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六段の調べ 序 三段 一、楽園の異方者

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序・初段一話へ


 盗まれた『芽生書』発見の報告は、なかなか来なかった。七月末、吹奏楽部の合宿も終わりコンクールが近付くころになって、ようやく四辻姫の手紙が届いた。和室に設置されたエアコンの使い方が分からないと、シャシャテンは夏になってからほとんど居間にいる。冷房の風を顔に受けながら、彼女は座卓に紙を広げ、清隆と美央へ読み聞かせる。
 書の在り処は分かったが、詳しくは瑞香で話したい。その前に四辻姫は、ぜひ姪が日本で世話になっている者に会いたいのだと。
「伯母上が言っておるのは、そなたたちのことであろうな。清隆、これはちょうど良いではないか。やっとそなたを瑞香に連れて行ってやれるぞ」
 シャシャテンが口角を吊り上げて意気込む。彼女は何度か日本での生活を四辻姫に伝え、清隆たちについても紹介したという。すぐに清隆は、壁に掛けられたカレンダーを一瞥した。シャシャテンとの約束から数ヵ月、思いがけず願いが叶いそうで、心の整理がつかなくなる。
「せっかくじゃから、他に伯母上へ教えておる者にも瑞香を案内してやりたいが……美央、そなたは『こんくーる』があったじゃろう」
 中学生活最後の吹奏楽コンクールを来週に控えている妹は、まだ忙しい。瑞香へ行くには日本での生活に障りが出かねない。高校のコンクールはそれより一週遅く行われる上に、そもそも参加しない清隆は割と時間に余裕がある。これから数日の間に一日くらい使うのなら、部活にも影響はないだろう。
「では、美央は別の折に瑞香を見せてやろう。……すまぬのぅ」
「いいよ、また今度で」
 シャシャテンを見ずに妹は答える。表情を変えない彼女の内心は、相変わらず清隆にも知れない。
「敦子殿と英幸殿も務めで忙しいであろう? 後は誰が――嗚呼、信か! あやつも恩人として伯母上に教えておった!」
 夏休み中とはいえ、信を急に誘って問題はないだろうか。電話を掛けた清隆は、事情を話すなりすぐ来た受け答えに、思わず聞き返した。
「明日でも行けるって、さすがに準備とか親の説得とかがあるだろう」
『別に清隆が心配しなくていいって。親にもなんとか言っておくよ。あ、瑞香のことはちゃんと黙っておくからさ』
 信の様子をシャシャテンに伝えると、彼女は早速明日瑞香へ行くと決めた。何しろ、『芽生書』が懸かっている。あれが大友の手に渡れば、四辻姫はひとたまりもない。気が早いように思いながらも、初めて行く土地への高揚が収まらず、清隆はその提案を受け入れた。
 シャシャテンには「よく寝ておけ」と言われたが、ベッドに入っても目が冴えてしまう。畳の上で見せられた冬の草原が、今もはっきり思い出される。あの雪はもう解け、花も別のものが咲いているだろうか。寝不足で体調を崩したくもなく、清隆は少しでも早く寝付けるよう薄い毛布を被った。
 
 
 昼近く、約束の時間に信が家に来た。ちょうど部活へ行こうとしていた美央と居間で鉢合わせた彼が、初めて見る彼女の制服姿を褒める。夏服は白いシャツに、薄い水色と白のチェック柄をしたスカートだ。どんなに「似合う」「着こなしがばっちり」と信に言われても、妹は反応せず鞄にものを詰める。
「でもできれば一緒に行きたかったなぁ。美央さんもそうでしょ?」
 支度を終えて鞄を肩に掛けた美央が、感情のない声で答える。
「まぁ、用がなければ行ってもよかったですね」
「だよね。じゃ、おれがお土産持ってくるよ」
 妹の動きが止まる。彼女はしばらく黙った後、口ごもり気味に感謝を告げて部屋を後にした。
