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六段の調べ 急 初段 五、寒帯林

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初段一話へ

序・初段一話へ


 美央が和室で目を覚ました時、外は暗くなりかけていた。体の重みを感じながら起き上がると、桜色の打掛が肩から落ちる。確かシャシャテンが身に着けているものだ。眠っていた自分に掛けてやったのだろう。そんな居候の姿は見当たらず、家の中は静かだ。
 畳に目を落とし、墨で記された書き置きを手に取る。その文面を見るなり、ここに飛び込む前の記憶が蘇ってきた。コンサートの帰りに信が瑞香へ連れて行かれ、シャシャテンと兄に事情を説明しているうちに気が遠くなっていたのだ。自分が倒れた後、シャシャテンたちは信を迎えに瑞香へ行ったようだった。
 急な寒気と頭部の圧迫感がして打掛を羽織り、美央は背後にある押し入れの戸に寄り掛かった。これまで貧血を起こした経験もないのに、なぜ今回は気絶してしまったのか。出来れば瑞香へ行きたかった。自分を情けなく思い、ひとまず兄たちが戻るのを待つ。
 時計も見ず、打掛にくるまったまま過ごす。両親さえもまだ帰ってこない。一人でいるのは苦でないはずなのに、どういう訳か落ち着かない。以前なら頭を空にして、何も考えず時が流れるままにしていた。やはり自分は、昔に比べて弱くなってしまった。
 玄関から音がしたかと思えば、騒がしくなる。その中に求めていた声を聞き付け、美央は襖を開け放った。ちょうど和室に向かっていた兄とシャシャテン、そして信と視線がぶつかる。
「美央、無事じゃったか? 急に倒れたのじゃから案じたぞ」
「え!? 美央さん倒れてたの? 大丈夫だった?」
 シャシャテンを押しのけて前に出る信へ、心配していたのはこっちだと美央は呟く。どうやら瑞香では、様々な動きがあったらしい。信の先祖だという八橋家なるものや、瑞香系にまつわる四辻姫の「乱心」した政策、そしてシャシャテンが伯母から宮城の出入りと連絡を禁止されたことなどが一気にまくし立てられた。
 やはりあの女王は、印象通りの人だった。シャシャテンの言っていたような「良い人」ではない。急に姪を混乱に追いやるなど、自分勝手にも程がある。美央はそう思っていたが、シャシャテンは今回の仕打ちを大事と捉えていないようだった。
「伯母上のことは気にするでない。瑞香で起きた騒ぎやらは城秀からも聞けるしな。宮に入れぬのも、日本にいる間は問題ないじゃろう」
 自信満々で語るシャシャテンに、兄が怪訝な目を向けている。対して信は、「それならよかった」と素直に安堵していた。そんな彼も、不死鳥の血を持つ「人でなし」だとはっきり判明した。自分はやはり、人間とは違う存在にしか興味が持てないのだろう。思えば四辻姫について考えてしまうのも、やはり彼女が信と同類だからに違いない。美央は下唇を噛み、「人でなし」からそっと目を逸らす。
「あの……美央さん、もしかしておれのこと、嫌いになった?」
 予期せぬ言葉に、美央は顔を上げた。信の寂しそうな表情を見
ていると、こちらも涙が出そうになる。
「いいえ、あなたが『人でなし』とわかって少し複雑なだけです」
「さっきの話聞いたばかりだから今は驚いてるかもしれないけどさ、できればこれからも今まで通り……そうだね、仲よくしてほしいな」
 果たして自分たちは「仲が良かった」のか。こちらが頷きかねている一方で、信は己の体質もすっかり受け入れているように笑う。周りと違うのに、なぜここまで明るく振る舞えるのか。彼を見ているうちに、鼓動が不規則に感じられた。
 信が帰ってから、美央は打掛をシャシャテンに返す。そのまま和室を出ようとした時、居候が意地の悪い声で言ってきた。
「そなた、あの小僧には心を開いておるのではないか? 恋と言う奴かは分からぬが」
 返事はせずに襖を閉める。自室に向かいたかったはずなのに、階段と反対側にある玄関に目が行く。信のことを考えるのは、彼が「人でなし」だったからだ。シャシャテンが言うような、余分な感情によるものではない。手すりを掴んでいつもより深く段を踏み締め、美央はゆっくりと二階へ上がった。


