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六段の調べ 序 三段 三、寒夜曲

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序・初段一話へ


 六段姫を指図通り送った宮部は、手習いの後を片付けている間に人のいる気配を感じた。戸を開けると、宮中での務め姿とは懸け離れた友の姿があった。どう見ても着慣れているようではなかった小袖に長袴という装いから解き放たれ、彼女は昔に近い身なり――柄の入った赤い衣一枚に襷をしている。
「そろそろお務めの刻では? 千鶴ちづるさん」
「その呼び方はやめてください。伊勢いせか、千鶴子ちづこで」
 かつて苗字の所持さえ許されなかった彼女は、中に入っても玄関を動こうとしなかった。ただ務めの前に抱えている心を、吐き出したいだけのようだ。十年前、宮部でも見たことがなかった箏を抱えて現れた日のように。
「あの箏は楽しみました?」
「はい。手放さなければならないのが、やはり惜しい……」
 かつて一張の箏を守っていた者の名から「伊勢」という姓を賜った卑賤生まれの友は、上がり框に腰掛けて息をついた。彼女はあるいきさつで箏を預かって以来、しばらく瑞香になかったそれをずっと思い続けていた。先日やっと手にした楽器は、やはり他のどれとも違う美しい音色だったという。
 宮部を見ず、友はただ胸の内を明かす。やはりあの者の言いなりであるのは心が重いと。無理もない。彼女は姫と似た身の上だ。姫を哀れがる心は分からなくもない。
「しかし伊勢さん、逆らったらあなたの命がありません。あれほど言い張っていた本意があるのでは?」
 前も似た言葉で励ました気がすると、宮部は今さらながら思う。その時も抗われたが、やはり気がすっかり晴れたとはいかなかったようだ。
「こう考えればよいかと。あなたは姫の母を殺めた。それではあなたと重なり過ぎてしまう。娘一人が残っているゆえ、心苦しい。母娘が揃って世を去るのなら――」
「ああ。あの方と違って、わたしたちは生き続けますよね」
 果たしてそれはどうか。自らが隠している思いは明かさず、宮部は黙る。ぼんやりと前を見ていた友が、遅れてはいけないと立ち上がった。引き戸に手を掛け、彼女は思い出したように口を開く。
「それに、あの方が誰よりも信じる者に殺されるなど、わたしよりつらいことになりますから」
 彼女が去ってから、宮部はふと思い立って戸口の暖簾を片付けると、都の外れへ歩いていった。目指すのは先ほどの友とも親しい、もう一人の懇意にしている者の屋敷だ。
 その家は「妙音通みょうおんどおり」と示す石碑のずっと先にある。弁財天を祀る祠の脇を通っていると、空から風に乗って琵琶の音が聞こえた。宮部が顔を上げた先――瓦の敷き詰められた屋敷の屋根に、彼は愛用の琵琶「白菊しらぎく」を抱えて座っている。今日はそれほど暑くなかったから良いが、日差しの強い日は火傷しないか案じてしまう。
 彼に聞こえるよう呼び掛けると、相手は撥を持った手を振って笑顔を向けた。ほとんど見えないという左目を隠す前髪が、風になびいている。
 宮部が住み込みの女中と玄関口でやり取りをしている中、屋根を下りた友は背後から出迎えて驚かせた。彼に案内されて廊下を渡り、空き部屋で庭の見える縁側に並んで座る。六段姫を伊勢千鶴子のもとに送ったと伝えると、友は悲しそうに何か独りごちた。姫に勝手な思い入れを抱いている彼だが、だからといって政に関わりのない者が上の命令をどうこうするなど出来ない。
「玄さん、これからあなたはどうされますか? 仮にあの方が、何らかの形で生き永らえたとしたら」
 不意を突いた問いに、宮部は口ごもる。もし伊勢が事を損じたら、次に何が来るだろうか。
「……わたしが死罪となる、かもしれません。気に病みはしませんよ」
 死より老いの方が恐ろしい。初めて箏を教えてくれた師匠は、諸々の老いによる害を零していた。以来、年を重ねるのが恐ろしくなった。日に日に体は思うように動かなくなり、見苦しくなるのが分かる。老いを止められるのであれば、それが死という術でも構わない。自分を認めてくれた師でもある僧侶とは、違う道を進むに違いない。
 そもそも寺生まれの身にとって、あの僧はひどく奇妙だった。いくらか受け入れ難く思うほどに。
「それでは伊勢さんが困りませんか?」
 隣の友にそう言われたが、宮部は何も返さなかった。そろそろ彼女は宮城の一角に戻り、姫を手に掛けるだろう。拷問吏の抱く悩みを心の隅にやり、久しぶりに箏で合わせないか宮部は友に問うた。
 