「よし、これで少し仲よくなれた」
 小さく拳を握る信に、清隆は首を傾げる。友人は必要ないといつか話していた妹は、簡単に彼を友と認めないだろう。そもそも年上の信を、ただの先輩としか見るつもりがないかもしれない。
 シャシャテンが居間に顔を出し、そろそろ行って良いか尋ねる。二人とも準備は出来ていると清隆が伝えてすぐ、彼女は玄関へ向かった。清隆たちが追った先で、居候は既に草履を履き、急ぐよう扉のそばで催促してきた。信に瑞香の結界を説明してから、シャシャテンが前に右手を伸ばす。本当に行けるのか一瞬胸に不安が兆し、清隆は軽く目を閉じた。炎の爆ぜる音で顔を上げ、火の輪が出来た中にあの草原が広がっているのを見る。突然現れた世界に、信は小さく拍手をしつつもその場から動かない。
「そなたたち、結界が閉じるぞ。早うせい」
 シャシャテンに腕を引っ張られ、清隆は足裏に草の感じる地面へ下りる。馴染んだ廊下は縮んでいった輪と共に消え、周りにあるのは見たことのない自然だった。澄み切った空が遮るものなく広がり、東京とは違う涼しい風が草葉をざわつかせる。夏とは思えないほど少し肌寒く、清隆はシャシャテンに勧められて持ってきていた上着を羽織った。
 声を上げて前へ走りだした信とそれを止めるシャシャテンから残され、清隆は壮大な風景にただ息を呑んでいた。高い空に、初めて聞く鳥の鳴き声がする。濃厚な緑の匂いを放つ大地は、果てがないようだ。歩くと、柔らかい草に足が沈み込みそうだった。
 まっすぐ進んだ先は崖になっており、信がシャシャテンに見守られながら下を覗き込んでいる。清隆も崖下に目をやると、そこには木造の小さな家が多く立ち並んでいた。その先にある大通りの突き当たりに、塀で囲まれた広い敷地――宮城がある。そこで最も広い建物が王の住む御所だと、シャシャテンに教えられた。遠くからでも、巨大な鳥が翼を広げたような形のそれは荘厳さを醸し出している。
 清隆は目を閉じてゆっくりと開け、寸分違わぬ景色があると確認した。ここが本当に瑞香なのかシャシャテンへ問うと、彼女に睨まれた。それでようやく、清隆もやっと行くことの出来た異国を実感する。胸を押さえるも、速くなっている鼓動は一向に収まりそうにない。
 隣でシャッター音がして首を巡らすと、信がスマートフォンで写真を撮っていた。
「さっきの移動でスマホが溶けてなくてよかったよ」
「あの炎はまやかしよ。触れても熱くはないわ。小僧、撮れた写真とやらを余人に見せるでないぞ」
「御意のままに」
 かつてシャシャテンが返されていた言葉を、信がそのまま口にする。夢中で撮影していた彼は、やがて上空へカメラを向けた。清隆も見上げると、鮮やかな色を持つ尾羽の長い鳥がこちらへ向かってきている。知らない鳥に、信が絶えずシャッター音を響かせる。どうやら連写をしているようだ。そんな彼も鳥が迫る中、その体躯が人を超えそうな大きさだと認めると、スマートフォンを持つ手を下ろした。鳥の方から、心へ直接届いてくるような聞き知らぬ声がする。
「見慣れぬ者――さては、この国の異方者で御座いますか?」
 清隆は信とシャシャテンを見たが、その誰もが言ったのでもないと気付く。やがて風圧が強まり、巨大な鳥が清隆たちの上を飛んでいった後、草原の上に下り立った。色とりどりの翼は日で美しく輝き、無数に生えた尾羽が地面に垂れ下がっている。何より際立っているのは、人間の背丈を半分ほど超えた体躯で、日本はおろか世界のどこにもいないような鳥だった。人のそれに近い形をした目が、冷たく清隆たちを見据える。
 普通の人間なら怖気づきかねない巨大な怪鳥に、シャシャテンは憶せず歩み寄る。その姿を見た鳥から、「六段姫様」と声がした。嘴が開いたようでもなかったのに、確かに鳥が声を発している。
