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六段の調べ 急 初段 一、遠い呼び声の彼方へ!

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序・初段一話へ


 清隆が自室を出た時、一階へ下りる階段にはぼんやりと吹奏楽の音色が響いていた。誰かが居間でCDを聴いているか、動画を見ているのだろう。そこの扉を開けると、台所で料理をする音を掻き消さんばかりに無数の楽器による演奏が耳に飛び込んできた。入ってすぐの所にある炬燵の上にはノートパソコンが置かれ、父と居候が並んで画面を見ている。妹は既に、オーボエのコンサートなるものに出掛けていたはずだ。
「『シンフォニア・ノビリッシマ』――この曲はどうでしょう? 元がちょうど結婚式のために書き下ろされたみたいですし、『アモローソ』でもやったことがありますよ」
「ふむ、悪くないのぅ」
 マウスを操作してあらゆる動画を辿っているのが父、その隣で頬杖を突いて曲を吟味しているのが二年ほど住んでいる居候・シャシャテンである。彼女は今から二ヵ月前、清隆たち家族に思わぬことを伝えてきた。
「城秀を婿とするぞ!」
 故国・瑞香にいたころから思い合っていた部下である山住城秀に求婚し、見事受け入れられたらしい。結婚とそれにまつわる儀礼は来年の三月末を予定しており、早速その準備を始めていた。思い入れのある日本で挙式をやりたいという彼女がまず頼んだ相手は、市民吹奏楽団「アモローソ」に所属している清隆の両親だった。入退場や余興での演奏を行うことになり、今はそこで披露する曲をシャシャテン自身に決めてもらっているようだ。
 後ろにいた清隆に気付き、シャシャテンが手招きをする。何かおすすめはあるか問われたが、清隆はすぐに答えられなかった。吹奏楽を始めて六年目になるものの、それほど曲を知っているわけでもない。さらにシャシャテンは、結婚式で瑞香の民も呼びたいそうだ。彼らも馴染めるような音楽にすべきと考えると、より選択肢は狭まる。そもそも西洋の楽器が伝来していないはずの瑞香に、吹奏楽を理解してもらえるだろうか。
「清隆は英幸殿たちと奏さぬのか? 私は歓迎するぞ」
 ふとシャシャテンが呟いた疑問に返そうとするが、先に父が口を開いた。
「そうはいっても、清隆は受験ですから……。予定している日が三月なら、練習も難しいでしょう」
 あまり認めたくなかったが、父の話はもっともだった。清隆の通う進学校は、三年生ともなれば受験勉強に専念しろとうるさくなる。その影響は部活にまで及び、吹奏楽部もこれから始まる新入生勧誘期間を終えれば、三年生はいったん活動をやめる――仮引退をしなければならなかった。
 パソコンから流れている金管楽器のゆったりとした旋律が始まると共に、清隆の心は曇る。入部前の迷いが、すっかり遠い過去のものになっている。仮引退に入ってしまえば、シャシャテンの式とも近い三月末の発表会まで、半年以上も楽器に触れられない。中学生時代に受験した折はあまり気にしていなかったことが、なぜ今になって引っ掛かるのか。
 先ほどから同じ旋律だけが聞こえる。自力でパソコンを使えないシャシャテンが、父にある部分を何度もループさせるよう頼んでいた。シャシャテンは画面を見ながら考えていたが、やがて大きく頷いた。
「よし、これにしよう! ここから……ここまでじゃな、私と城秀の出入りが終わるまで繰り返してくれ」
「これだけですか? 中途半端なので、せめてこの曲を全部通した方が――」
「いや、ここが気に入ったのじゃ!」
 シャシャテンは父の意見を押し切り、曲中でちょうど真ん中に当たる穏やかな部分だけを吹奏楽に演奏させると決定した。そこにコンロの火を止めた母が割り込んでくる。
「あ、決まった? どんな曲? ――へぇ、『栄光の全てに』っていうの」
 出来た料理が冷めるのも気にせず、母はじっと曲に聴き入っていた。二回ほど繰り返して我に返り、入退場曲が決まって切りが良いからと昼食にする。
 両親が吹奏楽の練習に行った後、シャシャテンはテレビ横にあるCDの棚を物色し始めた。自分でプレイヤーを操作できるのかと思ったが、どうやらまだ無理なようだ。とりあえず気になる題名を探すと言うシャシャテンを置いて、清隆は居間を出ようとした。
「待て、そなたは美央と違って暇じゃろう? 私の部屋に箏の譜がある故、整理してくれぬか?」
「それくらい、自分でやれば良いだろう」
