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六段の調べ 破 六段 五、瑞香は目覚める

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序・初段一話へ


 二月に入ったころ、清隆はシャシャテンが和室で箏を弾いているのを目にした。彼女が奏でているのは、いつもこの部屋にあるものとは違う、全長も幅も短めの楽器だった。宮部の手習い場で見た記憶がある。
「これは筑紫箏と言ってのぅ、賢順が教えておったそうじゃ。宮部玄や千鶴も、それを習った縁で梧桐宗に入ったとな」
 細長い箏爪で注意深く糸を押さえるシャシャテンが、インターホンの音に顔を上げる。清隆が出る暇もなく、彼女が爪を外して真っ先に居間へ向かった。今日は信と八重崎が来る約束をしていたが、シャシャテンが呼んだ名には意外なものもあった。
「八重崎殿と……城秀か!? 嗚呼、今行くぞ!」
 山住が来たということは、また瑞香で何かあったのか。玄関へ行くシャシャテンの足音を聞きながら、清隆は何気なく筑紫箏に歩み寄った。指先でそっと、一本の糸をはじく。よく耳にする箏の音色より少し高めな音がしたかと思えば、はかなく消えてしまった。
 廊下に山住の声が響く。なぜ戸を叩いても応じなかったのか不服そうな彼は、インターホンの使い方が分からなかったそうだ。後から来た八重崎に救われたと言い、山住は居間に入るところで彼女に礼を言った。
 諸田寺から帰った後の学校でも思ったが、和室で見る八重崎の顔に不安などの影はない。瑞香を知らない者の視線を憚る必要のないここで、先日電話の最後に言われた件について問おうか。思いかけて、清隆は部屋を出ようとした足を止めた。自分の詮索が、八重崎を困らせるかもしれない。生きている限り、自分は思わぬうちに人を傷付け得るのだから。
 シャシャテンたちの後について清隆も居間に入り、客人へ炬燵を勧める。そこに二階から下りてきた美央が、顔を出すなり信が見当たらない様子に口を尖らせていた。そろそろ約束の時間も迫っている。そういえば美央は、信が死んだ後に何を言っていたのか。清隆がこっそりシャシャテンに聞こうとした時、インターホンが鳴った。
 信が居間に来ると、八重崎が炬燵に脚を入れたまま尋ねた。
「生田くん、一回死んだんだって!?」
「気絶だよ、気絶!」
 信はそう言い張っているが、彼と八重崎を除く全員が、あの時確かに「死んだ」と認める。現場を見ていた者から代わる代わる事情を聞かされた八重崎は、信に起きた事態を徐々に理解していったようだった。対して信本人だけが、まだ納得しかねる表情を浮かべている。
「そして生田殿が亡くなられた後に、賢順の言っていた話を確かめてきましたが――」
「待って! おれは死んでないって! ちゃんとここにいるんだから」
 懐から何かを出そうとした山住を信が止める。そこに、美央が「気絶」前に何があったか覚えているか恩人へ尋ねた。信は宙に視線を向けながら、一つ一つ事柄を並び立てていく。美央が危なそうだと思って、体が勝手に前へ出た。彼女が賢順に興味を持ったのは自分のせいだから、自分が何とかしなければいけないと思っていた。
「――おれは死んでもよかったけど、山住さんが手当てをしてくれて、あと誰かが手を握ってくれて……」
「ああ、もういいです。よくわかりました。心配を掛けてすみませんでした」
「ちょっと!? まだ話終わ――」
「もう不老不死なんて、必要ないです」
 真顔できっぱり言い切った美央に、呆然としていた信の口元が緩む。彼もこれ以上、自分の責任に悩みはしないだろう。
「ところで皆様方、私からもお伝えしたいことがありまして……」
 山住が言いにくそうに切り出す。思えば彼が話そうとしたのを、信が遮ったのだった。清隆たちに促され、山住は折り畳まれた紙を見せる。炬燵の上に広げられたのは表のようだった。瑞香の戸籍だというそれには、山住について書かれてある。清隆は父の欄に着目し、賢順の名があると気付いた。
「この戸籍は、本物ですか」
 疑問を浮かべた清隆に、山住は頷いた。
「公に残っている故、ここに記されていることも受け入れます。実の親子が敵として相まみえるのも、奇しき巡り合わせなのでしょう」
 どこか胸に晴れないものを感じながら清隆が戸籍を眺めていると、隣にいた八重崎が身を乗り出した。
「ここにあるのが本当なら、山住さんはシャシャテンと従兄妹同士ってこと? 大友って人がシャシャテンのお父さんだっけ」
「それはそうじゃが、障りはない。瑞香では従兄妹同士でも添い遂げられるぞ」
 そう言い切ってシャシャテンは胸を張る。一方で山住は、彼女のものを含む王家の戸籍は見つからなかったと肩を落としていた。どうやら昔から作られていないらしい。
「ねぇ、人を不老不死にするとか言ってた賢順も動けなくなったし、もう『建国回帰』になる心配はないんだよね?」
 信の言葉に、清隆は先日倉橋から届いた連絡を思い出した。炬燵に置いていたスマートフォンを操作すると、見慣れない道具だからか山住が興味深そうに覗き込んできた。
「あくまで倉橋の考えだが――」
「倉橋じゃと? 城秀、そやつの言葉を真に受けるのはやめておけ」
 シャシャテンが声を尖らせ、山住をスマートフォンの方から引き離す。仕方なく信と美央、八重崎に画面を見せて清隆は簡単な概要を伝えた。倉橋は、瑞香でより大きな動きが起きるのではと警戒している。
「大友が死んでから梧桐宗で色々騒ぐようになるなんて、一年前は思っていなかっただろう。あれと同じだ」
「……やっぱり、やるとしたら――」
 口を開く妹を、清隆はいったん制する。今まで見た態度から、彼女が誰を疑っているかは予想できる。だがその名が今出れば、この場が面倒なことになる。
 倉橋の言う通り、一度は危機的状況が終わっても気を緩めるべきではない。清隆は改めて文面を見返し、スマートフォンを置いた。瑞香の存在を知って二年になろうとしているが、まだこの国との縁は切れそうにない。
「……あの、さ。ここってわたしたち以外誰もいない?」
 炬燵に両肘を突き、額を押さえる八重崎へ清隆は目をやった。横から見た顔色は悪くなさそうだ。それでも彼女は、クラスメイトの声がすると訴える。慌てて信と共に清隆は辺りを見たが、他に人がいる気配もなかった。「ここには俺たち以外いない。気にしなくても――」
「ううん、いるよ! 部活の……違う、クラスの……」
 清隆の言葉も八重崎は受け入れず、とうとう炬燵に顔を伏せてしまった。シャシャテンが慌てて具合を尋ねると、八重崎はめまいがすると零す。
「私の部屋で休んでおれ。誰でも良い、布団を敷いておけ! 押し入れの中じゃ!」
 真っ先に山住が居間を飛び出した。引き留めようとする八重崎を聞かず、シャシャテンはその体を支えて和室に連れて行く。諸田寺へ行く前の電話も気掛かりだったが、八重崎は何があったのか。知りたくても賢順の言葉に阻まれ、清隆は不安と心配を押し殺すしかなかった。

