普段は大人しいから。言いたいことを言えなくて溜め込んでいて――それをついレンちゃんの前で見せてしまったのかも」
確かにリリは、授業でも積極的に発言しようとしない。弓術の部活動でも優れた成績であることを誇らず、むしろ指摘されると嫌そうにする。そんな経験と同時に、昨日シランが言い放った言葉がレンに思い出された。リリは非日常を望んでおり、それを隠しているのだと。自分の心を抑え込んでしまうリリなら、それもあり得ないとは言い切れないのだろうか。
「ごめんね、びっくりしたでしょう。私たちのことは気にしないで。そろそろ行かないと間に合わないでしょう?」
リリの母に言われて時間の経過に気付き、レンは長居を詫びる。やたらとこちらを気遣う彼女を制し、遅れないよう速足で土に覆われた道を進んでいった。村の中心部に近い集合住宅の一階で手を振る女を、レンは一度振り返る。彼女はリリの父でもある夫と離婚し、一人で娘を育てているという。大事な愛娘がいなくなったとなれば、心配するのも当然だ。もう少し何か言えば良かったか悩み、諦めて歩を進める。
時間に間に合った学校では、今日もイホノ湖とその周辺に行かないよう大人たちに強く念押しされた。リリもカルマも見当たらず、レンは教材を並べた机に顔を伏せて溜息をつく。この状況は、もはや異常ではないか。それなら異常へ対抗できる自らの魔法を用いて、積極的に動いた方が良いのだろうか。ただ授業を受けているだけの今が、ひどく悔しい。消却事件で逃げようとした時も、同じ思いを抱いていたはずだ。
だが問題ばかりというわけでもない。教師たちは特に時間割へ変更を加えず、学問を教えている。今も黒板の前で、教師はこことは別にある異世界の一つについて話していた。
「――そして人の想像で生み出された神や霊的な存在が実体を得て、この天界あるいは碧落と呼ばれる世界にいます。中には天界からこちらへ神が下りるということもあるみたいですが、こちらから呼び出すのは難しいでしょう。そもそも神が架空のものという認識がある世界では――」
ノートにペンを走らせていると、近くの席に友がいなくとも普段と変わらぬ時間を感じているように思える。放課後の部活動も禁止されてはおらず、大規模な被害を恐れて逃げる必要はない。完全に日常が崩れたとは言い切れないのだ。さらに昨日聞いたシランの忠告も蘇った。自分がトープを止めに行くのは良くないと。
友もいないので一人で昼食を教室で取り、レンは考える。シランが正しいのなら、事件を解決することは「愚か」なのか。それには人質になった者を助けに行くことも含まれるのか。しかし勝手に行動すれば、カルマのように迷惑を掛けることもあり得る。そうしたらかっこ悪いことは自明だ。結局何をすべきか分からないまま、レンはその日の授業を終えた。
学校を出てから再びリリの家を訪ねると、またも彼女の母が現れた。まだ娘は帰っていないと聞き、静かだった鼓動が再び騒ぎだす。
「……あの、わたしが探しに行った方が良いですか? そうじゃないと――」
「いいえ、レンちゃんは何もしなくて良いわ。あなたに何かあってもいけないから」
いずれ警察に届けることも検討しているという母に挨拶をし、レンは喫茶店へ向かう。あそこなら人も多いので、リリにまつわる情報を聞けるかもしれない。そんな期待を抱いて店の扉を開けた直後、奥の座席で姿勢を正して固まっている少年に目を留めた。青い粒子を全身にまとった姿には、遠くからでもすぐに気付ける。
「ルネイくん、元気にしてた?」
レジの奥にいる両親へ声を掛けるのも忘れ、レンは真っ先に名前を呼んだ者へ駆け寄った。「白紙郷」へ対峙する際に共闘して約ひと月、これほど早く再会できるとは思わなかった驚きで心が包まれる。一方でルネイはわずかに赤く見える顔を俯かせ、紺に近い色の柔らかそうな髪で表情を隠していた。常連客も多い場所で急に話しだすのは良くなかったか。反省して詫びを言ったレンは、何も答えないルネイを置いて店員専用の場所へ移る。レジを抜けて厨房に入ったすぐのテーブルに置かれていたエプロンを身にまとい、まだ何も頼んでいないという少年へ注文を聞きに行った。
「……リリさんに、会いました」
