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六段の調べ 破 三段 三、手習い

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三段一話へ

序・初段一話へ


 箏教室が開かれる日の昼過ぎ、信はチラシを片手に平井家を訪れた。用があると言っていた清隆は、準備でもしているのか自室にいるらしい。彼を呼ぼうとしたシャシャテンを止め、信は玄関で同行者を待つ。やがて美央が階段を下りる姿が見えてきた。黄緑色のワンピースに薄手のカーディガンを羽織り、桜の描かれた鞄を肩に掛けている。季節外れの模様に一言言いたくなるのを抑え、信は靴を履く彼女を見守る。一方でシャシャテンは、何やら心配するように言ってきた。
「しかしのぅ……怪しいとは思わぬのか? そなたたちだけで行かせるのが、今さらながら心許なくなってきたぞ」
「気にしなくていいよ。用が終わったらすぐ帰るつもりだし」
 靴を履き終えた美央が、その不安を一蹴するように言い放つ。シャシャテンの目が信に移り、くれぐれも美央を頼むよう言い聞かせてきた。いつも「小僧」呼ばわりされており、自分はシャシャテンにあまり大事にされていないのではと信はふと思う。それでも彼女の言う通り、美央からは目を離さないことを意識しようと決めた。
 複数指定されていた待ち合わせ場所の中で、平井家に最も近い所に到着する。遊具も周囲の人気もない公園で、予定時刻の五分前なのに他の参加者らしき姿が全く見当たらない。急に自分たちが浮いた存在に感じて、信は心細さが募った。それでも一人ではないだけ、十分ましだが。
 まだ日は高く、暑さがまとわりついてくる。鞄に入れていた扇子で扇いでいると、美央の視線が向けられている気がした。どうやら扇子に興味があるようだ。今年の五月に学年で行った東北への研修旅行なる行事で、土産にと買ったものだ。黒地に金で鳳凰が描かれたそれは、自分でも気に入っている。
「生田さんにそんな風流な趣味があるなんて、知りませんでした」
 美央の言葉に、思わず扇子を見て風流なのか首を傾げる。そもそも扇子の持参自体が風流なのだろうか。美央は汗一つ掻いているように見えないが、暑いだろうと思って扇いでやった。独特の明るい髪が顔に掛かるも、彼女に不満げな様子はない。
 そうこうするうちに約束の時間になったが、結局二人以外は誰一人として公園に来なかった。この辺りで参加するのが、自分たちだけなのかもしれない。しかし案内する人はどこにいるのか。信が公園に首を巡らせていると、禁止事項などが書かれた注意書きの看板に火が立った。火事かと焦ったが、その炎は形を変えて輪のように広がる。そして円の中には、砂利の敷き詰められた上に石畳が並ぶ道があった。この輪に入っていくのかと思った時、それが瑞香への行き方と似ていると信は気付く。
「早くしないと、閉まってしまうんじゃないですか?」
 美央に促され、信はそっと別世界に顔を突っ込んだ。すぐそばに法衣を着た坊主頭の男がいて驚いたが、彼は先へ行くのを勧めるように手を動かしている。このまま入ってくれということだろう。石畳に下り立ち、美央もそれに続くと、先ほどまでいた公園の風景は炎に閉ざされた。
 案内する僧侶に連れられて、山門と紹介された建物をくぐる。これから手習いが行われるのは、普段は住職がありがたい話を行っている講堂の一室だという。
「ところで、ここは瑞香ですかね?」
 横に長い平屋建ての木造建築が前方に見えてきた辺りで、信は僧侶に尋ねる。すると瑞香を知っている点に驚かれ、今日はこれまでこの国に縁のない日本人も多く来るだろうと期待に満ちた顔で話を聞かされた。何も知らない人がいきなり瑞香へ足を踏み入れたらどんな反応をするのか、信は気になって仕方がなかった。
 引き戸が開けられると、信たちと同じく箏を習いに来たらしい大勢の人が玄関にひしめいていた。靴入れには多くの草履が並べられている。信も靴を仕舞いながら、自分以外にも箏を教わる仲間の存在に安堵した。
