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六段の調べ 破 三段 二、青春の輝き

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序・初段一話へ


 日差しの強い中、止まらない汗を拭いながら、信は久しぶりに平井家を訪ねようとしていた。八月に入り、毎日のように厳しい猛暑が続いているが、あまり自宅にいる気にはなれない。せめてシャシャテンから面白い話でも聞けないかと、信は通い慣れた家へ足を進めた。
 通行人の帽子や日傘が目立つ中、道端に一人だけ暑そうな恰好で突っ立っている人を見つけた。顔の周りに巻いている白頭巾は、頭が蒸れてしまいそうだ。そして熱が籠もりかねない黒い着物など、屋根の下にいるとはいえ、いつ熱中症で倒れてもおかしくないだろう。よく見ると、彼の着ている服は法衣のようだった。片手に紙の束を持ち、もう片方の手でそれを一枚一枚通行人に配っている。
「いかがでしょうか? 箏の手習いを案内しております」
 僧侶らしき人物に紙を受け取り、信は歩きながらそれを読んだ。今から二週間ほど後、諸田寺なる所で箏を教える講座が行われるらしい。開催地はどこかで聞いた名前だったが、信には思い出せなかった。明記されている集合場所に行けば、係の者が案内してくれるそうだ。
 箏の練習と聞いて信が真っ先に思い浮かべるのが、ちょうど一年ほど前に出会った宮部玄だった。彼は楽器経験のない自分にも丁寧に教えてくれたが、あまりの下手さに笑っていた。それが今でも、信の胸に悔しさを植え付けていた。
 楽器を弾けず馬鹿にされたのだから、さらに練習して見返せば良い。しかし清隆たちの母が営む箏教室はどこか入りにくかった。外観だけ見学しに行ったものの、あれから入会する時期を逃してしまった。最近会っていない箏教師へ、今さら入りたいと言うのも気まずい。シャシャテンも頼もしいかもしれないが、下手な自分に色々と言ってきそうで、教えを乞うのは躊躇われた。
 それなら今回の機会は、再び箏を学ぶのにうってつけだろう。今度こそ上達して、あの世にいる宮部を驚かせてやりたい。信はチラシを握り締め、平井家へ一目散に駆けだした。
 清隆とシャシャテンは、冷房の涼しい居間にいた。急な来訪に冷たい目を向けられるも、信は入り口から顔を出したまま箏教室について教える。そしてどこでやるかを口にするより前に、既に箏を教えられるまで演奏できるシャシャテンから「もう間に合っておる」と突き放された。そして清隆も、あいにく教室の行われる日に用事があると断ってきた。
「ところで、美央さんはいない?」
 一人での行動に不安を覚えて尋ね、自室にいると清隆から聞いて階段を上る。閉じた扉の向こうに、馴染みのあるオルゴールの音が聞こえる。ここでも中を覗いて声を掛けるだけで、部屋には入らない。
「箏なら学校でもやってましたし、今もシャシャテンに教わってます」
 美央にも同行を断られ、信は戸へ背を向けて廊下に座り込む。扉の隙間から、オルゴールが哀愁を帯びて聞こえてくる。チラシに皺を寄せ、思わず床に投げ付けたくなった時、美央の声が胸を刺した。
「ああ、生田さんは箏を弾けなかったのを笑われたんでしたっけ? シャシャテンから聞きました」
 信はがっくりとうなだれる。失敗を掘り返されるのは、やはり顔から火が出るほど恥ずかしい。
「……いや、美央さんがちょっとでもおれのことを覚えてくれてたなんて、うれしいかも」
 しばらくオルゴールの音だけが響く。同じ旋律が何回か流された後、閉じかけている扉の向こうからか細い声で問われた。
「わたし、変わってしまいましたか?」
「印象は変わったかな。大人しそうに見えたけど、意外とアグレッシブなんだね」
 再び相手が黙る。オルゴールの音色は、少しずつ掠れていく。やがて曲が止まり、信は誘いを諦めて立ち上がろうとした。そこに、くぐもったような声が耳に届く。
「……嫌だ。そんなの、わたしじゃない」
 昨秋に聞いた以来の嗚咽に、信は動けなくなる。こちらとしては悪気などなかったが、相手はひどく傷付いてしまったらしい。咄嗟に扉を開け、信は部屋の主を探した。彼女はベッドのそばに座り、丸めた背を向けている。励まそうとしても、言葉が浮かばない。やがて、振り向いた彼女と一瞬だけ目が合った。鳶色の瞳が、水気を帯びて輝く。瞼を何度もこすった後、美央は大きく首を振った。
「なんで勝手に入ってきているんですか。帰ってください」
「美央さん、もしかして意地っ張――うわぁ、やめて!」
 言い終わる前に、信は眼前へ飛んできたものを慌てて避けた。ベッドから掴み上げたのであろう枕が飛び、信の足元に落ちる。それを拾って返そうとした時、美央の視線は持っていたチラシに向けられていた。見せるよう頼まれて渡すと、彼女は興味深そうに紙を覗き込む。
「諸田寺でやるんですか?」
「そうみたいだけど、行ったことあるの?」
「いえ。……この日は暇ですし、一緒に行きましょうか?」
 美央からチラシを返されながら、急な心変わりに信は目を瞬かせる。だが疑問も束の間、ひとまず同行者が出来て人心地ついた。さらに美央は、自分から誘われるだけでは良くないと机の棚に並ぶファイルを探る。そして細長い紙を渡してきた。受け取ったそれには、「東京都吹奏楽コンクール」とある。客席で見るための入場券だ。信も行きたいと思っていたが、まさか無料でチケットが貰えるとは予想だにせず、心が舞い上がる。本当に自分にくれるのか何度も問いただし、貰っても良いと分かると、信はなくさないようチケットをすぐ鞄に仕舞った。
「美央さんも出るんだよね? 絶対見に行くよ!」
 チラシを握り直し、信は美央に手を振って階段を下りた。途中で一緒に居間へ行かないか誘おうとしたが、その時には既に部屋の扉は閉ざされていた。
 