「私も忙しいのじゃ!」
 両手にCDのケースを持ち、シャシャテンは見せ付ける。よく考えれば彼女も、これから一世一代の祝宴に向けて動かなければならないのだ。結婚式が無事に終わるためにも、協力してやるべきか。清隆は諦めて、居間の向かいにある襖を開けた。
 畳の上には、漢数字で音を示した箏の楽譜が何枚も散乱している。とりあえず一つにまとめておこうと、清隆は部屋に足を踏み入れる。そこで何気なく、窓のそばに日差しを避けるように置かれていた箏に目を留めた。小柄な見た目をしている筑紫箏は、以前シャシャテンが弾いていたものと同じだろうか。
 この楽器を教えていた瑞香の僧侶は、念願の不老不死を手に入れてすぐ生き埋めとなった。その直前に言われた言葉を、清隆は今でもはっきりと覚えている。自分は僧侶――賢順の兄である元瑞香国王・大友正衡を殺した。土砂崩れが迫っている中、ここで死を選べば自分はもうこの件で恨むことはないと賢順は告げた。
 生きている限り、自分は無自覚に人を傷付け、恨まれる。こうした苦しみを味わう可能性があるなら、そこから逃れるためいっそ死んだ方が良かったかもしれない。それでも清隆は生き残ることを選んだ。そう思ったのはなぜだったか――。
 ズボンのポケットを探ろうとして、スマートフォンを居間に置いてきたと気付く。ひとまず取りに行くのは後にし、清隆は目の前にあった楽譜を拾い始めた。しかしその作業も、考え事をしているうちに止まる。前に電話をした時調子の悪そうだった八重崎に、何があったのか聞こうとして二ヵ月近く過ぎている。彼女の気を害する言葉をうっかり吐いてしまえば、それこそ賢順の指摘を反省せず繰り返してしまう。
 思えば、八重崎も今年に入ってから様子がおかしかった。学校でもやたら周囲を気にし、清隆と話している間も落ち着いていない。電話をすればいつも小声で返され、時には盗み聞きを心配された。清隆も八重崎も同じクラスだが、そこが割と偏差値の高い大学への進学を勧めているともあってプレッシャーは大きい。受験に向けたそんなストレスが、八重崎を蝕んでいるのだろうか。
「おい、何をぼうっとしておるのじゃ」
 背後から飛んできた怪訝な声で、初めてシャシャテンの存在を知る。彼女は呆れて畳の楽譜を一枚手に取り、清隆を見やった。
「そなた、何を悩んでおる? 恋煩いか?」
「賢順に言われたことを考えていただけだ」
「嗚呼……そういえば寺で、あやつに呼び止められておったのぅ。何を言われたか知らぬが、どうせろくでもないことじゃろう。気にするな」
 賢順とのやり取りについて詳しく話そうとして、清隆は取りやめる。敵と認めた者の話は真に受けようとしないシャシャテンだ。賢順の言葉をどう捉えるべきかは、自分一人の問題でしかない。そう考え、清隆は黙ったままでいた。
「ところで、そなたは本当に式を見るだけで良いのか? 吹奏楽も箏も、やらぬのか?」
「……仕方ないだろう」
 シャシャテンが母の箏教室にも式へ出るよう頼んでいたと思い出しつつ、清隆は首を振る。音楽をやりたくないわけではない、むしろそれが出来ないのが歯痒い。だが十分な練習時間が取れない以上、諦めるしかない。下手な状態で出場しても、他の人々に迷惑が掛かる。
「私はそなたの調べを聴きたいがのぅ。それにそなたが箏を奏でるのをさほど見たことがないぞ。宮部の折は、軽くさらっただけじゃったしのぅ。時が足りぬなど、別に構わぬ。私のために舞台へ上がってくれただけでも、嬉しいものじゃ」
 清隆はシャシャテンを振り返る。箏を好む居候に対し、清隆はその楽器自体にもあまり触れてこなかった。結婚したら故国に戻るかもしれないと、最近のシャシャテンは零している。もしそれが本当なら、最後の思い出に下手でも演奏の姿を見せた方が良いのではないか。そして二年以上世話になっている彼女を祝福し、感謝を伝えたい。
「……両親に相談してみる。母親はともかく、父親が色々言ってきそうだけどな」
 清隆が話し終えた時、部屋の奥にあった文机の上で、火の上がる音がした。そちらを向くと、机の上には瑞香から来たと思しき封があった。いつものように伯母・四辻姫のものかとシャシャテンが駆け寄る。だが封を引っ繰り返した彼女は目を丸くした。
「何とのぅ……。妙音院みょうおんいんか」
 シャシャテンに示された差出人の名には、「妙音院師長もろなが」とある。封をよく見るため近付きながら、清隆は妙音院なる者と知り合いか尋ねた。
「会うたことはないな」