 前の人に続いて部屋へ入るよう言って、僧侶は玄関を出てしまった。人の群れは少しずつ進んでいるが、どこへ向かっているのか分からない。次第に後ろからも人々が来るようになり、はぐれてはいけないと信は美央へ手を伸ばした。しかし指先が触れた辺りで彼女の手が払われる。気遣いが断られて若干がっかりしたが、ようやく箏が何十張も置かれた部屋へ入室できた。
 襖のそばにいた僧侶の指示に従い、空いている箏の前に座る。譜面台には楽譜が広げられており、表のような囲みの中に漢数字がいくつも書かれていた。箏には飾りもなく、かつて宮部のもとで使ったものと似て地味だった。
 室内が人で埋まってきた中、前方の襖から黒い袈裟を着て被り物をした僧侶が姿を現した。途端に周りの人々が一斉に深く頭を下げ、信も慌ててそれに倣った。隣にいる美央もまた続いていたが、ほんの会釈程度の浅い角度だった。
 一番前の真ん中にあった箏へ向かうように座り、僧侶は一礼して自身を筑紫賢順斎と名乗った。確か春に聞いた、梧桐宗を作った人だったと信は思い出す。怪しい宗教を広めているだけでなく、箏も教えているのか。
 賢順は軽く挨拶をしてから、まず箏が未経験である人がどれほどいるか尋ねた。宮部のもとでやったことを数えるべきか迷った末、信は他にも何人かいる人に遅れて応じる。賢順が納得した後、今度は筑紫箏を詳しく知っているか聞いてきた。こちらには信だけでなく美央も手を挙げた。同じような人が、室内にはぱらぱらと見受けられる。
 近ごろは筑紫箏が昔ほど盛んではないと寂しそうに言い、賢順はまず筑紫箏の歴史を語りだした。早速演奏の実践に入るものだと思っていた信は、拍子抜けしつつも話を聞く。日本の九州北部で生まれたとは分かったが、そこから先はあまり耳に入らなかった。何しろ、賢順の声を聞いていると眠くなってくるのだ。話し方も経のようで、少し気を抜いただけで意識が持って行かれそうになる。
 膝下が痛くなってきたので、信は正座を崩した。やがて賢順の話題が、楽譜の読み方へと移る。やっと演奏に役立ちそうな話が来たと思って、今度は信も耳を傾けるよう意識した。箏を何も知らない初心者に親切な、基本から教えるやり方には信もありがたさを覚えた。一方で隣を見ると、美央がしばらく目を閉じていたかと思いきや突然瞬きをする。近くの人も、何人かは俯いて眠っているようだった。そんな彼らも、実際に箏へ触れる段階に入ってようやく目を覚ます。
 各自で箏爪を選んでから、実践が始まった。練習するのは、弾く糸の本数も少ない「易しい」曲で、信は知らなかったが瑞香では有名なようだ。どこに何番目の糸があるのか途中で分からなくなり、信は手をさまよわせる。対して美央は迷いなく糸を選び、箏爪で押していた。その腕に舌を巻きながら、信も負けじと練習に励む。
 左右の人と少し間隔の空いた所を、賢順や彼に従う僧侶たちが箏を覗き込んで歩いていく。弾けない様子の人にはそのそばに座り、詳しく手ほどきをしていた。さすがに一対一で教わるのは恥ずかしく、信は強がって上手く弾けているふりをした。だがどこかでぼろを出したのか、一人の僧侶が信の近くで足を止める。
「お困りのことはありませんか?」
 断ろうとして顔を上げた時、目の前にいるのが賢順だと理解した。まさか彼が直々に教えてくるとは思わず、信は大声で叫ぶ。それに周囲の人々が目を向けたが、賢順はにこやかな笑みを浮かべて隣に座る。当初は緊張で、なかなか信の指は動かなかった。しかし手ほどきを受けるうちに、課題の楽曲で使用する糸の場所は覚えられるようになった。そこから練習を重ねていき、何とか流暢に通すことが出来るまで成長した。
「すごい……! おれにも楽器ができた!」
 宮部の笑い声は、もう遥かへと遠ざかっていた。清隆たちと違って楽器が出来なかった自分に劣等感があった分、今の興奮はこれまでにもないものだった。
「喜んでいただけて何よりでございます。これこそ、生きることの醍醐味。そして生きている道も、こうした喜びの積み重ね」