開口一番、ルネイは弱々しい声ながら衝撃的なことを明かしてきた。手伝いとしての役目も忘れ、レンはそれがいつどこでのことか尋ねる。ルネイは昨日の夜が迫っていたころ、確保した泊まり場の近くでたまたまリリを見つけた。彼女は荷物と呼べるものは持っておらず、目を虚ろにふらふらとさまよっていた。
「どこへ行くのか聞いたら、イホノ湖だと言っていまして。場所が分からなくて迷っていたようです」
今は危うい状況なのだから帰るようルネイが勧めても、首を振られた。どうしても行かなければならないと告げたリリは、前とは違う険しい様子だったという。
誰に手伝ってもらえなくてもカルマを助けると、リリは昨日この場で宣言していた。やはりそれを実行するつもりではないか。もしも事件に巻き込まれたら。呼吸が浅くなるのを感じ、レンは焦燥を振り切ろうと話を切り替える。ルネイにかっこ悪いところを見せてはならない気がして。
「リリはそれからどうした? 勝手にどこかへ――」
「ああ、リリさんならせめて休むよう言っておきました。さすがに放っておくことは出来なかったので」
ルネイは前と変わらず人探しを続けて野宿をしていた。共に休んでから朝に出掛けようとしたリリを止めたが、彼女はカルマなる者を助けると言って引かなかった。結局リリは一人での行動を続け、ルネイはついて行けなかったという。彼が自分の同級生を知らなかったと気付き、レンはカルマのことを軽く教えた。
「カルマさんがレンさんやリリさんと同じ学校に通っているなら――あの脅迫が、実行されてしまうんじゃないですか?」
ルネイの懸念した脅しの内容を思い出し、レンは息を呑む。リリがイホノ湖へ立ち入ってしまえば、カルマは。今からでも湖へ向かえば間に合うか、電車ならどれくらいで着くのだったか。焦りがレンの脳内を駆け巡っていた時、近くに座っていた常連客が声を上げた。個人で連絡や調べ物をする際に使う携帯端末・ペディサを凝視するその人へ続くように、周りの人々も報道を確認して戸惑いを示す。速報でイホノ湖に現れた身元不明の侵入者が捕らえられたと耳にし、レンは体を強張らせた。
自分のものを探す暇も煩わしく、レンはルネイが鞄から取り出した端末を見せてもらった。警察と軍が監視し、撮影した映像が表示されている。それを再生し、荒い画質と格闘しているうちにレンは気付く。水面の見える辺りで男に腕を掴まれているのは、間違いなくリリだ。そして抵抗する彼女を捕らえている者がイムトだろうと、髪色や身長でざっくりと予想した。無論こちらは、合っているか自信がないが。
「……軍も、事件の解決に関わっていたんですね」
端末を見つめるルネイが、苦い顔をする。彼は軍に不快な思いをさせられ、今も良い感情を抱いていない。人探しを続けるためにも動きたいが、軍とは関わりたくない。呟きを漏らし、少年は端末を卓上に置く。
「事件が起きていると、人探しは難しい?」
「消却事件ほど大規模なものなら、中断せざるを得ませんでした。だけど今回はどうしようか、迷っていたんです」
「わたしもそう」
奇しくも似た気持ちでいたルネイに、レンはいつの間にか迷いを打ち明けていた。戻ったと思っていた日常が、またも壊されつつある。リリだってトープの宣言があった時から不安に陥っていたかもしれないのだ。先の見えない状況が長引いているのに、黙っていて良いのか。
「レンさんが行きたいなら、ぼくも行きますよ」
突如はっきりと言ったルネイは、まっすぐにこちらを見据えていた。最初の恥ずかしがっていた様子はどこかへ追いやられ、表情には自信が滲み出ている。何が彼をここまで変えさせたのか、レンが疑問を浮かべていた時にまたも店内が騒がしくなった。今度は誰かが動画を開いたのか、聞き覚えのある男の声が響く。いくらか高めで透き通っているが、震えたくなるような気味悪さを持つそれは、トープのものだった。
『時は来ました。捕らえた者たちを呼び水にして、明日の正午に神を下ろします。神話を心得ぬ者は、決してイホノ湖へ立ち入らないよう。純粋な心が、我々には必要ですので』
レンはルネイと顔を見合わせる。さらに悪いことが起きると、強い直感がレンの脳内に留まっていた。
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