 シャシャテンはそう返し、妙音院が瑞香では有名だと明かす。箏と琵琶の名手であり、実家を出奔して都の外れに住んでいるそうだ。しかしシャシャテンは、日本で住んでいる場所を伯母や山住以外の瑞香人に教えた覚えがないという。なぜ妙音院が手紙を出したのか、彼女は疑問を口にしつつ封を開き、その文面を読んで首を傾げた。
「生田信は任せてほしい――じゃと?」
 思わぬ名に、清隆は驚いて紙を覗き込む。信といえば、一度は賢順に斬られて死亡したが蘇生し、何事もなかったかのように暮らしている。賢順から不死鳥の血を引いていると指摘された彼と、シャシャテンとも面識のない妙音院との間に何があるのか。
 信自身にまつわる件なら、彼にも妙音院から連絡が来ているかもしれない。清隆がスマートフォンを取りに居間へ戻り、改めて和室で信へ電話を掛ける。まず彼がどこにいるのか聞くと、オーボエのコンサートだと返された。それも美央が行くと言っていたもので、信が誘っていたようだ。彼のもとに瑞香からの手紙は来ていないらしい。今は休憩中で、もうすぐ後半が始まると告げた相手に、ひとまずこの家へ来るよう頼んで電話を切った。
「あの小僧、美央を誘うなど何を考えておるのじゃ?」
 シャシャテンと同じく、清隆も同級生の真意が読めなかった。加えて、普段あまり人と外出しない妹も気になった。彼女は何を思って誘いを受けたのか。疑問を抱いたまま、清隆は信たちが来るのを待った。
 
 
「ということで、ちょっとそちらのお宅にお邪魔するから」
 帰り際に信の話した事情を聞き、美央は胸の不快を顔に出すまいと堪えた。やっと彼と別れることが出来るかと思えば、まだ付き合わなければならないのか。コンサートが終わった後の会場を出てから、美央は信を見ず駅へ足を進めた。そんな態度を気にもせず、信は一緒に来てくれた礼を述べ、プロのコンサートにはよく行くのか尋ねてきた。
 振り返れば北道雄ならいざ知らず、他のアーティストの演奏会にはほとんど行ってこなかった。ポスターやチラシを見掛けても、興味が持てなかった。
「それじゃ、なんで今日のは行こうと思ったの?」
 急に出てきた信の問いに、声も出なかった。ただ何となく、受け入れていた気がする。これまで自分が人から誘われても、適当に断っていたのに。
「ああ、申し訳ない。言いにくかったよね?」
 信がぎこちなく笑い、駅の改札を抜けていく。それを追う中、美央は彼と会う度に生じていた違和感を思い出していた。諸田寺で今際に彼から言われた言葉が蘇る。人を思っていないはずの自分は、信を心配する言葉を掛けていた。その彼が本当に息絶えたと知って、思わず普段なら言わないことを口走っていた。人に何も感じない「人でなし」でありたかったなら、彼など無視すれば良かったのに。あれほど自分を乱した男は、自身が死んだことも忘れて電車に揺られ、聞き取りづらい鼻歌を歌っている。
 心臓辺りを刺されながら生き返った信は、不死鳥の血を継いでいるそうだ。つまり、彼は生まれついての「人でなし」だ。彼は自分がなろうとしていた存在だった。
 自分はやはり、人に興味が持てないのだ。信が「人でなし」だったと知り、それは確信に変わった。シャシャテンや信に出会ってから振り回されてきたのも、彼らが「人でなし」だったために興味を惹かれただけなのだ――。
 最寄り駅を出、まっすぐ家へ向かおうとする。しかし駅から少し離れた所で、信がついて来なくなくなった。美央は振り返り、立ち止まったままでいる彼のもとへ戻る。そこで声を掛けようとした時、信の後ろで火の輪が広がった。中から烏帽子を被り、白い狩衣を着た男が現れ、信の腕を掴む。
「その人に何をするつもりですか?」
「無礼とは承知で御座いますが――瑞香へお連れ致します」
 問い掛ける美央に、男は頭を下げて返す。それを耳にした信は、清隆との約束があるからと手を振り払おうとした。しかし男は無理やり腕を引っ張り、輪へと引き込む。
「待って! その人が何を――」
 美央が手を伸ばし切るより前に、輪は閉じてしまった。先ほどまで隣にいた男の姿はどこにもない。速くなる呼吸と鼓動を抑えようと胸に手をやり、美央は肩に下げていた鞄を掛け直した。瑞香の件で兄が信を呼んだことと、何か関係があるかもしれない。
 自分でも今まで出してこなかった速さで、美央は走りだす。喉が焼けたようになり、何度も咳が出るが、それも気にしない。春先の冷たい風を受け、まっすぐに自宅へと駆けていった。

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