 
 和室の窓から、橙に染まった夕焼けの光が差し込んでくる。この風月は瑞香と変わらないはずなのに、ここから見ると妙に眩しく見える。黒く整えられた道には、車輪の付いた見慣れぬ乗り物や、着方も分からぬ装いをしている人が時々通り過ぎる。主が昔から楽しそうに思い描いていた日本は、このような国だったのか。清隆の見ていた小さな板といい、瑞香と全く違うものに溢れている。
「待たせたのぅ、城秀」
 外の景色に気を取られていた山住は、入ってきた主に顔を向けた。信や、無事に調子の回復した八重崎も帰宅し、清隆と美央も自室へ引き上げているという。自分だけここに残っているのはどういうことか。
「そなたには、どうしても話があるのじゃ。まず昼に言い忘れておったが――」
 主――六段姫が話したのは、やけに信への物言いが厳しかった髪色の明るい女人についてだった。彼女が信に話していたという言葉を、山住は初めて聞かされる。それは今まで不老不死を強く望んでいたような姿からは考えも付かない、諦めと決意に満ちたものだった。
「――どうじゃ、あやつにしては『ろまんちっく』じゃろう?」
 急に聞こえた初耳の語に、山住はすぐ返事が出来ない。甘いような、夢心地のようなといった意味があるらしい。
「西欧から来た語をいきなり使うのはおやめください」
「分かった、善処しよう。それでのぅ、私は思ったのじゃ。そなたのおらぬ世で生きるのがどれほど惨いか……。文のやり取りが出来る今は良いが、もしそなたが何をしておるかも分からぬとなれば、私は――」
 歩いていく六段姫が、前に倒れ込みそうになる。山住は慌てて彼女のそばに移ったが、幸い立ち姿は持ち直された。
「のぅ、そなたは私を思っておるか? 良きものであれ悪しきものであれ――」
「まさか、悪しきなど」
 問いが終わるより先に、山住は答える。悪い情を抱いてようものなら、自分はわざわざ姫へ会いにこの国まで来ない。
 気が付けば、目の前に六段姫の顔があった。爪先立ちをしているのか、ふらつきながらも髪へ手を伸ばしてくる。また知らないうちに跳ねていたと恥じて、山住は手櫛を入れる。すると姫が、その手を掴んできた。
「何とのぅ、そなたには敵わぬな……」
 姫が目を細めて笑う。だがその表情も、すぐ真剣なものに変わった。
「それで小僧――信も言っておった通りじゃ。これから『建国回帰』に向けて動きが起こるなどまずなかろう。これはちょうど良いのではないか?」
 主の顔がいつになく硬く見える。何に良いのか分からずにいると、なぜか彼女に叱られた。相変わらず、昔から人の思いに鈍いと。
「こういうのは先に伯母上へ許しを乞うべきなのであろうが、それよりそなたの思いを聞いてから決めておきたかったのじゃ」
「……それは、一体」
 山住は軽く眉をひそめる。大事ならば、はっきり言ってほしいものを。それなのに姫は、日本では指輪を渡すようだが今日は用意していないなど、ぶつぶつ言って顔を背けている。やがて座った彼女は、山住にも腰を下ろさせた。そして身なりを整え、まっすぐこちらを見据える。
「不老不死などあってはならぬ。私もそなたも、いずれ世を去る。ここまでは良かろう?」
 山住が頷いてから、六段姫は続ける。詰まりながらの言葉は、やがてどれも一つ一つが山住の胸に響いてきた。
「そなたには気苦労を掛けるじゃろう。心なき者の謗りも来よう。それらは私が全て負う故……女王となってからも無論、たとえ終わりが来ようともその折節に至るまで、私はそなたと歩きたいのじゃ。――どうか城秀、私の横で……共に、生きてはくれないか?」

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