 
 ぼやけていた眼前が、次第に室内をはっきりと捉える。不死鳥に乗せられてここへ来た後、何者かに頭の後ろを殴られてから気を失っていたらしい。扉のない入り口が少し先の正面にあるが、そこへは行けそうにない。両腕は後ろで縛られ、ほどこうとすると痛みを伴いながら肌へ食い込む。床から爪先の間は三寸ほど空いており、足を付けることも出来るだろうが、今は手首の縄に阻まれる。
 戸口から見える廊下の窓だけが、この部屋に光を与えている。斜め前より差し込むそれが、室内の異様を映す。もう長く足を踏み入れられていないのか埃を被った床は、所々が赤茶色に染まっている。天井の梁にもいくつか、縄で擦れたような跡がある。そしてこの部屋に唯一あった調度である机へ、恐る恐る目を向ける。置かれているのは、鞭や短刀と砥石、長めの針、熱していない焼き鏝などだ。こちらにも埃が見受けられ、やはりしばらく使われていないと思われる。
 この景色には、覚えがあった。十年ほど前、あれはひどく寒い神無月の夜だった。部屋の外でうずくまって耳を塞ぎ、母の声が収まるのを待っていた。やっと静かになり、母を責めていた女が衣を血に染めて出て行ってから、すかさず中へ駆け込み、言葉を失った。鉄臭さや焼け焦げた臭いが部屋に満ちている。ぬめりとしたものに下を見て、足元を過ぎる血の流れに気付く。吊るされていた母は床に倒れ、麗しく伸びていた髪が肩辺りで切られていた。肌は何ヵ所も剥がされ、髪も服もぼろぼろだった。
 彼女へ歩み寄る途中で、生温かいものを踏んだような気がした。それを無視して取った母の手には、指が左右十本ともなかった。思わず床を見回し、後方に潰れた何かを捉える。
 蒼白な顔、閉じた目や傷口より流れる血、服の破れ目から見えるただれに、もう耐えられなかった。声の限りに叫び、目を閉じて二度と母を見ようとしなかった。女官が迎えに来るまで、震えの止まらないままその場に座り込んでいた――。
「お目覚めでございますか?」
 前に聞いた時より少し低くなった声がする。現れた女は、左右に振り分けた前髪の毛先をざっくり切り揃えている。まっすぐ伸びた眉の下にある目が、じっとこちらを見ている。昔と違わぬ衣一枚の出で立ちで、彼女はすらりと佇んでいた。
「千鶴じゃったか。私に何を吐かせるつもりじゃ」
「今は伊勢千鶴子の名乗りを許されています。姓か名のどちらかで呼んでください。ああ、名には『子』をつけるのをお忘れなく」
 どうやら母を殺した手柄を認められ、廃された拷問吏から宮廷女官に取り立てられたようだ。「伊勢」の姓は確か、昔に神器の一つを守っていた、今は途絶えた家のものだったか。そして貴なる者にしか許されない「子」の字を与えられたとは、相当大友に気に入られたのだろう。それに歯ぎしりをすることでしか、身動きの取れない今は憤りを訴えられない。
 拷問吏上がりの女は、机から鞭を取ると掌で何度か撫でた。『芽生書』はどうなったのか彼女へ尋ねると、左脇腹に裂けんばかりの衝撃が走った。冷たい声が胸を刺す。
「わかりません」
「……伊勢よ。そなた、元より私を殺めるつもりであろう?」
 目元から右頬にかけて、軽く熱が走り抜ける。鞭の先が額を打ち、そこから気味悪い手触りが流れていく。
「そちらのほうが、あなたにとって仕合わせかと」
 これはただの責め苦と違う、確かに殺すために行われている。そう見抜きながらも抗いは出来ず、ひたすらあらゆる器具で痛めつけられた。刺され、焼かれ、押し潰されるうちに苦しみは感じなくなり、顔を歪めもしなくなった。初めはすぐ治っていた傷も、しばらく形を保つようになる。
「そういえば、五色姫からあなたへ言伝がありました。ちょうどいいので、今お教えしましょう」
 それは母を殺めた折に聞いたのか。重い頭を上げ、元拷問吏の言葉に耳を傾ける。
「どうかわたしを恨むなと。仇討ちなどもってのほかだと、おっしゃっておりました」
 息を呑んで目を見開き、伊勢をじっと見つめる。自分はこの十年、母の無念を晴らすことも望んでいた。そのためには伊勢を殺すのも厭わないと心していた。だが本当に母が、仇討ちなど求めていないとしたら。
 しばらく考えていると、腕に細長いものが入っているのが分かった。袖を通して長い針が刺されていくのを、痛みもなく眺める。不意に、母も同じ所業をされたのだと浮かんだ。いつ終わるか分からぬ苦しみを、彼女はずっと受けていたのだ。こんな仕打ちをする相手を、母が許すはずがない。
 針が抜かれ、流れる血が襦袢を汚す。それも気にせず、仇へ叫ぶ。
「母上は、そなたに命を奪われたのじゃ。見苦しい様でのぅ。その母上が、そなたを憎まぬわけがなかろう! 私にそなたを恨むななど、願うはずもないわ!」
「……早めに申し上げるべきでございましたね。なかなか会うこともできず、ここまで来てしまいましたか」
 伊勢が深い息をつく。体から血が減ったからか、目眩がする。それを堪えて、続く問いを聞いた。
「四辻姫が心のうちで何を思っているか、ご存じでございますか?」
 朦朧としかける中で否を告げると、腹から焦げた臭いが立ち上ってきた。その熱にさえ、もはや何も覚えない。
「なら教えてあげましょう。あの方は、ほかならぬあなたを憎んで、殺そうとしています」
 迷わず首を振った。母を失って思い沈んでいた自分に、伯母は手を差し伸べてくれた。子がいなかった彼女は、自分を我が子のように育て、教え導いてくれた。山住との仲も許し、行く末の無事を願ってくれていたではないか――。
「伯母上が、斯様なことを、するはずがなかろう……」
 声はほとんど掠れ、力を込めて絞り出さねばならなかった。かつての拷問吏は、母の殺しを命じた大友を憎んでいるか問う。
「無論。そなたと同じく、あやつは私の仇……」
 女が長く息をつく。
「……何も見えていない」
 低い声が聞こえた刹那、口元に血がせり上がった。短刀が腹を刺し、一度抜かれた後でまた別の箇所を突き立てる。このまま母のように死ぬことを恐れているうちに、何も分からなくなった。

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