「久しいのぅ。この者たちは私の恩人じゃから、取って食わないでくれ」
 シャシャテンは一声掛けた後、清隆たちにこの鳥が不死鳥だと教えた。もしかしたらシャシャテンの先祖かもしれない巨鳥を見上げ、清隆は近寄ることも憚られた。不死鳥がこのような存在だと聞いてもおらず、独特の威圧感に足が竦む。
「私とこの者たちを、伯母上のもとへ連れて行ってくれ」
「かしこまりました」
 不死鳥はお辞儀をするように頭を下げた後、空へ向かって嘴を開き、甲高い指笛のような音を発した。宮城の先へも聞こえそうなそれが、長く響き渡ってから収まる。やがて崖にいる不死鳥と姿の変わらない二羽の鳥が飛んできて、シャシャテンの前へ並ぶように下りた。彼らも王女の話を大人しく聞き、ちらりと清隆たちを見て頷きに似た仕草をした。
 シャシャテンに手招きをされながら、清隆はぽかんとして動けなかった。これから四辻姫のもとへ向かうはずだが、一体どのように行くのか。
「決まっておろう。不死鳥で飛ぶのじゃ」
 シャシャテンは迷いなく、不死鳥の広い背に乗った。残る二羽も、早くしろと言わんばかりにこちらを凝視する。信が鞄にスマートフォンを仕舞い、蓋が仕舞っているか念入りに確認した。
「シートベルトってないよね?」
「当たり前じゃろう」
 四辻姫の幽閉されている薄雪山には、飛んでいった方が早い。ここで時間を食えば、『芽生書』奪還が遅くなってしまう。シャシャテンに急かされ、清隆は一羽の不死鳥に近寄るとその背に触れた。一枚一枚が大きな羽は滑らかで、赤や黄といった色が目に眩しい。乗る際に蹴っても良いと言われたが、清隆は気を使ってなるべく不死鳥を傷付けぬよう、手と腕の力で何とか登り切った。首回りに手を伸ばすよう促され、清隆はその通りにする。これで飛んでいる間も振り落とされる心配はないそうだ。
 信も背にしがみついているのを確認してから、シャシャテンが合図をした。不死鳥が翼を広げ、地面を強く蹴る。次第に草原との距離が離れていき、清隆は自分が空中にいると自覚した。
 崖の切り立った側と反対へ進み、平らな土地の先にもまた丘陵があったと知る。いくつかの山が立ち並ぶ中、それらを全て見下ろさんばかりの高さに清隆たちはいた。地上よりも寒さが強まり、清隆は耳と頭に痛みを感じる。
 不死鳥の首に回した腕へ力を入れ、下はどうなっているのか覗き込む。山沿いには海岸線があり、そこには家らしきものもある一方、海に近い場所ほど破損した木材が積まれていた。あれは二年ほど前、津波で壊滅的な被害を受けた地域らしい。大友がこの辺りの復興に手を付けると言いながらなかなか進んでいないと聞き、清隆は地上を見るのをやめて不死鳥の背に顔をうずめた。凍えそうな上空にいながら、その体温は温かい。
 高度が下がっていき、やがて夏でもまだ薄く雪の残っている土地に着いた。周りに木々が立つ中、一軒の古びた屋敷に目が留まる。建物の屋根から下を隠すように立つ門は、板の風化が目立っている。その前にいた槍を持つ武人が不死鳥に頭を下げ、シャシャテンの存在に驚いて駆け寄った。
 不死鳥を滑るように下りた清隆は、シャシャテンに信ともども恩人だと紹介された。武人が一礼し、屋敷へ入るよう勧める。まず門をくぐり抜け、清隆は建物の外観に唖然となった。屋根には苔が生え、壁や柱は傷や腐りが散見される。とても女王であった人が住むような場所には見えない。四辻姫、そしてシャシャテンはずっとこの惨めな場所で暮らしてきたのか。
「清隆、何を呆けておる。伯母上が待っておるぞ」
 シャシャテンに背を押され、清隆は中に入るべく止まっていた足を進め始めた。

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