 声で賢順の存在を思い出し、箏を弾けるようにしてくれた恩人へ信は慌てて礼を言う。だが彼はそれを軽く流し、最初のような仰々しく、しかも興味の持てない話題を部屋全体へ語りだした。
「皆様、今日ここで初めて箏を掻き弾いた方もいらっしゃりましょう。この喜びを、どうか忘れないでください。そして今後も箏を弾じたい方がいれば、ぜひ続けてください。今よりも満ち足りた随喜を得られましょう。――ただし、それも死してしまえば終わり。これまで積み重ねてきたものが、まさに台無しといえます」
 突如低くなった賢順の声に、それまでつまらなそうにしていた美央が顔を上げた。箏と箏の間を通って賢順は前に戻り、人々へ向き直って訴える。
「死は全てを奪うもの。随喜も快さも、死を迎えれば二度と覚えることが叶いません。この世で最も恐るべきものこそ、死でございます」
 箏から一転した話題に、信はついて行けなくなる。頑張って呑み込もうと気を張るが、時々話が理解できなくなってしまう。対して美央は、この時を待っていたかのように姿勢を正し、賢順の語りに聞き入っていた。「死は恐ろしい」という同じような内容の堂々巡りなのに、何が面白いのか熱心である。
「――ということを、ぜひ覚えてお帰りになってください。では、最後に皆様で調べを奏でましょうか」
 やっと長話が終わり、信は崩していた姿勢を改めた。この部屋にいる人全員で、練習していた曲を合わせる。賢順に教わったこともあってか、信は初めて弾いた時より迷いなく糸を選べた。最後の一音が消えた後、廊下から一気に何ヵ所かの襖が引き開けられた。入り込んできた風の涼しさに、この部屋が人の静かな熱気で満ちていたと信は初めて気付く。
 箏の手習い自体は終わりだが、賢順はこの後も講話を行うという。先ほどの話――死の恐ろしさ云々に興味がある人は、ぜひ聞きに来てほしいそうだ。講話のされる場所を教えてから、賢順は去っていく。楽器をまたがないようにして信たちが部屋を出ると、同じく箏を教わった人々が一斉に同じ方向へ歩いていた。玄関とは逆で、どうやらこれからされる賢順の話目当てのようだ。そして美央も、その群れへ混じろうとする。一人で帰るのも忍びなく、信は乗り気になれないものの彼女の後へ続いた。
「不老不死のことって、何か言ってましたっけ?」
 廊下を歩いている間、美央が小声で尋ねてくる。賢順は確か、不老不死がどうのとは言っていなかったはずだ。そう答えると、美央はしばらく黙ってから口を開いた。
「まぁ、これから聞かされるんでしょう」
 一方向に進む集団と辿り着いた部屋は、箏を習った場よりもずっと広かった。中央には僧侶たちが内側を向いて四角状に並んでおり、その中に賢順もいた。そしてそれを囲むように、大勢の人が列をいくつも作って座っている。来訪者の多さに驚きながら、信は襖に近い場所に腰を下ろした。部屋の隅に大太鼓があったが、奏者の姿はない。
 人の訪れが絶え、外から襖が閉められる。列の向こうでちらちらとしか見えない賢順が話したのは、またも死や老いの恐怖についてだった。手習いにいた人も誘ったにしては、何も変わっていない。それでもさすがに同じ話だけを続けるわけではないだろう。これから進展があると思って聞いていると、真ん中にいた僧侶たちが立ち上がり、手にしていた巻物を広げた。
 部屋の空気が震えんばかりな太鼓の音と合唱が響き渡り、信は目を見開く。僧侶は独特の節や抑揚を付け、歌のようなものを声に出していた。何を言っているかは分からず、経にも聞こえる。やがて僧侶たちの前方で、色とりどりの紙が舞い始めた。彼らが丸っぽい紙を懐から取り出し、高くばら撒いている。その間も太鼓に合わせて歌は続く。僧侶たちを囲む聴衆の中にはありがたそうに頭を下げ、重ねた手で数珠をこすり合わせている人もいた。
「美央さん、おれたちってなんでここにいるの?」
 信が思わず問うも、美央は中央で行われている儀礼に見入っている。その姿は興味を持ってそうしているというより、呆気に取られてそこに注目せざるを得ないようであった。

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