 ほぼ一年ぶりに日本の土を踏み、一ヵ月が過ぎた。東京の桜がすっかり散ったある日の昼下がり、朝重は貸し与えられた二階の一室にある窓から外を眺めていた。女王の頼みを受けて以来、朝重はこの倉橋の家に世話となっている。ベッドなど最低限の調度しかない部屋は心地良い。やはりあの時、瑞香の血を継ぐ日本人の調査を自ら買って出たのは正しかった。苦しい宮中の生活を逃れ、ゆっくり傷を癒やせる。
 倉橋に呼ばれて、朝重は部屋からすぐ近くの居間に向かう。ここで茶や菓子を楽しむのが日課となっている。今日も倉橋と向き合い、熱い紅茶が冷めるのを待つ。
「――それで、女王に教えたのは生田家のことだけでしたっけ?」
 カップを持ち上げる倉橋の問いに、朝重は頷く。四辻姫は移住政策への加担を求めていたが、自分の使命はそれを阻止することだ。女王の思惑は、瑞香を大きく変えかねない。古き良き祖国が捻じ曲がるなど、朝重には耐えられなかった。故に知っている一つの家だけを教え、名の高い陰陽師に連れて来るよう頼んで以降は黙っていた。
 とはいえこれまで女王と過ごしてきた限り、根からの悪人とは思い難かった。倉橋は「良いように振る舞っているだけ」と言うが、瑞香での様子を思うと憎み切れない。それを口にすれば、目の前の知人はまたぶつぶつ悪態をつくだろう。別の話をすべく、ぽつりと呟く。
「瑞香がいつまでも、変わりなく平和だといいですね」
「そんなこと、叶いませんよ」
 思わぬ返答に、朝重はカップに伸ばした手を止めた。こちらを見る倉橋の目つきが、睨んでいるようにも思える。
「瑞香も私たちも、日々少しずつ変わっていくものです。現に瑞香は、王も代替わりして、梧桐宗のごたごたもあって、大変だったじゃないですか」
 瑞香に平穏は戻ったように見えて、以前とは大きく変化している。この世に不変などあり得ない。そう薄情なことを、その人は平然と言ってのけた。
「それに貴方もですよ、れいさん。小・中学校を卒業して、瑞香で女官になった。この流れも、立派な『変化』ではありませんか」
 頭に熱が上り、朝重は椅子を蹴倒さん勢いで立ち上がった。驚いた様子の倉橋へ、何か言おうとして思い付かない。この人とは、同じ場所を目指していたはずだった。共に四辻姫を止め、瑞香を守るつもりだったのに。
「……輪さん。もし今の計画を止めたら、瑞香はどうなってほしいと思っていますか?」
「そうですね。まず、日本と瑞香には深く関わってほしいです。それこそ、仲の良かった昔みたいに。これは父も望んでいた夢でした」
「おじさまが……!?」
 母ともども親しくしてくれた菅宗三も、変化を求めていたのか。ぼんやりと老人の顔が浮かぶうちに、言葉が浮かばなくなる。あの親子とは、根本の考えが大きく違っていた。怒りから悲しみへ、感情は移る。自分は安住の地と思っていた故国だけでなく、唯一頼れる人にも裏切られたのだ。
 相手の静止など聞き取れなかった。飲みかけの紅茶をそのままに、居間を飛び出す。自室へ戻り、荷物をまとめようとして手を止める。
 今世話になっている人を、ずっと信じてきた。まだ己の在り方に悩んでいたと思しき時も、何かと学校でやっかみを受けていた自分を笑顔で励ましてくれていた。あの人が瑞香について知ってからは、憧れを持つ者同士としてそこへの思いをよく語り合った。
「れいさんは幸せになれますよ。あなたはあそこで起きかねない悲劇を止めて、穏やかに暮らせるはずです。その時は、大切な人も一緒だと良いですね」
 瑞香へ行く前だったか、倉橋は期待を込めて言ってくれた。優しい声の裏で非情な未来を思っていたなど、知るはずもない。瑞香など変わらなければ良い。それを残酷に否定する人に、涙を流す。
 家族のいない自分に、頼れるのはあの人だけだ。ここを出てしまえば、一人で生きていかなければならない。そうするにはとても自信が足りない。かといってすれ違いの発覚した人と住み続けるのも、心苦しい。急に足が重くなり、朝重はその場に座り込んだ。

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