 
 八月も半ばに入ったころに、吹奏楽のコンクールは行われた。あまり演奏時のことを覚えていられないまま、清隆は大勢の部員たちと並んで舞台を出た。先ほどまでの出来事を夢のように思いながら、周りがやけに騒がしいのが耳に付く。
 エントランスに出たところで、部員がなぜ興奮していたのか分かった。有名なヴァイオリニストだという倉橋輪が、客席にいたようだ。その名前を聞いて、清隆はまず四辻姫を脅した者かと考えた。
「あれ、倉橋さん知らない? よくテレビとかにも出ている人だよ」
 八重崎によると、倉橋はここ数年で有名になったそうだ。演奏の腕が一流なだけでなく、性別不明のどことなく不思議な感じが人気らしい。北の時と同じく、またしても著名な音楽家を自分だけが知らないと清隆は恥じる。そこに、客席から出てきた信がこちらへ向かってきた。ちょうどされていた倉橋の話題に乗っかってくる。
「おれさ、たまたま倉橋さんと席が隣だったんだよ!」
 信がそう言うなり、八重崎を含む多くの部員が一斉に羨みの声を上げた。彼らは倉橋がどんな人だったか、話はしたかなどとしつこく尋ねていた一方、信がサインを貰い忘れたと明かすとそれに突っ込んだ。
 信の姿は、舞台上の清隆からも見えた。そしてその隣に、男とも女とも判断しかねる、妙な印象を持つ人がいたと思い出す。顔もはっきりと覚えていないが、四辻姫を脅したのと同じ人間だろうか。そうとも限らないと考えながら、清隆は倉橋の件で浮き立つ集団から離れている妹に視線をやった。彼女は倉橋への興味はないようで、顧問の指示がないかじっと待っている。
 やがて楽器を片付けてから昼食を取ることになり、吹奏楽部員はいったん散り散りになった後、親しい者同士でどこかへ食べに行こうと集まった。清隆も信、美央、八重崎と持参した弁当を持ち、会場内で飲食の許された場所に固まる。八重崎はまだ、信がサインを忘れた件にあれこれ言っていた。
「その倉橋か分からないが、シャシャテンから聞いた話で――」
 昼時で周りにも人が多くなってきた中、清隆は声を低めて瑞香で起きた騒ぎを伝える。倉橋が四辻姫のもとに上がり込んだ件だけでなく、諸田寺での儀礼についても教えた。
「みんなは瑞香に行ったことがあるんだっけ?」
 八重崎の問いに、三人はばらばらに肯定する。そこにどうやら、取り残されたようで不満を覚えたのだろうか。
「いいなぁ。わたしも瑞香に行きたいよ! その儀礼っていうのにさ」
「待て、先輩に何かあったらどうする」
 瑞香の町ならともかく、梧桐宗の拠点となると、連れて行くことに清隆の不安は強まる。しかし八重崎は、むしろこちらの身を案じているようだった。『差流手事物』を巡った賢順の弟子とのやり取りで、どうも無茶をする性質だと思われたのか。いくら言っても、八重崎は引き下がろうとしなかった。
「そこまで気になるんだったら、二人とも一緒に行ったら? おれと美央さんは、同じ日にお箏を習いに行くからさ」
 信はいつの間にか、妹と予定を取り付けていた。彼の言う通り、ここまで八重崎が瑞香への興味と自分への心配を募らせているのなら、揉めていても時間の無駄だ。
「まず山住に相談する。あの人が案内してくれることになっているからな」
 清隆の言葉に、八重崎は礼を言いながら小さく拳を握っていた。

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